国葬、歴史修正(粉飾)の戴冠式――カルト権力の功罪? ― 2022/07/15
岸田首相が昨日、安倍晋三の国葬を閣議決定した(誰より祟りが怖いのか)。日本における歴史修正主義の勝利の勝鬨がこだまする。
安倍晋三は冷戦後に、歴史修正主義の申し子として登場した。修正主義とは「あったことをなかったことにする、不名誉な歴史を嘘だといいくるめる」姿勢・主張だ。歴史がまだ生々しかった時代、傷を抱える人びとが多く生き残っていた時代、この主張は顰蹙を買って社会的軋轢を引き起こした。だが戦後50年を経てしだいに過去の記憶が薄れるにつれ、また新しい世代がそれを重荷に思うようになるころ、北朝鮮の拉致問題が表に出て、「何だ、日本は悪くない、悪いのはあいつらだ」という機運が盛り上がって、「歴史」はほぼ中和されることになる。
そこで安倍晋三は自由民主党の総裁となり、いったんの挫折を経て以後8年近くにわたって首相を務める。その間安倍は権力を全能化し(「私は総理大臣なのだから、私の言うことが正しい」)、周囲はその身境のないやり方に魅了され、行政府も行政機関もその「正しさ」を支えるためにあらゆる規則・プロセスを捻じ曲げ、官僚はその「功績」で出世し、警察・検察も「首相の汚点」を拭き回る犬たちに権限をもたせ、「あったことをなかったことにする」ために邁進する。メディアも「あったこと」には触れずに蓋をしたり、論点は違うと目先を逸らしたりすることで問題化を避けるのに広く貢献する。
その首相は、森友・加計疑惑の追及のなかで首相園遊会の安倍ちゃんよいしょ会化を公的地位の私物化の極みとして追及され、コロナ対策もすべて利権中抜きのためにしかやっていないことがあからさまになって、もはや国会も開けなくなって(いつも避けていた)またも病気を理由に退任する。しかしすぐに元気満々、歴史修正の「画竜点睛」たる憲法改訂に意欲を燃やしていたようだ。
その安倍晋三が、長らく胡乱な関係にあった旧統一教会(日米韓を拠点とする、英語名はCharchだ)との関係のため、霊感商法の被害で人生を壊されたと言う青年の怨嗟の的となり、選挙応援演説中に狙撃され命を落とした。
この事件を、自民党政府やマスコミはいっせいに「民主主義に対する暴挙」として非難し、民主主義とはほど遠かった権力私物化の権化ともいうべき元首相への批判をいっせいに封じて、「大勲位」を贈るばかりか「国葬儀」で遇するという。これも国会議論の必要のない閣議決定だ。
閣議決定で国会を超えて国事が裁断できるというのは、集団的自衛権をめぐる「解釈変更」で安倍元首相が「成し遂げた」荒業である。ある憲法学者はこれを実質的な「クーデター」と称した。これも元首相の子供じみた全能感(「私が総理大臣なのだから…」)、がもたらしたもので、じつは公私混同の極み――ぼくちゃんと首相の公職との区別がつかない――なのだが(「首相夫人は私人」の決定など)、自民党政権や極右カルト(ほとんど宗教集団だ)勢力にとっては、これが比類ない「大政治家」の証しとなった。法治も民主主義もへったくれもない、見境のない権力行使、すばらしいというわけである。
その人物を法的根拠もない国葬で遇するというのは、このような権力行使を国家的に顕彰するということ、そしてそれを内外に示すということである。日本はそういう国(カルト神の国)であることを公式に示すということだ。これこそは歴史を超えた「修正主義」の極みである。これを政府にやらせていいのだろうか。
もちろんアメリカは安倍氏の「民主主義への貢献」を称える。アメリカにとっては、トランプにであれ誰であれ自国に媚びへつらい貢いでくれる国は何でも「民主主義」なのだから(「反米」はならず者国家、「反アベはテロリスト」、なんだ、同じじゃん)。
誰であれ、命を落とした人の死を悼むのは当然である。しかし安倍晋三氏は長期に日本の首相――公人中の公人――を務めた。彼が、政治家として、首相として、最高権力者として、なしてきたことは日本人一人ひとりの在り方を巻き添えにしている。その「業績」の評価は、死の私的側面とは別に厳しく検証されねばならない。その「業績」の評価を問答無用で押し流そうとする(そして歴史を抹消する)のが、彼を「偉大な政治家」として寿ぐ「国葬儀」であり、それは「歴史修正」を完成させる祝儀である。世界、とりわけアジア諸国はこの祝儀を執り行う日本をどのように受けとめるだろうか。そしていま改めて軍事基地化されている沖縄は。
安倍晋三は冷戦後に、歴史修正主義の申し子として登場した。修正主義とは「あったことをなかったことにする、不名誉な歴史を嘘だといいくるめる」姿勢・主張だ。歴史がまだ生々しかった時代、傷を抱える人びとが多く生き残っていた時代、この主張は顰蹙を買って社会的軋轢を引き起こした。だが戦後50年を経てしだいに過去の記憶が薄れるにつれ、また新しい世代がそれを重荷に思うようになるころ、北朝鮮の拉致問題が表に出て、「何だ、日本は悪くない、悪いのはあいつらだ」という機運が盛り上がって、「歴史」はほぼ中和されることになる。
そこで安倍晋三は自由民主党の総裁となり、いったんの挫折を経て以後8年近くにわたって首相を務める。その間安倍は権力を全能化し(「私は総理大臣なのだから、私の言うことが正しい」)、周囲はその身境のないやり方に魅了され、行政府も行政機関もその「正しさ」を支えるためにあらゆる規則・プロセスを捻じ曲げ、官僚はその「功績」で出世し、警察・検察も「首相の汚点」を拭き回る犬たちに権限をもたせ、「あったことをなかったことにする」ために邁進する。メディアも「あったこと」には触れずに蓋をしたり、論点は違うと目先を逸らしたりすることで問題化を避けるのに広く貢献する。
その首相は、森友・加計疑惑の追及のなかで首相園遊会の安倍ちゃんよいしょ会化を公的地位の私物化の極みとして追及され、コロナ対策もすべて利権中抜きのためにしかやっていないことがあからさまになって、もはや国会も開けなくなって(いつも避けていた)またも病気を理由に退任する。しかしすぐに元気満々、歴史修正の「画竜点睛」たる憲法改訂に意欲を燃やしていたようだ。
その安倍晋三が、長らく胡乱な関係にあった旧統一教会(日米韓を拠点とする、英語名はCharchだ)との関係のため、霊感商法の被害で人生を壊されたと言う青年の怨嗟の的となり、選挙応援演説中に狙撃され命を落とした。
この事件を、自民党政府やマスコミはいっせいに「民主主義に対する暴挙」として非難し、民主主義とはほど遠かった権力私物化の権化ともいうべき元首相への批判をいっせいに封じて、「大勲位」を贈るばかりか「国葬儀」で遇するという。これも国会議論の必要のない閣議決定だ。
閣議決定で国会を超えて国事が裁断できるというのは、集団的自衛権をめぐる「解釈変更」で安倍元首相が「成し遂げた」荒業である。ある憲法学者はこれを実質的な「クーデター」と称した。これも元首相の子供じみた全能感(「私が総理大臣なのだから…」)、がもたらしたもので、じつは公私混同の極み――ぼくちゃんと首相の公職との区別がつかない――なのだが(「首相夫人は私人」の決定など)、自民党政権や極右カルト(ほとんど宗教集団だ)勢力にとっては、これが比類ない「大政治家」の証しとなった。法治も民主主義もへったくれもない、見境のない権力行使、すばらしいというわけである。
その人物を法的根拠もない国葬で遇するというのは、このような権力行使を国家的に顕彰するということ、そしてそれを内外に示すということである。日本はそういう国(カルト神の国)であることを公式に示すということだ。これこそは歴史を超えた「修正主義」の極みである。これを政府にやらせていいのだろうか。
もちろんアメリカは安倍氏の「民主主義への貢献」を称える。アメリカにとっては、トランプにであれ誰であれ自国に媚びへつらい貢いでくれる国は何でも「民主主義」なのだから(「反米」はならず者国家、「反アベはテロリスト」、なんだ、同じじゃん)。
誰であれ、命を落とした人の死を悼むのは当然である。しかし安倍晋三氏は長期に日本の首相――公人中の公人――を務めた。彼が、政治家として、首相として、最高権力者として、なしてきたことは日本人一人ひとりの在り方を巻き添えにしている。その「業績」の評価は、死の私的側面とは別に厳しく検証されねばならない。その「業績」の評価を問答無用で押し流そうとする(そして歴史を抹消する)のが、彼を「偉大な政治家」として寿ぐ「国葬儀」であり、それは「歴史修正」を完成させる祝儀である。世界、とりわけアジア諸国はこの祝儀を執り行う日本をどのように受けとめるだろうか。そしていま改めて軍事基地化されている沖縄は。
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