緊急事態宣言などいらない!2020/04/02

 なぜ皆(メディアも含めて)緊急事態宣言を出せと言うのか。緊急事態宣言というのは、基本的に行政権限を強化することだ。まともな政権で、まともな官僚機構、専門家集団がいればそれもいいだろう。しかし、「大胆に前例のない迅速な処置」が「各世帯に洗って使える布マスク2枚」とか「現金配るとため込むから和牛券」とかいう政権だ。それに官僚機構もすっかり「自発的隷従」で出世する公僕ならざる私僕の蟻塚と化している(森友・加計、桜を見る会、無理やり検事総長、法の根本崩しを役職と思っている法相)。こんな行政府の権限を強化してもロクなことはせず、バカな強権を無理やり振り回すだけだろう。それこそがわれわれの「緊急事態」だ。
 
 医者団体(政府の専門家)がはやく緊急事態宣言を出してほしいというのは、東京都ですらコロナ肺炎に対応できる病床が120床あるかどうかという貧弱な医療体制で(このところずっと医療は効率化と採算性を求められてきたし、長期的ベッド削減の方針を政府は変えていない)、すぐに感染拡大に追いつかなくなることが、つまり「医療崩壊」が目に見えているからだろう。だが、それが緊急事態宣言で解決できるわけではない。医者団体としては、医療がフォーローできない申し訳が立つだけだ。それは今までアベ自民党政権の保険医療サービス削減の方針に就き従ってきたつけだということだ。
 
 ほんとうに感染拡大の危機が迫っているというのなら、いまやるべきことははっきりしている。検査体制の拡充と、医療設備態勢の整備、中国は一週間で4000床の病院を作った。日本なら被災経験からプレハブ病棟一気に作ればよい。場所は国立競技場とか東京スタジアムとか代々木公園とか(その補償は後でする)。あるいは東京都(首都圏)ならすでに話が出ているようにオリンピック選手村を活用すればいい。それと医療関係者の特別配置・急場しのぎの援軍組織だ。それに特別法がいるのなら2、3日で国会通せばよい。決めたらすぐ準備してやれば、緊急事態宣言でモタモタしているよりもいい。

 後は、法的根拠なんかなくてもアベが思いつきで「学校閉鎖」とか言えば従うお国柄だ。「自粛を要請する」と言うだけで、街から人が引くお国柄だ。緊急事態宣言などいらない。ただし、「自粛」で多くの人たちに「困窮せよ」と言っているわけだから、協力する者たちにはきちっと補償をしなければならない。まともな国の政府は緊急事態宣言を出したら必ずそれをやっている。

 ともかく安倍政権などに緊急事態宣言をやらせてはならない。市民がみずから身を守るために政権に要求を重ねなければならないのだ。

[追記]

 四月初っぱなの状況をみていると、どうやら「爆発的感染」が始まりそうだ。阪神選手団集団感染、志村けん、その他著名人やメディア関係者、夜に出歩くなと言われても気にしない連中は多いようだし、歓楽街やカラオケも、干上がってしまうから営業やめられない。小さい街の店だけは悲惨。朝も夜も駅の人ごみは多少軽くなってもすごい。こっちは誰もが働きに行かざるを得ないからだ。子を持つ親たち(とくにシングルマザー)は学校次第で4月から板挟み、ますます困るだろう。

 だがそれは、緊急事態宣言では解決されない。政府がまず、皆が感染抑止に努められるような対策を何ひとつしていないことが問題だ。「外出自粛」を要請と言うなら(「自粛を要請」と言う言い方が日本の行政当局の高圧無責任ぶり――民主主義感覚ではなくお上意識と言っていい――を表しているが)、人びとが家にいられる状況を用意し、収入がなくなるワーカーたちや中小企業、困る商業施設等への手当てもいっしょにすべきだ。それでなければ、従いたくても従えない。(予算がないとは言わせない。今年度予算は修正なしで無理やり通している。株価吊り上げるために日銀はバンバン札束刷ってきた。安全保障とか言って不要な兵器はごまんと買っている。)

 それに、情報があいまいだから真に受けられない。医療対応、態勢もそうだろう。ともかく「爆発」の危険があるなら、それを誰もが納得できる(真剣に受け取る)ように情報提供しなければならない。何より、検査体制を拡充しなければならない。できるだけ検査してこれだけ広がっていると示さなければ、一般の人びとが適切に警戒・対処することができない。たいしたことない、と誰もが都合に合わせて解釈する。

 一方で、ずっと感染者数を抑えようとし(オリンピック実施のため?)、五輪延期で一気に増え始めたとはいえ、諸外国に比べれば「奇跡的」に少ない。外国ではとっとと検査しているのに、東京都の検査数は一日百単位。医療は「世界トップレベル」とか宣伝する日本で、三カ月経つのにいまだこれというのはあまりにおかしい。ここからしておかしい。まったく、後でやばいからもう記録も残さないという、近代行政の足元を崩している今の政権のやり方と通じている。だから、医師会が「危険だ、危険だ」と言っても、フランスやアメリカほどではないじゃないか、と説得力がない。医師会もこの間何年も政権の保険医療削減政策に乗ってきたわけだし…。

だから、医師会がほんとうに危機的だとみなしているなら、いま検査できているのはこれだけ、そこから推定すると実際の感染者はすでにその数十倍と見られる、とはっきり公表すれば、その「危機感」に現実味が出る。そうなっていないから、一般の人びとはそこまで「危機感」をもてないのだ。その上で、今は強制措置が必要だと言うのなら説得力もあるが、政府がノラリクラリしており、医師会もそれを明確に批判しないから、緊急事態宣言を…とか言っても、責任逃れするな、と言われることになる。はっきり政権を脅して、すぐにでも臨時病棟を作らせ、緊急医療態勢整備(当然、医療政策撤回と予算措置も)を政府に要求する、それが医師会のまず先にやるべきことだろう。国民負担の緊急事態宣言だけを要求というのはお門違いだ。

 野党は、ほんとうに政権担当能力を示そうと思うなら、一体となってドイツのメルケル首相のような声明を出し、上記のような要求を政府に突きつけて、そのためには「国難打開」のために協力する、と大々的に宣伝して政権に圧力をかければいい。残念なことに、今の野党にこのようなイニシアチブを取れるのは共産党しかいないのだが、その共産党を立民・国民周辺はまだ排除している。先回の民主党政権の失敗から、野党政治家は何も学んでこなかったと言わざるをえない。だからわれわれは野党を頼むこともできない。それが現代日本の政治の惨状だ。

 だとすると、市民あるいは民衆はしょうもない政治的状況の中で、野武士のように、あるいは草莽の志士たちのように、この政治の惨状とパンデミックとからみずからを守る「民衆防衛」をやるしかない。たぶん、大津波の中の自助・共助のようなことになるだろう。何人かの信頼できる医師たちの見解をベースに現状を把握し、上記のような要求を強く出してゆくこと、そして自助・共助のシステム化を実践的に作りつつ、その法制化も目ざしてゆくこと(そのひとつが労働者協同組合法だが)等々だ。少なくとも、現政権の下での緊急事態宣言ではなく、われわれの「緊急事態」に対するわれわれ自身の対処だ。

[追伸]

 「各世帯マスク二枚配布」という世にも大胆な対策ではっきりわかったのは、コロナウイルス禍に対処するのは安倍政権ではムリだということ。「私が総理大臣…」しか考えていない、考えられない。それで、「自発的隷従」官僚もヤケのヤンパチになっているのでは? とにかくもう無理。しかしなぜこれでも退陣させられないのか???

季節外れでも、雪は「自粛」を要求しない2020/03/29

「政府(都)が自粛を要請」という言い方がまかり通るのをみて、気分が悪くなるわたしです。お上が命じ、メディアが伝令よろしくそれを伝えると、ほらほら自分で止めないといけないんだと世間は応じ、出歩く人びとを後ろ指さして牽制しあう。「自粛」とはみずから進んで(自分の意志で)行動を辞めることだ。行政府がそれを要請するとは、個人の意思に手を突っ込むこと。行政府はそれを権力行使だとはしないから(言うとみんな進んで従う)、それに責任があるとも思わない(だが近代国家は働くことを禁じたら、カナダのようにそれを保障するものだ)。「自粛要請」とは、現代社会(新自由主義)の用語で言えば「自己責任」ということになる。言うこと聞けよ、ただし勝手にやめるんだろ、と。

 そんな気分の悪い3月末の日曜に、首都には季節外れの雪が降り、シンとした気配のなか(雪は「自粛」など要求しない)、はじめて私的公的「政治利用」なく日本で傾聴できる「コロナ対策」に関する意見をみました。イギリスでジョンソンが撤回した「集団免疫論」の日本版という話もありますが、いやいや…。何でもスタンダードと化している西洋的統治の論理に合わせる必要はない。

 以下です。東大法学部・米村滋人教授(医師)
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【新型コロナウイルス感染症について】
■■皆さんに呼びかけます。冷静な行動をお願いします。■■
■■手洗い・うがいなどをしっかりするように心がけて ■■
■■下さい。

私はこれまでも、コロナウイルス感染症に対する政府・専門家会議の対応を批判し、世間の風潮に懸念を表明してきましたが、ここ数日の動きは異常です。私は、医師として、一般の皆さんにあくまで適切な感染対策の実施をお願いするとともに、冷静な行動を呼びかけたいと思います。

・今まで日本は、ほぼ無策だった
私は、2月末に相次いで出された、学校全休・大規模イベント自粛の要請が感染対策として不十分だということを批判してきました。それは、感染症対策として意味がないことに加え、リスクの低い子どもや一部の国民に不公平な負担を強いる結果になるからです。
専門家会議は「クラスター対策」と言っていましたが、一部の目立つクラスターについて「自粛要請」しただけで、普通に満員電車や繁華街の狭い飲食店などの営業を容認していたわけですから、実質的にはほとんど感染対策になっていませんでした。

・「普通の感染対策」が何よりも重要
ところが、日本での感染者数の拡大はずいぶん抑えられてきましたし、今でも爆発的な増え方はしていません。これほど「クラスター対策」が不十分なのにこの状況になっている原因は、十分に説明されていません。
私は、手洗い・うがい・マスク着用という「普通の感染対策」に大きな意味があるからであると考えています。ヨーロッパで爆発的な感染拡大が起こっているのは、これらの基本的な感染対策が全く市民に浸透せず、誰もマスクを着用しないことが「文化的な問題」として片付けられてきたからだと考えています。私はかつてドイツに住んでいましたが、ドイツ人はフランス人やイタリア人に比べればまだしも衛生感覚があるものの、手洗いやマスク着用の習慣がないのは同じです。日本は、世界のどの国よりも、これらの基本的な感染対策が市民に根付いています。
専門家会議は、「クラスター対策」を過剰に重視していますが、全くおかしいと思います。医療機関は大変な「クラスター」です。狭い空間に多数の患者がいて、盛んに会話をしています。それにもかかわらず、大規模な院内感染は数えるほどの病院でしか起こっていません。それは、とりもなおさず、病院では手洗い・うがい・マスク着用等の感染対策が徹底して行われているからです。私自身、医師として、院内感染対策としては手洗い・うがい・マスク着用を徹底して行ってきましたし、一般の医師・医療機関も同じ考えで行動してきました。専門家会議は、これまでの一般的な医療機関の感染対策が無効であったとでも言うのでしょうか。

・「感染爆発の危機」という言い方はおかしい
これまでの日本の無策の状況を踏まえれば、もっともっと増えても良いはずの感染者が、ここまで少ないということ自体、驚異的なことです。今後、感染者数は次第に増えるでしょう。しかしそれは、今後爆発的に増えるということを意味するわけではありません。
これまで不十分だった「クラスター対策」を徹底するようにする、というのは、悪いことではあリません。不要不急の外出を控える、無駄に人の集まるところには行かない、というようなことは、やった方がよいだろうとは思います。しかしそれ以上に、手洗い・うがい・マスク着用などの「基本的な感染対策」をこれまで以上に徹底して行うべきです。そしてそれをすれば、過剰な行動制限をかけなくても、感染症のコントロールは十分にできるというのが私の見立てです。

・人類はコロナウイルスに敗北せざるを得ない
皆さん、「がんばればウイルスに勝てる」と思っていませんか? 「この1,2週間を耐えれば大丈夫になる」と思っていませんか?あえて言いますが、今回のコロナウイルスは、1,2週間耐えればいなくなってくれるような相手ではありません。そればかりか、そもそも人類が正面から戦って勝てる相手ではありません。どうがんばっても、感染の拡大を防ぐことは無理なのです。既にほぼ全世界に感染が拡大している状況が、それを証明しています。私たちは、「どうしたら被害の少ない『負け方』ができるか」を考えなければならないのです。
一時的に急激に重症患者が出現すれば、医療体制が追いつかなくなり、十分な医療が受けられない患者が出てきます。それは絶対に避けるべきです。しかし、ウイルスを完全に制圧し、「誰もこれ以上感染しない状態」を作り出すことはできません。感染の拡大のスピードを遅らせることしかできないのです。
むやみに行動制限をかけ続けると、私たちの生活が崩壊します。このウイルスの感染拡大を防ぐ取り組みは、おそらく、今後1年、2年は続くと思われます。その間、ずっと自宅にこもっていられるでしょうか。イベントや集会を禁止し続けられるでしょうか。
私たちは、爆発的な感染拡大を起こさず、かつ、何年も継続可能で社会を崩壊させない感染対策を目指さなければなりません。それは非常に難しいのですが、上で述べたとおり、カギは「基本的な感染対策」にあります。つまり、とにかく、手洗い・うがい・マスク着用を徹底するのです。

・マスク着用にも一定の効果がある
マスクについて、少し補足しておきます。一般的に、マスクには感染予防の効果はありません。しかし、今回のコロナウイルスに関しては、自分で気づかないうちに感染して他人に広げる感染者がいることが、感染を拡大させる大きな要因になっています。そのような感染を防ぐには、「全員がマスクをつける」ことが十分な対策になります。マスクは、自分を守るためではなく、「自分が感染していた場合に身近な人を守る」ためのものなのです。その意味で、私は皆さんに、マスク着用を呼びかけたいと思います。

・冷静な行動を
最後にもう一度言います。冷静に行動して下さい。そして、手洗い・うがい・マスク着用などの「基本的な感染対策」を徹底して行って下さい。大規模な行動制限は、短期間はできますが、長期にわたってはほぼ無理です。国民の皆さんが行動制限に耐えられなくなったときに、再び感染拡大の危機が訪れないようにするためにも、上の「基本的な感染対策」が重要なのです。ウイルス対策は何年にもわたって行う必要があるということを覚悟して、できることをしっかりやって下さい。

「非常時」に流通させてはいけない3語:自粛・忖度・風評被害2020/03/28

1)「自粛」

 かつてこの言葉が流行ったことがある。今は昔、昭和天皇の末期である。当時まだトヨタと並ぶ日本企業だった日産が、起死回生をねらって秋口に新車セフィーロを鳴り物入りで送りだした。CMではテレビにほとんど出なかった井上陽水を起用し、森の中の開けた場に乗り入れたセフィーロのパワーウインドーを下げて、サングラスの陽水があの滑らかな高音で「オ元気デスカ~」と言いながら顔を出すのだ。意表を突く絶妙のCMだった。これでセフィーロの売れ行きは間違いなし、と誰もが思っただろうが、このCMはわずか数日でテレビからもその他のメディアからも消えた。なぜか? 天皇の容体が深刻になり、ニュースでは毎日天気予報のように「陛下の容体、血圧、脈拍」等が伝えられていた。そんな時に、すかしたチンピラ上がりのような歌手が「お元気ですか~」なんと言うのは不謹慎だというわけだ。

 各地では秋祭りの季節だったが、こんな時期に、ということでほとんど取りやめになった。やめざるをえないようコンセンサスが無言のうちにできたかのようだった。桜の季節だったら、花も散ることもできないような世間の気配だ。だから葉が色づいても、紅葉をめでたりなどとてもできない。いたるところで人は「おめでたさ」を避け、人前での服装もつとめて派手なものは避けられた。憚るというわけだ。それを「自粛ムード」と言った。この社会ではあらゆる人びと(とりわけ組織)が、祝いや祭りや歓楽を「自粛」したのだ。

 つまり強制力はなかったが、誰もが何かを憚って「自粛」したのだ。しかしこの時は、そのような「自粛」の気配が広がる中で、その「自粛」を日本社会に特殊な現象として批判的に見る見方も同時にあった。「ジシュク、ジシュク…」と囁いて、人びとが異様さを半ば意識しながらそれに従ってもいた。

 ところが今は、この言葉が何の疑問も危惧の意識もなく使われる。今とは、コロナ禍で社会が一体となってこれと戦わなければならないとされている時期だ。この時期に、行政当局が人びとに「自粛を要請する」。すると誰もが、すすんで「自粛」する。それが当たり前だと思われ、受け入れられている。

 しかし「自粛」とは、みずから慎んで何かを差し控えることである。行政当局(国や都や県)が市民に「要請」できることではない。公的に「要請する」場合は、行政当局が要請の責任をもたねばならない。ところが「自粛」とは個人の意思に関わることである。それを要請する(~を意思せよと求める)権利は当局にはない。というのは、みずから慎むのはその人の責任において何かをしないということだからだ。つまり「自粛を要請する」とは、当局の指示に従うことを当人の責任においてせよ、と要求することである。逆にいえば、この要請内容に当局は責任をもたなくていいのだ。

 たとえば、仕事に行くな、会合をするな、という要求(実質的には命令)を、みずからの意志として引き受けよ、ということである。そしてその命令に関して、従っても従わなくても責任は自分で負え、と言っているようなものである。

 仕事に行くな、というのが行政命令であれば、そのために仕事をしないのは命令に従ってであり、仕事をしないことがじつは市民的義務を果たしていることになり、その意味では当局の命じた「仕事」をしているのと同じだから、休業によって失う報酬を当局は補填してしかるべきである(たとえばカナダの首相は、労働者の休業と工場の停止を要請したとき、その要請に従えば、仕事は休んだとしても政府の要請にはしたがっているのだから、その分の報酬や操業利益を補填することも約束している。アメリカでも一部はそうだ)。

 だがそれが「自粛要請」となると、それは自分の意志で休むのだから当局には休業による不利益を保証する必要などない、ということになる。つまり「自己責任」だ。「自粛」する方は、当局や世間を「忖度」して「身を慎んだ」のであって、それがこの世間で生きる者にとっては「才覚」だ(スキル?)とも言われる。

 結局、「自粛要請」というのは、当局(権力)がみずからの意図に「自発的」に従わせることで、要請行為を市民に強要したことの責任をとらずにすませる言い方になる。こういうことを平気でするのは、近代国家としては日本の政治権力だけであり、その傾向は最近とみに強くなっている。「自粛要請」ということが平気で言われ、それをメディアも何の考えもなく伝え広め、世間の方も何の疑問もなくすすんで(忖度して)「自粛」する、そんな風になっている。このことは、近代国家としてはすでにコロナウイルス以前の「病理」であるということは考えておくべきだろう。
 
2)「忖度」

 これは、相手がどんな状況に置かれて、何を考えているのか、望んでいるのか等を推し測ることを言う。それ自体はニュートラルな言葉だ。だが、しばしば上司や上役に上目遣いで用いられることが多い。つまり、相手の状況や考え・望みを推し測り、何も指示されなくても、自分の立場でその意向に叶うことを先回りしてする。そうすると「空気も読める」し、呑み込みの早い、有能な部下だということになる。丁稚奉公や執事などにとっては望ましい才覚だということだ。

 つまり「忖度」とは身分社会にはふさわしい能力である。何より、主人や上司に迷惑をかけることがない。主人は奉公人の「忖度」からする行為には、何の関わりもないと言えるからだ。奉公人は「勝手に」やっただけであり、主人の指示に先回りして事を処し、主人が煩いなく鯉に餌をまいていてもらった、というのは、奉公人にとってはしてやったり、自分の才覚を示せた、ということになる。

 これを見事に描いたのが、カズオ・イシグロの傑作『日の名残り』である(『わたしを離さないで』はその別ヴァージョン)。これは理想的な、あるいは従属を絶対的自由へと転化する「理想の執事」の物語だ。西洋的伝統ではこのことを「自発的隷従」と言う。一六世紀フランスのエティエンヌ・ド・ラ・ボエシが作りだした言葉だ。

 では「忖度」はその語の意味する事態とともに抹消すべきものかというと、そうではない。ただ人の気持ちを推し測ることだとすると、それはときに必要なことであったりする。親に失った子供の気持ちを忖度して…、とか、むしろ世の中(社会関係)では大事な役割を果たしたりする。だから悪いのは「忖度」そのものではない。それが身分的関係の中で、自己利益のために働かされると、「忖度」は権力の無責任を、お上の「超越」を支えるまたとない機制となる。

 以前はあまり耳にしなかったこの用語が、いまではニホン人誰もが知る言葉になった。「忖度」は社会生活(とくに公的)に必要なある種の才覚とみなされている。忖度できない人間は組織から排除され、忖度が行き届けば有能な役人(下僕)として「適材適所」の出世を約束される。職務義務違反、背任、利益誘導、文書隠滅、等々…を含むこのような「慣行(プラクシス)」は、市民法的に見れば疑惑のマグマだろうが、現在の日本では桜の下の花見酒で淫靡に粉飾されることになっている。

 この用語は何の考えもなく使われると、それが流通する社会に法秩序以前の身分的意識を浸透させることになる。だからとりわけメディアはこういう用語を「報道」や解説に使うべきではない。あるいは、はっきりと否定する文脈で使わなければならない。

 
3)「風評被害」:comming soon.

★3/24の転換、「フクシマ復興五輪」から「人類コロナ勝利五輪」へ2020/03/25

 何の「転換」か?この日公表されたのは東京オリンピックの「一年程度延期」。
 
 この間(数年間)日本の政治・経済・社会は2020年7月24日から8月9日に予定されていた東京オリンピックを牽引車のようにして動いてきた。ところが、去年の12月ごろ中国で不明なウイルス感染症が目立ちだし、1月には武漢と北京が封鎖という新感染症の劇的な展開が始まった。1月末には日本に感染者を載せたクルーズ船が寄港。日本はいっせいに身をすくめて警戒し、感染を食い止めようとしたがままならず。2月~3月にはイタリア、スペイン、フランス、ドイツとEU諸国とアメリカに感染拡大、イタリアでは医療が追い付かずパンクして、死者も中国の倍近く(7000人)に及んでる。中世の黒死病さえ思わせる深刻な状況のようだ。
 
 このグローバルなコミュニケーション網で覆われた世界で新たな感染症である。世界各国が警戒を深め、中国と接する台湾、韓国がドラスティックな対応をとって格闘を演じる中、どうも日本だけが対応が違うようで、感染の広がりがきわめて緩い。何か特殊事情があるのか…。そう、日本だけの事情とは、7月にオリンピックを控えているということだった。日本の対応には、これでオリンピックに暗雲がかかるというのは困るという顧慮が透けて見える。だから政府の対応は鈍く、国の第一の関心事はパンデミックにはない。

 しかし国内がの不安は募るばかりである。そこで安倍首相は「リーダーシップを発揮する」ところを見せるべく、何の打合せもなく唐突に会見を開き「学校閉鎖」を言い出した。(安倍の会見の特徴、および連日の会食でのネトウヨ助言等を参照)そこで日常生活レベルで大きな社会的混乱が起き、人びとや関係組織はもてるリソースで対応せざるをえず、賢い都道府県は独自の対応を取るようになった。もともと安倍首相の「要請」にはいかなる法的根拠も強制力もなく、これを罰することはできないし、結局、現場からにわか仕立てで出された方策を、政府は追認するしかない。

 政府が国会を通してやったのは、これはチャンスとばかり改憲のテコとされている緊急事態条項をここでやればという邪念から、実はすでに存在していた「インフルエンザ特措法」を改正する形で、緊急事態宣言権を急遽法制化すること、それと、「桜を見る会」の追及をかわし、くすぶる疑獄収賄案件その他の立件を、安倍後も見越してあらかじめ封じる検察人事を、法相に法制度の基盤を踏みにじらせながら(決裁書のない決済があるとか、世迷い事を持ちだして答弁を逸脱)無理やり押し通すことばかりである。

 そんな「日出る国」のお国事情には疎くても、どうも日本はおかしいと眺めてみると、イタリアでは医療が追い付かず、すでに中国以上の死者が出る惨状を呈しているのに、この世界の「緊急時」に日本はオリンピックのことしか気にしていない。というので当のスポーツ選手や団体からも「無神経・無責任ではないか」との声があがる。もちろん国内からではない。国内では、数日前も女性のJOC理事から「延期も考えた方が…」といった意見が公表されると、フランスで訴追されそうな武田某にかわって担ぎ上げられた山下理事長が「そんな意見が内部から出て残念だ」と火消しに回る始末。日本が一丸となって当たるべきはコロナ対策ではなく、オリンピック防衛だと言わんばかりである。

 しかしスポーツ界の雄山下泰裕理事長(残念なオヤジになってしまった)の「突貫精神」も空しく、すでにIOCは国際世論の圧力に押されて「延期」に舵を切っていた。IOCは基本的には実施を望んでいた。というのは、やらないと身銭が入らないし存在意義に関わるからだ。そこでWHOに従うとサジを投げていたが、WHOにしてみれば管轄外、迷惑な話である。日本では、開催権はIOCにあるから(マラソンの札幌移転騒動で示されたように、会場の移転さえ、JOCも主催都市東京都も決められない)そちらからの「天の声」を待つほかないのだが、IOCにとっては後の面倒のない「中止」とか言われると(放映権料は一回分入らないが、そのための保険はかけている)、困るのは誰よりまず安倍首相であり、森組織委員長であり、東京都の小池知事である。彼らが引き合いに出すアスリートは、彼らにとってもともと見世物サーカスの興行のネタでしかない。あるいは、桜を見る会の招待者候補か。

 そこでこちらから働きかける。すでに先週、世界の胴元トランプがシンゾーに延期もあるねと告知しており、ブリーフィングは済んでいる。そこで「私が総理大臣…」の安倍首相が、IOCのバッハ会長と、森、小池を同席させて電話会談、そこで「一年程度延期」で「百パーセント一致」しましたと公表する。もちろんそれをあらゆるメディアが報じ、この決定には自分が関わっているんだと国内に示したわけだ。

 オリンピックの招致のときも問題だったが、オリンピックは都市開催だ。だから行政主役は都知事のはずだが、そんなことはおかまいなし。安倍首相にとってはこれは自分が仕切り「世界の真ん中で輝く」ための国家的イヴェントなのだ。彼は開催都市を決めるIOCの大会にみずから乗り込んで、「放射能はアンダーコントロール」と誰もが分かるフェイクで大見えを切ったこともある。そして安倍政権は、これをアベノミクスというフェイク経済戦略をすすめる陣太鼓にしてきたのである。だからこそ、オリンピックは実現したい、そこで「輝きたい」、というのはほとんど個人的願望だと言っていい。この人物の場合は、首相夫人を「私人」であると、行政機関の中核たる閣議で決定するほどの、私と公との区別がつかないのである(保守のご意見番だった後藤田正晴翁に「岸の血が、冷徹の血が流れている」と言わしめたおじいちゃんの信念が人格の軸を作っているからか、あるいは祖母に「運命の子」として育てられたから?)

 そのため、オリンピックを実施することは、この首相の粉飾政治のアルファでありオメガにもなっている。だから「中止」などと言われては困るというので、譲ってとりあえず「延期」で手を打ったということだろう。しかし一年以内…、展望はあるのか。新型コロナ禍はトランプでさえ一年以上続くという報告を受けいれているようだ。ここで思い切って「中止」を打ち出せば、一年延期でさらにかかるあらゆる負担(財政的、組織的、選手も含めて心理的な負担等々)を解消し、世界的なコロナウイルス禍に対処することができるだろう。だが一年後の準備のし直しで、その対処への注力にブレーキをかければ、一年後に開催できる見通しもますます遠ざかるのだ。
 
 延期を準備し、そのあげく一年後に、あるいはあと数か月後に「中止」を言い出さざるを得なくなくよりも、いまここで「中止」を打ち出した方が、日本の社会のためでもあるし、世界には評価されるだろう。「フクシマ復興五輪」というのが形ばかりのフェイクだったように、コロナ禍をここでも自分のために逆転利用――これがほんとに得意技だ――、一年後に「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、完全な形で東京五輪を…」と言挙げしたが、どれほど世界に欺瞞的に響くかということを(国内ではどうやら通用するようだから)、この人物は想像することもできないのだろう。

四日目、溶解=妖怪国家2020/03/17

〇フランスのマクロン「我々は戦争状態にある」と語った――
外出禁止令も、家賃、光熱費、税金はその間0。
 マクロンはバカでも嘘つきでもないはずだが――高慢な管理経営派秀才ではあるようだが――、「コロナとの戦争状態にある」はブッシュと同じ言い方。で、権力発動を正当化。
 だが、ウイルスは「敵」ではない。あるいは「敵」とみなすと間違える。ミサイル撃つと患者は死ぬ。戒厳令敷くと社会生活は死ぬ(アメリカの驚異的株暴落を見よ)。「ウイルスとの闘い」と言うのなら、それは国家間戦争のイメージではなく「エコロジー闘争」(ヴィヴィリオ)のイメージでなければだめ。
 しかしこの比喩が避けがたいのは、現代社会が科学に頼り、科学が「自然の征服」というイデオロギーを抱えているから。「文明は勝つ!」。しかし自然は克服できない。なぜなら、人間自身が自然の一部だから。いや、人間は複合機械だ、その編成が部分世界だ、いや「世界は存在しない」とかいう連中も出てくる。「人間は時代遅れ」だ、「ポスト・ヒューマン」だなどと言われ、「人間」からのEXITが流行る。
 戦争のイメージをもちだすと、患者は「敵のスパイ」か「テロリスト」扱い。そこで「敵」を作って肥しにするヘイト差別が横行する。あるいは「俺はコロナだ!」と街にくりだす別種の患者が。

〇NHK「不安は何ですか」「口角をあげることが大切です」ダンス――
 とこれが日本のコロナ対策。やっばりニッポンすごい!、やり過ごし大国。でも、ウイルスと戦争する(マクロン)よりこの方がだいぶましかも。愚民(凡夫)の万能の智恵。「禁足令」のイタリアでは、ローマ教皇も外出して祈祷してるし。

〇トランプにつづいてポンペオ、米中舌戦、互いの「中傷」を非難――
 コロナウイルスは、何の意図ももたないのに、「見えない敵」として人類の内戦化に成功?愚かな人類は、共通の禍いを「見える敵」のせいにして罵りあい、戦争(分裂抗争)を始める。じつはこういうときこそ協調が必要なのに。「禍」転じて…世界的ヘイト・差別・対立の時代へ、か。
 だからグローバル・バブル金融の市場はますます混迷。もはや根本的なクレジット(信用・信頼)がないから。マネーという絶対者(神)も市場から逃げる。

〇森友自殺 財務省職員の遺書を全文公開「すべて佐川局長の指示です」――、メディアは追うか?

 自殺した赤木氏の妻は佐川元局長と国を提訴へ。これだけの、「良民」が文字どおり命を賭した告発証言が明るみに出ても、彼を使い潰した官僚組織が責を問われず、国家の屋台骨(官僚組織)をまったくの愚直劣悪な私僕群と化した権力(内閣)が問われることのない国とは?
 官僚は「書かれたもの」の上に立ち国の機能を担うはず。ところが、今では改竄・隠蔽・破棄・不作製…、そして法務大臣による文書なし決裁の押し通し。もはや溶解=妖怪国家というしかない。この国はコロナ以前に冒されきっている。

 ふつうならこれで内閣は即日吹っ飛ぶ。ところがそうならないのがアベ体制。この事件、検察はほとんど事実を把握していたのに、告発された官僚たちをすべて不起訴処分にしている。それに、裁判所は籠池夫妻だけを国を騙した「詐欺」等で有罪判決まで下している。
 検察はいまさら佐川らを立件できない。黒川検事長の定年延長がなされているからなおのことだ。
 明日からは、大事の前の小事、このコロナ危機に政府の脚を引っ張るのか、オリンピックへの強い思い、国民の願い、アベでないとダメ、の大キャンペーンか(これは保身の官僚が主導するだろう)。それとも、みんなNHK推奨の「スマイルダンス」で「不安」を紛らわすか。

開戦日覚書き(前項ディテール補遺)2020/03/14

○トランプ、東京五輪は一年延期すべきかも…
「アメリカ様」(宮武外骨)がそうおっしゃってる。
どうする「令和ニッポン」、も一度インパール作戦か?カミカゼか?がんばれ大本営。自民界隈では「コロナ神カゼ」説もあったようだが、「緊急事態・特措法」は通しても、そんなこと言ってるからアメリカに襲撃されちゃったよ。これだろ、ほんとの緊急事態、オリンピックができない!

○独メルケル首相「金融危機を超える異常事態」、国民に対策呼びかけ(NHK)
メルケルだけが今は多少信頼できる国家首脳。チェコのワーツラフ・ハベル、ビロード革命後大統領に選出されて初の年頭あいさつで言った。「(この四十年というもの、わたしたちは前任者の口からさんざんウソを聞かされてきた。)皆さんがわたしにこの職務につくように提案されたのは、わたしもまた嘘をつくようにというためではないと信じます。わが国は繁栄していません。」近いことを言えるのはメルケルぐらいだという意味で。

このニュースを見つけたころ、ちょうど日経平均17000円割れという速報。
アベがトランプと電話会談でコロナ対策?協議、アベは五輪開催に向けた努力に言及し、トランプ大統領は透明性ある努力を評価すると述べたそうだ(NHK)。「透明性ある努力」とは裸の王さま踊りのことなのか。
この日米電話会談は市場には何の効果ももたらさなかった。とくに円は露骨に落としている(最大幅)。円高もあって日銀も打つ手なし。五輪を旗に世の中を乗せて粉飾経済、株高・円安・好況、を演出し、「この道しかない」の新自由主義路線を押し通してきた「アベ日本」の完全破綻。
メディア抑えて批判運動を黙殺し、野党は「どうせ数で負けるんだから」と順応路線で、ポンコツでも無敵のブルトーザーだったアべ政権、しかしとうとう投資家・市場から見放された。
市場という金儲けにしか関心がないバケ物(+そこに群がる顔のないならず者たち)が、今まではエサに食いついてアベ日本(日銀押さえた金融政権)を支えてきたが、ここに来てとうとう見放した。彼らの喜ぶ大胆な(アベノミクスをぶっ潰す)政策が打てないかぎり、市場は(を)離れ続けるだろう。15000円でも底ではない。
日銀黒田はどうするのか?責任をとらされるのか、それとも非常事態で続けるのか?

市場好転の唯一の材料は、経済の根本的立て直しの方向を出すこと。手始めは消費減税だけではない。中国・韓国とコロナ対策でも協力関係を打ち出し、この間わざわざ最悪化してきた関係を改善、アジアの方向を向いて関係を立て直すこと。

○日米首脳が電話会談、大統領から「五年延期」に言及なし(朝日新聞)
昨日のトランプ発言を受けて、急遽設定された電話会談。アベ首相は慌てたということだ。
ここで考えるべきは、「2020東京五輪ができない」ということの本当の意味。それを明確にする必要がある。東京五輪で日本経済を引っ張りもたせる、とはどういうことか?
曖昧にしているから、コロナウイルス対策もまともにできない。五輪ができなかったらたいへん、そこからしか日本の対策はできていない。誰もが気分と思惑でパニクル(パニクらせる)だけ。そして政権は火事場でボロボロの権力強化。

○検察定年延長の閣議決定
2014年7月の憲法9条の「新しい解釈」が閣議決定でなされてそれで押し通して以来、閣議決定は「大本営」決定になっている。石川健治が「クーデター」と言ったのはこのことです。これは法的根拠など無視した振舞いだったけれど、それを事後的に合法化するのが「緊急事態宣言」。緊急事態法制とは基本的に法秩序の停止を合法化するものだから。それを立憲・国民は承認したということ、もはや野党ではない。もちろんこれで黒川検事総長は誰が何と言ってもできることになった。

そして「権力はアプリオリに無罪」というワーツラフ・ハベルの指摘した状態が実現する。
アベはコロナ対策での無策と失敗(学校休校のフライング)を、この「全能化」に巧みに利用した。森友・加計火災を共謀罪で乗り切ったように。
疫病禍を戦時に例える「ウイルスとの闘い」という倒錯した比喩がまかり通っている。それが今を「緊急時」と言わせるが、だから自分を「戦時の国家指導者(ブッシュ)」として押し出せる。戦時には権力者を批判してはいけないという通念があるので、アベの支持率は上がる。アベはそういうことを自己への「神カゼ」にしてしまうという、本能的利己主義がある。それが彼を祖父の妻に、つまり婆さんに「運命の子」と言わしめるゆえんもある。

○テレビ東京WBS(ワールドビジネスサテライト)のニュース
 https://www.tv-tokyo.co.jp/wbs/
このニュース、いまいちばん必要な情報テンコモリ。経済面にすべての事象が落とし込まれて説明されるのがいまの情報の基本的ルートだから。政治現象も経済的になら市場重要ファクターとしてまともに扱われる。じつは今日見てビックリした。株式パニックの意味がいちばん分かる。ナレーション・解説はネオリベでも、必要な素材を必要な情報として忖度なく扱っている。こんなもの見ていたくないが(もうあんまり時間がないので、もっと好きな勉強をしていたいのに、バタイユとか、不死のワンダーランドとか…)。

 世界的に「緊急事態」に入った、ということは、世界が基本的に「戦時状態」に入ったということである。何が対立しているのか?「コロナウイルスとの戦い」だというではないか。「敵はコロナ」、ただしこの「敵」はどのような「敵」なのか?「テロとの戦争」と似てもいるが、「敵」は「テロリスト」ではなく、人を感染させるウイルス――言いかえれば、人を危険な存在「テロリスト」にする病原――である。それが、じつはそれぞれの国ではなくグローバル秩序を冒している。株の大暴落はその深刻な徴候だ。…グローバル世界はともかく「戦時態勢」に入った。

…とはいえ、バタイユは一九三九年九月五日、ナチス・ドイツのポーランド侵攻に対して英仏が宣戦布告し、世界(まずヨーロッパ)が大文字の戦争に突入した日に、戦中恍惚=脱存日誌を書き始めた。それが、戦後『有罪者』として読まれることになる。今日(ここ一週間ばかりが煮詰まった)が、われわれの開戦日だ。とはいえ、バタイユにはそれでも戦争が終り「戦後」が訪れることを望見することができた。だが、われわれにはその展望がない。まさに「戦後」が解体されることで現在が生じたのだから。「俺たちに明日はない」と知りつつ、なお見ようとして書い刻もうとする。それが今日の「思想」のあたりまえに空しいかもしれない営みだ。

★グローバル資本主義の崩壊とその「出口」2020/03/13

「想定外」のかたちで、われわれは今、グローバル資本主義の崩壊に立ち会っている。「この道しかない」と言われて導かれた世界システムはいまもんどりうって滝つぼに落ちようとしている。しかし、この先は、滝つぼを収めて流れる奔流やがて大河ではない。ここは滝壺ではなくすでに海の断崖だからだ。

 マーク・フィッシャーは死ぬ必要はなかった。「資本主義のリアル」には終わり(出口)があったのだから。その点では「暗黒啓蒙」の「エグジット(脱出)」派のほうが目先が効いていた(イーロン・マスクの火星計画)。
 ほんとうは「資本主義」のタームで考えない方がよい。そう考えると経済について資本主義枠を絶対化することになるからだ(マルクスは近代経済学の枠組みに沿ってしか考えず、それを基準に史的唯物論とエンゲルスが呼んだものを構想した)。そこから抜けるにはカール・ポランニーの発想が必要。

 そして「資本主義」を経済学の問題と考えてはダメ。いわゆる深層心理の問題をリビドー経済という観点で捉えようとしたのはフロイトだが、フロイトはエントロピー理論を下敷きにしていた。人間的な欲望のバックに自然エネルギーの傾向を重ねて見たのだ。そこからエロスとタナトス、とりわけ「死の欲動」の考えが出てくる。

 「資本主義」と呼びならわされるものは、計測化できると見なされた「市場」を「見えざる手」によって調整させる。その「見えざる手」とは利潤の生まれるからくり(剰余価値)ではなく、「利己的」なものと見なされた諸個人の欲望であり、その欲望追及の「自由」である。その欲望は市場の仕組みと結びついて「金銭欲」つまり「儲けること・稼ぐこと」に特化される。だからどんなことをしても「富豪」は成功者であり、「価値」であり尊厳なのだ。市場の「成功者」がアイドル(崇拝される偶像)になる。

 これがアメリカ経済システムであり、「新世界」の資本主義であり、それは一九七〇年代以降世界規範となって(チリの九・一一以降)「新自由主義」と呼ばれるようになった。弱小国での「惨事便乗」と先進国における「社会の抹消」によってである。

 だから資本主義は、経済の問題ではなく欲望の問題である。
 その欲望には伝統がある。西洋キリスト教社会の伝統だ。西洋による「世界化」によって、この考え方の枠組みは普遍的=世界的なものとなった。最初に言明したのはアウグスティヌスである。それが宗教改革によって鋳直され(ルターもカルヴァンもこのキリスト教思想の定礎者に立ち戻る)、ライプニッツによって世俗世界と結節され、パスカル等を通して「欲望」と「自由」と「市場」の三位一体を近代思想として編み上げ、それと同時に社会に制度的に実現されてゆく。そうして形成されたのが、やがて世界を覆う牢獄となってゆく「資本主義システム」である。

 いまや「この道」はその自己破綻の道であることが明らかになった。破綻は批判やオルタナティヴなアイデアによってではなく、ウイルスというまったく非社会的なもの(生物ですらなく、予定調和的自然界からも外れた要因)によって引き起こされた。疫病の克服は資本主義形成期から社会編成の枢要事であり、フーコー流に言うなら「統治」のパラダイムだった。その克服・征服と市場の世界化とは軌を一にしている。しかし市場のグローバル化とともに、何かが変異するかのように疫病は質を変えてゆく。そしてとうとう出現した今回のウイルスは――というより、ウイルスに意図があるわけではないから、ウイルスによって、と言うべきだろう――ウイルスによって、グローバル経済はその基礎構造そのものを自壊させなければならなくなったのである。

 ウイルスが攻撃した、という言い方はやめよう。それは「あまりに人間的な」転倒だ。ウイルスには意思がない。ただその生態(でさえない)に従うだけだが、それが「人・モノ・カネの自由な行き来」を止めざるを得なくさせたのである。だから株価は暴落する。それに対応しようと、国々の政府は「自由な流通」を遮断する。それは経済システムをかえって止める。だから株価はさらに暴落する。「市場」が成り立たない。それに依存する現在の政治・経済・社会システムはこのパンデミックに打つ手がないのである。

 ワクチンが開発されさえすれば…、科学的に対応すればまともに、という期待は、技術の急速な発達で核廃棄物の処理法もできると言われてずっと肩透かしの現実を見ていない。科学主義は張り巡らした糸で自縄自縛に陥っている。科学的にではなく、理性的に、ということだ(科学は理性ではない←ドグマ人類学的観点)。

 では、理性的には、どんな対応があるのか?少なくとも、自国ファーストでグローバル経済を破綻させるのではなく、パンデミック制圧(他に言い方がない)のためにまず実のある国際協調の姿勢を示し、その協調をベースにグローバル経済システムを再編してゆく。いわゆる経済規模は縮小するが、その縮小は最小限に止められる。そこで息がつけるようになったところで、疫病禍(それへの対処が社会を麻痺させ壊するようにならない方向)に耐性をもつ「社会」を各国で再建してゆく。

 ただ、そんなことはトランプや、ましてやアベにはできない。彼らの政治的リソースが、ヘイト対象作りと分断・憎悪だから。だからこそ、今の「崩壊期」を彼らに任せると、「ウイルス戦争」という焼け跡の荒野に憎悪ヘイトのゾンビが跳梁することになる。つまり今度こそ「グローバルな内戦」だ。彼らが「敵」と名指したものが生きる場を失う。

近々未来小説「無観客オリンピックとその翌日」2020/03/08

ホッブス『リヴァイアサン』口絵――Etienne de la Boetie, "La servitude volontaire", Ed. Payot の表紙
 時は令和2年(2020年)3月上旬の日本。「ここが山場の二週間」も過ぎた。7月のオリンピックはどうするのか。今回は「アンダーコントロール」と大見えを切り、IOC委員も買収して東京にもってきて、今までさんざん金をバラマキ私腹も肥し、世の中乗りに乗せてきたこともあり、止めるとは誰にも決められない。せっかく始めたものは崖に堕ちるまでやり抜く。どうせ堕ちるのは国民だ。それがニッポン大本営のお家芸、オリンピックの精神だ。
 
 「桜吹雪」を散らしてくれると思っていたコロナウイルス禍、足元に火がつき始めたので大見え切って「学校閉鎖」、しかし打つ手打つ手は的に当たらず、社会生活・経済生活直撃、国中大混乱で不平噴出。無理やり株価を吊り上げてきた日銀も、打つ玉切れで青息吐息。もうこうなったら「非常事態宣言」で全権掌握だ…、のサスペンス。
 
 だが大丈夫、最近はやりの「無観客開催」という手がある。先日の東京マラソンは「大成功」、選手も観衆も出場できなかった市民ランナーも、誰も文句を言わなかった。テレビ視聴率も上々。代表決まってみんな満足。大相撲三月場所でもテストできる。森喜朗ら(JOCや政府・東京都)は渋い顔。皆で宴会、踊れる場所がほしい。とはいえコロナ禍、しかし「中止」の選択肢はない。7兆超と皮算用の「経済効果」のニンジンは落とせない。多少減ってもこれをなしにはできないし、マスク外したメンツもある。やるっきゃないのインパール作戦。
 
 折から、「第四次産業革命」が謳われている。これからの世界は人間じゃない、メカだ。面倒な観客なんていらないヴァーチャル・メディア五輪はトレンドかも。スーパーマリオだって、全面映像パフォーマンスのほうがかっこいい。3D映像で世界に配信。この機会に一気に5G化して、中国も出し抜く。客はみんな、どこでもいつでも、ゴーグルかぶってリアル映像で見る。『華氏四五一度』みたいじゃん。これだ、まったく新しい東京五輪、未来のオリンピックの先駆けかもね。
 
 実を言うと、ほんとのモデルはヒップ・ホップの無観客ライブだ。空っぽの巨大アリーナでヴァーチャル観衆相手に闇の中の電脳スペクタクル。醒めた熱狂もヴァーチャル。しかしクラウド・ファンディングで元は取れた。これからテロやウイルスの脅威で、生はますます危なくなる。電脳ヴァーチャルがトレンド、ダボス会議もそう言うよ。

 とはいえ、仲間がみんな頭古いのは隠せない。戦争と言っても竹槍、ハイテクと言ってもゼロ戦の世界。ハイテク担当大臣はパソコンもできなかった。イーロン・マスクは宇宙脱出を事業にして、つい先日もロケット飛ばしたのに。そいつらと組めば、漢字読めなくても首相は務まる(いや、使われるのはこっちか)。厚顔無恥なら大丈夫。それが脅して締め上げれば、みんな競ってソーリ大臣守ってくれる。国営ニュースはそのためにある。

ただ、アベの大本営はいつも内向き。つまり世界の視点に立つことができず、自分たちが日本という繭の中にいると錯覚している。あるいはそうしたい。世界から国内を遮断し、メディア抑えて「ニッポンすごい」の空気を吹き込んでおけば、国民はみんな思うようになると考えている。そのためのアベ応援団(日本会議、神社本庁、その他ネトウヨ)。「ニッポンすごい」の内向き国家、返す刀で、周辺諸国に向けてのヘイト推奨、その真ん中でアベが輝く。「令和」すごいね、ニッポンだけの「世」を刻む元号。

とはいえそこに、国境を透過するコロナウイルス。共通の関心事だから、世界は日本の一挙手一投足を見ている。何で日本は一月経っても感染者300人? クルーズ船では700人も出したのに、とアベの日本に厳しい目。そして4日のニューヨークタイムズの記事、「世界の脱出王」(縛るお縄がないことにして、いつも追及を逃れる)。アベは裸の王様と言われてきたが、繭の中では気分はショーグン、「わたしは総理大臣だから」。外から見ないと、裸だと指摘できない。だからここでも日本改造には黒船頼りか。そうではない、今はグローバル世界なのだ。裸踊りが通用するのは、繭の中でも周りで諂う取り巻き連中だけ。ただし、その「周り」が「自発的隷従」の鎖を固め、権力の「無罪」を作っている。そしてこの鎖は「ヘイト排外主義」の針金で織りあげてある(リヴァイアサンの口絵を飾ったあの王の肖像を見よ)。

アベの毒が繭の中にとどまるうちは世界も醒めてみているが(アホなニッポンだ!と)、コロナウイルスもオリンピックも世界のイッシュー。だから「無観客開催」ができるかどうかは、放映権料で胴元IОCを動かすアメリカ・メディアがどう出るかで決まる。秋にはできない。一年後も五輪史上例がない。

アベの「緊急事態法」はコロナ制圧のためではなく、繭の日本を守るため。そしてインパール作戦敢行のため。さらに途中で作戦が崩れたとき、つまりオリンピックが召し上げられてできなくなったとき、人心失意・経済破綻をはじめ、国内の政治・経済・社会にわたる混乱を抑えて、アベの大本営が責任をかわす時のため(だからスガも「ただちに影響はない」、とエダノ風に説明した)。そのときには、コロナ患者数が膨大になっているが、国会は閉鎖されるだろう。

しかしそれが、「アベの日本」の断末魔。大本営は逃げ出し、繭は崩れ、国民はアベノミクス(企業のために民を搾り取って数値を上げるフェイク経済)と人心荒廃で焼け野原の日本に投げ出される。その「敗戦後」の日本にアメリカ占領軍はおらず、我が物顔で歩くのがアベを支えアベに養われたレイシスト集団だとしたら、「敗戦」の元凶として「反日狩り」が猖獗する。いずれにしても、それが「オリンピックのレガシー」だ。

イヤーなシナリオだが、いまアベ一党(アベを支える「自発的隷従」体制)を崩さなかったら、そしてアベを放逐しなかったら、かなりリアルな近々未来だ。中国SF『三体』より、冷たいロマンのかけらもないだけむくつけきリアル…。

*   *   *

読者(池田さん)――
先生の地獄シナリオは、避けたいけれど本当にそうなりそう。
これを覆したいとは切に願いますが、現実的に、どうすれば安倍晋三を辞任に追い込めるか、どんな手段があるかアイデアがあればぜひあげてください。

とにかくアベに退場してもらうしかないでしょう。この人はほんとに異常な人で(漢字も読めないからアベとルビで書いていますが)、自分の権力を無制約にすることしか考えていません(「私は正しい、だって私が総理大臣なのだから」)。そして周囲を脅して「自発的隷従」体制を敷いています。議論なんか受けつけない。だって「私が総理大臣なのだから」。しかし、これを取り除かなければ日本の政治も社会政策も機能しません。これがいなくなれば、コロナに対しては誰がやってもそれなりの対応にはなるでしょう。ともかく、国民・メディア監視の下、実務官僚や現場の医師たちに忖度・拘束なしに働いてもらうことです。アベがいるかぎり、あらゆる危機や自分の無能が引き起こす混乱を、すべて「指導力発揮」と権力強化の機会にしようとして、ますます混迷を引き起こします。何でもアベのせいにする、と言われそうですが、そのぐらい異様な首相だということです。試しに、アベを隔離してみたらどうでしょう。それだけで状況はガラリと変わります。民主党政権の原発事故対応程度にはなるでしょう。

あっ、ご質問に答えていませんね。安部を辞任に追い込めるのは、公明党と自民党内部しかいないでしょう。議論はいっさい受けつけず、野党の攻撃はみんな素通りして数で押し流すのがこれまでですから(脱出王!)。アベではいくら何でも自民党ももたない、と自民内部に気づかせねばなりません。だからメディアによる総攻撃が必要ですが(支持率致命的に落とす救国大作戦!)、そのときにフジ・産経だけでなく、「官邸記者クラブ」がテッペキの防御を固めていますから、まず、ここを崩すのがいちばん効果的でしょう。あとはダーッと崩れます。官邸記者クラブはそれぐらい罪深い。

「緊急事態」はどこにあるのか――アベ政権の無能と弊害2020/03/07

コロナウイルス禍の緊急時にあり、国を挙げてその対策に取り組まなければならないから、その点では政府に協力する、それが大人の(政権交代ができる)野党の姿勢とか、思っているのかもしれない。しかし、それはあさはか。

・自民党は(とりわけアベは)民主党政権下の3・11のとき、デマを飛ばし中傷し、対策に当たる政権の邪魔をする先頭に立っていた。

・そのアベ政権は、憲法に緊急事態条項を入れることを前々から目論んでいて、今回のコロナウイルス危機を奇貨として緊急事態法制の上程が取りざたされていた。

・その自民党内の機運をバックに、コロナ危機への初期対応のまずさと胡乱さ(感染を抑えたいのか数だけ少なく見せたいのかまったく分からない)、それによる諸外国からの非難の中で、それまでは厚生省等に任せて前景に出なかったのに、お友達(反中親台派)の進言もあって唐突に会見を行い、「春休みまでの一斉休校要請」で、求められてもいない「指導力発揮」を演じて見せた。それが後先みない思いつきだったことは、翌日から全国で始まった学校・家庭・職場関係の大混乱で露呈した。

 その上、反中派お友達の進言とかで(本人がツイッターで自慢している)、時機を逸した中韓入国規制。何より協力が必要なときに、この敵対行為は、ただでさえ弱体化している日本経済に致命的な打撃を長く与えることになる。

 そうした大失政を糊塗するように、危機対応のためとして緊急事態法制(言い出して、直後に民主党政権下でインフルエンザ危機に際して作られた法律があることが分かり、修正案とする)を持ちだしてきた。立憲民主党は、それが民主党政権下で作られた法律の修正であるということで、この改正案審議に協力するという。

・現実的で有効な感染拡大への対処は何もせず、この法改正が緊急対応だというのはまったく倒錯した話である。そのうえ、法的根拠もないのに、アベ政権はすでに「緊急事態宣言」の真似事をやっている(最初に北海道知事にやらせ、すぐに自分もやってみた)。すると日本社会は、頼るものがないから不安に駆られ、皆がわれがちに防衛に走る(マスク、トイペ消滅、生活混乱に右往左往…)。その上に、アベの無策と思いつきを事後的に合法化する法改正をさせるのは、その大失政にそれを握りつぶす権限を与えるようなものである。

・「危機」が何かがまったくわかっていない。「危機」はコロナウイルスの感染拡大を背景に、政権の居直り居座りだけに汲々として逃げ回り、逃げ道を塞ぐことだけに血道を上げるアベ政権がこの時期にも居座っていることである。緊急事態だというのなら、この内閣を「隔離」して(十四日間だけでなくその後も)、日本の国にあるリソースで実務内閣を作って官僚を働かせ、次の選挙まで統治させることだ。それがどれほど見通しの立たないものであっても、火事場で泥棒を働くようなことにはならないだろう。

 立憲民主党にはそれを引き受ける覚悟などないのだろう。

 前々から言われているように、日本の「国難」はアベ政権の居座りそのものであり(日本の政治機構を根本から腐らせた)、降りかかったコロナウイルス禍が、それに利用されることになったら、日本のこの先はまったく目も当てられないことになる。すでに「末世」になっている。その「末世」の底を抜こうとするも同様。

・極端な主張と言われるだろうか?いや、極端なのは、アベのような人物がこの国の首相であり、それが長期に続いているという事態そのものだ。

 アベはこの間、「桜を見る会」関連の国会で居直り、言い逃れに終始し、検察人事まで捻じ曲げてアベ後の疑獄案件に備えようとし、クルーズ船対応に始まるコロナウイルス問題には関わらず、必要な対応予算を組み込むことも拒んで(感染症研究所の予算さえ削減され続け、ほとんど動けない)予算案だけを通し、大事になり始めると、ネトウヨ友だちの意見だけに乗って、場当たり見せかけ対応だけをして混乱を増大させている。これこそが「危機」でなくて何なのか。ここで言われたことは、いささかも極論ではなく、原則論である。

コロナウイルス対応、日本の倒錯した現在2020/03/05

*急ぎ、基本的考えをまとめてみた。

 アベ首相が会見で「全小中学校休校」の要請を出し、緊急事態のマネごとをして以来、日本社会には異様な気配が漂っている。コンビニ・薬屋の店頭からマスクが消え、トイレットペーパーも消え始め、街や電車でマスク(手に入らない)をせずに軽く咳するといっせいに白眼視、大観衆の集まるイヴェントだけでなく、あらゆる種類の会合が「自粛」され、街は閑古鳥(そこに行き場のなくなった小中学生がふらつく)、北海道では知事が「非常事態事態」を宣言し(どういうことか?)、週末も人びとは自宅に閉じこもる。
 
 背景には、政府のコロナウィルス対策への迷走がある。クルーズ船横浜入港以来の政府の胡乱な対応だ。政府は水際対策として、クルーズ船の入港・乗客上陸を拒否しようとしたが、感染者を含む4000人の載る船を洋上に追放することはできない。そこでどういう対応をしたかはしだいに明かになる。結局、船内では20%近くの罹患者を出しただけでなく、対応スタッフをも感染させ、そのあげくに、アメリカなどに洋上封印を批判されて、今度は乗客をまったく無防備に散解させてしまった。

 この間、はっきり見えた政府の方針らしきものは、WHOに働きかけ(研究資金も提供して)、クルーズ船の罹患者を日本の患者発生数とは別扱いにするということだけだ。その甲斐あってか、発生後一月経った三月初めの今でも、WHOはその区別を維持し、その発表によれば、日本の患者発生数はいまだ300人余程度で、他の国々(韓国、イタリア、イラン、フランス等)と較べても、際立って少なくなっている。日本は感染抑止に成功しているのか?
 だが、官邸メディアと揶揄されるNHK報道でも、しばらく前からクルーズ船罹患者(日本領内で発生したことは否定できないから)も含めてカウントし、三日には1000人を超えた(1022人)と伝えている。この違いは何か?NHKは少しはまともになったのか?いや、あまり数が少ないと、コロナウイルスの流行が深刻でないことになり、いざというとき「緊急事態」などと言い出せないからだ。

 その矛盾のからくりは、昨日の読売新聞が明かしている。日本政府は「コロナ感染の危険が高い」というイメージが世界に広がることを懸念し、3日にも政府は、世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長が「日本など4か国を最大の懸念だ」と述べたことについて、事実に基づいて発言するよう申し入れ、それを受けテドロス氏は「中国以外の症例の8割は、韓国、イラン、イタリアだ」と発言を軌道修正した、とのことだ。

 要するに、見かけ操作だけが一貫している。それも国外と国内とでは違う対応。世界には「日本は安全」と働きかける。もちろんそれは、当座は7月に迫った東京オリンピックのためだろう(当座というのは、そのオリンピックも「ニッポンよいとこ美しい国!」の情宣機関となった外務省の仕事の目玉ということだが――その「美しい国」の裏面が韓中ヘイトだ)。オリンピック実施の決定権はIОCがもっている。そのIОCも、実施してナンボの営利団体胴元だから、何とか実施を後押しする。

 ところが、安倍政権は、今年の冒頭から「桜吹雪」で大わらわ。利益供与先に責任すべて押しつけようとするが、次々にボロが出て、もはや文書(領収書)の隠蔽・破棄・改竄も通りこし、あからさまな無法を数で押し通すしかなくなっている。もう何度目か。それも「証書チリ紙吹雪」は単発ではなく、経産相・法相は疑惑で辞任、そこにIRカジノ利権疑惑で議員逮捕(あとは放置されている)、官邸子飼い議員の選挙違反騒動(自民党内抗争)、おまけに国会ガチンコ稽古化の無能閣僚漫才、そうして無理だしの奥の奥の手、検察を無法化する異常人事、と重なって、いくらなんでも日本の政治は「アベの末世」を隠せない。

 だからこそ、首相周辺からはコロナウイルス禍を「神風邪」と喜ぶ声も出る。疫病対策に名を借りて、「国難だ」「挙国一致だ」と言えば何でもできる。四の五の言っている場合ではないと「桜吹雪」を後景に押し退ける。あろうことか、みずからの無能が引き起こした混乱(冒頭の社会不安)に乗じて、「緊急事態」を法制化しようと言うのである。この政権はいくもそうだが、騒ぎを引き起こしては、そのドサクサを権力強化に利用する(森友・加計問題に火がつくと、「共謀罪」で火をつけてまんまと通す)。

 言うまでもなく「緊急事態」は、非常時だからとして私権(自由や権利)を制限し国家に権限を集中するための法令である。これを持ち出すためには、事態が深刻だとして社会不安を作らなければならない。つまり今なら、コロナウイルス禍が一般の不安を広げていないとまずいのだ。だから国内では罹患者1000人越えを認める(学者にも、実際にはこの10倍と言わせる)。

 要するに安倍政権は、コロナ対策をはなからしまいまで、みずからの権力維持の政治的配慮によってしか行っていない。そして、それを合法化することになるのが「緊急事態」云々なのだ(民主党政権時に成立したインフルエンザ対応法の改正として出す、といっても本質は変わらない)。黒川某の定年延長と同じである。「桜吹雪」政権が出してくるその法案成立に、主要野党が協力するというのだから目も当てられない。国会休止の権限与えるのか。合法独裁だ。
 
 基本を言えば、疫病対策はむしろ福祉案件であって、管理統制(安全保障)案件ではない。近代国家は初めから「公衆衛生」を「管理統治」のパラダイムと見なしてきた。しかしそれがいわゆる全体主義国家の骨組みとなったのである(ナチズムの生物学主義)。だからこれを分離するのが、それ以後の国家あるいは政治の課題だったはずだ。そのことが、グローバル新自由主義下のマネージメント国家化によってまったく見失われている。
 
 政府の対策会議に加わっている医師でさえ、北海道の患者数が認定発表で88人という時期に、実数は900人超でしょうねと言っていた(NHK)。限定的にしか検査をしていないということが織り込まれているからだ。だとしたら現在、全国では患者は優に一万を超えていると見なければならない。
 韓国やイタリアで急速に罹患者数が増えたのは、ともかく検査をしているからである。検査をしなければ実情が把握できない。それでは対策のしようもないだろう。もちろん特効薬はないが、感染拡大を防ぐためにも、患者の救済のためにも、実情把握がまず第一であるはずだ。ところが日本政府は、態勢が整わないとかで検査を受けさせない。症状が出ていて医師が求めても、条件に合わないからと検査を拒まれる。罹患者数が少ないのはあたりまえである(3月初めまでで東京都の検査件数は350件―NHK)。
 
 その理由が、厚生省と結びついた保険医療体制の縄張り争いに絡む官僚体質にあるのか、検査方針を策定した厚生行政(政府)の意図にあるのかについては、すでにいろいろ情報が出ているが、ともかく感染の広がりを抑えるより、数値を増やさないことに政治の優先配慮があることは明らかである。アベ政権の下での官庁の文書改竄・隠蔽・捏造・廃棄体質と根は同じで、数値操作が「対策」の軸になっているということだ。
 
 それでは感染の広がりは抑えられないが、その倒錯したやり方を上塗りするかのように、安倍首相は唐突に「学校休止」を要請し(事実上の「緊急事態」を表明だ)、日本中を混乱に陥れた。昨日(3/4)の院内集会の模様は「一斉休校の発表後現場は地獄、保育施設関係者が訴え」と伝えられた。何の準備もなく、それまでの対応(感染は低く抑えられていると宣伝)とは矛盾したやり方で、社会的な混迷を深めている。このうえ「緊急事態」を敷く権限を政府に与えることに何の意味があるのか。「緊急事態」と言うならまず政権が退場しなければならない。この政権の権力拡大を許すことはできないし、政権自体が抱えている混乱と無法をまずは排除しなければならないからだ。
 
 そして、「国を挙げて」踏まえなければならないのは、疫病は「戦争」ではなく「災害」だということ、必要なのは「国家による統制」ではなく「救援・介護」の体制をまず整備するということである。具体的には、①まず検査させる ②実情把握 ③地域別対応。国は予算つけて地方行政と医療体制を支援、それと研究、全般対応だ。今の政府はまったく逆のことしかしていない。

(現実味がないとすぐに言われるだろう。次の内閣ができないから、と。そんなものはとりあえずどうでもよい。官僚たちをアベ権力への「自発的隷従」の軛から解き、国民のためにもてる能力を発揮してもらう。地方に対応権限を委譲し予算も出し、現場から必要な対策治療をやってもらう、等々、があれば国の態勢は持ち直す。アベ自民党が権力を握っているかぎり、日本が泥海に沈むのは避けがたい。

 何でもアベのせいにする、という声が聞こえてくる(先日も近くの主婦に言われた)。だが、それが事実だから仕方がない。それを認めない人びとがアベ長期政権をここまでもたせてきた。その結果、もはやアベが退陣しても問題は片づかないほど広がり根をはっている。それでも元凶は除去しなければ後が始まらならないのだ。)