NHK『100分de名著』/カイヨワ『戦争論』について2019/08/12

 NHK-ETV『100分de名著』(月曜10:25~10:50)の8月分「ロジェ・カイヨワ『戦争論』」についての解説を担当させてもらいました。テキストも番組も出来上がり、すでに1回目は放映されました。
 この番組、やってみてなかなか面白かったので、少し舞台裏を紹介させていただきます。プロデューサーの秋満吉彦さんも最近本を出したり、各所で番組の話をされているので、いいでしょう。

 ことの初めはこんなふう(というのがルイ・フェルディナン・セリーヌ『世の果ての旅』の書き出しです)。ある時、知人を介して秋満さんに会いました。この昔からの知人が、8月には「戦争」関連の本を取り上げたいと考えていた秋満さんにわたしを紹介したのです。わたしは「戦争」の専門家というわけではありませんが、戦争について「考える」とは長らくやってきたので、そういうことでよければということで「指南役」を引き受けることになりました。

 しかし番組は「名著」を取り上げるわけですから、軸を作らねばなりません。わたし自身は人間が戦争のうちでひとつになった「世界戦争」ということを、ジョルジュ・バタイユや同時代の思想家たちを通して考えてきたので、バタイユの『内的体験』や『有罪者』あるいは『呪われた部分』などを取り上げたかったのですが、それらの本は「戦争」をメイン・テーマにしていません。クラウゼヴィッツなら文句ない古典ですが、古いので「世界戦争」のことが視野に入っていません。そこで、バタイユゆかりのカイヨワで行こうということになりました。彼は『人間と聖なるもの』や『遊びと人間』で知られており、その観点から『戦争論』を書いていて、これはユネスコの大賞をもらうほど注目された本ですし、日本語訳もあります。それに、バタイユはちょっと横紙破りだし、今は忘れられているとはいえカイヨワはユネスコの大物で来日もしているので、その点NHK向き(?)でもあります。ということで、カイヨワの『戦争論』に、この夏の「名著」になってもらうことにしました。

 いま思えば、五味川純平の『人間の条件』とか、大岡昇平の『レイテ戦記』といった日本の戦争を描いた大作でもよかったかもしれません。しかし、それならわたしでなくてもよかったでしょう。わたしにやらせてもらえるのだったら、具体的にということよりも、戦争について原理的に考える、あるいは戦争を「考える」ことの意義が表に出るような、そんな「名著」の選択になったのです。

 と言うと、わたしが決めたような言い方ですが、まったくそうではありません。それに、やるとなって初めて分かったことですが(細かい説明は受けていなかった)、この番組には随伴する「NHKテキスト」があり、その執筆・作製と番組制作とがテンポを合わせながら進んで行きます。各回やり方が違うのかもしれませんが、カイヨワ『戦争論』の場合は、以下のように進行しました。まず、秋満さんがスタッフの人たちと本を読んで番組を企画立案をします(それで局内の会議を通すわけです)。もちろんわたしも口を出しますが、秋満さんの提案がなるほどと思わせるようなものだったので、その段階で番組4回分の構成が出来上がりました。

 それからまず、出版局のスタッフを前に、わたしがテキスト用の4回分のレクチャーを2回に分けてやりました。すると担当の人がそれを文章に起こし、説明や詳述が望ましいような箇所は補足し、かつ必要な引用部分を加えてくれます(レクチャーのとき、あまり引用とかは気にせずにやったので)。そうしてできた起こしの原稿にわたしが手を入れて、それがゲラになります。すると内容の骨子ができたということで、今度は番組のディレクターがゲラをもとに4回分のシナリオ案を作ります。それも2回に分けてやりましたが、ディレクターにさらに説明を加えて、わたしの意図を補足して、シナリオ案を練り直してもらいます(その段階で、朗読部分やイラストの説明部分も決められるようです)。

 テキストの方は、一回分30ページほどとれますが、番組の方はそうはいきません。だから、番組のシナリオはエッセンスだけで組まれます。テキストではカイヨワとバタイユの関係や、同時代の他の人びとの戦争についての考え方にもふれていますが、番組では枝葉はほとんど切り詰めて、カイヨワの本の内容に即した話に限定しています。
 そうして4回分のゲラの修正をやりとりしてテキストが校了したのが7月初め、その前後に2回スタジオでの収録をやりました。

 スタジオでは、古舘寛治さんの朗読(古館さんが朗読というのは、わたしは後で知って、オッと思いました)やイラストでの解説等をはさんで1回100分ほど収録しましたが、それを25分にまとめたのが最終的な番組になります。このとき、阿部アナウンサーがまずテーマを出し、伊集院光さんが即興で受けるのですが、この人はたぶん何も準備していないのに、出されるテーマにみごとな反応をして、ストーンと問題の本質に突っ込んでゆきます。おっと、伊集院さん、それは3回目にとっておきたい話題だから、あまり突っ込まないで、と言うぐらい。面倒な講釈に、オレ嫌いじゃないよね、こういう話…、といった具合にうまく付き合ってくれました。さまざまな「名著」が取り上げられるこの番組に、伊集院さんが仮想読者としてレギュラーで呼ばれているわけが分かったような気がしました。ただし、そのおかげで雀松ディレクターが徹夜(?)で仕上げたシナオリは、目印程度の踏み台にされてしまいましたが。

 と長々と述べたのは、この番組が、テキスト編集スタッフと番組制作スタッフと出演者のわりと緩い連携によってできる、まったくの共同作業の成果だということを知ってほしかったからです。テキストもわたしの名が表紙に書かれていますが、まさにこれも共同作業の産物です。レクチャーから最初の原稿を起こしてくれた福田光一さん、新井学さん、その後のフォローをしてくれた小湊雅彦さん、それに雀松真已子ディレクター、その人たちとの共同作業でテキストも番組もできています。そしてカイヨワの『戦争論』がその下敷きになっているということです。

 たぶん、とりあげる「名著」によって、それと「指南役」によって、このプロセスや共同作業の質もそれぞれに違うのかもしれません。しかし、以前ETV特集などでやった解説や狂言回しの役割とも、またふつうに一冊の本を書くのとも違った、楽しく新鮮な協労体験で、こういうテレビ番組の作り方もある(発信の仕方もある)のだと、妙に納得しました。

 (補足:あるいは、放映される番組から見れば、「指南役」のわたしもまた人的素材です。100分阿部さん・伊集院さんとスタジオで話して、残るのは約15分(10分は朗読とイラスト・映像資料)、その15分を組むための素材になるわけです。番組が寿司だとすると、その肴。なるほど、こういう番組か、と納得しました。一冊の本の集団的・立体的レクチャーの視聴覚的まとめで デジタル情報の時代に、テレビ番組を通じて、読書に返らせる、という回路づくりの試みにもなっています。)

 もう機会はないでしょうが、カズオ・イシグロの『私を離さないで』とか、レイ・ブラッドベリ『華氏451度』、オルダス・ハクスリー『素晴らしい新世界』、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ『自発的隷従論』、バタイユなら『宗教の理論』などでできないかな、とつい想像します。

 番組のテキストについて――内容はカイヨワの『戦争論』にぴったり即しているとは言えませんが、いちおうその特徴、主旨は汲み取っているはずです。密度の濃い本だけに、とくに後半に重点を置いて、解説しました。ただ、第4回は、カイヨワ以後の戦争について扱うという主旨もあり、わたしの現代戦争の見方とその問題点を前面に出させていただきました。数年前に出した『戦争とは何だろうか』でも扱っていない問題にもふれています。その部分だけはわたしの論としてお読みいただけると幸いです。