『私たちはどんな世界を生きているか』追記2021/01/07

 私は元々はフランス文学・思想の研究者でした。とくに「世界戦争」という極限状況を生きた作家・思想家たちの遺したものから「世界戦争」の意味(西洋文明の成就)と、その大破局によって人間の生存条件がどのように変わったのかを考えてきました。それは『不死のワンダーランド』や『夜の鼓動にふれる』といった著書にまとめましたが、日本人がそんな一般的(人類的)な考察をすることの意味もいつも考えてきたつもりです。私たちは技術・経済・政治の世界的な趨勢のなかに生きていますが、抽象的な人類として生きているわけではなく、日本という言語・社会環境のなかに生きているからです(そういう観点からの「歴史」批判を『世界史の臨界』で試みました)。

 それは「冷戦期」の終った頃でしたが、その後、二十一世紀に入ってアメリカの「9・11」が起こり、冷戦に変わる世界戦争のレジームとして「テロとの戦争」が打ち出されました。そして日本には「3・11」の大災厄が起こりました。それはもちろんヒロシマと同じように世界的かつ文明史的な意味をもつ出来事でした。

 けれども先端技術・経済を動力として現在の世界は、そうしたカタストロフを流し去るようにして、人びとの日々の生活を「未来」の蜃気楼で包んで「前に」進んでいるようです。人類の時間は長いけれど、一人ひとりの生きる時間は限られています。その限られた時間の視野から、私たちは今ある世界との関係を考えています。その尺度から見ると、私のたちの生きているこの世界(そして日本)は、いまいったいどんな状況に置かれているのか、そのことを技術・経済・政治のファクターをもとに示してみたいと思ったのが、この本を作ることになった動機です。

 この思考法には、少なくとも二つの哲学的前提があります。
ひとつは、現在私たちの生きている世界が西洋で作られた規範体系によって組織されているということ(知も制度も意識も、普遍を主張してみずから世界化したその規範体系が標準になっている)。そして、そこに憑依し、あるいは進んで同化するのでないかぎり、私たちは違う来歴をもちながら同化された地域(場)で生きており、その境界は“人間”(言葉を話す生き物)であるかぎり無視できない、ということです。

 簡単にいえば、翻訳は今は便利な機械でできても、日本語で生きることと英語で生きることとは違うということです。ただしそれは、分断のために言うのではなく、分有が可能になるために言うわけです。言いかえれば、普遍は共同ではなく一元化と統合であり、それは超越的ないしはヴァーチャルなものであって、個物の立場に立つことで初めて共同性が可能だということです。

 このことをわざわざ書く気になったのは、『AERA』年末新年合併号で、生物学者の福岡伸一氏が望外の書評を書いてくれたからです。じつは私の「生命の有限性」に関する考察は、ジョルジュ・バタイユが『エロティシズム』で展開した思考を、福岡伸一氏の「動的平衡」という考えで裏打ちしています。直接の話題としては取り上げていませんが、私の「世界論」(「世界はなぜ存在しないか」などというバカな問いを私は立てない)のそこかしこに福岡氏は私の考えの「方法」を過たず読み取ってくれたと感じています。

 それは書評冒頭の、ものごとの理解にとっての「歴史的観点の不可避性あるいは必要性」の指摘にまず表れており、後半の以下の記述はその核心に触れたものです。引用させていただきます。
「(…)それは人間の有限性に対する正常な感覚が失われつつあるからだ。著者は、これを『人間の生存空間、生存領域は成層圏の中』にある、という象徴的な言葉で表明している。この有限性を無化するために作り出されたものは何か。それこそがバーチャル次元である。そしてそれがゆえに『人間の生存の条件そのものを脅かしている』。ここには我が意を得たりという思いがした。」

 これこそは「我が意を得たり」ですが、以下、ロゴスとピュシスに関する福岡氏のコメントは、私が最近折あるごとに引用する箇所でもあります。

 「私は、朝日新聞のコラムで『ウィルスを、つまりもっとも端的なピュシスを、AIやデータサイエンスで、つまりもっとも端的なロゴスによって、アンダー・コントロールに置こうとするすべての試みに反対する』と書いた。ここで言うピュシスとは、人間の生命を含めた“自然”という意味である。自然とは絶えず流転し、生と死があり、有限なものである。ピュシスとしての生命に対する、ヴァーチャルという名のロゴスによる無制限な侵攻にいかに抵抗すべきなのか。そのための正常な感覚こそが『哲学』であるということを宣明した画期的な論考である。」

*なお、『現代思想2020年9月臨時増刊号 総特集=コロナ時代を生きるための60冊』に、福岡氏の『新版 動的平衡』を挙げ、「生物学の工学化に抗する」という一文を寄稿しました。

「アメリカ黙示録」時代の「思想地図」2020/12/27

 ――イギリスの民間調査機関が、コロナ・ショック後の予測として、2028年には中国がGDPでアメリカを凌駕するという調査結果を発表した。5年前の調査では、その時期は2033年だった。(NHKウェブ・ニュース)

 たぶんこれ、実はショッキングなニュース(「アメリカ」は発狂するかも)。トランプの中国強硬策が選挙運動に使われたのも、バイデン政権がその方針を踏襲するらしいのも、中国が経済的に米国を凌駕することに「アメリカ」は耐えられないから。

 戦争はやってみないと分からない(と思われている)が、経済は自分たちの作った指標で数値が出てしまう。世界に冠たる「アメリカ」が、アジアの蒙昧なチャイナの腐れ年寄りが若返りを狙って歪な共産主義で復活して、とうとう「文明(=西洋)の頂点」アメリカを凌駕する!これを「アメリカ」は許せない。

 だから最近の中国叩き・中国敵視(しかし、90年代のアメリカIT企業転換にも、その後のリーマンショックから立ち直るためにも、中国の「成長」があったからこそアメリカ経済は進展してきたのに、それが許せないというのはいかにも理不尽な独善だと言わざるをえない)。いわゆる「西側世界」はそれに乗り、いっしょになって制裁姿勢。

 中国が軍事大国化するのは、この百年ずっと西洋諸国に食い物にされ、復興するにもつねに封じ込められて、その上、台湾を使って喉元にミサイル突きつけられ、東シナ(!)海も米第七艦隊で我が物顔の圧力をかけられてきたから当然のこと。習近平の独裁志向に国内向けの偏りが強いとしても、それが可能になる(いわゆる民主化が進まない)のは、米枢軸の西側圧力が攻撃的なため(中国人なら、中国が外圧で圧迫・解体されるのを望まないのは、この百年を歴史を知っていればこそあたりまえ)。

 日本のいわゆる識者・解説者等は、骨の髄まで「アメリカ」に染まっているので、西洋による世界化のプロセスも、アジアのこの百年の歴史も一顧だにしない。現在の世界構成(歴史なき地政学)を天与のものと思い込んでいる。

 西側世界が追従する「アメリカ」の独善は、西洋白人文明の卓越という「近代」普遍主義から来ている。だが「アメリカ」は異民族抹消の空白の上に築かれた「自由」の人工世界。その成立には、異物のラジカルな蔑視と略奪と他者抹消を当然の「権利」とする、根本的倒錯がある。その倒錯を「啓蒙」のネオンの光で粉飾し、世界を魅了したのが二十世紀に世界の鑑(自由と民主主義!)となった「アメリカ」である。

 その「アメリカ」が虚飾を維持できなくなる。その時が近いという「発表」だ。「終りの日が近い」、アメリカにとって今は「黙示録」的時代なのである。だからこそ「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」のトランプが大統領になり、そのフェイクがあからさまになった今、「アメリカの精神」は完全にカルト化して「トランプ・アゲイン」のネット・メディア地下水脈に広がっている。

 その上澄みできらめくのが「暗黒啓蒙」の思想(ニック・ランド)、筋金入りの西洋文明至上主義であり(ポピュラーなレヴェルではあらゆる類の「ヘイト」現象として発現)、その上にヴァーチャル・テクノロジーの天蓋をかけて世界を引っ張っりつつ、みずからは「世界」からの「エグジット(脱出)」を試みる、シリコンバレーの「自由主義者」たちの使い走りたる「加速主義」であり(マルクス・ドゥルージアン)、さらに涼しい顔で世界のデジタルIT化を加速して「公私」を混淆させ、虚構の富を掌中に収めて世界の「生きたアイコン(偶像)」となっているのが、IT企業長者たちである。彼らは「思想」(人間が考えること)を解消したため、名前がない。だがそれにみごとに名付けた者もいる、「シリコンバレーの解決主義」と。

 これが現在の「アメリカ終末論」の「思想地図」である。

*「アメリカ」に括弧を付けたのは、「アメリカ」は国の名前ではないからだ。それは「新しい西洋」として作られた「制度的空間」の名前である。『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ)参照。

人工知能に鮫の皮――「おぢいさんのランプ」に寄せて2020/12/27

 私たちが小学校の頃は、年に二、三度、学校で映画の上映会があった。もちろん、文部省推薦映画とお墨付きのあるものだ(その頃の文部省は多少ともまともに「教育」に向き合っていた)。筑豊炭田で父を失い極貧を生きる在日少女の手記を映画化した『にあんちゃん』(今村昌平)などもその機会に観た。ほとんどは忘れてしまったが、その後何度も思い出し、いまでも印象を刻んでいるのは『ランプ屋おじいさん』という映画だ。いや、後で知った新実南吉の原作通り『おぢいさんのランプ』だったかもしれない。

 孤児の巳之助が初めて都会に行ったとき、ランプの街並みに魅せられ、ひとつ安く譲ってもらって以来、町の行燈屋に恨まれながらランプを売り、店を構えるまでになる。それで繁盛して生活も安定するが、あるとき町に電気が引かれるようになり、ランプはまったく顧みられなくなる。巳之助は悔しさのあまり、区長の家に火をつけようとするが、マッチ代わりにもってきた火打石では火がつかない。古い道具は役に立たないと思った己之吉ははっとして憤りから醒めた。その夜、仕入れていたランプをみんな池の端の木に吊るし、石を投げて割るが、それも途中でやめて、街に出て新しい商売を始める。

 倉の中からランプを見つけて遊ぶ孫をつかまえて、そんな昔話を聞かせるおぢいさんがその己之吉だったという話だ。

 文明開化の時代に、目ざとく灯油ランプを売って財をなした者が、それを駆逐する新しい電気を憎むが、自分が成功したのもじつは新規の技術が普及すると見込んだためだったと気づくのだ。映画のメッセージは、子供の記憶の中で、高度成長期の花形企業(文字どおりナショナルの)松下電器の創業者松下幸之助とも重なった。文明開化と技術革新によって進歩し変わる世の中にどう向き合うかという教訓がそこに生まれる。

 ただ、若い新実南吉(二十九歳で没している)の老いた主人公は、時代に従うべく電器屋になるのではなく、灯りの革新とは縁のない(明かりのもとで読まれるわけだが)本屋になる(そのことは今回確認するまで忘れていた)。

 この話が近年とみに脳裏に去来するのは、「おぢいさん」と呼ばれるにふさわしくなった私自身が、技術革新と時代の波にいま思想上で逆らおうとしているからである。ひとことで言えば、デジタルIT化の趨勢に「生きたからだ」を押し立ててさからおうとしているのだ。その趨勢は、「この道しかない」と言われた(そして事実世界がそれを受け入れている)「新自由主義」のレールと不可分である。

 別の言い方をすれば、ドゥルーズ以来のマシニックな欲望の解放の理論と、認知科学を思考に置き換える科学主義への、時代遅れと言われもする「無駄な」抵抗である。このことを、「人工知能に鮫の皮」と表現したら(春秋社ウェブ連載『疫病論』)、昔から信頼しているある知人に「それでは誰にも分からない、理解されない」と言われた。その表現の発想自体が「おぢいさん」のものということでもあるだろう。言いたかったのは、コロナ禍を奇貨として加速し(ドゥルーズ的加速主義!)世界を舐め尽すデジタルIT化の津波に、鮫の皮をあててワサビのように擦り下ろすということだ。

 そんなことをすれば、かつては「ラッダイト運動」(資本主義化する世界の最初のテロリスト)とバカにされたことだろう。だが、核エネルギー技術と遺伝子工学によっていわゆるテクノロジーと人間との関係が根本的に代わり、人間がヴァーチャル次元に呑み込まれつつある現在では、「技術への抵抗」しか人間の生き延びる道はないのである。

 けれども、その危惧も、脱皮について行けない古い人間の古い思考としかみなされない。進化論に従えば「ポスト・ヒューマン」は不可避だというわけだ。あるいは、ヘーゲル以来の保守的・内在的な「人間主義」に止まることなると。しかし、その言い方こそが、西洋啓蒙思想の懲りない「進化」、それが目標とする「リアル(もの自体?)」からの「エグジット」(脱出主義)を正当化している。

 すでに70年も生きてきたのだから、四の五の言わずに何もできなかったことを認めながら世の中から「引退」するのが「大人の道」とも思うのだが、思考の世界でも、ヴァーチャル化の流れに掉さす連中ばかりが「新しさ」を売り物に跋扈する「今」を見て、だからこそ死ぬわけにはいかない(誰のため?)と、ひたすら鮫の皮を磨く毎日である。

 新実南吉は早くから腎臓病を患い、わずか二十九歳で亡くなっているが、死の前年に『おぢいさんのランプ』を出版した。彼は若くして晩年を知り、電器が世界を変えてゆく一時代を生きた「おぢいさん」に、技術革新とはとりあえず縁のない本屋を開かせた。読み書く世界だ。いま、その「読み書き」がデジタル・ヴァーチャル化によって淘汰されようとしている。そのとき「おぢいさん」は晩年を永遠の「若さ」として淘汰される世界にあくまで留まろうとするのである。

★舵の効かない「Go to」五輪2020/12/03

もう12月、明ければオリンピックだそうだ。コロナ下でのオリンピック強行開催(準備をコロナ下で進めなければならない)。大勢の選手団や関係者に来てもらわねばならない。「オモテナシ」のために、政府はワクチン接種を入国条件とせず(一部の国しか間に合わない!)、交通機関の利用にも制限をかけないという。ただ、感染監視アプリを義務付けると。それで、大量の五輪観光客を受け入れ「移動の自由と感染対策の両立を目ざす」のだそうだ。

日本の政治環境はそれで通っても(そんなことを政府が平気で発表できる!)、世界のまともな人びとも政府も、デタラメさと無理やり五輪開催国の無責任ににあきれるばかりだろう。世界に混乱を招くばかりだからだ(「Go to」観光客はいざ知らず、国も選手たちも困惑する)。

オリンピックはアベ・スガ政権の性格というより、今の成長戦略会議に引き継がれたこの間の日本政府(野田内閣以来!)のグランド・デザインに従って、アベ内閣が目玉として据えたプランで、この間の日本政府の全般政策の牽引車、やるしかないものになっている。もはや路線変更ができない、その能力がないのだ(だから「インパール作戦」にもなぞらえられる)。

コロナ禍は降って湧いたその障害。だからこのパンデミックに際して、日本では対策は初めからオリンピックに支障をきたさないことだった(クルーズ船の頃)。2020年にできないから中止というのでなく、無理やり延期に持ち込んだ(4年毎に一度というのはオリンピックのアイデンティティ)からなおのこと、世界に何と言われても実施を目ざすだけ。

だからコロナ対策は、基本すべてオリンピック実施対策。それがすべてに優先する。コロナなど迷惑でしかない。四の五の言うな、下々はみんな自分で「自粛」し合ってコロナを抑えろ、お国はオリンピックにまっしぐら、「Go to 五輪」の一点張り。その無理も半分わかっていても、もう誰も舵を切れない。

その政治の盲点は、アベ・スガ日本がトランプに期待したように、政権自体がもう内向きになっていて(支持率高いから)、世界からどう見られるかがまったくわかっていないことだ(外務省は臆面もなくドイツ都市の慰安婦像設置に抗議したりするし)。トランプにすり寄れば、その時点で世界からは顰蹙を買うのに、その草履もちになることを「影響力がある」と勘違いする外交感覚だから。

いま世界で、オリンピックに関心を向けている国などひとつもない。みんなコロナ対策が最優先課題だから。スポーツの記録競争より、ワクチン開発・獲得競争。それはそれで、倒錯的ないわゆる「科学の政治利用」だが、とにかく国民の健康・生命維持が第一課題ということで、日本にオリンピックをやってくれなどと誰も期待していないのだ(競馬馬のように目によそ見禁止の覆いをつけている選手たちは別として、というと競馬馬に失礼か、馬は好きだが、人間のアスリートは馬ではないだろう)。

★なぜ「Goto」はダメなのか?2020/12/02

 コロナで誰もが出控えると、各地の観光業とその周辺で生活する人たちの経営が破綻し困窮する。その人たちの数は半端ではないから、地方にとっては(都市圏にとっても)重要だと言われる。だから、人びとがコロナを恐れず積極的に旅行して消費するよう促すのがこのキャンペーンである。そのために旅行や旅先での消費に半額近くの支援をする。その支援が旅行者の消費として交通・宿泊・飲食業者たちの売り上げになるということだ。

 だが、一方でコロナ感染が広がりを見せ、病院が逼迫し始めているのに、人びとの移動(それも団体が多い)や行楽を推奨する(誘い出す)というのは、政策としてまず倒錯している。文字どおりアクセルとブレーキを一緒に踏む政策だ(一方で「我慢の三連休」とか言い、同時に「Goto」は「適切に推進する」と言う)。

 それに、なぜ困窮者・困窮業界に直接支援しないのか。たとえば、ここ三年間の営業実績のたとえば七五%までを補填支援するとかは、税務署の申告に照らせばすぐにできることだろう(還付の届け出口座を使えば振込みも適切かつ容易にできる)。

 それを観光クーポンのような形をとろうとするのは、"経済"があくまで個人の欲望にもとづく"消費"によって回る、という新自由主義的な考え方のためである。そこでは購買行動は、あくまで個人の自由にもとづくもの、そして自己責任である。自己責任で「自由」に動いてもらう。それによって"経済"を回すというのだ。

 だがそれは、暑いから扇風機を回したいというときに、電流を通してモーターを回すのではなく、風を待っている人たちに団扇を配って扇風機を扇がせるようなものである。扇風機はトロトロと回るかもしれないが、それでは少しも涼しくないし、すぐにまた止まってしまう。

 なぜそんなバカげた政策に固執するのか? ひとつには、直接給付は利権を生みにくいという今の政治家たちの都合がある。それと、観光業インフラの維持は新自由主義化した国の経済にとっては至上命題だからである。

 だいたい、なぜ地方はここまで観光業に依存するようになってしまったのか?地場産業は非効率で競争力がないというので淘汰させ、地域商業も衰退させて、地方にはもはや自力で経済を成り立たせる構造はなく、あるもの(地域遺産)をPRで粉飾し、呼び込みで"観光客"の足を運ばせてヴァーチャル商品を"消費"してもらうしかないのである。
 (元々、これは世界的には七十年代のユネスコの世界遺産指定から始まった。観光業とは、原料の要らない、"消費"だけで成り立つ最後のインダストリーなのである。)

 国内でいえば首都圏・都市部と地方だが、日本はいま国としてもそのような段階に入っている。もう作って売るものがない。だから国を挙げて「インバウンド」頼み、「オリンピック」はその実情を糊塗して花火をあげる「観光業化」のあられもない姿だ。

 このコロナ禍のさなかでも、日本の地域農業に決定的な打撃を与える「種苗法改悪案」が国会を通過した。グローバル化に適合するとしてこの間採られてきた日本の経済政策が、コロナ禍下でも相変わらずの路線として進められている。

 「デフレ脱却」を掲げて、日銀がどんなに円札を刷りまくっても、"消費"は伸びず、物価は上がらない。そして7年経ってもインフレ目標2%は永遠に達成できないのだ。それもそのはず、"消費"しようにも大多数の人びとにはその余力がなく(賃金抑制、非正規雇用増)、大企業は内部留保を増やし、国策株高の恩恵を受ける資産家や小金持ちだけが奢多品を消費するだけだからだ。

 ついでに言っておけば、政府はこの春から医療充実にほとんど手を打っていない。むしろ決まっていた医療の合理化・スリム化をそのまま進めている。それも、"受益者負担"の考えに立つ新自由主義的「改革」だ。

 だから「コロナ危機」は、「命か経済か」つまり、保健衛生か経済対策かという二者択一のジレンマを引き起こす。その時点で国の行政は破綻しているといってもいいのだが、だから一方で「自粛」つまり「自己責任」論理で脅しながら、コロナに委縮せずどんどん旅行に行きなさい、といった倒錯的な政策が出てくることになる(そして政府「専門家」たちは、それに異を唱えられずにオロオロし、子供でも分かるマスクの使い方を「専門家」として訴えている)。首相が誰であろうが、今の自民党政府はこの出来上がったレールの上で走ることしかできないのだ。

 地方で観光業で生活している人びとも、「Goto」に期待などせず(それでは長期的にも暮らしていけない)最も妥当な直接給付を求めるべきだろう。そして長期的には、観光業一辺倒から脱却する道を探らなければならない。予算が…という言い訳は、日銀に無制約に札を刷らせ、年金資金も株に投入している政府の言えることではない。

(経済の細かいことはわからないが、大筋は間違っていないと思う。ぜひ、経済学に詳しい人に詳述してもらいたい。)

フェイクな「ニッポンすごい!」の妄想の果て…2020/11/12

「民主主義」の議論もいいが…

近頃、どんなニュースに接しても、メディアの取り上げ方がまず「ニッポンすごい!」なのが茨の絨毯のようにザラつく。とくにNHKのキャスター(しかし他のメディアも基本は同じ)。

筆頭が『鬼滅の刃』。もちろん大ヒットしたのはいい。しかし、日本美徳の「自粛」の中の大ヒット、すぐに世界にも注目されて、「アニメ日本・オタク文化の世界トレンド入り」みたいな話になる。

今年はノーベル賞がとれなかったので(科学でも、恒例の村上春樹も)『鬼滅…』のブレイクはひとしおなのか。ノーベル賞報道は、どんな分野のどんな人が?ではなく、中身はどうでもいい「日本人が獲るか?」が興味の的である。日本人がいなければ「ガッカリ」で終わる。その裏にはまた、中国人や韓国人なんかに獲らせないといったオーラも出ている。ノーベル賞の「権威」(これがまた曲者だが)を奉り、それを「ニッポンすごい!」気分の機会にする。

ホンダが自動車の「自動運転レベル3」発表(自動車の自動運転ってどういう倒錯か、という話もあるが)。これも「世界初」。今では世界の企業ランキング50の後ろの方に国策企業トヨタしか入っていない日本(「失われた30年」)、自動車健在なんだの安心ニュース仕立て。

でも、自動運転はITビッグデータの世界だから、結局、巨大IT企業(GAFA)の生簀を広げるだけ。その中で日本企業は荷車製造「世界一」。
この機運を「そこのけそこのけお馬が通る」式に進める舞台装置が「2020東京オリンピック」。誰もが「オモテナシ(裏ばかり)」で「ニッポンすごい!」を言って当然、言わないとシカトの「自粛」圧力。

それに乗っての強権政治。法やルールは自分たちのために蔑ろ、「ニッポンすごい!」は彼らの意図(国を私物化する)の隠れ蓑。

「ワクチン競争」も同じ。今回ほど、「科学」が政治化されたことはない。まともな「科学」によれば、ワクチンは「全能の武器」ではない。毒をもって毒を制す、ということ。それを政治の武器にするが(トランプが筆頭、日本が追従)、目先の「国益」に囲い込まれた今の日本の「科学」では間に合わず、米系企業から買い漁り、値段吊り上げる。「科学者」製薬企業ほくほく。(デジタル化しようにも民営化=私物化された国策企業に任せるとボロばかり)

それにしかスガれない人たちは、嫌中・嫌韓ヘイトでその「強い国フェイク」を支えようとする。日本の「私物化」政治を世界の舞台で大胆にやってくれたのが「フェイク・トランプ」。だからまた、彼らが必死でトランプ・フェイク大統領を支えようとする。

これ、全部つながっている。日本のメディアは「ニッポンすごい!」のフェイクに乗るだけ(オリンピック協賛企業だから)。そうして、「不都合な真実」を「前に進める」(たとえば原発再稼働)で「亡国」の道まっしぐらの自民現権力支持(アメリカ・メディアのように、政府発表に「これは虚偽です」なんてテロップとてもつけられない)。五輪中止ならどうなる?

 「失われた30年」で「亡国の危機」という現実を見ないと、ほんとに「亡国」。その「亡国」の元は「美しい国」「ニッポンすごい!」妄想。それ自体フェイクだから。
 
 今日の朝日新聞社会部に「笑い声で消されたクリスマスの物語、命絶った中3のメモ」という記事があった。踏み込みの足りない記事だが、ネタは象徴的。
https://digital.asahi.com/articles/ASNCB6SVKNCBULOB00P.html?iref=pc_ss_date

アメリカ大統領選、「分断」とは何なのか(緊急、未整理)2020/11/04

アメリカで起きている、ほんとうのこと(民主主義、全体主義、ファシズム、右翼、左翼、リベラルなどの分類用語は使わず…)

・今回の選挙は何が「異例」なのか。
・トランプとトランプ支持者の行動によって。
・恣意的・独善的「自由」vs. 法に基づく「自由」
(「根っからのアメリカ」vs.「不純でヤワなアメリカ」)
・「取り戻したアメリカ」は手放さない(大統領が失権を認めない)
・トランプの「無法」が広く支持されるアメリカ。
(日本におけるその模倣・追従者たち)
・他の現象(政治・経済・社会政策、国際統治…)はそこから出てくる

「どちらに勝利の女神が…」というほどアホらしいコメントはない。起きているのはすでに通常の選挙(ルールのゲーム)ではないからだ。
今日、日本のどこかで、信号で止まったところ、後ろからきた車の運転者が突然飛び出してきて、前の車のドアを開けてどなり込み、いきなり一発お見舞い、という事件があった。あるいは、去年騒がれためちゃくちゃな煽り運転。トランプの強固な支持層はそんな事件を思い起こさせる。実際、バイデンの乗った遊説バスを何十台ものジープのような車(白いイスラーム国か?)で取り囲んで威嚇する。10月初めにはミシガン州でコロナ・ロックダウンした女性知事の拉致計画が未遂で発覚した。

今回の選挙戦は異常だと言われた。というのは、現職大統領トランプが敗北しても認めないのではないか、大統領自身が郵便投票を「不正」だと言い、裁判までもつれ込むと言われ、さらには、多くのトランプ支持者は負けたら騒乱を起こし、武装蜂起するのではないか、とまで言われている。つまり、負ける選挙は「不正」だからホワイト・ハウスを銃で死守するというわけだ。各地の投票所にはトランプ支持派が集まって、負ければ暴動を起こす構えで、警官隊も出ているという。もちろん、それに対してバイデン支持者も対抗し、衝突も起きている。このことは軽視していいエピソードではなく、むしろ今回の「選挙」の本質を表している。トランプとその支持者は、勝ったらそれは素晴らしい選挙、負けたらそんなのは「不正」だ、と主張しているのだ。自分が勝つ選挙しか認めない。これはすでに精神病理の問題である。

「異常」なのはそのことである。これは政治家トランプ対バイデンの選挙戦でも、共和党と民主党の戦いでもなく、トランプ支持者とトランプを「アメリカ」の代表にはしたくないという人びととの戦いだ。恣意と権力妄想の権化を自分たちの代表として求める「アメリカ人」と、政治の枠をそれでも守ろうとする他の「アメリカ人」との対立といってもいい。だから、ある意味で選挙の枠組みはすでに否定されている。タガが外れたまま、かろうじて境界線として浮遊しているだけだ。

そしてこの結果に懸っているのは、「アメリカ」がどのような国なのかということだ。アメリカでは恣意的な無法が正当権力として認められるのか、あるいは、それでも秩序と議論が枠を作るのかということだ。(日本の今と似ている)。

要するにこの選挙は、銃や斧で「敵」を追い払ってそこを自分の「自由の土地」にした「根っからのアメリカ人」と、殺し合いになるし体裁が悪いから協議して何とかしようという「妥協したアメリカ人」との対決だ。選挙制度そのものは「妥協」のシステムだ。それに縛られて(相手も縛って)銃を振りかざす権利を主張するグループとその支持者、それをルールで縛ろうとする人びととが対立している。

前者は、「アメリカ」は自分たちが作ったと思っている。その仲間うちでの「自由」の配分はやったが、後でやって来た移民連中や奴隷だった黒人たちが「権利」をよこせという。それを認めないと、世界に進出する「アメリカ」は立ちいかない。世界に進出するには「内向き」ばかりではいられないからだ。そこで奴隷だった黒人にも、色のついた移民たちにも「権利」を認めてやらなければならない。彼らヘナチョコは、みずから銃をとって土地を奪い取ったわけではないのに――銃社会への固執。それに「国際社会」とか言うが、どうせ負け犬で、強国にすがって甘い汁を吸うだけではないか(特に日本)。おかげでアメリカは、しょうもないそんな国の貧民たちにも援助しなければならない。

そのせいで「アメリカ」は弱くなり、そんな政府の下で「俺たち、私たち、アメリカ人は割を食ってきた」。そう思う「根っからのアメリカ人」は、「外国勢力」に弱腰で妥協して「アメリカ」をダメにした「反米アメリカ人」(中国のスパイ――得意の表現だ)から「アメリカを取り戻した」。不動産屋ドナルド・トランプを大統領に押し上げたのはそんな機運だった。「アメリカ・ファースト」「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」が、そんなバカな、とアメリカに幻想をもつ「世界の良識」に反して勝利したのだ。

それがトランプのアメリカだった。だから銃をもって「腕っぷしの強い」支持は強固である。「根っからのアメリカ人」は、長い艱難辛苦や抑圧を跳ね返し、やっと取り戻した「正統権力」をぜったいに手放さない。アメリカのいわゆる保守層は、それを利用することにした。「アメリカのホンネ」を問答無用でゴリ押ししてくれるからだ。

だから、一般的なトランプの政策のデタラメさやフェイク発信での国際社会の混乱など意に介さない。とくに「中国敵視」は「偉大なアメリカ」を足元から脅かす脅威であり、それを悪者にし叩くことは、文字どおり「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」になる。MSやグーグルが全世界の情報をかき集め、アメリカに(NASAに)貯め込んで監視していても、それはアメリカがやるのは当然(世界の盟主だから)、中国なんかがそれをやるのはけしからん。全世界に駐留軍を置き、海も空もコントロールするのはアメリカだけで、中国は世界秩序の敵だ(ただしその論理は「妥協するヤワなアメリカ」にも共有されている)。

それと、黒人が警察官に警戒されるのは当然、黒人はもともと邪悪だからだ。住んでるところもスラム、無秩序と犯罪の温床だ。警察はそれを抑えて「アメリカ人」が安心できるようにしている。「法と秩序」だ。だから警察はぜったいに擁護する。「だめなアメリカ」のもとはそんな黒人や後からやってきて原住民撲滅に貢献していない雑種たちだ。移民の女はみんな売春婦、金と権力に媚びるもの(西部のカウボーイ世界)。うるさいね「ミー・トゥー」…。

そういう「アメリカ」を取り戻すヒーローになったのがドナルド・トランプだった。その気もなかったのに、選挙戦を画策して当選させたのが、カルト陰謀論者のスティヴ・バノンだ。彼らがSNSとPR情宣でトランプを政権の座につけた。それが今度は、「Qアノン」のような名うての終末・救済カルト、トランプ教団体を生み出す。

「自由の未来」のパイオニア、シリコンバレーはどうしているのか?フェイクのヴァーチャル情報化でますます繁栄するから涼しい顔。さすがにそのエグさを批判されて、ザッカーバーグやツイッターは「検閲」のまねごとするけれど、混乱すればするほどヴァーチャル情報化は儲かり発展する。コロナも「電脳化の未来」へのスプリングボードだ。それはさておき…。

だから今度もどうしてもトランプを大統領にしたい。選挙もメディアも「だめな、裏切者の、反米アメリカ」の陰謀である。だから選挙も銃で守る。敗北の結果はありえない。それは陰謀だ。「アメリカ」がトランプを選ばないはずはないから。敗北は「不正」だ。それは銃で取り返さねばならない。

いわゆる「保守派」はいま、「アメリカの凋落」に不安を抱いている。そして社会政策などやる民主党よりはトランプの方がよいと考える。国際的にもそうだし、ともかく黒人街は怖い。貧困や無秩序は信用できない。移民も問題だ。トランプだって女性をだいじにしてくれるじゃないか。というので、表向きには言わないが、結局のところトランプの方がいい、ということになる。

だから今度の選挙戦は、異例の選挙戦になった。
政治のタガを受け入れるアメリカと、そのタガを捨てようとするアメリカだ。だから「政治」の範囲内にある戦いではなく、政治をはみ出した戦い、選挙(議論)で統治を選ぼうとするアメリカと、その軛を振り払おうとするアメリカ、その戦いなのである。だから、一方は敗北を受け入れる用意があるが、他方は選挙を認めない。だからトランプ陣営は、票数で不利だったら最高裁に持ち込む。もちろん明らかな敗北だったら、暴動が起きるだろう。準備をしている多数の人たちがおり、トランプが呼びかければそれに火がつく。山火事?枯れ葉を掃除しておけばいいだろう、というわけだ。そのとき、連邦軍はどうするのか?それはすでに分かっている。連邦軍は内乱に出動するのを拒否した。しかし、大統領命令があったら?というわけで、その混乱をおそれて民主党は譲歩するだろうか(ゴアは譲歩したが、バイデンは?)

しかし、トランプが勝利したらどうなるか。
「公人」もウソは言いたい放題、でたらめ勝手はやりたい放題。黒人は警官なら殺しても大丈夫(それで黒人はおとなくしなる、これが選挙で追認されたことになる)、「アメリカ人」で金や権力があればレイプもお好きなように、ただし、二等国民は「アメリカ人」と認めない。そういう国になるということだ。そしてそれが世界最強国、強者に媚びる国はみんなそうなる。

しかし、どこかで見たことばかりだ。アベの日本、憲法、法律無視、勝手に「解釈」、公文書は破棄、隠蔽、とうとう作らず…。そう、だからアベはトランプに気に入られた(金正恩もだが)。トランプと較べると太鼓持ちだからチャチだが、日本人にとってはたいへんだ。もうひとつの茶番が「にせ都構想」の大阪維新、そしてもっとチャチだが、高須某による愛知県大村知事のリコール署名運動、夕刊フジが「80%も」と報じたこの運動、高須のフェイクを実際は大阪維新が動かしていたとのこと。基本的に「反日ヘイト」に根ざした、そしてそれを「政治」利用する有象無象のうごめき。本質はトランプ登場とその見えない支持層が作り出した状況に通じる。

それについては『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社新書)を参照されたい。

*11/05追記――開票に時間がかかっている上、上院選で共和党が議席を維持しているので、「山火事」にはならないだろう。

ラスコーの「踊り」――ダンス・舞踏とは何の表現なのか?2020/11/03

 一九四〇年にフランス南部でふとしたことから発見されたラスコーの壁画は世界に衝撃を与えた。長い洞窟の広間や回廊にそって広がる多彩で生き生きした動物群は、悠久の時を忘れさせるように、私たちの眼前に迫ってくるからだ。

 文明は進歩しているといわれる。この間の美術の歴史をみてもそうだ。近代絵画から、現代アート、そしてデジタル化も取り込んだ多様な表現の「発展」があった。だが、ラスコーを初めとする先史時代の洞窟絵画は、そんな「進歩」の観念を吹き飛ばす。二万年という時を超えて、ピカソはそこに圧倒的な「同時代人」を見たことだろう。

 それでも、ある「距離」ないしは「越え難さ」があるとすれば、現代の絵画表現には描く者の意匠が感じられるのに、洞窟絵画にはそれが想定できず(だから何のためかも分からない)、イメージだけが、イメージそのものが現出しているといことだ。

 人間はそれを描く「手」でしかなく(手のイメージはある)、それは二万年の見えない時の闇に消えてなくなっている。その時の厚みが、透明なアクリル板のように、イメージとわれわれとを隔てている。

 洞窟の絵画が地中で眠っていた二万年の間に、外の世界ではいったい何が起こったのか?とりわけ絵を描いたり他の方法で表現したりする人間に何が起こったのか?

 そう問わせるのは、よく知られているように、あれだけ豊饒な動物たちの姿で溢れかえるラスコーの洞窟に、それを描いたはずの人間たちの姿がまったくないからだ。唯一の例外は、洞窟の奥深く、空洞が下に落ちる「井戸」と呼ばれる場所の天井に、つまり深淵の上の天空に映されるようにして、矢を受けはらわたを出した瀕死の水牛の反撃を受けたとおぼしき、倒れた人物が図案のように刻まれていることだ。これは描かれたとは言いがたい。というのは、驚くべきリアリティーで迫ってくる動物群のイメージに比して、これは明らかに描くことを知らない者が刻みつけた棒書きの図柄のようにみえるからだ。楕円の胴に二本の足がつき、両手も開いて、片手の傍らに槍が置いてある。そして何とも奇妙なことに、その頭はくちばしのついた鳥としか見えないのだ。この唯一の人物像とおぼしきものは、人間として描かれてはいないのだ。ただ、性器らしきものが立っている。

 これはどうしたことなのか?
 戦後の復興事業のようにして『世界の絵画』シリーズを企画したスイスの美術出版社スキラは、その第一巻を発見されて間もない『ラスコー』に充て、解説執筆をジョルジュ・パタイユに委ねた。バタイユはこの絵画について、あらゆる目的論的(何のために描かれたのか…、宗教儀礼か…)解釈を斥けて、「遊び」の観点から、つまり人間の無償の集団的営みとしてのみ受けとめ、その痕跡の現代にまで及ぶ時空を超えた「脱自的コミュニケーション」(内的体験)に身を開いた。芸術として扱ったのではなく、イメージという人間の根源的体験との関わりとして受けとめたのだ。

 そのバタイユもこの「井戸」の場面に目を留めて、その「意味」に近づこうとして行きついたのは、この図案化された人間は、生き物たちの世界を豊饒な「聖なる」世界として描き出した人間たち、その世界からじつは締め出されて避けがたく「俗」である人間たち(それを対象化するから)が、それでもこのイメージの次元に関わっていることを「聖なる世界」のヘソのようなところに刻み込んだ、「描く人間」の署名の刻印なのだと解釈した。それは「エロチシズム」にも似て、人間が死を賭して近づき、死の彼方と通う場面であり、だからこそ、井戸の天井に、表象の裏返しのように図案化され、それも瀕死の姿で、人間でなくなる(そして「聖なる世界」に近づく)という異形の姿で、なんとか生き物の世界の奥まった片隅に刻まれているのだ、と。

 これには説得力がある。ひとつ思い浮かぶのは、洞窟絵画の時代からギリシアの時代までの断絶の間に、人間のイメージ経験に何が起こっていたのかということだ。それはオヴィディウスが伝えた「ナルシスの神話」が雄弁に語っている。おそらくこの間に、人間は水に映ったイメージが自分であり、その自分が世界の中にあることをはっきり意識するようになったのだ。つまりは鏡像との関係で自己という意識をもつようになったのだ。「鏡に映ったこの像(イメージ)、これが私だ、人間(人)だ」という意識を。そのときから人間は自分のイメージを描くようになる。そして世界はその背景になるのだ。そして表現はさまざまな意味で「自己表現」だということになる。

 ラスコーの時代には、描くべきイメージは自分たちの向かう世界、自分たちがどうやらそこから締め出されている「豊饒な生の世界」である。それを描いてここに再現する。それは、生き、食べ、生殖し、また斃れてゆく、それだけではすまない人間の性(さが)のなせる業である。つまり、他の生き物と人間がどう違うのかといえば、人間は欲望をそのまま実現する次元だけでは生きられず、必ずそれを何らかの表現を通して二重化して生きているからだ。水牛も馬も鹿も、群れて生きても描くことはない。その「表現」という行為が、まず「人間を世にも不思議なもの」(ソフォクレス『アンチゴネー』)にしている。

 だが、洞窟絵画の時代には、人間は自分たちのもつイメージの世界から締め出されていた。それがまさに「鏡像の世界」だと知ったときから、人間は自分自身を描くようになり、世界を対象化してその「聖性」を拭きはらうようになる。技術の時代が開かれるのだ。

 表現には描く(そしてやがて語る)というのとは違うやり方もある。描くことは自分の前にイメージを呼び起こすことだ。再現するといってもいい。別のやり方は、私たちが生きているこの体を震わせて踊るということだ。大地に接し、空気にふれ、光や雨にうたれて体が感応する。狩りのために走るのも、鍬で大地を耕すのも、ただどうしようもなく痙攣するのも、踊るとは言わない。踊るとは、そんな有用性や意味におさまならい体の感応を、「共にいる」人びとといっしょに見かつ身をもって分かち合う(それがコミュニケーションだ)そのような体を貫く表現なのである。イメージもなく、身体次元で分かち合われることで「表現」となる、そこで表出される体の反応(エロティシズム?)、それが踊りとなる。そんな踊りは人間の生存とともにいつの時代にもどこにもあった。西洋は天使のように飛ぶ(魂の飛翔)という規範に合わせて、アフリカやアジアでは大地や自然との感応をベースとして、人間はいつも踊ってきた。動物のように。

 描くことも、古い時代には踊りと区別されなかったのかもしれない。画家は踊りながらさまざまな筆をあやつり、生き物の世界に参入していたのかもしれない。そうして絵筆が尽きたとき、描くことの充実と無力さの果てに、もうイメージの限界で、沈黙のなかでただ踊る。そのかたちなき踊りが限界を突き破って表現行為そのものになる。

 バタイユが「人間の署名」と言った、あの「井戸」の境界的なイメージ、あれは表現せずにはいられない人間がイメージの世界の限界に飛び込もうとする飛躍、言いかえれば人間なるものの「踊り」そのものなのではないだろうか。


*文中、「人獣図」について、「…洞窟の奥深く、空洞が下に落ちる「井戸」と呼ばれる場所の天井に、つまり深淵の上の天空に映されるようにして、…」とありますが、実際には坑の壁面(向こう側)に描かれているようです。『有罪者』(河出文庫)訳者の江澤健一郎さんが指摘してくれました。昔の学生、助かります。(以上訂正)
ともかく、描くにしても難しい場所という印象が強かったので、「天井にパタッと」と思い込んでいましたが、向こう側の壁面のようです。いずれにしても、なんでそんな場所に…というところに描かれている。

『私たちはどんな世界を生きているか』への蛇足2020/10/22

恥ずかしい帯
 初めて、新書という形で本を作る(書くというより)機会があった。それが昨日書店に並んだ『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書)である。むっ?と言われる。新書なのに、タイトルだけでは何の本かが見当がつかないようだからだ。中身を示すタイトルをつけようとしても、こうしかつけられなかった。

 わたしは政治学者でも経済学者でも、また歴史家でもない。もともとは二十世紀フランスの文学・思想を研究し、とりわけ「世界戦争」の時代の極限状況のなかで書くこと・考えることの困難に直面した作家たちの研究から始めて、戦争、死、人間の共同性、宗教、世界史と文明などについて考察することを仕事としてきた者だ。それが、私たちの生きる現代世界の解明と理解に資すると考えて。

 だが、世紀が変わってとりわけアメリカの九・一一があり、世界に「テロとの戦争」のレジームが敷かれた頃から、その変化の捉え方・論じられ方が、メディアの領域ではとかく既成の国際政治の枠組みからの論評に留まって、出来事の深い意味を見損なっている(そして政治的議論を、既存の力によって設定された枠組みに流し込んでゆく)と思われ、アクチュアルな政治・社会的議論にも介入することになった。

 もっとも、ヘーゲルにしてもハイデガーにしても、誰もが自分の生きる時代の中で考え進めたことには違いなく、わたし自身も最初に『不死のワンダーランド』(一九九〇年)をまとめたときから、文学・哲学的考察のなかでつねにアクチュアルな状況を参照しないわけではなかったし、『世界史の臨界』はまさに世界がキリスト紀元二千年代に入るその時を意識してまとめたものである。だから、情況的な議論に加わることもとり立てて唐突なことではなかったはずだ。

 ただ、国際政治についての議論をする場合にも、あるいは現代世界の駆動力になっている経済現象を論じる際にも、世界にはさまざまな人びとがそれぞれの地域の政治構造の枠の中で生きているということ、現代世界が「西洋」と呼ばれる地域文明の世界化によって造形されてきたということ、そこには産業化という形をとる組織的知や制度の体系、さらには技術についての考えの普遍化が含まれているということ、そしてその展開のプロセスの内に政治や経済や宗教、社会性の分節化があったということを、考察の内に組み込まざるををえない。それがわたしのような論者の、あまり理解されがたい特徴にもなる。

 というわけで、わたしは自分自身の仕事を広い意味での哲学や思想史の括りに入れることにしているが(入れてくれるかどうかは別の話だ)、そのことも含めて本書の中身をタイトルに示そうとするとき、やはり「私たちはどんな世界を生きているのか」とするのが適切だと思われた。そこで扱われているのは、私たちの「世界」を規定する政治や経済や社会状況の錯綜する動態だからである。

 内容を紹介するよう求められて書いた一文は、講談社のPR誌『本』11月号で、「何が社会の再身分化を引き起こしたか」というタイトルで紹介されている。

 出発点は、現代がきわめて不確定な時代だということだ。とりわけ「未来」が見えなくなってしまっている。それは一方では、「人間」の輪郭がますます消されてゆき、それを支えていた「時間」の観念(意識の在り方)が変質してしまっているとこと、そしてコミュニケーションの軸である「真理」の足場が掘り崩されているということのためである。それを私たちはどういう社会的・日常的かつ歴史的「現実」として生きているのか、そのことの「人類史」的意味を考えながら確かめる、というのがねらいである。
 
 結論としては、世界史的に見て、フランス革命に極まった西洋世界の平等主義的動きが、その動力となった「啓蒙」の展開そのものによって、つまり科学技術の進歩と経済の自由化の果てに、諸社会の再身分化を引き起こし、解放や平等化の成果をチャラにしようとしている、ということだ。「啓蒙」の運動が世界戦争によって変容し二重化し、その一方が反転していると言ってもよい(ニヒリズム、フェイク、カルトと暗黒啓蒙)。

 そのことを二つの経験的な時間軸を立てて示そうとしてみた。ひとつはフランス革命以後の200余年、もうひとつは明治以降の日本の150年。なぜなら、日本は明治以降に世界史に、言いかえれば国際関係に、独自の時間を作りながら入ったからだ。そしてその二つの時間軸は「世界戦争」において劇的に交錯し、冷戦下で吸収され、グローバル経済の濁流の中で世界の分岐に呼応するようになっている。「私たち」は日本で生きており、抽象的な世界市民として生きているわけではない。この境界は無視できないし、横断はできても消去することはできない。

 日本という繭のなかで自閉的に現代世界を考えることもできるだろう。逆にまた、世界(普遍)の立場に立って、境界を超えたつもりになることもできるだろう。前者をナショナリズムと言うとしたら、後者はユニヴァーサリズムあるいはコスモポリタニズムである。だが、「私たち」の実情を知るためには「境界に立って」考えるということだ。日本と世界、世界の中の日本ということを意識するとき、足場は境界にしか置けない。本書の視点の特徴はといえば、この境界の条件に自覚的であることだ。

 それはわたし自身を「哲学」のカテゴリーから締め出すことになるのかもしれない。哲学は(他のあらゆる諸科学も)普遍主義でしかありえないからだ。だから、わたしはマルクスにもマックス・ウェーバーにも頼らない。形而上学にも普遍(社会)科学にも就かず、その「批判」(カント的意味での批判)を「西洋」批判と結びつけている。頼るとしたら、わたしの頼るのはジョルジュ・バタイユの近代知批判であり、カール・ポランニーの人類学的視点であり、ピエール・ルジャンドルの西洋的ドグマ批判、人間を「話す生き物」とみなすところから出発する人類学である。

 そう言うと抽象的に思われるが、実際に書かれていることは、日ごろ求めに応じて各所で話をする現代社会や私たちの生活を規定する諸条件に関する事柄である。そして結局のところ、ここで提示した世界の見通しには「奇抜な」ところはまったくないだろう。むしろ「ふつう」のものと言ってもいい。だが、「まともさ」にたどり着く途はけっして平坦ではない。それは、現代の日本に生きる日々の社会的経験に照らしてみればすぐに思い当たることだろう。
 
 それでは中身の紹介にはならないから、ひとつだけ参照項を挙げておこう。ちょうど、この本の紹介を書いた『本』11月号の巻頭に、同時期に出る『民主主義とは何か』という政治学者・宇野重規氏の寄稿文がある。宇野氏ははからずもいま菅首相による学術会議会員任命拒否問題の渦中にある学者である。そこでは、民主主義について、現代日本の最良の知見をもつ氏の経験と考察から、民主主義とは何なのかが問われ、整理され、現代にそれを擁護し生かす方向について、明晰かつ平易に書かれている。こういうものが、まともに考えれば異論の余地がないように書かれているのに、曖昧な錯綜したことをなぜ書く必要があるのかというと、私にとっては「民主主義」は土台でも出発点でもないからである。私はむしろ「民主制」という用語を使っている。それは政治理論や政治思想とは少しずれて、むしろ広い意味での法的な正統性の観点から事象を見ているからである。

 宇野氏は(というより政治学と言った方がよいだろう)現代の代表制民主主義が民主主義の典型ではないことを、議会制というものがじつは封建的身分社会から生じてきたこと、そして代表制や選挙が民主主義を支えるものではないことを指摘している。だからそれを踏まえたうえで「民主主義を選び直す」ことを提案していて、それはそれで納得できることである。ただ、ポリス(政治という概念の語源である)という人間の集合形態(共同体)が何を根拠の言説として成り立っているかと問うとき、デモス(民衆)だと答える体制がデモクラシー(民衆統治)だと考えるなら、「民主主義の空洞化」は別の形で語られることになる。それは「共同性」を支えるコミュニケーション空間の変容であり、それは政治的な問題というより、技術と不可分の経済による「政治」の侵蝕であり、アリストテレスの規定した人間の共同体としてのボリスの変質だということになる。私の議論はそのような形で、現代政治学の議論と斜めに交錯することになる。

デジタル化の津波に備える2020/09/27

見よ、同胞よ、春はきた
大地は太陽の抱擁を受け、やがて
この愛の実りが見られるだろう。
種たちは芽生え、生き物も活気づく。

この神秘の力に、我らの生存も負っている。
だから我らは隣人たちと、近しい生き物たちとも、
この大地に住むという我らの権利を
等しく分かち与える。

ところがだ、皆の衆、聞いてくれ
我らは今、違う種族と関わり合っている。
我らの父祖が最初に出会ったときには
彼らは小さく弱かったが、今では大きく尊大である。

かなりおかしなことに、彼らは土地を耕すものと思いなし、
所有する愛が、彼らのもとでは病気のようである。

あの連中は、さまざまな規則を作って、
金持ちはそれを平気で破れるが、貧乏人はいけないのだ。

彼らは貧乏人や弱き者らから税を召し上げ、
統治する金持ちたちを養うのにつかう。

彼らは我ら万人の母なる大地を、
自分たちだけに用立てる権利があるとい立て、
隣人を柵で締め出す。彼らは大地を、
自分たちの建造物や自分たちの汚物でだいなしにする。

このナシオン(国人)は、みずからの床から溶け出した
雪の奔流のように、行きすがりのあらゆるものを破壊する。…


シッティング・ブル(タタンカ・ヨタンカ)1875年の訓話から

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「アメリカ」と呼ばれる世界の急速な建造によって潰えていった「旧種族」の残した最後の言葉のひとつである。二世紀半にわたるその抹消は一九世紀末に完了する。
いま、このような言葉を想起するのは、失われた「古き人の世」を懐かしんで慰むためではない。このように「私的所有愛」の奔流が一世界を消し去った後の近代の「人の世」を、大津波が(日本だけではない)、そして新たな疫病が襲ったことを口実に、デジタル情報化の津波が世界を塗り替えようとしている。「人新世」の大津波か?そこからの「出口」を望見するとき、長期を考えるなら、われわれはこうした声の痕跡に耳を傾けなければならないということだ。
「文明世界」に「異族=エーリアン」として抹消されていった彼らは、「国人」の風習の異様さを見ていたが、百五十年後の「文明化」した日本でも、その風習は輪をかけて進んでいる。