エントロピー露出の時代に、脱却すべきマルクス『資本論』に戻ることの倒錯2023/05/12

*あらかじめ断っておきますが、ここに書かれたことはいわゆる「反共」(ヘイト)とは何の関係もありません。マルクス主義の理論的呪縛を解き、その崇拝を停止せよと言うだけです。
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 なぜ私がマルクスを嫌いになったかといえば、それは古い話だ。
 
 若い頃、実存マルクス主義といわれるちょっとした潮流があった。それは思想というよりも、熱病のようなもので、マルクス主義の経済理論とそれと表裏一体の歴史観が疑いえない真理だとしたら、それを無の中の自由意思で選び取って実践しなければならない、つまり階級闘争に加わる主体とならなければならない、という考えだ。いうまでもなくそれはサルトルがマルクス主義を選びとった(奉じた)ときの論理で、世界のマジメな若者の間ではこれが熱病のように広がった。
 
 日本には、戦後マルクス主義者の間で(共産党とはかぎらない)「主体性論争」(梯明秀、梅本克己等から黒田寛一まで)というものが起き、なかなか高密度の論議が交わされていて、それが反代々木派の形成にも大きな影響を与えていた(北のチェチェ思想にも)。その素地もあって、ヨーロッパ由来の実存マルクス主義は容易に受け入れられた。いわゆる全共闘運動の盛り上がりも、それに支えられていたところが大きい(存マル+吉本)。
 
 マルクス主義の階級闘争史観は、フロイトの無意識理論にも似て、一度受け入れると抜け出るのがむずかしい。無意識理論に反発すると、それは君が無意識の欲望を抑圧しているからだ、と言われる。つまり反論すると、その否認はあらかじめ無意識理論で説明されているのだ。フロイト派はメタというよりインフラの足場(といっても足を取られる沼のような地歩)をもっていて、反論すること自体を症状として解釈することができる。だからそこで議論すると、出口のない全体化理論のように働く。階級闘争史観もそういうところがあり(「越えられない地平」とサルトルは言った)、反論すると、君がプルジョア意識に憑りつかれているからだと言う。だから階級意識に目ざめよと、それは必然だと(ルカーチ)。あるいは「お前は罪深い、だから悔い改めよ!」と。

 マルクス主義は経済学という科学理論を基盤にしていて、そんな意識性は夾雑物だと主張する「科学者=経済学者」たちもいた。だが、そう言えたのは、彼らがすでに経済学批判(資本論)を聖書とする教会の聖職者だったからだ(バチカンが間近に見えるイタリア共産党本部の屋上で、、悲劇的事件を起こす前のアルチュセールは、われわれはこの懐のうちにあるのだよと、あっけらかんと漏らしていた)。
 
 こうして、「存マル」はマジメな若者を追いつめて崖から飛び下ろさせる倫理的脅迫のように働くのである(「ここがロドスだ、ここで跳べ!」というのは革マル得意の脅し文句だったし、中核にはその悲壮を抒情に変える「遠くまで行くんだ」派(…僕らのすきな人びとよ、妬みと妬みとを絡み合わせても、貧しい僕らの生活からは、名高い恋の物語は生れない…、吉本)というのもあった)。
 「飢えた20万人の前に文学が何ができるか…」(サルトル、偽善的な金持ちインテリが、バカな貧乏人を脅す――このエリート知性が、メルロ=ポンティやカミュを貶めるためにボーボワールや手下と組んでどんな画策をしたことか)とか、「抑圧され、野垂れ死にしてゆく世界のプロレタリアートの前に…」とかのこのリンリ的脅迫は何なのか? ひどい、あまりにひどい、というのも、マルクス主義を真理として奉り、その真理を盾に、いまそれぞれの生を生きようとする(生きねばならない)者たちの生の犠牲を要求するのだから。これはほとんど絶望的な、実存的怒りを呼び起こした。

 倫理的脅迫は、人を地獄に突き落とすことの責任をみずからは負わない、むしろみずからの他者への無理強いを権利(正義)として倒錯的に正当化するものだからだ。
 (ハイデガーの存在論に対して、第一哲学は他者への出会いから始まる「倫理」だ、としたレヴィナスに深く触発されながらも、その「存在の倫理化」に拒否反応が働いたのもそのためであるし、その後、生命科学等の議論のなかで、「倫理」がもちだされることにも拒否感があった。倫理と呼ばれるものは掲げられるものではなく、言語化もされずに生きられるだけのものだと考えるからだ。倫理そのものに対する拒否ではなく、「倫理」を原理として掲げることへの拒否感だ――仁義ならいい?。生命科学等で語られる「倫理」、医療倫理とは、じつは倫理というよりも社会的な価値計算調整になってしまっている。)
 
 さかしらの連中は逃げる。マルクス主義ではない、マルクスそのものなのだと。「マルクスの可能性の中心」を引き出す?冗談はよしてくれ、だ。マルクス主義運動とマルクスその人を区別して、マルクスを救い出そうとしても、そこにあるマルクスの「正しさ」を疑わない姿勢(マルクス理論への屈服)がマルクスを権威化し、「マルクス主義」の運動を引き起こして、それが歴史的「罪業」を生み出してきたのは変わらない。マルクス主義とマルクスを切り離し、自分はマルクスを評価しているのだという主張は、「教会」体制に異を唱えてイエスの信はローマ教会とは違うというプロテスタントの姿勢に通じている(あるいはドストエフスキーの「大審問官」?)。所詮、キリスト教会内部の話でしかないということだ(ルネ・ジラールは徹底していてごまかしは言わず、「啓示」は「世の初めから隠されていた」絶対普遍的真理だと断言していた)。
 
 それ以来私は、マルクスを持ちだす、マルクスに頼る人びとを基本的に信頼しない、そして自分でもマルクスには頼るまいと心にきめてきた。その理論や、理論に傾倒した人たちの努力を否定するわけではない。西洋一九世紀後半から百年ほどの間は、そこでは強力な有効性をもち、西洋の世界化とともに歴史を動かす大きな威力を発揮もしたが、それがみずからの限界(西洋一九世紀の産物)を忘れて普遍的真理であるかのように機能し働くことによって、人びとを際限のない錯誤に陥れることになったのである。

 ヘーゲルは「世界精神」を語った。(自然の)闇の中に登場した「否定性」が向き合うあらゆる事象を対象化し、言説のうちに同化・統合して、認識・把握された「現実世界」の全体性の内に自己を実現するというプロセスそしてその成就として「絶対知」の哲学的世界を描き出した(『精神現象学』)。そのとき「歴史の主体=全体世界」となったのだが、じつはそれは「西洋文明・知性・理性」の運動であり、発展プロセスの「自覚」(自分はこういうものだという自己意識)だった。つまりその世界の全体性とは「西洋」の全体化だったのである。マルクスの史観もこのヘーゲルの史観の枠組みを踏襲している。ヘーゲルは世界史を「闘争の歴史」として、論理的には弁証法的プロセスとして描き、それを「精神」の自己実現だとした。マルクスは『哲学の貧困』としてそれを「唯物論的に転倒する」として、これは「主と奴」の階級闘争の歴史だったのだとする。

 だが、そこで想定されていた「歴史」も「世界」も「西洋キリスト教的世界」だという限定は彼らの視野になかったのである。ただ、一九世紀に「西洋の世界化」(西洋が世界進出し、「世界」になる)という事態が実際に進行し・展開されており、経済学システムとしての「資本主義」や「世の初めからの階級闘争」といった観点そのものも世界に輸出されて、それぞれの社会や国際関係の錯綜が、その図式によって絡めとられることになった(じつはマルクス主義は、西洋近代経済化社会の矛盾に対応する理論的認識ではあっても、オールマイティの世界理論などではなかったのである)。
 ましてや、中世の「教皇革命」の遠い、そうは見えない核反応の産物である「新世界」が何たるかなど、マルクスは思いもつかなかった。
 
 そのことを劇的に示したのはマルセル・モースのアメリカ先住民社会研究であり(その結実が『贈与論』)、西洋社会システムの混乱倒錯のなかで異文化社会(古代ギリシア・アフリカ)の様相を参照しながら近代経済学を人類学的視野の中に「埋め戻そうとした」カール・ポランニーである。彼らが、近代西洋の経済システム(マルクスが「資本論」の対象としたもの、いわゆる「資本主義」)をその閉域を開いて考え直さねばならないことを示した。それと並行して、近代経済システムが物質生産消費のサイクルとして考慮されているのなら、そのサイクルそのものが人間の生存を超えた宇宙的なエントロピー法則との関係でどうなっているのかを考えねばならないという潮流も生まれていた。
 マルクス主義は、そうした意識なしに「西洋の世界化」の展開とともに世界に「階級闘争的」図式を広めて「問題設定・解決」を押しつけていった。ロシアにソ連を生み、国際階級闘争を広めていったのも、むしろ「西洋化」の一環である。そこでさまざまな軋轢を生じるし、倒錯的な「闘争」に人びとを犠牲にしていった。
 
 「資本論」によって資本主義というものが確定された。それ以降、経済学批判から生まれた「資本主義」が終わるはずの(あるいは革命によって倒すべき)「敵」として指名され、階級闘争がヘーゲルの西洋=世界史観のなかで「歴史の原動力」と考えられる。しかし結局、それはアウグスティヌスの両世界論の焼き直しにすぎない「地上の国」の原理でしかなかった。

 端的に言ってそこでは「植民地問題」がまったく視野にない。アフリカ人奴隷は階級闘争のプロレタリアートではない(マルクス理論の中ではそう処理されるしかないが)。先住民のあり方はなおさら視野にない(先住民の世界には「階級闘争」などなかったし、計量化される生産経済とはまったく違う社会の組織化があった)。
 それに気づいて経済を違うヴィジョンのもとに考えようとしたのがマルセル・モースであり、経済学を開くかたちでそこから西洋経済学を相対化しようとしたのがカール・ポランニーだった。マルクス主義はその「人類学的」ヴィジョンのなかで相対化されねばならなかった。ところがマルクス主義は一九世紀から二十世紀初頭に原理主義的理論になったため、逆のことをやってきたのだ。教会になってしまったからには避けられなかったが。
(そのことを勘案してマルクスのシェーマをグローバル世界に広げて世界システムを考えたのはE・ウォーラーステインだった。だから彼は最後に「ヨーロッパ的普遍主義」を問われぬ問いとして提起することになる。)
 
 マルクス主義は普遍教会(世界の共産党)を作りだし、階級闘争を世界に広げて、世界戦争の後、所有権に基づく自由を原理とするアメリカシステムと対立し(決定的「イノヴェーション」たる核兵器の脅威の下で)、冷戦に入るが、結局そこでの課題が、労働者階級の解放などではなく、二つの国家体制の経済効率競争だったことが露呈し、国際社会的現実のなかでの失効を暴露した。マルクス主義の歴史的役割はここで決定的に終わったのである。
 
 しかし、世界のマルクス主義政党に依拠した多くの人びとや、マルクスを理論的に真とし拠りどころとしてきた人びとは、そのような自己を解体再編することができず、マルクスの亡霊を抱えながら生きてきた。「人新世」をマルクスは先取りして見透していた、『資本論』の草稿にはそれを示す断片がある。今こそマルクスに『資本論』に立ち返らなければならない。そうして、「気候変動」や「脱成長」の時代の問題・課題を整理した若い研究者の登場に、亡骸を抱えて途方に暮れていた人びとが快哉を叫んで元気づいたのは想像に難くない。かくてこの若者はヨーロッパの瀕死のマルキストたちに回春剤を提供したことになり、彼らの称賛を受けて、その勲章をもって日本のメディア・プレス業界に凱旋することになった。
 
 「気候変動問題」や「資本主義批判」はいま「良心的」な世間に一定受けるからだ。それに百年間世界の資本家・支配層、あるいはその統治機関と化したブルジョア諸国家との戦いで、たしかにマルクス主義は大きな役割を果たしてきた。そして実績と威光を得てもきた。しかしそれは、エコロジー問題や成長の限界が問われるようになったとき以来、あるいは旧植民地諸国の独立が問題になったとき、そのような問題を自分たちの戦略的政治のもとに周辺化する対応しかしてこなかったのである。

 だからエコロジーやエントロピー経済への志向は、いわゆる正統な「資本主義」研究としての経済学のなかで、みずからを「異端派」として位置づけるしかなかった。経済学の主流は、いまでも「資本主義研究」なのである。そしてその経済学は「資本主義は終わる、終りの日は近い」と唱え続けている。経済学が「資本主義研究」なのは、マルクスが経済学批判を「資本論」としてまとめて以降である。だが、エコロジー経済やエントロピー経済の研究では、「資本主義」などというものは必要な概念ではない。問題は人間と自然(フュシス)との関係、その代謝の社会的発現にどう対処するかという課題である。そこで問われるのは人間の欲望の自由とそれによって組織され技術・産業・経済システム、それを律する有用性・効能原理であり、人間世界の異なる関係組成の可能性なのである。
 
 そのすべてがマルクスのうちにあったとなどと言うのは、あまりの素朴さ(知的・歴史的無知)かペテンとしか言いようがない。受け取れるのは、著者の個人的には「罪のない」ピュアなマルクス信仰だけだからだ。知的(情報的)処理能力はたいへん高そうに見えるだけに、その「罪のなさ」は悪効果を生み出す。

 話を「マルクス嫌い」から始めてしまったために、ここで展開したことが私的な好みの問題に切り下げられてしまいそうだが、ねらいはそうではないし、ましてや、今日の「リベラル左派」の論議にいらぬ「分断」を持ち込むなどということもまったく私の意図ではない。私は前々から隠さないように、リベラルでも左派でもない。「マルクスに頼らない」というのを信条にしてきた以上、世間の分類枠にはあてはまらないからだ。そんな分類よりも、人間について、歴史について、世界について、どんな流派にも与せず、できるだけ適切に考えようとしている。そして考えるのは何のためかといえば、売れる商品(思想)を作るためでもなければ、イイネをたくさんもらうためでもなく、ただ単によりよく生きるため、そして人びとのよりよい生を洗い出すためである(その点でわたしもプラトンの徒だ)。その観点からして、「人新世」(というとりあえずの考え)の諸課題を、いまではあまりに限界が確認されてしまったマルクスに回収するということが、いかなる混乱を引き起こすのかということ(人びとを無知やペテンに、いまならポスト・トゥルース状況に巻き込むということ)を看過できないと思ったからだ。

 マルクスはその「可能性の中心」(もうだいぶ古くなったが)など引き出すよりも、そのきわめて限定された歴史的役割を標定することの方が、現在の知的状況の中でははるかに意義のあることだということだ。

「人新世」と、「アメリカ」によって消された世界2023/05/09

「人新世」って何かというと、人間の生産活動(技術産業経済)が自然の開発を闇雲に進め、それが地球の物質代謝に有意な変化を引き起こすようになったという、地質学的(?)認識でしょう。ただしこれ、科学的認定というより、地質学的変化にも人間を重要なファクターとして加味しなければならなくなった(三葉虫のように)という、自然学者たちの危機感からする「警告」的な意味合いが強いよね。地質学の時標はふつう、中生代約2億年、新生代約6600万年、その終りの方で約160万年前からが新生代第四期(最近258万年前に変更とか、イイカゲン)、現生人類の歴史が約20万年としても、「人新世」って400~500年前からというのだから(いや産業革命の250年前から)。こんな区分が「科学的」であるはずがない(少なくとも人間の自覚という観点が入っている)。

 この認識は、科学的に言うなら、エントロピー増大の原理が発見されて(宇宙は不可避的に熱的死に至る)、じゃあ生命って何だということになり、そりゃエントーピー増大の流れのなかに逆ネジ巻くようなネゲントロピーの系というしかないな、ということで、生命系というのはエントロピーの流れを遡るシジフォスの仕事をするように逆均衡を維持するある閉じた系を作っているということか、等々と考えられ(フロイトは人間に働くエロスとタナトスの傾向を考え、バタイユは限定経済に対する一般経済を考えた)、ついに1970年代にルーマニア出身のニコラス・ジョージェスク=レーゲンが、人間の経済活動を自然との代謝のなかに置いて考え直し、エントロピー経済の中での定常系の維持という観点から「生命経済学」を構想することになった、それに見合う発想である。
 簡単に言うなら、人間の経済活動にエコロジー的観点が必要だと知られるようになり(1960~70年代)、成長の限界が言われ、環境との均衡のなかに人間の生産活動を収めないとまずい、という発想だ。そこから、近代産業経済の「発展」を導いてきた「功利主義・効率原理」に対する批判が生れ(フランスのMAUSSの知的展開、A・カイエ他)、そこから「脱成長」の考え(経済の「成長」神話からの脱却)が生れてきた(S・ラトゥーシュ)。彼らをとりわけ刺激したのは、西洋の近代経済システムに組み込まれて破壊され荒廃し、そこから独自の地域的な経済生活を作り直そうと格闘したいわゆる「第三世界」の試みである(西側ではそれを開発経済とか環境経済という形で追及した)。
 
 だが、マルクス主義にはその発想はあったのか?はっきり言ってまったくなかった。(マルサスの想を受けたダーウィンの「進化論」には感激して著者にお手紙を書いたマルクスが、ジェボンズのように熱力学の第二法則――エントロピー増大法則――に震撼されたという話は聞かない。)マルクス主義は「資本主義」なるものを「敵」と見立てて「階級闘争」を組織し、プロレタリア革命による「資本主義の打倒」を目ざした。あるいは、資本主義の破綻は歴史的必然であるとして、革命が起こっても起こらなくても生産力の増大がやがて資本主義の矛盾を解消して共産主義の条件を整えるであろうと。
 何というオプティミズム!あるいは西洋的盲目!(歴史が階級闘争の歴史であり、その最後の段階としての資本主義という把握の、あまりに人間的、というか、西洋ユダヤ=キリスト教的なヴィジョン。マルクスはヘーゲルを転倒したつもりで「世界史」を語るが、その世界史は「終末において地上に天国が実現する」というアウグスティヌスの「両世界論」の手のひらの上にある。そして「資本主義が終わる」というのも、「終りの日は近い、天国は我らのものである」という福音書(派)の俗悪終末論とどこが違うのか?「資本主義」というのは、「地上の国」(欲望と罪悪の国)の経済主義ヴァージョンにすぎない。だから、いくらそれが「終わる」といっても、信者を慰める司祭たちのタワ言にすぎないのである。
 
 たしかに、19~20世紀の西洋・西洋化世界で、また社会主義成立後のいわゆる国際階級闘争のなかで、他に理論的足場がなかったためマルクス主義を信じて戦った何千万という人びとがいた。その人たちの格闘や苦難を貶めることはできない。しかし、70年代以降のマルクス主義の信用失墜と時を同じくして噴き出したエコロジー問題は、もはや反資本主義や階級闘争では対処できないものだったにもかかわらず、少数の人びとをのぞいて考えを刷新することはできなかった。それに対して「資本主義」の側は、技術・金融のITヴァーチャル化とグローバル化によって「前に逃げる」展望を開いたのだった。「欲望の脱領土化」というイデオロギーがそれを後押しし、新手のマルクス主義者は資本の運動を「加速」することでそこからの「脱出(EXIT)」を試みる(新しいエグゾダス=出エジプト?)。だが、どんなに追い抜こうとしても、資本の運動はその先を行っていて、追い抜くことは不可能なのだ。「資本の運動」は初めから「終りの日」として、つまり決して届かない「未来」として設定されているからだ。そのことに絶望してマーク・フィッシャーは「資本主義のリアル」に呑み込まれて死んだ。そしていま、グローバル規模であらゆる公共性を溶解し、ヴァーチャル化して限界を超えた私的所有権の跳梁のもと、新自由主義と呼ばれる経済統治システムが、一方で俗悪な権力欲のために各所で戦争を準備させ、他方ではエントロピーの侵蝕増大で荒廃する地球を尻目に、「脱出」の夢を見させている。
 
 はっきり言っておこう、「人新生」が語られる現在の状況にマルクス主義はまったく対応できないのだ。だからそれを『資本論』の草稿に書かれているとか、マルクスが予言していたとか言うのは、無知でなければ恣意的濫用である。たしかに、今から読めば草稿に現在の認識に結びつけられる記述があるかもしれない。しかし、「人新世」と呼ばれる状況にマルクスで対応できると思うのは、エントロピー経済の由来や、この百年に世界各地でマルクス主義をめぐって起こったことについての、度し難い無知というしかない。それは若い人の善意のなせる業かもしれないが、その「善意」は結局、大きな意味での「歴史否認」につながってしまうだろう。
 ともかく、現代の問題系に対応するのは、西洋近代の原理思想・経済学の枠組みにあぐらをかいたマルクスの認識などではなく、その西洋近代の論理によって文字どおり抹消された(植民地支配を受けたのではなく、存在そのものを抹消された)人びとが、最後の究極の抵抗の前に残したつぎのような表明に籠められた持続的生存の思想だろう。以下は、西洋白人の到来によって二百年に渡って居場所を奪われついには根絶されたスー族の長老タタンカ・イヨタケ(シッティング・ブル)と呼ばれる人物が遺した言葉である。かれらの存在を抹消したのは「アメリカ」と自称する「新世界」だった。
 
 「みよ、兄弟たちよ、春が来た。大地は太陽の抱擁を喜んで受け、やがてその愛の果実が実るだろう!種は一つひとつが目を覚まし、動物たちの生命もまた目覚める。我らもまたこの神秘的な力のお陰で生きて世にある。だからこそ我らは、この広大な大地に住まう権利を、自分たち同様、隣人たちにも、また隣人たる動物たちにも与えるのだ。
けれども、聞いてくれ皆の衆!我らは今、もうひとつの種族を相手にしている。先祖たちが初めて出会った頃には、小さくて弱々しかったが、今では大きく尊大になったあの種族だ。奇妙なことに、彼らは大地を耕そうとする心を持ち、彼らにあっては所有への愛着が病いにまで嵩じている。あの連中はたくさんの決まりを作ったが、その規則は、金持ちは破れても貧乏人は破れない。彼らは、貧しい者や弱い者から税金をとり、統治する金持ちたちをそれで養っている。彼らは、万人に属する母なる大地を、自分だけが使うものだと言い募り、策を築いて隣人たちを締め出す。そのうえ大地を彼らの建物や廃物で台無しにする。この部族は雪解けのなだれといっしょで、川床を飛び出し、行く手のあらゆるものを破壊する。
我らは共に暮らすことはできない。わずか7年前我々は、バッファローの国は永遠に我々に残されることを保証する条約を結んだ。いまや彼らは、それを我らから奪おうとしている。兄弟たちよ、我らは屈服するだろうか?それとも、彼らにこう言うだろうか:私の祖国を手に入れる前に、まず私を倒せ、と。」

*チャールズ・イーストマン(1858-1939):先住民出身で最初に医師資格を取った。『インディアンの英雄と偉大な族長たち』(1918年)
*西谷修『アメリカ、異形の制度空間』(2016年)

[追伸]
 タタンカ・イヨタケは「資本主義」などという言葉も規定も知らない。イヨタケたちの祖先や兄弟たちの土地を奪い彼らの生存を根絶やしにしてくるのは、まったく違った「種族」なのだ。天地がその愛の恵みで生き養われているように自分たちもそこで生き、だからこそ違う種族や生き物にも大地に住まう権利を認める(自然のうちにその一部として生きているがゆえに、支配や独占など主張しない分有の生そのものを分かち合う、それも幾世代にもわたって持続的に…)、そんな自分たちと違って、やってきてやがて尊大になった新しい種族は、とにかく大地を分割して独占し、耕すことで我有化し(J・ロックによる所有権の起源)、病的な所有欲に冒され(土地、毛皮、そして金・ゴールドラッシュ)、規則を作って所有や取引を権利化し、しかし金の力は法律より強く、権力さえ与えて貧乏人を働かせてその上にあぐらをかく。自分のものは策で囲って銃で守り(最初はウォール街)、自然からモノを作って使ってゴミにし、自然の山も川も街も台無しにする。そういう「種族」だ。カワウソともバッファローとも自分たちは共生するが、彼らと「共に生きる」ことはできない。なぜなら彼らは、出会うあらゆるものを自分たちのやり方で根絶しようとするからだ。200年荒らされるままに耐えてきたが、もはや我々には死地しか残されていない、と。そう言ってよければ彼らは、「富の蓄積」や「成長」などとは無縁の、生存を「未来に向けての進歩」の尺度などでは計らない、「七代先の子孫にこの大地の恵みを残す」といった見通しのなかで生きている。それを理念的にではなく現実的にブルドーザーにかけるように押し潰して「すばらしい新世界」にしてゆくのは、人工の有用性と効率という原理にとりつかれた「西洋白人」という種族である。それが「アメリカ人」だ。

 いま「人新世」と呼ばれて示唆されている問題は、他でもないこの「アメリカ人」の登場によって人の住む世界に引き起こされた問題ではないのか。それを「エコロジー的」と言ってもよいが、その「エコロジー的生」は、生存そのものの経済原理化(エコノミー化)によって潰されてきた。ここで「資本主義」が何をしたというのだろうか?「資本主義」などという概念では追いつかない(とても把握できない)事態が起きているのだ。ここにマルクス主義が口出しする余地などまったくないことが明らかだろう。それをマルクス主義者は考え直さなければならない。階級闘争の図式などここでは無力なのだ(西洋世界とその周辺にしか通用しない)。

ChatGPTとお遊び2023/04/18

誰かが、自分のよく知っていることで試してみると分かる、と言っていたので試してみた。

Q―西谷修という学者について教えてください。
A―西谷修(にしたに おさむ)は、日本の情報学者であり、慶應義塾大学SFC研究所教授を務めています。西谷修は、人工知能、機械学習、自然言語処理、データマイニング、情報検索、情報科学などの分野において、多数の論文や著書を発表しています。特に、自然言語処理の分野では、日本語の形態素解析や構文解析などの研究で知られています。
また、西谷修は、情報科学に関する普及活動にも積極的に取り組んでおり、テレビ番組やメディアでの解説なども行っています。
西谷修は、日本学術会議会員や情報処理学会フェローなどの資格を持っています。

*「間違っている」わけではない。ChatGPTは「正しい」答えを提供しようとしているのではなく、ただ、それらしい「答え」を集積データから何でもいいから作ろうとしている。忠犬と言えば忠犬。

Q―そうではなく、元東京外国語大学教授の西谷のことです。
A―申し訳ありません。おっしゃる通り、私の回答には誤りがありました。西谷修といえば、東京外国語大学の元教授であり、専門はアジア言語文化学です。主に中国語の研究を行っており、中国語の音声や音韻、音楽との関係などについて研究を発表しています。また、近年は、中国語教育にも力を注いでおり、日本における中国語教育の発展に尽力しています。

*間違っていると指摘されたら、指摘にあわせて新しい答えを作る。しかしこれも「答えを作ってみた」レベルのフェイク。

Q―ちょっと違うようですね。哲学者ですよ。彼についての経歴等を知りたいのですが。
A―申し訳ありません、私の前回の回答には誤りがありました。おっしゃる通り、西谷修といえば哲学者であり、専門は現代思想と倫理学です。
西谷修は、1955年に生まれ、東京大学文学部哲学科を卒業後、同大学院に進学し、哲学の修士号および博士号を取得しました。その後、東京大学、京都大学、パリ第十大学、オックスフォード大学などで教鞭を執り、現在は東京大学名誉教授の地位にあります。
西谷修は、現代思想や倫理学の分野で幅広く研究を行っており、ヘーゲルやニーチェ、フーコー、デリダなどの哲学者についての著作が多くあります。また、日本の現代思想や文化にも精通しており、『日本的』『ポストモダンの文化論』などの著作もあります。
西谷修は、日本学術会議会員、日本哲学会理事などの資格を持っています。

*違うと(答えに不満だと)言われると、すぐに直せる(素直)。ただし、指摘を受けてそこからまた別のデタラメを平気で作り出す。経歴だけでくな著書さえ捏造。学術会議会員(どういうわけかこだわってる)なんだ、知らなかった。でも、これが情報工学的には「最適解」なんだ。

Q―いいかげんではないですか? どうやって答えを出しているんですか。
A―申し訳ありません。私の前回の回答には、複数の誤りがありました。私は、AIの言語処理によって回答を生成しているため、一部の情報が誤っていることがあります。しかし、私たちは常に正確性と品質の向上に取り組んでおり、より正確な情報を提供するために努力しています。もし、私の回答に誤りがあった場合は、遠慮なく指摘していただけますと幸いです。

Q―わかりました。でも、確信がなかったら、答えを出さない方がいいと思いますよ。
A―おっしゃる通りであり、私たちは常に情報の正確性を確認し、最大限の努力をして正確な回答を提供するように努めています。ただし、AIの自動生成回答は、時に限界があることもあり、確認が必要な情報については、正確性を確認できるまで回答を控えるように改善してまいります。ご指摘いただきありがとうございました。

○結論、学生諸君、論文書くにはWikipediaの方がずっといいよ(ただし、日本のwikiの現存人物は荒らされてるからサイテイ、フェイクの方がまし)。


[付録]
もっと著名な人ならデータ学習できているかな、と思ってタメシ(浅田さん、ごめんなさい)。

Q―浅田彰という学者について教えてください。
A―浅田彰(あさだ あきら)は、日本の社会学者であり、東京大学大学院総合文化研究科教授を務めています。専門は現代日本社会学、メディア論、文化社会学などです。
浅田彰は、1985年に東京大学文学部社会学科を卒業し、1992年に同大学大学院総合文化研究科社会学専攻博士課程を修了し、博士(社会学)の学位を取得しました。博士論文の題目は「現代日本のモノクローナル抗体産業――バイオテクノロジーの社会史的研究」です。
浅田彰は、東京大学大学院総合文化研究科にて教鞭をとりながら、日本のポピュラー音楽、テレビ、広告などの文化現象を社会学的な視点から分析してきました。また、現代日本社会の多様な問題についても取り上げ、社会現象の背後にある社会構造や文化的背景を深く掘り下げた研究を行っています。
浅田彰は、著書『平成カルチャー論』(1995年)、『スポーツと文化――ヒーローと共同体の社会学』(1997年)、『マス・コミュニケーション入門』(2002年)、『現代日本文化論』(2003年)、『グローバル・ポピュラー音楽論――アジアを中心に』(2008年)など、多数の著書を執筆しています。

Q―ほんとかな? 浅田彰ってポストモダンの旗手ですよ。『構造と力』の著者。その経歴について教えてください。
A―申し訳ありません。私の前回の回答は誤りでした。浅田彰という学者は存在しません。おっしゃる通り、『構造と力』の著者であるフランスの哲学者ジャック・デリダはポストモダン思想の代表的な人物の一人であり、ポスト構造主義の先駆者として知られています。
私の回答に混乱を与えてしまったことをお詫び申し上げます。ご指摘いただきありがとうございました。以下、ジャック・デリダの経歴についてお伝えいたします。
ジャック・デリダは、1930年にフランスのエルビルで生まれました。彼は、ソルボンヌ大学で哲学を学び、後にアルジェ大学で教えるようになりました。彼は、哲学における構造主義や存在主義に対して独自の批判的なアプローチを持ち、ポスト構造主義の先駆者として知られています。
デリダは、多数の著書を発表しており、その中でも最も有名なのは『差延』(1967年)や『限界の状況』(1981年)などが挙げられます。彼は、哲学、文学、政治、芸術など幅広い分野において影響力を持ち、その思想は世界中の哲学者や文化批評家に影響を与えています。デリダは2004年に逝去しましたが、その思想は今なお多くの研究者や批評家によって議論され、その影響力は未だに続いています。

Q―ありがとう。だいぶ正確になりましたね。
Aはなく、トラブル信号か?―Something went wrong. If this issue persists please contact us through our help center at help.openai.com.

国葬、歴史修正(粉飾)の戴冠式――カルト権力の功罪?2022/07/15

 岸田首相が昨日、安倍晋三の国葬を閣議決定した(誰より祟りが怖いのか)。日本における歴史修正主義の勝利の勝鬨がこだまする。

 安倍晋三は冷戦後に、歴史修正主義の申し子として登場した。修正主義とは「あったことをなかったことにする、不名誉な歴史を嘘だといいくるめる」姿勢・主張だ。歴史がまだ生々しかった時代、傷を抱える人びとが多く生き残っていた時代、この主張は顰蹙を買って社会的軋轢を引き起こした。だが戦後50年を経てしだいに過去の記憶が薄れるにつれ、また新しい世代がそれを重荷に思うようになるころ、北朝鮮の拉致問題が表に出て、「何だ、日本は悪くない、悪いのはあいつらだ」という機運が盛り上がって、「歴史」はほぼ中和されることになる。

 そこで安倍晋三は自由民主党の総裁となり、いったんの挫折を経て以後8年近くにわたって首相を務める。その間安倍は権力を全能化し(「私は総理大臣なのだから、私の言うことが正しい」)、周囲はその身境のないやり方に魅了され、行政府も行政機関もその「正しさ」を支えるためにあらゆる規則・プロセスを捻じ曲げ、官僚はその「功績」で出世し、警察・検察も「首相の汚点」を拭き回る犬たちに権限をもたせ、「あったことをなかったことにする」ために邁進する。メディアも「あったこと」には触れずに蓋をしたり、論点は違うと目先を逸らしたりすることで問題化を避けるのに広く貢献する。
 その首相は、森友・加計疑惑の追及のなかで首相園遊会の安倍ちゃんよいしょ会化を公的地位の私物化の極みとして追及され、コロナ対策もすべて利権中抜きのためにしかやっていないことがあからさまになって、もはや国会も開けなくなって(いつも避けていた)またも病気を理由に退任する。しかしすぐに元気満々、歴史修正の「画竜点睛」たる憲法改訂に意欲を燃やしていたようだ。
 その安倍晋三が、長らく胡乱な関係にあった旧統一教会(日米韓を拠点とする、英語名はCharchだ)との関係のため、霊感商法の被害で人生を壊されたと言う青年の怨嗟の的となり、選挙応援演説中に狙撃され命を落とした。
 この事件を、自民党政府やマスコミはいっせいに「民主主義に対する暴挙」として非難し、民主主義とはほど遠かった権力私物化の権化ともいうべき元首相への批判をいっせいに封じて、「大勲位」を贈るばかりか「国葬儀」で遇するという。これも国会議論の必要のない閣議決定だ。
 閣議決定で国会を超えて国事が裁断できるというのは、集団的自衛権をめぐる「解釈変更」で安倍元首相が「成し遂げた」荒業である。ある憲法学者はこれを実質的な「クーデター」と称した。これも元首相の子供じみた全能感(「私が総理大臣なのだから…」)、がもたらしたもので、じつは公私混同の極み――ぼくちゃんと首相の公職との区別がつかない――なのだが(「首相夫人は私人」の決定など)、自民党政権や極右カルト(ほとんど宗教集団だ)勢力にとっては、これが比類ない「大政治家」の証しとなった。法治も民主主義もへったくれもない、見境のない権力行使、すばらしいというわけである。
 その人物を法的根拠もない国葬で遇するというのは、このような権力行使を国家的に顕彰するということ、そしてそれを内外に示すということである。日本はそういう国(カルト神の国)であることを公式に示すということだ。これこそは歴史を超えた「修正主義」の極みである。これを政府にやらせていいのだろうか。
 もちろんアメリカは安倍氏の「民主主義への貢献」を称える。アメリカにとっては、トランプにであれ誰であれ自国に媚びへつらい貢いでくれる国は何でも「民主主義」なのだから(「反米」はならず者国家、「反アベはテロリスト」、なんだ、同じじゃん)。

 誰であれ、命を落とした人の死を悼むのは当然である。しかし安倍晋三氏は長期に日本の首相――公人中の公人――を務めた。彼が、政治家として、首相として、最高権力者として、なしてきたことは日本人一人ひとりの在り方を巻き添えにしている。その「業績」の評価は、死の私的側面とは別に厳しく検証されねばならない。その「業績」の評価を問答無用で押し流そうとする(そして歴史を抹消する)のが、彼を「偉大な政治家」として寿ぐ「国葬儀」であり、それは「歴史修正」を完成させる祝儀である。世界、とりわけアジア諸国はこの祝儀を執り行う日本をどのように受けとめるだろうか。そしていま改めて軍事基地化されている沖縄は。

★経済原理主義からの脱却2021/09/07

要点だけだが――

★「コロナ禍は経済に打撃」はウソ!!!
・TOPIX(東証株価指数)、連日の高値更新(バブル期以来)
・商社、最高益の狂乱(エコノミスト)
・トヨタ、4~6月純利益5.7倍で過去最高 世界販売が好調(日経)
・高級外車バカ売れ

★「命か経済か」と二択化することで、「経済」はむしろコロナ禍を機に大発展。事実が示している(「経済対策」が奏功)。
「経済」という用語にダマされるな。「経済」は人びとの生活に関係ない。むしろそれを食い物に「成長」してゆく。人びとが苦しめば、そして「競争」ではみ出し脱落すれば、それをすり潰して肥え太ってゆく。(「オリ・パラ」を無理やりやるのは、その競争原理を輝かせて人びとを幻惑し、「感動と共感」の胡乱な沼に浸すため。「多様性」も「金メダル崇拝」で一様化。)

★「命か経済か」で排除されたのが「社会」(最近では「経済社会活動」と言ってごまかしているが)。「命」つまり生活は、「社会」のなかで成り立つ。同じく「経済」も「社会」を足場に展開する。その「社会」という場が「生活」と「経済」を結びつけている。
・だが都合よく「ソーシャル・ディスタンス」、「社会性」を断つ。
・その繋ぎ目にあるのが今回浮上した「エッセンシャル・ワーク」。だがそれは「ボランティア」扱いで、「美談」の対象にはなっても、政府はまともにフォローしようとしない。金融緩和・資本支援・消費促進(Goto、中抜き機会)が巨額の「経済対策」。

★その結果、コロナ禍は波状攻撃「倍返し」のように広がり、寄せる波のたびに「生活」できなくなる人びとが増え、医療機関はオロオロ、関係者は疲弊、お手上げ状態になる。そのうち「コロナで肺炎」は手の打ちようのない「フツー」のことになり、日に100人ぐらい死んでもあたりまえ。
 この間、焼野原(むしろ洪水の後)になったセクターや、「小さな人びと」の生活の廃墟は、デジタル・ヴァーチャル化で効率を高め「イモータル化」する資本・企業のリサイクル市場化の草刈り場になる。

★この冬、また感冒の流行期に何が起ころうとも、もはやそれは「ノーマル」。政治は経済の「復興」以外何もしようとしない。経済はすでにコロナ禍を食い物にしているのに。だから自民党は内輪の権力構想などやっていられるし、メディアはオリ・パラの次は総裁選に現を抜かす。日本に「社会」はもうないのだ。

★どうでもいいが、これは「資本主義」の問題などではない。資本主義が栄えようと終わろうと、この状況は変わらない。ということは「資本主義」論議そのものが失効しているということだ。マルクス主義は階級闘争の時代のもの。現在の問題は、「政治(統治)の経済化(私的欲望の自由)」ということ。そこからどう「政治」を「公共性」を編み直し作り出すかということが根本課題だ。その射程は「資本主義論」を超えている。

「ハルマゲドン」後に備える想像力を2021/07/18

 五輪開幕まであと5日、専門家こぞっての予想どおり、ここ数日間の急激な感染拡大(17日発表1400人)を受けて、政府筋は世論を五輪批判に向かわせないよう躍起なようだ(NHKも一生懸命やっている)。バッハは「大名移動」で嫌がられるのを押し切って広島に行き、各国選手たちも続々到着するが、「バブル方式」密閉がザルだと知られてもすぐにバスで選手村やさらには地方都市に送り込み、一方、受け入れ施設(ホテル)はこの期に及んで組織委からの指示も急でかつ不明確。どうやらロジ運営を仕切っているはずの組織委自体が、混乱状況のなかで上から勝手で不十分な指令だけ受け、もうパンク過労死状態なのだろう(好意的にみて)。
 
 「世界の叡智を結集、安全安心なオリンピックを実施」(しないという選択肢はない!)して「コロナに打ち勝つ」証しとする「2020東京五輪」(すでに年号ごまかし)。7月12日から8月22日まで「緊急事態布告」はその不退転の枠組みとして打ち出された(しかし観客を入れるかどうかは自治体判断)。

 だから、オリンピックは「安全安心」な態勢でやる。かつコロナは終息のために全力を尽くす。その二つは、ひとつのものとして設定されている。オリンピック強行が日本のコロナ禍をとめどなくするという発想は排除している(じつは初めから、「経済=利権」オリンピックを優先してきたから、コロナ対策--医療的対策と社会支援対策--がズブズブで、政府の施策が不信を買い、「宣言効果」もなくなって、波がますます大きくなる。

○コロナ禍下のオリンピック作戦

 コロナ対策(感染拡大防止)でとりわけ飲酒飲食を抑えようとして、カネと権力で干上がらせるという禁じ手を西村担当相が公然持ち出しで反発を買い(オリンピック・人集め祭は国際規模でやるのに、なぜ仲間飲食がいけないんだ!)、慌ててそれは撤回して、ワクチン加速にシフトしようとしたが、同じ頃、「安全安心の五輪」の雰囲気づくりのための「ワクチン加速」が、自治体や業界団体を急がせながらじつはワクチン供給が間に合わないという破綻が出て(英米製薬大手に回してもらわなければならない)これもヤブヘビ。そこでいまや、最近の感染拡大の要因として、若年層がすすんでワクチンを受けない、ネットのデマに流されている、だから政府もネットで直接発信、報道機関も広報流して、ワクチン接種を啓発せよというキャンペーン。

 そこでも、オリンピック実施自体、がコロナ感染抑制への協力には「間違ったメッセージ」(政府・都)であることを隠しとおす。オリンピックがやれるということは、①コロナは大したことはない ②国境越えの人流(抑えても10万人)や集団的熱狂も大丈夫 ということだが、そこへIOCという組織が会長バッハをはじめ成りあがりマフィア集団だということが露呈、それにも目を瞑ってオモテナシしなければならない(もともと招致が買収なのだから、今さらそれは言えない)。しかし、それがあからさまに見えてしまうから国民(とくに業者たち)は、何でオレたちを締め上げるのか、と反発する。
 
 中小業者だけでなく、派遣プレカリアート(「自由業者」とみなされる)の個人はもうすでに去年以来(その前から)いいように切り捨て放置されている――可視化されない重症患者のように(その困窮効果でコロナ明けのフーゾクは楽しみ、なんてラジオで言った芸人は、まだNHKの元人気番組に出続けている)。

 それには触れず横を向いて、今度はネット浄化と政府配信広報を押しつけるという。いまの状況の最大の問題は、この何でもジミントウ社会でさえ菅内閣支持率20パーセント代に表れているように、政府のやることなすこと(行政全般)にまったく信用されなくなっているということなのに。

 政府筋の言う「若者たち」がネットのデマに乗ってワクチンを受けたがらないのが多い(公式の報道を見ない、受け入れない)としたら、この間の教育行政があらゆる手を使って、社会的に必要なことを教えない、まともにものを考えさせない、そんな教育を執拗に続けてきた「成果」だし(すぐお上を批判するはサヨク、自己責任が自由のあかし…、政治などのせいにせず自分はスキルと才覚で儲ける…、できないのは自分が悪い…)、そこで泳ぐ側に回れなかった者たちにネット・デマやヘイト煽りで働きかけてきたのは自民党広報部。その親玉が今はデジタル化相だ。そんな態勢の下で、政府の言うことを信用せよと情報を直接配信するなどと言うのは、自分たちの狙ってきた(そして他国がやると鬼の首でもとったように批判する、民主的でないと)国民情報コントロールを、居直ってごり押しするようなもの。
 
 あまりにメチャクチャでごまかしだらけだから、腑分けして大づかみに説明する(民主主義の危機とかいった「学問用語」に頼らずに)のがたいへん面倒だが、それでも。

○「ハルマゲドン」後への想像力

 オリンピック強行(だけではなく、それを期限付きの目標にしたこの間の日本の政治全般)に多くの人が「大本営下のインパール作戦」を重ねているが、そのとおりと言わざるをえない。だが、「先の大戦」の場合には「鬼畜米英」という「敵」があった。そのため、為政者も「敗戦」を認めざるを得ず、その後に「占領軍」が入ってきて強制的な権力構造の変更があった。それは戦争態勢に引きずり込まれた国民にとってはむしろ「有り難い」ことでもあった。
 
 ところが、今度の場合、オリンピックが某IOC委員がつい漏らしたように日本の「ハルマゲドン」であったとしても、今度は為政者(選挙で選ばれた「国民の代表」などと言わせないためにはっきりこう言おう)に「敗戦」を認めさせる者がいない。空襲・原爆・軍崩壊・焼野原のあと、いまの為政者たち(政治家・官僚その仲間)はこの「焼野原」を、「世界から称賛された日本の偉業の証し」とか言い募るのだろう。そして、その後のコロナ猖獗(五輪カクテル株)を「必要な尊い犠牲」と祭り上げ、総選挙に打って出て「世界に冠たる日本」の政権を担う党選び、とやるかもしれない。
 
 そのときのスローガンが「中国脅威」だ。コロナ禍制圧がうまく行かなかった(そして多くの犠牲を出した)のは、憲法に緊急事態条項がなく強制力ある発動ができなかったから。それではこの「中国脅威」にも対抗できない。だから憲法改正!と。
 
 結局、「戦争(焼野原)」責任者たちが、「敗戦」を認めることなく、逆に更なる権力(焼野原にする力)を要求する。それが「ハルマゲドン後」の光景だ。
 
 じつは、彼ら(現在の為政者たち)にとっての「敵」は英米などではない(とりわけアメリカは彼らの雨傘雨ガッパ、身を寄せる庇だ)。「敵」は国内の「あんな人たち」、言うところの「反日」勢力である。「あんな人たち」と指差されるのは、日本が「こんな国」になってしまうことに抗議し、世界に受け入れられまともに尊敬される国になってほしいと思っている。そういう人たちは自分たちの統治権確保の邪魔だから、「あんな人たち」と指弾して排除する。そんな倒錯した玉を担がないともたないのが今の自民党だ。だから、いま彼らが「戦っている」その「敵」は「日本国民」なのである。だから「敗戦」は認めない。権力は手離さない。むしろそのような「国民」排除の上で権力を保持しようとする(小池も「排除します」)。
 
 そのとき、彼らが持ちだすのが「中国の脅威」だ。五輪で金メダルをたくさんとり、「国威発揚」「国民高揚」、それを脅かしているのが強大化した中国だ(たしかに中国にも権力闘争があるが、権力者がわれわれの向き合わねばならない「中国」なのではない)。明治以来日本は「脱亜入欧」、中国アジア蔑視で自らを別格(名誉白人?)として振舞ってきた。今は折よくアメリカが、中国の歴史的台頭を許せず、「絶対的敵」として新たな「冷戦」(いや、きわめて溶けやすいが)を構えようとしている。そして「中国包囲」をコロナ明け世界の基本戦略として打ち出そうとしている。それをもっけの幸い、「白人」たちは日本の「オリンピック作戦」を冷笑的に見ているが、先兵になるのなら使ってやろうと、「ハルマゲドン」明けの日本を受け入れる。そんな流れで、歴史否認・嫌中・嫌韓ヘイトを基調にした現在の為政者の姿勢が、グローバル世界秩序のなかで場所をもつ。そしてハルマゲドン明けには、その姿勢が公然政策ベースとして打ち出されることになる。

 地獄は二重三重にある。安倍政権が最悪と思っても、そうではない。今度は「底」がないのが明らかだから。
 
 オリンピックはもはやできてもできなくても「失敗」――やればコロナ感染止めどなし、できなければその時点で、すべて(権力私物化、国税・財私物化、官僚私僕化、ヘイト隠しの「美しい国」作り等々)をチャラにする「オリンピック作戦」の文字どおりの失敗――と決まっている。その「失敗」を「成功」と言いくるめて、国と社会の瓦解・崩壊を制度化する、それがグズグズでもなされたら、もはや「終り」さえなくなる。土石流がこの国を呑み込んで常態化するのだ。
 
 だから今、喫緊のことは、その「ハルマゲドン後」に備えること。最重要なことは「失敗」を「敗北」を認めさせることだろう。それはオリンピックを中止させることでもあるし、その「失敗」を認めさせること、最低限、とにかくこの政権に退場してもらうことである。

「エクスポーズ(展示・露出)」の排除と推奨2021/07/17

東京・名古屋で追い出され、大阪で実現した「表現の不自由展」にまつわる状況について――「表現の自由」あるいは「エクスポーズという営み」

 ウヨクの街宣ががなり立てて近所迷惑、不安を誘う、危険物が送られてきたりする、だから展示会や講演会をやらせない(場所を貸さない)、というのは、そういう示威行動や恐喝を受け入れるということ。いまのアベ菅政権や大阪維新は慰安婦像の展示などけしからん「反日」だとみなしている(アメリカやドイツでの展示には外務省から横槍が入る、つまりこれが日本政府の「公式」の姿勢だということ)。だから、自分たちが不当だと思うような展示には場所を貸さないが当たり前(ウヨクの反発は当然)。高裁判決にも不服。

 名古屋で送られた爆竹も、大阪の場合も、こういう行為は当局の意図を代理していることになる。警察は、こういう行為を徹底捜査すべきだが、しかし警察庁下、とくに公安は官邸下、行政権力の下にある。

 元はと言えば、まったくさえない寡黙な少女像。それを日本人(日本軍)に恥をかかせる展示物だと目くじら立てて「政治化」するのは、そんな小さな肖像に過剰な憎悪を向ける(自分たちが攻撃されていると思う政治家たちであり、それを「恥」と思う「日本人」に同一化してフェイクの「理想」にすがる(それを「大義」にする)ネトウヨたち――たしかに「恥の文化」だね~)。

 「展示」というのはそれをさらけ出す。エクスポーズ(露呈)と言う。たしかに「美しい国」の「恥を晒す」ことだ。現代アートと言われるものは別に審美的な表現というのではない。このように「エクスポーズ」する営みなのだ。だから少女像という展示されるオブジェは、その「エクスポーズ」の力によって「政治・心情的」反応を引き起こす。これは現代アートの基本的意義(菅香子『共同体のかたち――イメージと人々の存在をめぐって』講談社メチエ、2017)。そのアートを社会が受け入れるかどうか、が問われている。

 日本ではそんな近代世界が導いたそんなアートのあり方を排除し、むしろエクスポーズを隠蔽して少女のスカートの下のエクスポーズで自衛官を募集するようなアニメが政府筋の(政治的な)売り物になっている。

「書かれたもの」の位置――歴史家・加藤陽子さんの知的振舞いについて2021/07/15

 菅首相によって学術会議会員に任命拒否された加藤陽子さんが、拒否理由や経緯の分かる文書開示を求めてきたが、その「不開示決定」が示されたのを機会に朝日新聞のインタヴューに応じた。

 加藤さんは「学術機関の自立(自由)に権力が介入する」というこの「事件」の渦中に不意に置かれたが、あくまで歴史家として――「言論の自由」を主張するモノ言う知識人(かつ女性)etc.としてではなく――身を処してきた。普段は文書を検証する側だが、この事件の日からは出来事を正確に記録すべく日記をつけ始めたという。

 ここで肝心なところは、国家統治(政治・ポリティクス)の正統性の基盤は「書かれてある」に存するということだ(司馬遷の『史記』から、近代官僚制国家まで)。その書き物が統治行為のファウンデーション(定礎)かつリフェランス(準拠)となる。

 民主制には存在論的根拠づけもできるが、それが制度化されたとき、その制度性を支えるのは「書かれたもの」である。

 近年の日本の政府・政権のもっとも危険なところは(どんなイデオロギーであるよりも)、国家統治(政治)の正統性の基盤をなし崩しにして、恣意的な権力行使で統治を溶解させてきたことだと言うべきだろう。その堰を切ったのが2015年の「解釈改憲」であり、その後は「安保法制」以降「法を変えずに実行する」(加藤)ことを常態化させてきた――公文書隠蔽・改竄、手続きなき解釈変更、その挙句が森友加計事件の省庁職員抗議の自殺)。それが「歴史修正」の「強い国」イデオロギーと、嫌韓嫌中ヘイト機運で味付けされている。「何のために」の名目はつねにごまかされ、その代わりの国家目標として掲げられたのが「平和の祭典オリンピック」だ(目的はすべてウソ、責任所在も曖昧化したまま、やることだけが自己目的化されている)。

 加藤さんは歴史家だ。歴史家は「書かれたもの」を精査することで「事実」を掘り起こし描き出す。あたかも、まだ石化しきらない化石を洗い出すように。そのようにして洗い出された「事実」はあらゆる「知」(思考)の基盤になる。

 その「書かれたもの」を抹消・廃棄することを権力の作用とする政治のあり方は加藤さんの仕事と根底から対立する。加藤さん(たち)の問いかけに政府は「無解答」で答えた。「書かれたもの」があるかないかさえ答えなかったのだ。「学問の自由」(軍事研究も含む)を掲げる学術会議は妥協の道を選んだ。政府には逆らえないとする一方で、任命拒否された会員に代替役職を提供したが、加藤さんは「『実』をとるより『名』を取りたいと思った」とその提供を受けなかった。「名」とは言いかえれば「書かれてある」ものだ。「実」は「解釈」で変更される。その「実」を宿すのは、規範の形そのものである「名」の方なのである。その「名」を捨てると「実」は居場所をなくす。

 このことは、いまコロナ禍で大手を振るって進められている社会のデジタル化と無縁ではない。ITデジタル化は歴史修正とフェイクの時代に技術的基盤を提供する。だからネトウヨ大臣による「デジタル庁」推進だ。もちろんデータ処理にパソコンは使えるが、歴史家が行うのは「データ処理」ではなく「解読」、翻訳ソフトがすっ飛ばす「意味」の扱いの方なのだ。デジタル・バーチャル化はその「意味」を回避し、思考を「計算能力」で抹消しようとしている。

 そのうち歴史学会も学術会議も、政府に認めてもらうために「世界一のスパコン」富岳――飛沫感染シミュレーションのエキスパート――のデータ提供機関になり果てるかもしれない。

 「書かれたもの」とは何か?書かれたもの(言葉)がアナログで、それはデジタル化によって超ミクロのシュレッダーにかけて演算可能なものにすればよいのか。そうでないとすれば、デジタル化とは何なのか、歴史家・加藤陽子さんの貫く姿勢は、そんな問いにも結びついている。

「自動化」だからこそ手動ブレーキを!――AIデジタル化でも、ブレーキのない国はまずい2021/05/05

 大阪、東京は「危機的」状態のようだ。とくに大阪は、病院に入れないままの重症者から死者が続出(全国の半数以上)。医療関係者は資材も補給もなしに「戦場」に置かれている。ただ、ものを言う機会を与えられると、必死で「皆さんの自制」を呼びかけるだけだ。だが、聖火リレーは密かに続き(この頃報道しない)、五輪委はもう本番まで二カ月を切ったと、期間中の医師や看護師(ボランティア)の確保・派遣を医師会・看護師協会に要請している。イギリス株、インド株のこれからの脅威が語られているのに(インドの惨状は報道)、オリンピックは止めることさえ検討される気配もない(ともかくやることが前提で、NHKは毎日五輪前提のスポーツ報道連発)。

 その陰で、ふいに改憲論議が活発化、憲法記念日も憲法「否定」の集会をやり、この連休明けには手続法採決とか。Covid-19の感染は一年以上経っても収まるどころか、まともな医師たちが予見していたように波が来るたびにしだいに大きくなって、今が最大の感染期で出口も見えない。ワクチンは欧米頼み(ロシア・中国は排除)、配布接種の態勢もできず(自衛隊出動だけは演出)、「始めた」の宣伝のみ。政府がいつまでもPCR検査態勢を整えず(保健所軸のクラスター対策はすでに破綻しているし、一年間病院態勢も整えず、 マスクを配布とか、gotoばかりやりたがる――中抜き利権のため、あるいはマスク配って憲法改正!)、政府専門家はその縛りから出られず、政治家はCovid-19を甘く見ていた(ただのカゼ)ことのツケで、一年以上の感染アラート、もはや緊急事態宣言と言っても人の動きは止まらず(止めていられない)、打つ手がない。それでも、トランプからバイデンのアメリカ対中敵視締付けの風潮に乗って、国内に反コロナ反中空気は浸透、それを利して改憲(準備)だけはやろうとする。

 オリンピックについても、パンデミック対策を見ても、「インパール作戦」と言われるように、すでに政治状況(ウヨ利権自民)は無責任なブレーキなし運転になっている。それを運転手にやらせないために戦後憲法ができたのだが、「国」という自動車からその歯止めを決定的に外そうとする動きだけが、この無分別状況を逆に利用して表に出るという不思議!所詮日本はこうなのか、という慨嘆?!

 「上級国民暴走事故」の裁判が行われている。この事件・裁判は今の日本の状況を象徴している。死亡事故を起こした当人(元通産官僚飯塚某)は、高齢運転の上の錯誤も過失も認めず、自分が人を死なせたことにも目を背け、車の出来が悪かったと言う。自民政権(とその補完勢力)も同じで、お上のやることに文句は言わせない。「時代に合わせる」ために、デジタルIT化でもっとスピード(効率)を高めて社会を回すと「政策」を打ち上げる。だがじつは、やれば情報漏洩、日本ではできないから(ワクチンと同じ)、年金処理も中国企業にアウトソーシング、金融ソフトも、追跡ソフトも役立たずしかできない。そんな「事故」には目を背け、ブレーキなんかがあるから悪い。AI自動運転で社会全体はスマート化する。そしたらブレーキもいらないと、為政者の責任を追及するいちばん目障りなブレーキ(戦争否定憲法)を、「古い障害」だと言って、ともかく取り払って「自動運転化」しようとする。そうしておけば、インパール作戦も自動的、文句言われる筋合いはない。

 たしかに辻褄は合っている。しかし、「乗客=国民」無視の辻褄だ。国民が、いやだ自分で歩いていく(自主独立)、というのは認めない。国民は「乗り合いバス」に乗れと強要、ブレーキのない「自動運転車」に乗せられる。「一億玉砕」事故が待つ?自分も運転手(自動運転だろう?)と思う連中と、一人で歩きたいのを目ざわりだと思う連中はこれに賛同! 「壊憲」で「美しい国」、上級国民には責任ないよね、という社会。

 もっと楽しいたとを書きたいが…。しばらくは無理か。ほんとに「しばらく」?

カズオ・イシグロの新作『クララとお日さま』2021/04/28

子供のパートナー用として販売されるAIフレンドの話。どうやらこの作品世界(近未来?あるいはオルタナ世界?)では、「優秀」でありたい(親がそうしたい)子供は「向上措置」(遺伝子操作)を受けるらしい。それがうまくいかないと病弱(不具合)になる。そんなジョジーという女の子のサボートのために(あるいは欠損を埋めるために)買い与えられるのがクララだ。今ふうに太陽光を糧として「生きて」いる(『私を離さないで』のクローンとは違う)。

クララがどういうふうに「新型製品」として作られたのかは分からない。ディープラーニングで環境世界・人びとへの対応にみずから適合化する段階までは作られているようだ。クララはその理解適性が高いようだ。その能力によって、ジョジー、その母親、友人リュックとその母親、ジョジーの父親等々の関係のなかで、ジョジーを守りその生を豊かにする(?)役目を練り上げながら(たぶんそこにはアルゴリズムはない)、ジョジーのいる世界の媒介的役割を深めてゆく。けれども太陽光(エネルギーではなく光だ)で「生きて」(「機能している」とは言うまい)いるためか、陽光を燃料以上の、存在の恵の源とみなしていて、それが太陽信仰にまでなるようで、ジョジーを「救う」ためにその功徳(効能ではなく)を発揮させる。この点で、このAIロボットはカルト的なのだ。そしてジョジーを決定的に救う(「向上措置」の失敗を癒す)と、ジョジーはクララのサポートなしで自分の生を生きてゆくようになる。「ミッション・コンプリート」(『私を…』では明示されていた)。クララのミッションとは、自分を必要とした女の子が、自分なしに生きてゆけるまで支えることだったかのように。あるいは周囲にとっては、「代わり」としての自分が無用になるまでに人びとの関係の綻びを埋め合わせする。いわばAF(人工友だち?)としての自己の無化、あるいはサクリファイス。そして最後は、自分が使命を果たしたことに充足しながら、廃品置場で、クララがこの世に出る媒介を果たした「店長」の訪問を受けて、もはや「物語」は尽きる。

 作家にとっての冒険は、この機械的製造物に「生きた」主観をもたせることだったはずだ。冒頭から語りはAFクララだ。それは「物語」が成立するほどには十分にできているし、そこから見える世界も、感覚の学びのプロセスもそれらしく描き出されている。いささかアニメーション風ではあるが。「不思議」は、自分の生成過程を知らない(それにはまったく意識が向かない)クララが、初めから店のショーウインドーに立ち、外界にしか志向をもたない意識を展開してゆくことだ。その意識は「自己」に回帰することがない。つまり「反省(リフレクション)」がない。しかし周囲を観察し、標定し、推理し、それがクララの「意識」を作ってゆく。つまり「自己」のない意識、けっしてエゴイズムにならない、その能力が高いのだ。

 200年前のメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』や、100年前のカレル・チャペックの『ロボット』は、「自己」を持ってしまい、そのために前者は悲劇的な破綻の物語となり、後者は叛乱と破滅を引き起こす。だが、現代のAFクララには自己がない。あるとしたらそれは、自己という形をとらない存在への「信」、太陽光への祈願だけだ。それがクララを「人間らしく」している。

いずれにしても、これが文学的想像力によるものである以上、現実の技術的可能性云々について論じる必要はないわけだが、その作品世界の設定には、作者の科学技術的可能性に関する認識や、それに対する想像が取り込まれているはずだ。そのうえで、願望や実現されている事態を、人がどう生きるかということを軸に物語が繰り広げられる。『フランケンシュタイン』は、製造された「怪物」が、言葉を獲得し感情をもち思考し、そのように「成長」しても人間世界では「異物」としてしか存在しえないことの悲劇を語り出していた。創造への介入は愛すべき「こども」ではなく悲劇の「怪物」を生んでしまったというのだ。『ロボット』の方は、人間の目的志向によって作られた「労働機械」が、その意図を超えた存在になって(自ら意志をもつことでそうならざるを得ず)、「人間的(支配)世界」そのものに働きかける(破壊と叛乱)情況を、非人間化のイデオロギーの逆説とともに語り出した(チャペックは演劇化してみせた)。

 だが『クララとお日さま』はAI化・遺伝子改良世界の眺望から、ひとつのヴァーチャル・ファミリー・ファンタジーを生み出したという風情だ。AI化世界はたんなる風景または素材で、そのこと自体は物語の外におかれている(それは『私を離さないで』も同じ)。最後まで読んで、しばらくして思い至ったのは、これも「執事小説」(『日の名残り』)だ、ということだ。自己犠牲と自己充足とが区別されない、ミッション・コンプリート。もっとも「内密」な物語だが、ここには「自己」がなく、物語は逆にクララの関わったジェジーたちの世界を締め出している。だから最後に、クララは用済みになった自分を何事でもないように見出す(再利用の可能性もないようだ、中古品は売れないのか)。ただ、夕陽を前にして執事が浸った無上の愉悦はない。それでも、クララに何の陰りもない充足があることはたしかだ。それはクララの「内面」世界が、主人たちの世界を吸収すべき素材としてしか扱っていなかったから。

イシグロはこうして「同じ」小説を書き続けている。クローンはいいだろう。クローンは基本的に人間と同じで、人間として生育し、成長し、言葉を身につけて私になり、他者たちの間で社会化してゆく。だからペールシャムの学校は「培養・育成」学校として子どもたちの充実した世界になる(として語り出せる)。けれども人工フレンド(AF)だとどうだろう。その「私」(発話主体)はどう始まり(起動し)どう成長してきたのだろう。小説はクララが製品として店頭にならぶところから始まる。クララは周囲を認知し、世界の事物をよりよく理解しようと観察し受容するが、そのことをどのように「意識」しているのだろう。イシグロはその過程と構造は作品外に置いて、まずクララが店に置かれたところから始める。だからそれ以前は、そしてクララの生成は問われない(それが「自己」がないということだ)。そのことがこの小説を冒頭からファンタジーにしている。その根や根拠を作品の「外」に、背後に「ない」ものとしているかぎりで、クララに「理性=根拠」はない。クララの「お日さま信仰」はそのためでもある。自分にエネルギー(生)を恵み与える陽光は、クララの意識にとっては対象意識や認知能力・理解力の外にある「恵み」の源として、「信」の対象でしかありえないのだ。だから「理知」的なはずのクララは、同時にカルト的でもある。ただし絶対孤独・自己充足の。

 邦訳の解説者は触れていないが、ジェジーの病気とは「向上措置」(遺伝子操作)による支障だろう。それはすべての生命の源である太陽光の「特別な計らい」によって治癒(克服)される。これは福岡ハカセ的な生命観だと言っていいだろう(生命とは諸組織の機能の複合ではなく、全体であることに宿る)。

 ミッションを果たしたクララが最後に自分を見出すのは、不要品置場(捨て場)である。そこではAFはもう自分で動けないよう処置されて横たえられているらしく、「店長」は低いブリキのような箱をもってきて座り、覗き込むようにしてクララに語りかける。自分の製造過程を意識の外にしているクララは、この身の上にも何の不満も不当も感じてはおらず(人工知能的に「理解」しているのだろう)、青い空を背景に、振り向くことなく立ち去る「店長」を見送る。それで途切れる語りに、というより残される沈黙の余白に戸惑って淡い悲しみを感じるのは、ただ読者だけだということだろうか。

 提示されたファンタジーの世界というより、イシグロの物語の紡ぎ方が逆光のなかに浮かび上がる、そんな作品だった。

[追記] クララが、視覚(超精密センサー感受)の惑乱を超えて未知の原野を横切り、「マクベインさんの小屋」で溢れるお日さまの光に包まれるところでは、『風の谷のナウシカ』がオームの無限の触手のなかで蘇生する場面を想起せずにはいられないが(あるいは、神秘主義的な「受胎告知」、またはバタイユの「…天啓の照射に照り輝く…」を)、クララはAI的被製造物、ナウシカははじめから「いのち(生き物)」として想定されている。「マクベインさんの小屋」は、クララにとっては「受肉」の場所であるかのようだ。そして陽光が、テクノロジーの埋め込まれた世界(映画『ガタカ』のように、「処置」を受けているかどうかで人が選別されるされる世界)で、その埋め込みの失敗によって衰弱したジェジーを復活させる。そしてジェジーは締め出されようとしていたその世界に復帰してクララのもとを去る。しかし、クララにとってはそれが「ミッション・コンプリート」だ。逆説的な「達成感」が居場所のなくなるクララを満たしている。もはやクララはクララと呼ばれる必要もない。固有名詞はいらない、ただ一個のB2型AFだ。しかし、名を失ったクララは、二つの透過するパラレル世界(製造する側と享受する側)をいわば「非-知」によって繋ぎまとめるこの作品によって、神話的な名を受けることになるだろう。「クララとお日さま」そのタイトルから響いてくるのは、あらゆる負荷を洗われたあの名前「アマテラス」ではないだろうか。

*『私を離さないで』にはたいへん衝撃を受けると同時に舌を巻いて、「思い出をもつことの無惨」という批評を書いた(『理性の探究』岩波書店、2009年)。それほど本格的にではないが、挑戦するイシグロに敬意を表して今回もその作品について考えてみた。