観光業と感染――コロナ禍の出られない出口2020/07/14

 観光業とは、もう生産するものがなくなった(競争に勝てない)社会で、人の稼いだ(あるいは貯め込んだ)金をもう一度市場に吐き出させ、消費が拡大したことにする、そして経済規模が増えたことにするヴァーチャル産業である。何がヴァーチャルかといえば、何も生産していない、ただ消費だけを生む「産業」だからだ。(*これについては5月29日付けの「観光業と感染」を参照されたい。)

 フォードシステムの昔なら、労働の余分な報酬として(労働力再生産のだめの)与えられた「観光・慰安と歓楽」を、自己責任で享受すべき「私的エンタメ」として「国土再開発」とともに組織した。そして生産業のない「地元」を接客(サービス)業で組織し、観光客という消費者を呼び込む。この消費者たちは自分で足を運ぶから輸送業も拡大発展することになる。あとはそこがどんなに魅力的なところか、あることないことでっち上げてPRで売り込む。

 もちろんこれは日本だけの話ではない。いまではアフリカやアジアの田舎から、パリやロンドンまで、世界中どこでも観光業に頼っている。日本なら国鉄私営化のあとの「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンから始まって、街も山も川も寺も何から何まで「観光資源」になってしまった。

 生産プロセスを経て稼ぎ、その報酬として得られるはずだった「享楽」が(それが産業資本主義を動かしてきた)、今度は商品化されて消費の対象となり、現地享受を求めて客がみずから足を運んでくる。移動手段も消費して。

 ものを作る産業は頭打ちだ。産業公害は起こるし労働搾取も咎められる。そちらはIT情報技術で極力グローバル・ヴァーチャル化で見えなくする。いくらか社会が底上げされたら、そこで再配分された所得を、こんどは「享楽」で釣って自主的に市場に放出させる。それで大規模な航空産業も(ガソリン大量消費も咎められずに)大発展。グローバル化の恩恵だね、というわけだ。

 そこに出現した新手のコロナウイルスは、だからまずここを直撃した。というより、何でも観光業化が、じつは経済システムのビョーキだったのだ。コロナウイルスはそのことを炙り出し、可視化した。だから観光業からまず感染、そしてとりわけ航空業界の大危機で、文字どおりECUMO治療(日本では国家政策に深く組み込まれているから目立たないが、ルフトハンザ、エア・フランスはたいへんだ)。

 コロナ禍は人びとの接触を牽制する。しかし医師たちが推奨するソーシャル・ディスタンスもほどほどにしておかないと経済がもたない。だからもう回してゆくと政府は言う。その目玉が「Go To キャンペーン」だ。クーポン撒いて国民を「観光」に誘う。それが落ち込んだ経済を回復させる決めの一手だというのだが、どうみてもドツボにはまっている。

 「スペイン風邪」が世界戦争に乗ってパンデミックになったように、新手のコロナ禍はグローバル観光産業に乗ってパンデミックになったのだ(オリンピックが移動博覧会のような観光産業であることは言うまでもない)。ウイルスに「戦争」の論理は通用せず(山本太郎・福岡伸一等の言うように)、だから生態学的関係をコントロールするしかないとして、この観光消費依存の経済システムを変え、そこから脱却しないことには「出口」はないだろう。

 ここまで「地方」が観光頼みになったのは、経済のグローバル化で各国の地域経済がまったく空洞化してしまったからである。その空洞化のとりあえずの埋め合わせで観光業で人を呼び消費を呼び込む(金を落とさせる)ことになっている。しかしそれはすでに過当競争の段階に入っているし、飽きられたら終り(バブル時代の廃墟を見よ)、地方衰退・東京一極化の圧力は変わらない。観光業はあってもいいが、それは付加的なもので(付加価値と言うように)、地域が相対的に自立できるような(自己完結はありえない)、そこで人びとが生活してゆけるような経済社会構造に組み替えてゆくしかない。地域経済の組立てから国の経済が支えられるような仕組みに向けてだ。

 すでにそのような方向の試みはあちこちで始まっている。東日本大震災の後にもそのことは課題になっていた。だが、何かあるといつも「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)が働き始める。グローバル経済への統合を前提にしたいわゆる「経済成長」に向けての圧力が働くからだ(日本政府はこの30年間、アメリカの圧力もあってこの路線しかとっていない)。しかし、コロナ禍が示しているのは、各国だけでなく世界経済の規模縮小は避けられないということだ。「新しい生活様式」(これ自体噴飯ものだが)でも「加速」してゆくのは(ドゥルーズ的リバータリアンの「加速主義」?)、ITヴァーチャル化セクターだけである。このセクターが何にでも「解決」を提供しているが、その「解決」は「人間」とその環境である狭い「地球」からの「脱出」の希望のなかに、集めた巨万の富をつぎ込むという妄想に漂っているだけである。

 何でも「経済」が、あるいは「市場」が決定するというドグマがまかり通る現代の世界で、彼ら「解決主義者」たちの影響力はじつは絶大である。テクノ・サイエンス・エコノミーの三位一体が、パフォーマティヴに妄想を現実化しており、政治家や官僚たちはその圧倒的「真実=現実」供給のもとで、私的利害(権力妄想と実利)を確保しようとしているだけだからだ。まず観光業復興で消費拡大という「Go To キャンペーン」も、そんな状況下で(経産官僚上がりから)「この道しかない」かのごとくに打ち出される。

 しかし、いまほんとうに必要なのは(日本であれどこであれポリス共同体にとって)、一時的には再配分による救済・調整であり、長期的には地域経済からの生活圏の組み直しである。コロナ禍が露わにしたのは、観光産業の脆弱さであり、それを牽引力とするような持続できない世界の経済一元化なのである。それを直視することなしには「出口」はもうひとつの隘路(というより壊れた水路の致命的な誤用)にしかならないだろう。

ポスト・コロナの都知事選、私悪を公的名(価値)にする転換機2020/06/21

6月18日告示、7月5日投票の東京都知事選。22人が立候補したという今回、各所に立てられる候補者看板に「みごと」な図柄が現れた。一画に桜井誠(旧在特会)/宇都宮健児/幸福実現党(個人であることに意味はない)がならび、その下に立花孝志を真ん中に「ホリエモン新党」推薦3候補が並んでいる。上下の並びはグウゼンかもしれないが、みごとにはまっている。

「NHKから国民を守る党」の立花は、今度は都知事選を完全な「政治崩壊」の機会にした。これまでもずっとやってきたが、今回が「華」だ。
選挙はもはや代表を選ぶ機会ではない。公費で名を売り存在を押しつける公共的な機会。その「名」が、出ることだけで「人気」となり、人を引き寄せ、資金を呼ぶ。「人気」はスキャンダルでもいい。メディアで「名」を売る(メディアが買う)ことが目的(立花という名も、NHKなどで名が通っていた立花隆のパクリだろう、売る前に売れてる名の商品価値を利用)。

公職選挙はAKBのセンキョではない。人気(ポピュラリティ)には私的な社会的影響力(それ自体パラドクサルだが)というフェイクな力がついてくる。

この看板の中で本気の都知事候補、つまり政策を掲げて公職に就こうとする候補は宇都宮けんじだけだ。だがそれは選管が用意する掲示板(ネットではなくリアルな)の上で、フェイクな候補にみごとに埋もれている。これはもはや選挙広報ではない。政治的選択機会が、私欲売名機会利用によって呑み込まれている。

選挙法にはポスターの中身に規定がないという。当然と見なされることには規定がない。しかし規定がないから何をしても「自由」と解釈される。それであらゆる制度の中身は入れ替えられる。「非常識」が「常識」の代わりに通用するのだ。立花はそれを戦略手法としてきた。だから法が規定していない部分(当たり前だから)が「無法」に置き換えられる。それによって、政治も法秩序も中身が溶けてなくなる。

桜井誠は在日ヘイトを信条とするかぎりで、旧来の政治に頼っており、立花のメチャクチャさにはあと一歩だが仲間だとはいえる。幸福実現党はフェイク・カルト、その点同じなかま。それでまともな政治の包囲網。
では、他の「有力候補」との関係は?小池は国政権力と通じ、そこを手練手管で渡ってきた。こんなあからさまなことはしなくても実質的に政治を空洞化して権力が転がり込むのを待つだけだ。山本太郎は、こういうメディア状況の中から出てきたから、それを既成政治の打開に逆用しようとしているが、今度は本気で都知事になるために立候補したようには見えない。というわけで、ターゲットは宇都宮になる。だがわざわざターゲットにする必要もない。包囲して呑み込んでしまえばいいのだ。選挙は売名、売名は社会的力、正義も公正もない、私欲・私怨すなわち公的威力、その転換マシンが公職選挙だ、と。

それを推進したのがいわゆる「新自由主義」であり(「公」から「私」へ)、その実質を担ったのがPR業界(「実」より「虚」、数値化によるマネージメント、政治のフェイク化)、名のない多数の欲望をそこに向かわせるのがいわゆる「暗黒啓蒙」(新反動主義)の系列である(日本には神の国系のまがい品しかないが)。

これをメディアが「フラット」に伝えるから、メディアがそのままインフラになる。この傾向にどう歯止めをかけるかがたいへんむずかしい課題。

こういうことが、日本でもっとも大きな首長選である東京都知事選挙で露わになった。「ポスト・コロナ」の政治の変質だ。
このことが民主主義にとってもつ意味云々の議論については政治学者たちに論じてもらおう。

★デジタル化の津波に制動を…2020/05/30

宇佐美圭司の連作『制動・大洪水』(部分)
《デジタル化の津波に制動を…》

コロナ感染拡大の危機感は、一時的とはいえ社会的コンタクトの遮断を必要とさせた。その結果、社会生活は停滞し、経済の流れが滞る。行政府はこの措置の致命性を回避しつつ、感染経路の封じ込めを課すしかなかった。

このとき政治の質は、その行政能力で測られる。パンデミックへの対応は、政治体制の違いによるのではなく、行政の処理能力や、さもなくば政府への民の信頼に依存する。経済社会はじつは人々の生存を前提としており、行政がこの危機にどう対処しうるかの能力だ。

この半世紀にわたる資本主義の新展開で、国家は公共社会部門の民営化を進め、権力は私権の保護と領土経営をもっぱらとするようになってきた。これが「自由」の拡張とされ、これまで権力に課されていた制約・負担は軽減された。ある意味では、権力そのものが民営化=私事化されているのである(これは日本では倒錯的な形で見られる)。そのコインの裏側のように、「社会」の解体によって「解放」された個人が、みずからの存在の脆弱さを恐れて「強い」国家を求めるという現象がある。

国際レベルでは、グローバルな経済秩序を維持する「テロとの戦争」が、新たな世界的レジームとなっている。「見えない敵」の侵入に予防的に対処する「例外状態」である。この「例外」がいまや「安全保障」の名の下に「通例」になっている。このような状況下で、重ねての「非常事態宣言」は、政治権力を倒錯させるだけである。まるでそれが感染症であるかのように、社会をあらかじめ「クラスター」化してゆく。

では、この危機を打開するにはどうすればいいのか?すでに「解決策」は提示されている。日本では、「親心」を隠さない「専門家たち」が「新しい生き方」を提案している。すでに「自粛」を内面化した社会に、さらに「社会的距離」を押し付けようとする。学校はオンラインで授業し、企業はテレワークを進める。この方策が一般化すれば、経済社会システムはもはや感染症で障害を受けることを少なくなるだろう。技術と経済はすでにこの方向に向かっている。無駄な政治論議は脇に置き、人間社会はデジタル・ヴァーチャル化を大きく進めている。

これが「解決」(この用語はエフゲニー・モロゾフから借りた)と見なされるかどうかが、実はこん回のパンデミックによって提起された最大の問題だろう。これは、経済的には進んでいる世界の二極化を、一層の形で推進することになる。コロナウイルス禍は世界を変えるのか?おそらく。ただそれは以前からの変化を少し加速させるだけだろう。これは良いことなのか悪いことなのか。悪いに決まっている。この変化はそんな価値判断の無効化につながるからだ。そういう判断は、もはや脆弱で間違いやすい生き物に任せるべきではないと。善悪を考えるのが人間である。だが、技術科学=経済は、そんな判断をすり抜け、「陳腐化した人間性」(G・アンダース)を後に置いてゆく「解決」へと向かっている。

明日の特徴が、できの悪い身体性の一層の放棄であるならば、世界はますます「便利」だが、味気なく生きにくい、惨めな、あるいは活力のないものになるだろう。「自粛」のメンタリティは、コロナ以上に社会に感染する。それは政治権力にその責任を免除させるが、その無力さ無能さは、禅の伝統における不作為の功徳とは遠くかけ離れている。

このいささか憂鬱な見通しに抗う方法はないのだろうか。存在論的に言うなら「存在しない」。しかし、見えない潜在的な力がつねにある。それが政治を刷新し、経済と科学技術の結託に対抗して生きている人間の次元を担いつつ、寄せては返す計量的理性の大津波に制動をかけることだろう。

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*フランスのナント高等研究院から「アフター・コロナ」の論集を緊急に作るというので、4000字の小論を書いた。あまり読みやすくないのは、論を凝縮し過ぎたこともあるが、フランス語の原文を翻訳ソフト(DeepL)にかけ、それをベースに日本語に直したからだ。まだまだ翻訳ソフトではきつい(翻訳ソフトは意味を読めないから)。とはいえ、人の文章のようでおもしろくなくもない。ただし、中身は日本語でも披露しておきたかったので、ここに掲載する。
*原題は"La possibilite d'un barrage contre le Tsunami numerique"、文字どおりには、「デジタル化の津波に立てる堤防の可能性」ということになる。M・ウエルベックの代表作『ある島の可能性』と、M・デュラス『太平洋の防波堤』を想起しつつつけた。
日本語なら、2012年に亡くなった宇佐美圭司の最期の連作『制動・大洪水』を念頭においている。

観光業と感染(インバウンドと消費資本主義)2020/05/29

 日本政府はコロナウイル禍で落ち込んだ経済の「V字回復」のためにいくつもの手を打っているが、なかでも目立つのは「自粛明け」の「観光促進」である。最初は近隣、次いで国内、やがては海外旅行も対象になるのだろうか。国民全体を対象に、何にでも充てられる支援金よりも、旅行にしか使えないクーポンを配るともいう話も出ている。あの二枚のアベノマスクのように。そればかりか、夏からは日本に来る外国からの観光客に旅費の半額を援助するというキャンペーンがすでに国外で始まっているという。旅行クーポンはコロナ疲れの国民慰労のためではないのだ。

 思い出されるのはオリンピックの経済効果として語られた「インパウンド」という用語であり、コロナ禍の前までこの耳慣れない用語が新手の打出の小槌のように振り回されていた。そして思い起こすのは、「自粛」保障の支援金を政府が出し渋るときあの目障り耳障りな老財務大臣が「消費に回らなければ意味がない」と言ったことである。

 「消費に回らなければ意味がない」、ここに近年の日本の経済財政運営の要所がそのまま言い表されている。この十年来の課題だった「デフレ脱却」も、金を市中に流して株価を吊り上げてきた「金融緩和」も、もともとは「消費喚起」で循環を作りだそうとしたものではないのか。本来なら所得再分配によって消費者に余裕を与えることで消費は喚起され、それが産業を牽引し経済を活性化することになると考えるところだが、詰まったこの回路に目をつぶって「消費喚起」だけで自己目的化している。それで経済を動かせると考えるのが、金融措置に頼るいわゆる自由市場経済の胴元たちなのだ。胴元、まさに賭場である。
 
 では、観光業とは何なのか、それを考えておきたい。あらゆる災害復興でもまず第一が「インバウンド」、観光往来誘致。だが、日常と地続きでは、思い起こすのは2012年のゴールデン・ウイーク初っ端に起こった「関越高速バス事故」だ。そしてさらに面倒な沖縄首里城再建…。ここでは、『越境広場』に寄稿した文章から、「観光と感染」と題して書いた部分を挙げておきたい。
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 今回のコロナウイルス禍は、無制約な人びとの往来を牽制することになった。それによってもっとも打撃を受けたのは観光業だ。観光業は基本的に人を移動させることで成り立っている。モノを作りだすこと(生産)に依存しない、消費だけで成り立つ「産業」あるいは「営業」のアレンジである。

 まず「観光地」を設定する。何らかの名所でも、自然の景観でもいい。そこに行きたい立ち合いたいという欲望をさまざまなPRで喚起する。それに「感染」して人びとが動き出す。受け入れ宿泊施設と、来訪者に来訪価値を与える娯楽遊興や記念品・土産物業が盛んになる。そして道路整備やツアー会社、やがて空路を使っての海外からの旅行パックが買いやすい「商品」を作り、そのすべてが観光業としてのセクターをなすことになる。

 そこに「生産なき消費」が生れる。金が落ちる。誰から? 訪問客から。彼らが観光業の「消費者」なのだが、この消費者たちは自分でこの場まで移動してきて、ここで「資源」を味わって滞在消費し、そして帰ってゆく。その全行程が接客事業化され、自然の「資源」やそれへのアプローチを可能にするあらゆる「サービス」が商品化され、大きく市場が拡大されて「消費」を生み出し、経済が成長したことになる。

 この経済は何も生み出していない。ただ、人の移動を作りだすことを「営業化」して「消費」を生み出している。そのとき「消費」される財とはどこから来るのか? 人びとが他の経済活動に従事して得た収入である。あぶく銭を稼いだり金利で生活する者たちは別として、もっと多くの人たちが働いて得たものをもう一度吐き出させる。市場がそれを再回収するのだ。

 こういう経済サイクルは、産業の製品が人びとの「必要」を満たして行き詰ったときから始まった。今度はむしろ「欲望」を喚起して「消費」を促すことで経済成長を可能にするというサイクルに入った頃からだ。その頃(一九七〇年代後半)、ユネスコが世界遺産の登録を組織化し始める。そしてその認定を基準に、その「資源価値」へのアプローチを「サービス」として組織化するグローバルな観光業が組織されるようになった。空路の開発が見えるネットワークだとすれば、デジタル情報化のネットワークがそれを重層化する。それは行き詰った資本主義の離陸の一手、「消費」そのものを動力とするヴァーチャル産業化の一手だったと言える。いわゆるビジネスの人の移動も、ツーリズムのためのインフラ整備発展(とくに世界の航空サービス網)の中に紛れる。
 
 パンデミックはどこから生じたか。ひとつには人間の経済活動がその生存域を広げ、生態系の境界を崩していることが、未知のウイルスとの接触機会を招いているという事情があるようだ。そして人間の生存域に入ったウイルスは、グローバル経済のインフラであると同時にその目立ったセクターでもある観光ルートが世界的拡散の回路となった。

 だから、最初にパンデミックの犠牲となったのは、観光業なのである。というのは、未知の疫病の感染拡大を防ぐには、まずこのルートを遮断するほかないからである。観光業はこの人の移動によってのみ成り立っている。だからそれを遮断されるとひとたまりもない。

 日本の場合はこの構造にオリンピックが重なっていた。オリンピックとは何か?これはスポーツ競技というメディア・イヴェントを「目玉」として呼び寄せて、一時的な(あわよくば記念碑を建てて多少は長続きする)しかしインパクトのある観光業(むしろ客寄せ興行)を組織することである。そのことを政府は「インバウンド」による経済牽引とか、オリンピックの経済効果とか言う。それが経済成長の頼みの綱だったため(そして政治家や財界にとっては利権を貪る好機だったため)、日本はパンデミックの危機に際して手を打つのをためらったということだ。

日本の緊急事態――私物化した統治と中間圧力2020/05/14

*沖縄で発行されている『越境広場』6号(準備中)に寄稿した。もともと首里城再建問題を扱うはずだったが、現在の「コロナ禍緊急事態」と切り離すことができず、少し当初の趣旨と違ったものになった。その中から、標題で一部先行公開させてもらう。
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 (承前)それはさておき、今度の場合、疫病としての新型コロナウイルス感染症それ自体はおそらく特別のものではない。ある意味では凡庸なウイルスかもしれない(その意味ではアガンベンは間違っているわけではない)。ただ、その凡庸さが、グローバルな人の交通・移動・接触の稠密さに乗って、まさに「例外的」な広がりを見せたのである。かつてのペストはどんなに流行しても地球上の限定された地域に留まっていた。文字どおり世界的に流行したのはスペイン風邪が初めてだっただろう。それは他でもない「世界戦争」の時期だったからだ。エイズも世界中に広がったが、それは性行為を介しての伝播であるため、回路は限定されていた。だが、今度のウイルスはそれとは較べ物にならないごく普通の接触で感染する。そのためグローバルな人の移動に従って「自由」に拡散するのだ。言いかえれば、現在の世界を組織化しているグローバル経済システムそのものが感染の経路なのである。それがこの疫病を「例外的」なものにしている。

 医療技術が進んでいるからといって、新型だから予防のためのワクチンはない。ということは、現代世界を回しているこの交流とコンタクトとを断たないことには感染を防ぐことはできないのだ。致死率がそれほどでもないなら、ちょっと性の悪い風邪や肺炎のように扱うこともできるだろう。しかしその相当数が重篤化し、その一定数が死に至るとなると、それぞれの国も社会も、「統治」の務めとして感染を防ぎ、罹患者を助ける対応をしなければならない。それは政治的介入になる。ただ、介入をしてもしなくても、いずれにしても現代の世界を動かしている経済社会活動は大きく阻害されるのだ。その場合、人びとの健康と命を守るか、経済活動の維持を優先するか、それは選択になる。そこで政府の決定と対応が意味をもつ。「緊急事態」だ。

 その際、いずれにしても、感染対策の先に目指されるのは社会・経済の「正常化」である。そして、人びとの生存はとりあえずそこに依拠し
ている。問題はどのような社会・経済の「正常化」かということになる。
 それはじつは国家統治の課題と言うより、むしろ社会形成・再生の課題である。すでに今「新しい生活様式」がこの国では政府と「医療専門家」によって提起されている。それはこの国特有の「自粛」を組みこんだ生活様式だが、それが「医療専門家」から呈示されている。その意味では、もはや政治と医療のとの境界はなくなっている。こうして、この国では、「社会」なるものが経済原理によって侵蝕され、統治がマネージメントにとって代わるというグローバル経済システムに、無責任専門家集団を巻き込んで私権化した政府の無能の統治が、民の「自粛」をまきこんで呑み込まれてゆくことになる。
 
 統治機構が官僚や専門家集団の「自発的隷従」によって「私権の蟻塚」と化し、そのため権力が無能化しても、その権力は「アプリオリに無罪」(ワーツラフ・ハベル)なものとして振舞う。どんな不条理なことをしても、二枚の布マスクを全員に配布と言ってそれさえまともに実現できないのに、「自粛警察」とかが出てくるところが「日本スゴイ!」と言われるゆえんだが、このような現象を説明するにはまともな政治理論では歯が立たない。と思っていたが、どういうわけかアガンベンの指摘とは奇妙に符合する。

 「自粛要請」が出される。するとその要請を補強しようとする力が湧いてくる。権力は民衆(市民?)の「自発性」を要求するが、その「自発性」を強制しようとする力が「中間権力」として登場する。そしてその力が「要請」を実効化する。「要請」は民衆(市民)に聞き届けられることがなくても、この「中間権力」をいつも励起する。「中間」はそれに応じて出現し、公的な「要請」の力を代行する。するとプロンプターを読んだだけの空虚な言葉の「要請」は、中間権力に強要された「自発性」を引き出したことになり、外部から見たら、やっぱり「カミカゼ自粛社会」、日本は都市封鎖もやらずにコロナを克服したということになる。無能な統治が最良の結果を生み出す、不思議なニッポン、無為無能の力、禅文化だ…、ということになるのかどうか。

 日本で「緊急事態」をめぐる論議がどうもちぐはぐになるのは(元来この論議は西洋法国家論を場としたものだ)、こういうことに関係があるだろう。緊急事態の発令が、「例外状態」を布告する(宣言そのものがノーマルを中断して主権者・制約なき権力を露出させる)というより、すでに法を骨抜きにした権力が、これも何の合法性もない(法秩序の内にない)「中間権力」を呼び起こす作用をする。それが日本の「緊急事態」である。

新自由主義とパンデミック2020/05/08

『しんぶん赤旗』5月8日付けで掲載された解説を多少補足して再掲します。
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 新型コロナウイルス感染症が拡大する中であらわれてきた日本社会の歪み(ひずみ)や政治問題について東京外国語大学の西谷修名誉教授に聞きました。
 
◆パンデミックはなぜパニックを――新自由主義経済
    
 今回の新型コロナウイス感染拡大(パンデミック)は、世界的にパニックを引き起こしています。なぜかというと、古くて新しいこの「疫病禍」が、グローバル経済の踝や関節、リンパ節をマヒさせたからです。Covid-19と新規な名前がつけられていますが、現代世界でも疫病は疫病、それにすでに予想もされていたのに結局パニックです(だから暇人は千年前と同じく、ネットで「デカメロン」に興じる)。これは新自由主義を原理とする経済社会の破綻と言わねばなりません。
 
 病気になってときに死にさらされるのは一人ひとりの生きた人間です。それはふつうのこと。ただ、これがパニックになったのは、感染拡大を抑えるためには現代社会の動脈血流を止めないといけないから。とりわけ経済活動を地場でつないでいる人と人との接触を遮断しないといけない。それは経済に大打撃、だから大慌てです。
 ところが日本政府のやるのは、まずは景気対策(はじめはオリンピックの心配と、その株価維持のための日銀出動、その他のテコ入れ)。しかし、これを機会にテレワーク導入で成長部門も…と期待。けれども、疫病とそれへの対策で、でいちばん打撃を受けるのは、数値化された経済システムの中に労働力として組み込まれた、生活する人たちです。

 感染拡大を防ぐ処置として社会の血流を止める必要があるならば、それでもしばし人びとが生きていける対策もしなければなりません。この時に行政というものの役割が改めて浮かびあがります。誰もが経済活動に組み込まれている。その活動を止めた時に、組み込まれている人たちが生活できなくなるようでは「社会」(人と人との集合)というものが成り立ちません。だから人びとをこの「災厄」から救いあげるのが行政の役割です。
 
 しかし、日本の政府は経済システムを維持することしか頭にないようです。まずは株価が落ちないように金融市場にお金をつぎ込む。緊急経済対策も大部分が企業向けです。この社会が生きた人間によって支えられているということが考えに入っていません。
 
 医療体制で問題が浮き彫りになっています。政府はこの間、「地域医療構想」に沿った医療体制の効率化を推し進めてきました。約440の公立・公的病院の再編統合や13万床の病床削減をしようとしています。これがまさに新自由主義による効率化・最適化の路線です。
 
 その結果、病院体制はどうなっているかというと、集中治療室(ICU)は不足し、資材も、医師、看護師の数も足りません。だから今医療現場はたいへんです。常に利潤を最大化する経営的発想で改組されたシステムは、ムダは省けと言われていて、緊急時にはまったく余裕がありません。公的セクターも経営原理という政策がここにきて危機的状況を招いているのです。
 (日本の政府とその下にある専門医団体が、初めからPCR検査を極力絞る方針をとってきたのも、基本にそのような条件があるからでしょう。後は医療行政権益と行政一般の体質があるようです。)
 
◆法人と雇用――システムと生きた人間
    
 日本社会はこれまで、無駄を省いた効率的な社会を目指してきました。そういう名目で壊されてきたのが「雇用」です。
 近代以降の産業社会では雇用が社会の入り口になっています。ここで排除されると人は社会的な存在意義さえ認められません。
 
 日本の場合、かつては歴史的な役割を果たしてきた「雇用の安定性」がありました。グローバル経済の時代になって、その安定性は企業にとっては大変な負担になりました。そこで、企業の負担を減らすための政策として、法人税軽減とともに進められたのが「雇用の自由化」です。その結果、非正規労働が増え(いまではそれが「正規」だと言われるようになり)、経営者は自由に解雇して人件費を削れるようになりました。人にではなく、法人(企業)がとても「活躍しやすい」仕組みです。
 
 法人は「ジュリディカル・パーソン」といって法的には人格として扱われますが、じつはまったく非人格的で、息もしないし、腹も減らないし、血も涙も情もありません。あるのは利益計算だけです。しかし経済の「自由化」の下では、その架空の人格である法人を有利に機能させるために、生きている人間を絞りとり、切り捨てるようなことが行われてきました。これが新自由主義の「道」(この道しかない!)です。
 
 新自由主義は経済思想というよりも統治の道徳思想です。イギリスのサッチャー元首相が「社会などというものはない。あるのは個人(家族)と国家だけだ」と言ったのが典型的です。人びとが結びつき連帯を伴うはずの「社会」というものが、福祉に対する〝依存〟を生み出し、経済成長を停滞させているという認識で、富む者の自由と貧者の自己責任を説きました。こうした考えの下で、社会を個人に分断し、連携意識とか共同性に支えられている関係を「不当な保護」として解体し、社会を市場に溶解させました。
 
 イギリスから始まったその路線が今ではグローバル世界の原理になっています。こうした中で築かれた私的利潤と全体効率を第一とする新自由主義の問題がグローバルに表面化させたのが、今回の「パンデミック・パニック」です。
 
◆権力の緊急事態と社会の緊急事態
    
 もう一つ問題となるのは、緊急事態宣言に便乗して、自民党が憲法を改定し、「緊急事態条項」を創設する意向を示していることです。憲法の中に緊急事態条項を組み込むというのは、立憲体制の中で権力の「例外状況」(無制約化)を合法化するということです。これは、上記の「社会」の解体のなかで、それに対応する権力の私物化を合法化したいという政治権力の邪念の現れです。日本ではすでに権力は十分に私物化されているのですが。

 感染拡大に対して浮上する緊急事態はじつはそれとは性質が違います。人々の健康や命の危機に対して、平常時とは違う対応を緊急かつ効果的に行うためのものです。つまりそれは、権力の緊急事態ではなく、社会の緊急事態だということです。
 
 コロナ禍はよく戦争に例えられますが、むしろ災害と考えるべきです。戦争なら国民あるいは国が向き合わねばならない敵がいます。戦時が緊急事態だというのは、この敵とたたかうために国家が権力を集中させ国民を統制するためのものです。一方で災害にはたたかうべき敵はいません。災害時においてはむしろ、国家が国民をどのようにして守れるか、対策の中身が課題になります。国民と社会を保護し救うための緊急事態だということを政府が認識する必要があります。

令和ニッポン・コロナ禍絵巻2020/05/05

 「朕はたらふく食っている、汝臣民飢えて死ね」というのは、もちろん天皇が言ったわけではなく、敗戦で塗炭の苦しみを味わう民が、崇めてきた形式上の統治者に、オレ達の関係はこういうことじゃないか、と差し向けた怨嗟の表現だ。

 コロナ禍はいつの間にか、現代医学を擁する社会とウイルスとの闘いというより、たんなる災厄の様相を帯てきた。だから人びとは「戦時中」を、そして十年前の「大災害」を想起する。政府(官邸)は「専門家会議」(現場に出ない公家医者たち)を立てて、その諮問に基づき「緊急事態」を延長するという。

 首相が学芸会の主役のように読み上げるプロンプターに書かれているのは、「耐えがたきを耐え、忍び難きを忍び…、汝ら臣民の一層の自粛を要請する」というセリフのアニメ・ヴァージョンである。そして医療「専門家」は、「私たちは医療効率化を目ざした貧しいこの国の国難にきわめて適切に対処しているが、愚民(NHK字幕)の皆さんの協力が芳しくないために感染拡大、なおしばしの活動制限をお願いしなければならないが、皆さんがそれを前向きの気持ちで受け入れられるよう、"新しい生活様式"という処方を煎じて差し上げよう」とのたまう。

 これ新時代風の装いではあるが、じつは昔からの日本の祀りごとではないか。メディアすだれ社会の宮中政治。摂政ですだれの向こうに控えるのは竹中某、関心は「未来投資」にしかない。アベは兵隊も考えずに武器と基地造りに邁進する蛮族憎悪の征夷大将軍きどり。コロナなんて面倒な他人事、タイクツだなー、でも支持者に言われて憲法改正言ってみる。オリンピックもできそうにない。もういいから、あとは御典医集団とV字開腹(ママ)専門家に任せておこう。不満騒ぎは不思議に草の根から湧き出るボランティアの「自粛警察」が潰してくれる。

 グローバル化の21世紀にあんまりな既視感だ…。何しても失脚しないアンマリなとかいう元大臣が言ったそうだ、「自粛の力でコロナに打ち勝ち、ふたたび世界に"ニッポンすごい!"と言わせましょう」。自粛はカミカゼか? ほんとにそうなりそうでコワイ。


絵巻注釈)
 ついでに言っておくと、「自粛」とは政府の(官邸と御用学者)の無能の責任を民に丸投げするのを隠す表現。だってお前たちのせいだ、皆さんのご努力で…、と。自粛強要は言うこと聞かない民への罰、専門家がそう言っているから。でも、刑務所暮らしじゃないよ…、コロナと共生する「新しいライフスタイル」。早く大人しくして消えちまえ、って聞こえる。
 感染拡大を抑え込むことのできた国は、行政力のしっかりした国。あるいは行政の信頼されている国。日本はアベ政権のもと、行政体制がすっかり腐敗・無能化してしまったため、ほんとうに社会(民)は「自衛」するしかない。すると政府は「自粛要請」の成果が出た、と自分の手柄にする。だが「民の自衛」は無能政権に対する引導渡しでもあるはずだ。
 国家の統治 vs. 社会の自衛 
 ⇒ 私的統治 vs. 民衆防衛(自治あるいは「公共」の確保)

『疫病論』――コロナの日々の『エプタメロン』2020/05/01

 FaceBookでしばらく前から「7日間ブックカバー・チャレンジ」とかが始まっていて、辛淑玉からのバトンで毎日ブックカバーを投稿することになった。ペストのときの「デカメロン」のようなものか、いや「エプタメロン」、コロナの日々の徒然に。本の説明はするなということだ。進んではやる気にならないが、スゴ姐に付き合う。しかしほんとにアトランダムなら選ぶ気にもならないので、自分ではモチベーションを作らないわけにはいかない。すると、ブックカバーとはいえアートなどには配慮せず、直球ストレートで「本」を扱う。しかし読書プロモーションとかではなく、本を読む物ではなく「食べ物」と位置付けて。つまり「糧」だ。せっかくだから一貫性をつけたい。
 そこでざっと、一連の本を思い浮かべた。以下リスト。

1) 初日は、岩波文庫のヒポクラテスを背後において、カール・ケレーニーの『アスクレピオス』。地中海世界における「医」の神話的発祥。それが西洋医学の忘れられた起源、医は「技(アート)」と「信」だということ。

2) 山形孝夫『治癒神イエスの誕生』だが、見せる本としては物足りないので、背後に『死者と生者のラスト・サパー』を置く。キリスト教によるラジカルな「信」と「治癒」との統合。「意味」と象徴の勝利。それがやがてヒポクラテスの近代的再生によって西洋医学のドグマ形成の踏み台になる。客観化、手段化、科学化…。そしてその背後で、生と死の「分有」が忘れられる。

3) 西洋とは違う伝統としての『中国医学の歴史』。後ろに『論語』と『三体』。病と医の三段階、しかし弁証法にあらず。摂理と養生と統治。

4) ロイ・ポーター『人体を戦場にして』、背景には同じポーターの『ケンブリッジ図解医学史』、そのカバーはレンブラントの解剖教室。西洋医学はなぜ「戦場」なのか、いかにして病原との「戦い」なのか、の理由を問う。医の科学技術化。

5) 多田富雄『免疫の意味論』、『生命の意味論』に重ねて。パスツール、クロード・ベルナール以降の近代生理学の「意味」の排除。機能のみ。医療は科学だけでなく人文学でもあることを示したのがこの人。だから適確に「意味」を論じる。

6) 福岡伸一『動的平衡』、物理学におけるアインシュタイン級の生命観。いかにして生命は個なのか。モナドには窓がなくても外の内にある。背後にデュピュイ『聖なるものの痕跡』、生命と知的・社会的組織=オルガニズム。西洋的個(モナド)観念と組織性(機能)との根本批判、そして「生命」の新たなドグマ。

7) 最後は、NHK東海村取材班『朽ちていった命、治療被曝83日間の記録』、テクノサイエンス時代の「死」。背景に『不死のワンダーランド』ドイツ語版。
 
 以上が、コロナの日々に徒然に頭の中で書いたわたしの「エプタメロン」(七日物語)、『疫病論』の基本文献。

付)5日目の口上:
・7日ゲーム、「コロナの日々の"エプタメロン"」と思いついてから、だんだ気力が抜け始め、何もやりたくなくなりました。感染…したのかもしれません。きっとそう、今日5日目に入ったし…。だからICUに入れる前に残りの三日分を連続投稿しておきます。
罹っても無症状の人も80%ほどいるようですが、わたしはダメみたいです。年寄りで喫煙者だし、このいわれない倦怠感…。二三日前にチェーン・ゲームから消えた弟分Nのように、わたしもこのまま隔離されます。誰にもバトンを渡さず、ウイルスを拡散しないため…。カゼに毛の生えた程度のものならいいのですが…。
5/7 と6/7 をまとめて…フーッ、呼吸がぁ…、「免疫」(=賦役を免れる)ということについて…
・7/7 『疫病論』最終回、集中治療室に入る前に…。「免疫」も効かない…

付の付)この「5日目の口上」(FB上)というのを読んで、ほんとうにわたしの「病状」を心配してくれる人がいて…、困ってしまう。わたしは人に意の伝わる文章が書けないのかと本格的に悩む。わたしは、このチェーンメールもどきの「ヘプタメロン(七日語り)」に付き合って、最初は誘ってくれた人の期待に応えるつもりで始めたが、目的も何も分からない、政治で言えば「支持政党なし」を党名とする無党派党のようないかがわしさを感じて、しだいにやる気がなくなり、毎回ブックカバーをFBに上げるごとに誰か知り合いを指名してこのゲームを続けさせるということ自体が、「コロナの日々の徒然」に便乗してくるウイルスのように感じたのだ(実際のコロナウイルスはグローバル経済の流通網にのって縦横に飛び、感染を拡大させた)。そして実際、三、四日目には、何でこんなゲームの規則に従わなければならないのかと気がめいってくる。だから、もうそれはやらないよ、ということを誰も非難することのない形で書こうと、残りの三日分をコロナウイルスに感染した症状に重ねて書いたのだ。そして「疫病論」というタイトルが浮かんだ(実はそれはそれで考えていたのだが)。けれども多くの人が、わたしを親身に思ってくれるがために、それを現実のわたしの健康状態としてそのまま受け取ってしまったようだ。 これには悩む。わたしの書き方はまずいのだろうか、人に通じないのだろうか、と。

コロナ禍に生きる⑥「自粛」でなく「自衛」を(山陰中央新報)2020/04/27

松江の山陰中央新報社会部が立てた独自企画「コロナ禍に生きる」に寄稿したものが26日(日)に掲載された。担当は多賀芳文記者。一部省略されていたが大意は変わらない。ここに再掲しておきたい。『世界』5月号に掲載の「緊急事態とエコロジー闘争」の主旨とも重なっている。ここで「自衛」と言ったのは「自治」と言い換えてもいい。
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 近年の世界を駆動してきた「グローバル経済システム」は、政治さえも市場原理に投げ込んできた。システムとして総数で世界が繁栄する仕組みを構想し、数値化されない生きた人間の部分を統治の仕事から切り捨ててきた。今回、新型コロナウイルスは、そのシステムの足下をさらってきた。「こう来たか」というのが率直な感想だ。

 「疫病」という語は今では使わないが、「疫」は古くから万民が免れない災いの意で使われ、近代の医学用語の「免疫」とも対応しているので実は適確な言葉だ。

 だからわれわれの遭遇しているのは疫病禍であって「戦争」ではない。緩慢な津波のようにわれわれの生活圏を浸してくる。免疫ができるまで、対策は隔離と分断しかないが、それはグローバル化した経済社会システムの首を絞めことになる。感染しなくとも、社会の血流が止まり、多数の人びとが生きられなくなる。運行を支える人びとが倒れて、流れが滞り、足元から経済システムが崩れていくのだ。システムは持続できない。

 「ウイルスとの闘い」は政治的な争いではない。この言葉を政府や政治家が「戦争」の比喩を用いるときは注意しなければならない。敵を作り民意を引き寄せることで、都合の悪い事実を隠すのが政治の常だからだ。問われるのは危機を乗り切る行政能力だ(悲惨なことに今の日本にはそれが徹底的に欠けている)。

 日本特有の「自粛」という表現も政治的だ。「自粛」と言うとき、すでに政府は責任をごまかしている。国民主権が基盤の近代国家で、行政府が市民の活動を制限する場合、生活を補償するのは義務である。活動停止、営業停止を求めるのであれば、相応の補償をするのが国家だが、日本政府にこうした認識があるのだろうか。

 たしかに医療現場は「戦場」だ。十分な手段もなく疫病と闘わなければならない。けれども、人間社会は生き物でさえないウイルスと「闘う」ことはできない。課題は「自然環境の異変に、いかに適応するか」ということだ。

コロナ禍が社会の転換機になるとの見方があるが、私は基本的に懐疑的だ。少なくとも日本は約10年前、地震と津波、原子力災害が重複する東日本大震災を経験した。ところが、その後どうなったか。その時、災害によって露呈した課題はみな隠され、ごまかされ、今の政府はすべて東京五輪に流し込もうとしてきた。何一つ改善されず逆行した。

 こうした条件下で、できることは「自粛」ではなく「自衛」だ。わたしたち自身で自分たちの生きる社会を守らなければならない。
 希望があるとすれば、地方や地域にこそある。実際、生活と行政の距離が近く、現場で発生する課題を地方行政が真っ先に吸い上げることができる。仮に政府方針と異なっても住民を守り、事後に政府に予算を付けさせることができる。

 グローバル経済システムの問題が噴出したいま、地元の力、足下の力を発揮すべき時だ。身近な生活圏をつくる動きが今後の地域形成の基本になるとするならば、災いは福に転ずるかもしれない。地方から中央を動かす圧力を、いま持つことに期待を寄せたい。(談)

緊急事態宣言についての補遺2020/04/17

『世界』5月号に「緊急事態とエコロジー闘争」を寄稿し、日刊ゲンダイのWebページでもインタヴューに答えた(4/18 掲載)が、日本の現在の議論の混乱を腑分けするために補遺を書いた。
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 政府は4月8日に7都府県を指定して緊急事態宣言を発出し、まる8日経った16日、宣言を全国に拡大した。この間、感染は全国に広がっただけでなく、東京都をはじめとして各地で医療崩壊が起き始めた。街は閑散として人出は少なくなったものの、「自粛」を要請された人びとは、働く人も店を営む人々も生活の不安に戸惑っている。学校も閉鎖されて子供は行き場を失い、テレワークとやらが進められる一方で、生身で働く人びとは糊口の道を断たれ、あるいは廃業の危機にさらされている。
 
 多くの人びとが緊急事態宣言を求め、今日の宣言拡大も遅すぎたと言う。それは不安を抱く人びとが、ともかく政府にしっかりイニシアチブをとって対応してほしいという要求だろう。ただ、その願いと緊急事態宣言についてのはっきりした理解があってのこととは思われない(テレビ得意の「町の人たちの声」を聞くと)。事実、緊急事態宣言が出たから何かが解決するというわけではないのだ。
 
 とりわけ、現政権の場合は、一月前まではオリンピックを控えて騒ぎを大きくしたくなかった。日本は安全としておきたかったのだろう。だが、しだいに新型コロナウイルス感染が世界的に深刻になるなかで、この件であまり表に出なかった首相は、それでも存在を示すためか、2月末、不意に出てきて学校閉鎖を要請した。だが文科省とのすり合わせもなく、現場の学校では大きな混乱と父兄たちの不安が生じさせる一方、与党からこの「危機」を緊急事態の予行演習として改憲にもっていけるのではという声があがり、急遽、旧民主党政権が制定したインフルエンザ特措法の改正という形で、政府が緊急事態宣言を出せるようにした。邪念からする付け焼刃にすぎない。だから、法改正がなされても、ただちに使うつもりはないと政府は強調していた。もともと法を整えて動くという政権ではないのだ。
 
 いちばん宣言の発出を求めたのは対応に当たっていた政府の専門委員会つまり医師団体である。ヨーロッパでコロナ肺炎が急速に広がり、もはや医療体制が追いつかず、多くの人が治療も受けられずに廊下で死んでゆく様子を見て、日本の医療体制を知っており、感染の状況も推測できる彼らは、日本の医療の逼迫が間近に迫っていることが分かっていたのだろう(この間、政府の医療の合理化・効率化行政に追従して医療界で地位を占めてきたのも彼らである)。だから、通常の医療を崩した対応ができるようにするために、早く緊急事態宣言がほしい焦っていた。破綻が分かっていた状況コントロールのためである。諸外国ではすでに多くの国が緊急事態下にあったが、日本でも宣言を求める世論が高まってきたのはその頃からだ。
 
 感染の拡大を抑えるために緊急事態宣言をする。医師団体は、人びとに事態が深刻であることを告知するとともに、緊急の病院体制・医療体制をとらなければならない、それには行政(政府・厚生省等)による指示・編成や医療サポート等が欠かせない、という意味で政府に宣言を求めたのだろう。
 
 政府はだから「外出を控える」「三密を避ける」を強調した。それも「自粛要請」という形で。つまり自分で慎めということだ。政府は強制しているわけではない。強制すると補償が必要になる。それはやりたくないわけだ。何でも「自己責任」にしてきた政府だから(だから小さな企業はすぐに潰れると言われると、潰れる企業は潰せ、と言う)。政府が何としても避けたいのは「経済が停滞する」ということだ。それに、使えない兵器はアメリカのためにバカバカ買っても、社会保障費や教育費はどしどし削ってきた政権だ。弱者を助けるために金は出さない。出すのは「消費に回る金」(麻生財務相)つまりアブク銭だけだ。それと、景気をよく見せるために株価を維持し吊り上げるためには無制限に日銀に金を作らせる。要するに、この政権にとっては、コロナ蔓延が「緊急事態」なのではなく、いわゆるアベノミクスが破綻することが危機なのである。だから、百五兆円の「ミゾウユウ」の経済対策を打つという。それもだいたいは大企業向けだ。
 
 ここには、「緊急事態宣言」をめぐる下からの要求と政府の対応に大きなボタンの掛け違えがある。それをはっきりさせるためには、今回の新型コロナウイルス感染の広がりによる「危機」がいかなるものなのかを理解しなければならない。
 
 グローバル化した世界、それも大量の人を動かすことで消費を生み出す「観光業」の振興で「繁栄」する世界の一角に登場し、たちまち変異しながら人の流れにつれて広まったこのウイルスには、まだワクチンがない。ウイルスに意思があるわけではないから、人間に重大な疾患を引き起こすこのウイルスの蔓延を防ぐには、人間同士の直のコンタクトを避けるしかない。ところがこのコンタクトの強化、人の周密化が現代世界の運行、とりわけ経済を回す組織的活動を支えている。ところがウイルスは人間たちの活動に沿って伝播する。だからその蔓延を抑えるには、人間の社会的活動の領域を閉鎖し、回路を断つしか方法がないのだ。
 
 その活動が経済を支えているのだとしたら、それを停止することしか生きた生身の人びとを救う道はない。つまり一時的には経済システムを断念しなければならないのである。経済システムを止められて人びとは逆にどうやって生きていけるのか。それこそが国家の役割になる。疫病の蔓延から社会を守り、その社会が死なないために保護する。国家はいまや国民を敵国から守る(と戦わせる)ためにあるのではない(大国同士の戦争はもはやできない)。グローバル世界でその役割は大きく変わっている。疫病は敵国を想定した戦争よりも、人びとの生存を危ぶめる自然の災害に似ている。それが社会的生活をジレンマに陥れる。自然から身を守るためには、この「すばらしい」人工の組織の活動を止めなければならない。それが国としてまとまるひとつの社会の「緊急事態」なのである。
 
 だからそれへの対応として医療体制にテコ入れしなければならないし、その一方で社会的回路の遮断で苦境に立つ人びとを救わなければならない。法人だ問題ではない。経済を立て直すのも生きた人間たちだ。政府だけがこれに対処できる。それも、平場で生きる人びとと地域行政府の要請に応えることで。中国のやり方がそのまま好ましいとは言えないが、ともかく中国政府は感染症対応実質トップの鐘老師の進言を最優先させ、少なくとも三か月間経済システムが停止するのを覚悟で大胆な手を打って感染を抑えた。これは政治体制の問題ではなく、行政力の問題である。

 日本で緊急事態を担当するのは安倍首相側近と言われる経済再生担当大臣である。そこにすでに彼此の政府の認識の違いが現れている。これはパンデミックの危機であって、経済危機ではないのだ。この政府のもとで「緊急事態宣言」がなされても、状況に押されてその都度いやいやながら対応しながら、日本の農業をアメリカのバイオ企業に売り渡す種苗法や、検察官の定年延長だけは通そうとするこの政権に、何の期待ももつことはできないだろう。日本では、緊急事態宣言が出されようとどうしようと、生活の現場から要求を突きつけ動かしてゆくしか先は開けない。たぶんそれは短期では収まらないだろう。