賀すべきか、「呪殺」の年2018/01/02

 呪術というとき、「呪」は巫祝の行うことばによる呪詛だが、「術」は動物霊を用いる方法である。(…)呪術には多く獣皮が用いられた。動物の皮をはりつけて悪霊を祓う。(…)祟りをなす動物を門などにうつ形は「殺」の字形にも残されている。ただし「殺」は殺すことが目的なのではなく、これによって相手の行う呪詛の効果を減殺するのである。「殺」は呪霊を放逐するのが原義だからである。(白川静『漢字』による。図は父丁の廟に犬牲を施したことを印す金文、殷代)

 殷の時代には犬牲が墓室にも葬られ、犬皮がこのような護りのために使われたという。簡単にいえば、犬を犠牲として呪霊の侵入を防ぎ墓を守らせ、また、犬の皮を柱にかけて、敵からの呪詛を無力化する。犬はそのような功徳をもつ獣だったということだ。

 今年は巡り来た犬年、犬の霊験によって現代の仕組まれた邪蠱(虫を器に詰めたものを用いて呪詛する、この場合は現在の日本に巣食う魑魅魍魎の悪だくみ)を祓いたいものです。

「ガキでも遊べる」世界政治はどこから?2018/01/04

(科学技術に身を預ける人間社会の諸局面、暫定的ラフ・スケッチ)

 絶滅危惧小国の大将金正恩が、机上にやっと手に入れた核のボタンがあることを誇示すると、トランプはおれのカバンにはもっと凄いのが入ってる、見せてやろうかと自慢する。これが世界最大国家の大統領の振舞いだ。はっきり言って「ガキの遊び」だ。

 そして決め打ちは「MAKE AMERICA GREAT AGAIN」。つまりアメリカはかつてGREATだったのに、そうでなくなったとの自覚がトランプ政治の軸だということだ(ついでに言えば、それは黒人+リベラル派のオバマのせいだと言いたい)。

 国際政治が「ガキの遊び」レベルになったのは、ツイッターとかのIT通信技術のシンポのおかげだ。情報発信の「民営化」で、誰でも何でも発信できる。それが拡散されるのは「真理」だからでも「適切」だからでも「公共的」だからでもない。興味を惹けばいい。

 アメリカの社会と選挙制度はとんでもない人物に地位と権力を与えたものだ。トランプがガキのたわごとみたいなことを発信すると、こりゃ大変だと、世界中があとを追う。以前はそんなことで政治や統治はできなかったが、いまはこれで皆が走ってくれて、世界が動いてゆく。

 大統領がこれだからたいへんだが、自分のことしか考えない連中は、この状況をうまく利用すればよい。財界も軍も、面倒な民主的手続きとか、公共的議論とかはぜんぶ飛ばせる。それに気に入らない情報はみんな「フェイク・ニュース」だと言って吹き飛ばせばいい。自分の言うこと、発信することは、アメリカ大統領の言うことなのだから、これが「正しい」(アベもそんなこと言ってた)。他に誰が「正しさ」「公正さ」を決められるというのだ。その「正しさ」を発信できるのがツイッターだ。

 IT技術が加速度的に発達し、コミュニケーション状況が一変すると、一国ばかりか世界の人々の運命を左右する政治が「ガキの遊び」レベルの簡単なものになった。SNSは公式声明のあり方をも変質させる(パレスチナの状況を見よ)。便利になったものだ。大金持ちで、テレビの顔で、良くても悪くてもインパクトがあるとそれが牽引力になり、妄想の市場で自分の売り込みに成功すれば、誰でもとほうもない権力を手に入れられる。あとは世界のすべてをオモチャにしてでも、その権力を保持すればいい。トランプのやっているのはそんなことだ。

 こんな世界の実現に大きく貢献したのは、IT通信革命だ。それはたんに技術の一分野の進化ではない。人間社会のコミュニケーション条件の全般的な変容だ。いわゆるアナログからデジタルへの変化だが、デジタル化が技術上の要請からアナログ的なものを駆逐するために削ぎ落しただけのものが、人間を単純化することになりった。+/-の記号に還元できない部分は意味がないとして削ぎ落され、あらゆるものが計測可能な因子に落とし込まれ、コンピューター処理される。そのコンピューターはAI化し、加速度的に発達してやがて「特異点」を超えるとみなされている。人間社会はこれを採用することで(したつもりで)、いつの間にかこの機構に身を預けたことになり、いまではその存在全体を計算処理してもらえるつもりでいる。だから権力志向の人間は「ガキ化」し、やがて幼児化してゆくことになる。

 アリストテレスは人間を「言葉を使う存在」で、したがって「ポリス的存在」だと言った。それが「政治的存在」と訳されている。言葉を話すということは、すでに個別の共同的存在だということだ。言語は単一でも普遍的でもなく、つねに個別的である(いろいろな言語がある)。その個別性を枠づけるのが古代ギリシアでは「ポリス」だった。だからその維持や運営に関わる事柄が「ポリティクス」と言われる。それが日本では「政治」と訳されている。

 やがてキリスト教という唯一の創造神をもつ信の体系が西洋世界の鋳型となるが、神への信が世界理解に間に合わなくなるころ、ライプニッツが登場して「普遍言語」の構想に思いいたる。近代の「政治」が登場するのはその頃からだが、ライプニッツの構想はその「政治」をも不要にする射程をもっていた。この構想によれば、あらゆる事柄は記号処理に還元されることになり、人間社会の生々しい政治も機械的な計算処理に置き換えられることになる。社会的事象としては「政治」は「経済」にとって代わられるということだ。

 世界はその後、科学技術の「離陸」をもってその方向にまっしぐらに進み(それが西洋近代文明の世界展開ということだ)、いまでは公然と「この道しかない」と言われている。しかし「この道」は、あろうことかトランプのような世界の大統領(彼を「政治家」とは呼ぶまい)を生み出してしまった。それが「この道」の主導者たち(たとえばクリントン)によって「想定外」ではあったとしても、「政治」のカテゴリーを失効させてしてしまったのは彼らなのだ。

 いわゆる科学技術の進歩がトランプのような権力者を生み出した。そのことを核開発以降の科学者はもっと考えるべきではないのか。自分たちが何をしているのかを(といっても付ける薬はないかもしれない。そもそも、AIの開発がサイバネティクス計画から始まったとき、主たる動機は、核エネルギーのようなすばらしい技術を、欲得や感情に左右される人間に任せておくわけにはいかないから、完璧に合理的に管理できる人工知能に任せたい、ということだったようだから。科学者は、あるいは科学的思考は根っから「人間」を不完全なものとして排除したがっているのかもしれない。

 だから科学技術のシンポに任せておくと、「ガキでも扱える」社会ができる?