カズオ・イシグロの新作『クララとお日さま』 ― 2021/04/28
子供のパートナー用として販売されるAIフレンドの話。どうやらこの作品世界(近未来?あるいはオルタナ世界?)では、「優秀」でありたい(親がそうしたい)子供は「向上措置」(遺伝子操作)を受けるらしい。それがうまくいかないと病弱(不具合)になる。そんなジョジーという女の子のサボートのために(あるいは欠損を埋めるために)買い与えられるのがクララだ。今ふうに太陽光を糧として「生きて」いる(『私を離さないで』のクローンとは違う)。
クララがどういうふうに「新型製品」として作られたのかは分からない。ディープラーニングで環境世界・人びとへの対応にみずから適合化する段階までは作られているようだ。クララはその理解適性が高いようだ。その能力によって、ジョジー、その母親、友人リュックとその母親、ジョジーの父親等々の関係のなかで、ジョジーを守りその生を豊かにする(?)役目を練り上げながら(たぶんそこにはアルゴリズムはない)、ジョジーのいる世界の媒介的役割を深めてゆく。けれども太陽光(エネルギーではなく光だ)で「生きて」(「機能している」とは言うまい)いるためか、陽光を燃料以上の、存在の恵の源とみなしていて、それが太陽信仰にまでなるようで、ジョジーを「救う」ためにその功徳(効能ではなく)を発揮させる。この点で、このAIロボットはカルト的なのだ。そしてジョジーを決定的に救う(「向上措置」の失敗を癒す)と、ジョジーはクララのサポートなしで自分の生を生きてゆくようになる。「ミッション・コンプリート」(『私を…』では明示されていた)。クララのミッションとは、自分を必要とした女の子が、自分なしに生きてゆけるまで支えることだったかのように。あるいは周囲にとっては、「代わり」としての自分が無用になるまでに人びとの関係の綻びを埋め合わせする。いわばAF(人工友だち?)としての自己の無化、あるいはサクリファイス。そして最後は、自分が使命を果たしたことに充足しながら、廃品置場で、クララがこの世に出る媒介を果たした「店長」の訪問を受けて、もはや「物語」は尽きる。
作家にとっての冒険は、この機械的製造物に「生きた」主観をもたせることだったはずだ。冒頭から語りはAFクララだ。それは「物語」が成立するほどには十分にできているし、そこから見える世界も、感覚の学びのプロセスもそれらしく描き出されている。いささかアニメーション風ではあるが。「不思議」は、自分の生成過程を知らない(それにはまったく意識が向かない)クララが、初めから店のショーウインドーに立ち、外界にしか志向をもたない意識を展開してゆくことだ。その意識は「自己」に回帰することがない。つまり「反省(リフレクション)」がない。しかし周囲を観察し、標定し、推理し、それがクララの「意識」を作ってゆく。つまり「自己」のない意識、けっしてエゴイズムにならない、その能力が高いのだ。
200年前のメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』や、100年前のカレル・チャペックの『ロボット』は、「自己」を持ってしまい、そのために前者は悲劇的な破綻の物語となり、後者は叛乱と破滅を引き起こす。だが、現代のAFクララには自己がない。あるとしたらそれは、自己という形をとらない存在への「信」、太陽光への祈願だけだ。それがクララを「人間らしく」している。
いずれにしても、これが文学的想像力によるものである以上、現実の技術的可能性云々について論じる必要はないわけだが、その作品世界の設定には、作者の科学技術的可能性に関する認識や、それに対する想像が取り込まれているはずだ。そのうえで、願望や実現されている事態を、人がどう生きるかということを軸に物語が繰り広げられる。『フランケンシュタイン』は、製造された「怪物」が、言葉を獲得し感情をもち思考し、そのように「成長」しても人間世界では「異物」としてしか存在しえないことの悲劇を語り出していた。創造への介入は愛すべき「こども」ではなく悲劇の「怪物」を生んでしまったというのだ。『ロボット』の方は、人間の目的志向によって作られた「労働機械」が、その意図を超えた存在になって(自ら意志をもつことでそうならざるを得ず)、「人間的(支配)世界」そのものに働きかける(破壊と叛乱)情況を、非人間化のイデオロギーの逆説とともに語り出した(チャペックは演劇化してみせた)。
だが『クララとお日さま』はAI化・遺伝子改良世界の眺望から、ひとつのヴァーチャル・ファミリー・ファンタジーを生み出したという風情だ。AI化世界はたんなる風景または素材で、そのこと自体は物語の外におかれている(それは『私を離さないで』も同じ)。最後まで読んで、しばらくして思い至ったのは、これも「執事小説」(『日の名残り』)だ、ということだ。自己犠牲と自己充足とが区別されない、ミッション・コンプリート。もっとも「内密」な物語だが、ここには「自己」がなく、物語は逆にクララの関わったジェジーたちの世界を締め出している。だから最後に、クララは用済みになった自分を何事でもないように見出す(再利用の可能性もないようだ、中古品は売れないのか)。ただ、夕陽を前にして執事が浸った無上の愉悦はない。それでも、クララに何の陰りもない充足があることはたしかだ。それはクララの「内面」世界が、主人たちの世界を吸収すべき素材としてしか扱っていなかったから。
イシグロはこうして「同じ」小説を書き続けている。クローンはいいだろう。クローンは基本的に人間と同じで、人間として生育し、成長し、言葉を身につけて私になり、他者たちの間で社会化してゆく。だからペールシャムの学校は「培養・育成」学校として子どもたちの充実した世界になる(として語り出せる)。けれども人工フレンド(AF)だとどうだろう。その「私」(発話主体)はどう始まり(起動し)どう成長してきたのだろう。小説はクララが製品として店頭にならぶところから始まる。クララは周囲を認知し、世界の事物をよりよく理解しようと観察し受容するが、そのことをどのように「意識」しているのだろう。イシグロはその過程と構造は作品外に置いて、まずクララが店に置かれたところから始める。だからそれ以前は、そしてクララの生成は問われない(それが「自己」がないということだ)。そのことがこの小説を冒頭からファンタジーにしている。その根や根拠を作品の「外」に、背後に「ない」ものとしているかぎりで、クララに「理性=根拠」はない。クララの「お日さま信仰」はそのためでもある。自分にエネルギー(生)を恵み与える陽光は、クララの意識にとっては対象意識や認知能力・理解力の外にある「恵み」の源として、「信」の対象でしかありえないのだ。だから「理知」的なはずのクララは、同時にカルト的でもある。ただし絶対孤独・自己充足の。
邦訳の解説者は触れていないが、ジェジーの病気とは「向上措置」(遺伝子操作)による支障だろう。それはすべての生命の源である太陽光の「特別な計らい」によって治癒(克服)される。これは福岡ハカセ的な生命観だと言っていいだろう(生命とは諸組織の機能の複合ではなく、全体であることに宿る)。
ミッションを果たしたクララが最後に自分を見出すのは、不要品置場(捨て場)である。そこではAFはもう自分で動けないよう処置されて横たえられているらしく、「店長」は低いブリキのような箱をもってきて座り、覗き込むようにしてクララに語りかける。自分の製造過程を意識の外にしているクララは、この身の上にも何の不満も不当も感じてはおらず(人工知能的に「理解」しているのだろう)、青い空を背景に、振り向くことなく立ち去る「店長」を見送る。それで途切れる語りに、というより残される沈黙の余白に戸惑って淡い悲しみを感じるのは、ただ読者だけだということだろうか。
提示されたファンタジーの世界というより、イシグロの物語の紡ぎ方が逆光のなかに浮かび上がる、そんな作品だった。
[追記] クララが、視覚(超精密センサー感受)の惑乱を超えて未知の原野を横切り、「マクベインさんの小屋」で溢れるお日さまの光に包まれるところでは、『風の谷のナウシカ』がオームの無限の触手のなかで蘇生する場面を想起せずにはいられないが(あるいは、神秘主義的な「受胎告知」、またはバタイユの「…天啓の照射に照り輝く…」を)、クララはAI的被製造物、ナウシカははじめから「いのち(生き物)」として想定されている。「マクベインさんの小屋」は、クララにとっては「受肉」の場所であるかのようだ。そして陽光が、テクノロジーの埋め込まれた世界(映画『ガタカ』のように、「処置」を受けているかどうかで人が選別されるされる世界)で、その埋め込みの失敗によって衰弱したジェジーを復活させる。そしてジェジーは締め出されようとしていたその世界に復帰してクララのもとを去る。しかし、クララにとってはそれが「ミッション・コンプリート」だ。逆説的な「達成感」が居場所のなくなるクララを満たしている。もはやクララはクララと呼ばれる必要もない。固有名詞はいらない、ただ一個のB2型AFだ。しかし、名を失ったクララは、二つの透過するパラレル世界(製造する側と享受する側)をいわば「非-知」によって繋ぎまとめるこの作品によって、神話的な名を受けることになるだろう。「クララとお日さま」そのタイトルから響いてくるのは、あらゆる負荷を洗われたあの名前「アマテラス」ではないだろうか。
*『私を離さないで』にはたいへん衝撃を受けると同時に舌を巻いて、「思い出をもつことの無惨」という批評を書いた(『理性の探究』岩波書店、2009年)。それほど本格的にではないが、挑戦するイシグロに敬意を表して今回もその作品について考えてみた。
クララがどういうふうに「新型製品」として作られたのかは分からない。ディープラーニングで環境世界・人びとへの対応にみずから適合化する段階までは作られているようだ。クララはその理解適性が高いようだ。その能力によって、ジョジー、その母親、友人リュックとその母親、ジョジーの父親等々の関係のなかで、ジョジーを守りその生を豊かにする(?)役目を練り上げながら(たぶんそこにはアルゴリズムはない)、ジョジーのいる世界の媒介的役割を深めてゆく。けれども太陽光(エネルギーではなく光だ)で「生きて」(「機能している」とは言うまい)いるためか、陽光を燃料以上の、存在の恵の源とみなしていて、それが太陽信仰にまでなるようで、ジョジーを「救う」ためにその功徳(効能ではなく)を発揮させる。この点で、このAIロボットはカルト的なのだ。そしてジョジーを決定的に救う(「向上措置」の失敗を癒す)と、ジョジーはクララのサポートなしで自分の生を生きてゆくようになる。「ミッション・コンプリート」(『私を…』では明示されていた)。クララのミッションとは、自分を必要とした女の子が、自分なしに生きてゆけるまで支えることだったかのように。あるいは周囲にとっては、「代わり」としての自分が無用になるまでに人びとの関係の綻びを埋め合わせする。いわばAF(人工友だち?)としての自己の無化、あるいはサクリファイス。そして最後は、自分が使命を果たしたことに充足しながら、廃品置場で、クララがこの世に出る媒介を果たした「店長」の訪問を受けて、もはや「物語」は尽きる。
作家にとっての冒険は、この機械的製造物に「生きた」主観をもたせることだったはずだ。冒頭から語りはAFクララだ。それは「物語」が成立するほどには十分にできているし、そこから見える世界も、感覚の学びのプロセスもそれらしく描き出されている。いささかアニメーション風ではあるが。「不思議」は、自分の生成過程を知らない(それにはまったく意識が向かない)クララが、初めから店のショーウインドーに立ち、外界にしか志向をもたない意識を展開してゆくことだ。その意識は「自己」に回帰することがない。つまり「反省(リフレクション)」がない。しかし周囲を観察し、標定し、推理し、それがクララの「意識」を作ってゆく。つまり「自己」のない意識、けっしてエゴイズムにならない、その能力が高いのだ。
200年前のメアリー・シェリーの『フランケンシュタイン』や、100年前のカレル・チャペックの『ロボット』は、「自己」を持ってしまい、そのために前者は悲劇的な破綻の物語となり、後者は叛乱と破滅を引き起こす。だが、現代のAFクララには自己がない。あるとしたらそれは、自己という形をとらない存在への「信」、太陽光への祈願だけだ。それがクララを「人間らしく」している。
いずれにしても、これが文学的想像力によるものである以上、現実の技術的可能性云々について論じる必要はないわけだが、その作品世界の設定には、作者の科学技術的可能性に関する認識や、それに対する想像が取り込まれているはずだ。そのうえで、願望や実現されている事態を、人がどう生きるかということを軸に物語が繰り広げられる。『フランケンシュタイン』は、製造された「怪物」が、言葉を獲得し感情をもち思考し、そのように「成長」しても人間世界では「異物」としてしか存在しえないことの悲劇を語り出していた。創造への介入は愛すべき「こども」ではなく悲劇の「怪物」を生んでしまったというのだ。『ロボット』の方は、人間の目的志向によって作られた「労働機械」が、その意図を超えた存在になって(自ら意志をもつことでそうならざるを得ず)、「人間的(支配)世界」そのものに働きかける(破壊と叛乱)情況を、非人間化のイデオロギーの逆説とともに語り出した(チャペックは演劇化してみせた)。
だが『クララとお日さま』はAI化・遺伝子改良世界の眺望から、ひとつのヴァーチャル・ファミリー・ファンタジーを生み出したという風情だ。AI化世界はたんなる風景または素材で、そのこと自体は物語の外におかれている(それは『私を離さないで』も同じ)。最後まで読んで、しばらくして思い至ったのは、これも「執事小説」(『日の名残り』)だ、ということだ。自己犠牲と自己充足とが区別されない、ミッション・コンプリート。もっとも「内密」な物語だが、ここには「自己」がなく、物語は逆にクララの関わったジェジーたちの世界を締め出している。だから最後に、クララは用済みになった自分を何事でもないように見出す(再利用の可能性もないようだ、中古品は売れないのか)。ただ、夕陽を前にして執事が浸った無上の愉悦はない。それでも、クララに何の陰りもない充足があることはたしかだ。それはクララの「内面」世界が、主人たちの世界を吸収すべき素材としてしか扱っていなかったから。
イシグロはこうして「同じ」小説を書き続けている。クローンはいいだろう。クローンは基本的に人間と同じで、人間として生育し、成長し、言葉を身につけて私になり、他者たちの間で社会化してゆく。だからペールシャムの学校は「培養・育成」学校として子どもたちの充実した世界になる(として語り出せる)。けれども人工フレンド(AF)だとどうだろう。その「私」(発話主体)はどう始まり(起動し)どう成長してきたのだろう。小説はクララが製品として店頭にならぶところから始まる。クララは周囲を認知し、世界の事物をよりよく理解しようと観察し受容するが、そのことをどのように「意識」しているのだろう。イシグロはその過程と構造は作品外に置いて、まずクララが店に置かれたところから始める。だからそれ以前は、そしてクララの生成は問われない(それが「自己」がないということだ)。そのことがこの小説を冒頭からファンタジーにしている。その根や根拠を作品の「外」に、背後に「ない」ものとしているかぎりで、クララに「理性=根拠」はない。クララの「お日さま信仰」はそのためでもある。自分にエネルギー(生)を恵み与える陽光は、クララの意識にとっては対象意識や認知能力・理解力の外にある「恵み」の源として、「信」の対象でしかありえないのだ。だから「理知」的なはずのクララは、同時にカルト的でもある。ただし絶対孤独・自己充足の。
邦訳の解説者は触れていないが、ジェジーの病気とは「向上措置」(遺伝子操作)による支障だろう。それはすべての生命の源である太陽光の「特別な計らい」によって治癒(克服)される。これは福岡ハカセ的な生命観だと言っていいだろう(生命とは諸組織の機能の複合ではなく、全体であることに宿る)。
ミッションを果たしたクララが最後に自分を見出すのは、不要品置場(捨て場)である。そこではAFはもう自分で動けないよう処置されて横たえられているらしく、「店長」は低いブリキのような箱をもってきて座り、覗き込むようにしてクララに語りかける。自分の製造過程を意識の外にしているクララは、この身の上にも何の不満も不当も感じてはおらず(人工知能的に「理解」しているのだろう)、青い空を背景に、振り向くことなく立ち去る「店長」を見送る。それで途切れる語りに、というより残される沈黙の余白に戸惑って淡い悲しみを感じるのは、ただ読者だけだということだろうか。
提示されたファンタジーの世界というより、イシグロの物語の紡ぎ方が逆光のなかに浮かび上がる、そんな作品だった。
[追記] クララが、視覚(超精密センサー感受)の惑乱を超えて未知の原野を横切り、「マクベインさんの小屋」で溢れるお日さまの光に包まれるところでは、『風の谷のナウシカ』がオームの無限の触手のなかで蘇生する場面を想起せずにはいられないが(あるいは、神秘主義的な「受胎告知」、またはバタイユの「…天啓の照射に照り輝く…」を)、クララはAI的被製造物、ナウシカははじめから「いのち(生き物)」として想定されている。「マクベインさんの小屋」は、クララにとっては「受肉」の場所であるかのようだ。そして陽光が、テクノロジーの埋め込まれた世界(映画『ガタカ』のように、「処置」を受けているかどうかで人が選別されるされる世界)で、その埋め込みの失敗によって衰弱したジェジーを復活させる。そしてジェジーは締め出されようとしていたその世界に復帰してクララのもとを去る。しかし、クララにとってはそれが「ミッション・コンプリート」だ。逆説的な「達成感」が居場所のなくなるクララを満たしている。もはやクララはクララと呼ばれる必要もない。固有名詞はいらない、ただ一個のB2型AFだ。しかし、名を失ったクララは、二つの透過するパラレル世界(製造する側と享受する側)をいわば「非-知」によって繋ぎまとめるこの作品によって、神話的な名を受けることになるだろう。「クララとお日さま」そのタイトルから響いてくるのは、あらゆる負荷を洗われたあの名前「アマテラス」ではないだろうか。
*『私を離さないで』にはたいへん衝撃を受けると同時に舌を巻いて、「思い出をもつことの無惨」という批評を書いた(『理性の探究』岩波書店、2009年)。それほど本格的にではないが、挑戦するイシグロに敬意を表して今回もその作品について考えてみた。
追悼、「来るべきこと」の詩人若松丈太郎 ― 2021/04/25
若松丈太郎さん、じつはもう「生きて」いなかったのかもしれない。
『北緯37度25分の風とカナリア』を上梓したのが2010年。この詩集には、柏崎刈羽と福島第一を結ぶ線上の「歌枕」を長年かけて行脚したような詩がまとめられている。かつて平安の昔ならここから先は「越せない」辺地、だから都人が感慨を込めて歌を残したり、邪の怖れをなだめるかめの社が作られたりしている。そこが昭和の時代には首都圏に電力を供給するためにダムが作られ、やがては原発が作られる境になる。それが北緯37度25分あたりだという。
この地で1000年を超えて刻まれてきた言葉、それを現代の報道の言葉と織り合わせ、それを生きる不穏な意識の海に浮かべて、日常の浅くもあり闇を穿ったりする意識の表層に紡ぎ出す。カナリアは炭鉱で不穏を告げる小さな生き物だ。若松さんはこの境界上のカナリアとして聞く人の耳に届く歌を歌い続けた。
その巻末近くに、海の広げる「気の遠くなるような時間」を視ながら
世界の音は絶え
すべて世はこともなし
あるいは
来るべきものをわれわれは視ているか
というリフレーンを含む、「みなみ風吹く日」が収められている。
(まだ自覚もない「人新世」の初めに、詩人は歌うことができた――
また見つかったよ。
何がさ?――《永遠》
太陽といっしょに
行ってしまった海のことさ (鈴村和成訳をレタッチ)
しかし、「千の太陽よりも明るい」とロベルト・ユンクが形容した「人工の火」が陽光を翳ませる現代では、福島の海に立つとき、そこに広がる「永遠」はまったく別の様相を帯びざるをえない。「来るべきものをわれわれは視ているか」と。
その詩集を上梓して一年が経ったころ、「来るべきもの」が来てしまった。「未来」が、「永遠の時」として詩人の(わたしたちの)「現在」に陥没してきてしまったのだ。それ以来、「気の遠くなる時間」は放射能の半減期としてわれわれの「起きてしまった未来」になる。
その後に、詩人は何を語りうるのだろうか。それでも「黄泉」を潜るように語り続けたものが2014年に『わが大地よ、ああ』(土曜美術社出版販売)から出されている。2012年に一度南相馬でお会いする機会があった。しかし、ほとんど何も語り合えなかったような気がする。ただ、『…風とカナリア』の詩人は「来るべきもの」の襲来を超えて、なお語り続けようとしていた。(バタイユの「禁止と侵犯」の描写を思い起こす。侵犯によって禁止は廃絶されるのではなく、再び地平のかなたに現れる。言葉はこうしてまた禁止に向かって打ち寄せるのだ。)
ただ、それ以後は、若松さんにとっては「来てしまった"来世"」だったと言えなくもない。とはいえ、若松さんはずっと高校の教師をしていた(日本の教育では、「国語」という教科が、子どもたちに表現と思考との手ほどきをし鍛える唯一の科目になっている)。その子どもたちと接していたからこそ、若松さんは"来世"からも語り続けたのだ。
*この詩集と詩人の存在を私に教えてくれたのは、あるときふと出会った小森陽一だった。福島を考えているとき若松さんの詩は目を開かせるようなものだった。小森には感謝している。あまり機会はなかったが、『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎、2014年)に収録した「地震(ない)に破られた時間、または手触りのある未来」(初出、『世界』2012.01臨時増刊)は若松さんの詩に多く触発されて書いた。
『北緯37度25分の風とカナリア』を上梓したのが2010年。この詩集には、柏崎刈羽と福島第一を結ぶ線上の「歌枕」を長年かけて行脚したような詩がまとめられている。かつて平安の昔ならここから先は「越せない」辺地、だから都人が感慨を込めて歌を残したり、邪の怖れをなだめるかめの社が作られたりしている。そこが昭和の時代には首都圏に電力を供給するためにダムが作られ、やがては原発が作られる境になる。それが北緯37度25分あたりだという。
この地で1000年を超えて刻まれてきた言葉、それを現代の報道の言葉と織り合わせ、それを生きる不穏な意識の海に浮かべて、日常の浅くもあり闇を穿ったりする意識の表層に紡ぎ出す。カナリアは炭鉱で不穏を告げる小さな生き物だ。若松さんはこの境界上のカナリアとして聞く人の耳に届く歌を歌い続けた。
その巻末近くに、海の広げる「気の遠くなるような時間」を視ながら
世界の音は絶え
すべて世はこともなし
あるいは
来るべきものをわれわれは視ているか
というリフレーンを含む、「みなみ風吹く日」が収められている。
(まだ自覚もない「人新世」の初めに、詩人は歌うことができた――
また見つかったよ。
何がさ?――《永遠》
太陽といっしょに
行ってしまった海のことさ (鈴村和成訳をレタッチ)
しかし、「千の太陽よりも明るい」とロベルト・ユンクが形容した「人工の火」が陽光を翳ませる現代では、福島の海に立つとき、そこに広がる「永遠」はまったく別の様相を帯びざるをえない。「来るべきものをわれわれは視ているか」と。
その詩集を上梓して一年が経ったころ、「来るべきもの」が来てしまった。「未来」が、「永遠の時」として詩人の(わたしたちの)「現在」に陥没してきてしまったのだ。それ以来、「気の遠くなる時間」は放射能の半減期としてわれわれの「起きてしまった未来」になる。
その後に、詩人は何を語りうるのだろうか。それでも「黄泉」を潜るように語り続けたものが2014年に『わが大地よ、ああ』(土曜美術社出版販売)から出されている。2012年に一度南相馬でお会いする機会があった。しかし、ほとんど何も語り合えなかったような気がする。ただ、『…風とカナリア』の詩人は「来るべきもの」の襲来を超えて、なお語り続けようとしていた。(バタイユの「禁止と侵犯」の描写を思い起こす。侵犯によって禁止は廃絶されるのではなく、再び地平のかなたに現れる。言葉はこうしてまた禁止に向かって打ち寄せるのだ。)
ただ、それ以後は、若松さんにとっては「来てしまった"来世"」だったと言えなくもない。とはいえ、若松さんはずっと高校の教師をしていた(日本の教育では、「国語」という教科が、子どもたちに表現と思考との手ほどきをし鍛える唯一の科目になっている)。その子どもたちと接していたからこそ、若松さんは"来世"からも語り続けたのだ。
*この詩集と詩人の存在を私に教えてくれたのは、あるときふと出会った小森陽一だった。福島を考えているとき若松さんの詩は目を開かせるようなものだった。小森には感謝している。あまり機会はなかったが、『アフター・フクシマ・クロニクル』(ぷねうま舎、2014年)に収録した「地震(ない)に破られた時間、または手触りのある未来」(初出、『世界』2012.01臨時増刊)は若松さんの詩に多く触発されて書いた。
コロナ禍明けたら(明ける前から)勘違い対中「開戦前夜」 ― 2021/04/18
「コロナ後の世界」がさまざまに語られる。だが、どうやらコロナ後の世界のもっとも深刻な変化は「世界分断の深化」のようである。単純にいえば「米中対立」だ。すでに「開戦前夜」を思わせる。
トランプ大統領は紫禁城に迎えられてまんざらでもなさそうだったが、あるときから(再選戦略を立てる頃)中国に対して敵対的姿勢を公然化するようになった。ファーウェイ副社長をカナダで逮捕してGAFAM制覇に堰を立てる中国IT企業のグローバル展開を牽制、さらに中国からの輸入品に懲罰的関税をかけ始めた。これに中国も対抗措置で応じたが、トランプ政権はさらに関税を加重、やがては経済スパイ容疑で領事館閉鎖も打ち出した(中国はもちろんこれに対抗)。
その間に、コロナウィルスが武漢ウィルス研究所から出たものだとして中国を非難、パンデミックに対しては国際協調が第一としてこれを否定するWHOのテドロス事務局長の辞任を要求して、アメリカはこの国際機関に拠金支出を拒否(すでにアメリカはユネスコの拠金も停止している)。欧米でのコロナ禍の蔓延に対して、中国の劇的な武漢封鎖などの「成功」は「専制国家」ゆえと批判し、折からの香港問題にも介入、台湾にも米中国交回復(1972年の北京政府承認)以来初の高官派遣に踏み切り、さらに新疆ウィグル自治区の「統合政策」問題を「虐殺」と規定して、国際的な「中国非難」を高め(「人権外交」?)、その孤立化を図ろうとしてきた。
それに対して中国は、同じくアメリカからの圧力を受けているイラン等との連携を深める一方、コロナ禍に対しては「国際協力」を打ち出しワクチン供給を提案するが、それは自陣営に引き込むための「ワクチン外交」だとして非難される。
これらの中国敵視・非難は、ここ数年で顕在化し、あからさまになってきた。もちろん、中国のGDPがあと十年足らずでアメリカを凌駕するという予測がすでに長らく出されており、それに対する警戒は以前からアメリカの底流にあった。だからこそトランプは、その流れに乗ることを再選戦略の基軸に据え、「模範国」としてはふつうはできない手荒なやり方で中国「制裁」を行ってきた。その最後の手が例の「虐殺」認定である。
「法と秩序」のフェイク先導で選挙を乗り切ろうとしたそのトランプを破って当選したバイデン大統領は、アメリカの国内政策に関しては、トランプがオバマ前大統領の基本政策をことごとくお払い箱にしたように、閣僚任命からして次々にトランプ路線からの政策転換を打ち出し、外交に関しても「アメリカ利己主義」をやめて「国際協調」に戻ることを鮮明にしたが(といっても歩みは早くない)、こと対中国に関しては、トランプの傍若無人なやり方の「成果」にむしろ便乗して、中国脅威論・敵視をアメリカ(と西側世界)の自明の前提のようにして振舞い始めた(それがBLMからの玉突き現象のようにシノ・フォビア――アジア人差別を生み出している)。
それをあからさまに示したのが、バイデン政権最初の対中会合アラスカ会議である(3月18-19日)。アメリカは中国代表を辺地アラスカに呼び出し、冒頭から中国を譴責した(アメリカ側からはブリンケン国務長官とサリバン大統領補佐官、中国側からは楊潔チ中共中央政治局委員と王毅外相が出席した)。ブリンケンは、新疆ウィグル・香港・台湾・サイバー攻撃・他国への経済圧力を取り上げ、それに対する懸念を話し合う…と切り出した。まるで植民地宗主国が保護国の内政を指導するかのような姿勢であり、それをバイデン政権は「当たり前」あるいは「国際社会の支持」があるかのように表明する。
この扱いに中国代表は一歩も引かなかった。むしろ、これが客をもてなし話し合いをしようという姿勢か(アメリカはその前日に新たな経済制裁も課していた)と反論し、メディアを前にアメリカ代表と堂々と渡り合って、この会談が対等の国同士の会談だということを世界に示したのである。
ここに現在の米中の関係と相互の姿勢とがあからさまに表れていた。折から今年は、中国共産党100周年と義和団の乱鎮圧後の「屈辱」の北京議定書120周年にあたっている。義和団の乱は西洋列強(と日本)による中国進出を排そうとする勢力が清朝を「扶ける」べく蜂起したいわば「攘夷」運動だったが(「扶清滅欧」)、列強の出兵で鎮圧され、清の西太后も廃されるという、中国にとっては屈辱的な結果に終わった。そしてその後10年で、今度は孫文らの「辛亥革命」によって清朝が内から倒され(「革命」というのは中国古来の観念だ)、初めて「中華」を名乗る「民国」が成立する。
しかし、帝政を廃したそのときから、西洋列強(ととりわけ日本)の圧力の下で、近代中国の苦難が始まる。混乱のまま突入した世界戦争(中国では抗日戦争)後は、共産党政権が中国全土を再統一したため、アメリカは冷戦下で蒋介石の籠った台湾を保護下において大陸と敵対を続けるが、ついに1972年に台湾と断交して北京政府を国家承認せざるをえなくなった。国連の議席(常任理事国)も北京政府が引き継ぐ。だからその後は、台湾とは公式の「国交」をもつことはできなかった(非公式の接触・関係は継続)。だが、歴史的経緯もなにも無視するトランプは、自分の対中強硬姿勢を誇示するためわざわざ高官を送り込んで台湾を国家扱いした。
この間、鄧小平の「開放改革」転換以来、中国は市場経済に舵を切り、ソ連社会主義圏の崩壊をも乗り越えてグローバル経済に参入、米欧が更なる経済成長のために広大な中国市場とその労働力を必要としたこともあって、それなりに順調な発展成長を続け(国内的ないびつさはあれ)、2010年にはGDPで日本を抜き(これが日本にはトラウマになる)、20年代にはアメリカに追いつくことも予見されている。経済指標だけでなく成長の基盤とされているテクノロジー面でも大きく成長し、いまや世界の最先端に並んでいる。
このことには世界史的に大きな意味がある。この500年、世界は西洋諸国によって統合され、西洋文明あるいは西洋的諸価値や組織原理がいまではすっかり世界標準となった。西洋的原理はそれだけが「普遍性」をもつものであり、世界はそこに同化され、今では共有されているというわけである。その世界化の運動は西洋諸国の競争的展開によって担われてきたが、その帰結としての「世界戦争」以後は、アメリカが唯一の超大国としてその指導性を継承している。ところが中国の台頭というより復活、いわば「世界史への回帰」によって、現在アメリカが代表するその西洋普遍の世界編成の時代が終わる、少なくとも相対化されるのである。
この歴史ある「大国」の復興や発展は、グローバル化の「共栄」の時代には避けがたいことである。しかし、このことに対して、アメリカには本能的と言ってよいほどの警戒感というよりむしろ拒否感がある。だからこの間、中国への警戒というより敵対姿勢がしだいにあからさまになってきた。現在の「米中対立」の構造は、アラスカ会議に見られるようにほとんど「開戦間際」の状況である。これが「開戦」に至らないのは、あらゆる「悪」の元凶とされている中国が自制しているからだと言ってもよい。
アメリカは「人権問題」を言い立てて香港・台湾・新疆ウィグル(かつてはチベット)を中国攻撃の橋頭保にしているが、アメリカ自身は内にBLMとして噴出する構造的人種差別を抱えているだけでなく、かつてはベトナムに、またチリに代表される南米諸国に、意向に沿わない政権が生れると傍若無人に(あるいはCIAの工作で陰険に)それを潰して従わせようとしてきた国である。そのために制圧される国の国民は苦難の道を歩まされている。近くはアフガニスタン、イラクに対してもそうだし、今でもキューバやベネズエラに対する姿勢もそうである(グローバル・メディアはアメリカの側に立っているが)。
もちろん、イランの国家体制はイランの人びとにとっても望ましいものではないだろう。しかしアメリカの目ざす「解放」はイランの人びとのためというより、アメリカの市場にその国の富を「解放」するための圧力であり戦争である。中国についても、アメリカがつねに「解体」への圧力をかけ続けるから、中国政府としてはそれに対する防衛態勢を取らざるをえない。喧伝される中国の軍事拡大、東シナ海進出なども、そうしなければアメリカ的秩序に呑み込まれることになるからである。だから、中国の「進出」姿勢は、アメリカ的圧力秩序に対する反動でもあると見なければならない。それをアメリカが「中国の野心」などと言えた立場ではけっしてないのだ。
コロナ禍(パンデミック)に際してのトランプ・アメリカ政権のWHOに対する姿勢がそのミニチュアである。健康上の国際協調のためにであるWHOを、「中国寄り」だとしてボイコットするのが「協調」を基調にする国のすることだろうか。もちろん、最近の中国の姿勢全般に対して、「協調」を要求するのは国際世界の一致した考えだろうが、それを要求できるのはアメリカではないのだ。むしろアメリカこそ、中国をグローバル秩序に 対等のメンバーとして受け容れる姿勢をもつべきではないか。
日本政府の右往左往、あるいは目に余るみっともない「アメリカ抱きつき」は、このようなコンテクストの中で、日本(の統治層)が一度も国際社会での「自立」を考えたことがないその習性のつけである。
*21世紀はフェイク・メディアの時代だが、それはグローバル化が歴史をチャラにして平気なこととも関係している。そこでは、かつての自由主義ヒステリー「反共」は、みずからを自由民主主義と規定し、フォビアの対象を「赤い恐怖」ではなく「専制主義」と呼び変えている。その点では化粧直しの「マルクス」とハイエナ「ハイエク」とが結託するという喜劇が演じられ、手を携えて「専制主義」と「ポヒュリズム」を批判する。だが、中国の「幸福な全体主義」と日本政府の陰険な「デジタル監視化(技術なし)」とどちらが民主的なのか?
トランプ大統領は紫禁城に迎えられてまんざらでもなさそうだったが、あるときから(再選戦略を立てる頃)中国に対して敵対的姿勢を公然化するようになった。ファーウェイ副社長をカナダで逮捕してGAFAM制覇に堰を立てる中国IT企業のグローバル展開を牽制、さらに中国からの輸入品に懲罰的関税をかけ始めた。これに中国も対抗措置で応じたが、トランプ政権はさらに関税を加重、やがては経済スパイ容疑で領事館閉鎖も打ち出した(中国はもちろんこれに対抗)。
その間に、コロナウィルスが武漢ウィルス研究所から出たものだとして中国を非難、パンデミックに対しては国際協調が第一としてこれを否定するWHOのテドロス事務局長の辞任を要求して、アメリカはこの国際機関に拠金支出を拒否(すでにアメリカはユネスコの拠金も停止している)。欧米でのコロナ禍の蔓延に対して、中国の劇的な武漢封鎖などの「成功」は「専制国家」ゆえと批判し、折からの香港問題にも介入、台湾にも米中国交回復(1972年の北京政府承認)以来初の高官派遣に踏み切り、さらに新疆ウィグル自治区の「統合政策」問題を「虐殺」と規定して、国際的な「中国非難」を高め(「人権外交」?)、その孤立化を図ろうとしてきた。
それに対して中国は、同じくアメリカからの圧力を受けているイラン等との連携を深める一方、コロナ禍に対しては「国際協力」を打ち出しワクチン供給を提案するが、それは自陣営に引き込むための「ワクチン外交」だとして非難される。
これらの中国敵視・非難は、ここ数年で顕在化し、あからさまになってきた。もちろん、中国のGDPがあと十年足らずでアメリカを凌駕するという予測がすでに長らく出されており、それに対する警戒は以前からアメリカの底流にあった。だからこそトランプは、その流れに乗ることを再選戦略の基軸に据え、「模範国」としてはふつうはできない手荒なやり方で中国「制裁」を行ってきた。その最後の手が例の「虐殺」認定である。
「法と秩序」のフェイク先導で選挙を乗り切ろうとしたそのトランプを破って当選したバイデン大統領は、アメリカの国内政策に関しては、トランプがオバマ前大統領の基本政策をことごとくお払い箱にしたように、閣僚任命からして次々にトランプ路線からの政策転換を打ち出し、外交に関しても「アメリカ利己主義」をやめて「国際協調」に戻ることを鮮明にしたが(といっても歩みは早くない)、こと対中国に関しては、トランプの傍若無人なやり方の「成果」にむしろ便乗して、中国脅威論・敵視をアメリカ(と西側世界)の自明の前提のようにして振舞い始めた(それがBLMからの玉突き現象のようにシノ・フォビア――アジア人差別を生み出している)。
それをあからさまに示したのが、バイデン政権最初の対中会合アラスカ会議である(3月18-19日)。アメリカは中国代表を辺地アラスカに呼び出し、冒頭から中国を譴責した(アメリカ側からはブリンケン国務長官とサリバン大統領補佐官、中国側からは楊潔チ中共中央政治局委員と王毅外相が出席した)。ブリンケンは、新疆ウィグル・香港・台湾・サイバー攻撃・他国への経済圧力を取り上げ、それに対する懸念を話し合う…と切り出した。まるで植民地宗主国が保護国の内政を指導するかのような姿勢であり、それをバイデン政権は「当たり前」あるいは「国際社会の支持」があるかのように表明する。
この扱いに中国代表は一歩も引かなかった。むしろ、これが客をもてなし話し合いをしようという姿勢か(アメリカはその前日に新たな経済制裁も課していた)と反論し、メディアを前にアメリカ代表と堂々と渡り合って、この会談が対等の国同士の会談だということを世界に示したのである。
ここに現在の米中の関係と相互の姿勢とがあからさまに表れていた。折から今年は、中国共産党100周年と義和団の乱鎮圧後の「屈辱」の北京議定書120周年にあたっている。義和団の乱は西洋列強(と日本)による中国進出を排そうとする勢力が清朝を「扶ける」べく蜂起したいわば「攘夷」運動だったが(「扶清滅欧」)、列強の出兵で鎮圧され、清の西太后も廃されるという、中国にとっては屈辱的な結果に終わった。そしてその後10年で、今度は孫文らの「辛亥革命」によって清朝が内から倒され(「革命」というのは中国古来の観念だ)、初めて「中華」を名乗る「民国」が成立する。
しかし、帝政を廃したそのときから、西洋列強(ととりわけ日本)の圧力の下で、近代中国の苦難が始まる。混乱のまま突入した世界戦争(中国では抗日戦争)後は、共産党政権が中国全土を再統一したため、アメリカは冷戦下で蒋介石の籠った台湾を保護下において大陸と敵対を続けるが、ついに1972年に台湾と断交して北京政府を国家承認せざるをえなくなった。国連の議席(常任理事国)も北京政府が引き継ぐ。だからその後は、台湾とは公式の「国交」をもつことはできなかった(非公式の接触・関係は継続)。だが、歴史的経緯もなにも無視するトランプは、自分の対中強硬姿勢を誇示するためわざわざ高官を送り込んで台湾を国家扱いした。
この間、鄧小平の「開放改革」転換以来、中国は市場経済に舵を切り、ソ連社会主義圏の崩壊をも乗り越えてグローバル経済に参入、米欧が更なる経済成長のために広大な中国市場とその労働力を必要としたこともあって、それなりに順調な発展成長を続け(国内的ないびつさはあれ)、2010年にはGDPで日本を抜き(これが日本にはトラウマになる)、20年代にはアメリカに追いつくことも予見されている。経済指標だけでなく成長の基盤とされているテクノロジー面でも大きく成長し、いまや世界の最先端に並んでいる。
このことには世界史的に大きな意味がある。この500年、世界は西洋諸国によって統合され、西洋文明あるいは西洋的諸価値や組織原理がいまではすっかり世界標準となった。西洋的原理はそれだけが「普遍性」をもつものであり、世界はそこに同化され、今では共有されているというわけである。その世界化の運動は西洋諸国の競争的展開によって担われてきたが、その帰結としての「世界戦争」以後は、アメリカが唯一の超大国としてその指導性を継承している。ところが中国の台頭というより復活、いわば「世界史への回帰」によって、現在アメリカが代表するその西洋普遍の世界編成の時代が終わる、少なくとも相対化されるのである。
この歴史ある「大国」の復興や発展は、グローバル化の「共栄」の時代には避けがたいことである。しかし、このことに対して、アメリカには本能的と言ってよいほどの警戒感というよりむしろ拒否感がある。だからこの間、中国への警戒というより敵対姿勢がしだいにあからさまになってきた。現在の「米中対立」の構造は、アラスカ会議に見られるようにほとんど「開戦間際」の状況である。これが「開戦」に至らないのは、あらゆる「悪」の元凶とされている中国が自制しているからだと言ってもよい。
アメリカは「人権問題」を言い立てて香港・台湾・新疆ウィグル(かつてはチベット)を中国攻撃の橋頭保にしているが、アメリカ自身は内にBLMとして噴出する構造的人種差別を抱えているだけでなく、かつてはベトナムに、またチリに代表される南米諸国に、意向に沿わない政権が生れると傍若無人に(あるいはCIAの工作で陰険に)それを潰して従わせようとしてきた国である。そのために制圧される国の国民は苦難の道を歩まされている。近くはアフガニスタン、イラクに対してもそうだし、今でもキューバやベネズエラに対する姿勢もそうである(グローバル・メディアはアメリカの側に立っているが)。
もちろん、イランの国家体制はイランの人びとにとっても望ましいものではないだろう。しかしアメリカの目ざす「解放」はイランの人びとのためというより、アメリカの市場にその国の富を「解放」するための圧力であり戦争である。中国についても、アメリカがつねに「解体」への圧力をかけ続けるから、中国政府としてはそれに対する防衛態勢を取らざるをえない。喧伝される中国の軍事拡大、東シナ海進出なども、そうしなければアメリカ的秩序に呑み込まれることになるからである。だから、中国の「進出」姿勢は、アメリカ的圧力秩序に対する反動でもあると見なければならない。それをアメリカが「中国の野心」などと言えた立場ではけっしてないのだ。
コロナ禍(パンデミック)に際してのトランプ・アメリカ政権のWHOに対する姿勢がそのミニチュアである。健康上の国際協調のためにであるWHOを、「中国寄り」だとしてボイコットするのが「協調」を基調にする国のすることだろうか。もちろん、最近の中国の姿勢全般に対して、「協調」を要求するのは国際世界の一致した考えだろうが、それを要求できるのはアメリカではないのだ。むしろアメリカこそ、中国をグローバル秩序に 対等のメンバーとして受け容れる姿勢をもつべきではないか。
日本政府の右往左往、あるいは目に余るみっともない「アメリカ抱きつき」は、このようなコンテクストの中で、日本(の統治層)が一度も国際社会での「自立」を考えたことがないその習性のつけである。
*21世紀はフェイク・メディアの時代だが、それはグローバル化が歴史をチャラにして平気なこととも関係している。そこでは、かつての自由主義ヒステリー「反共」は、みずからを自由民主主義と規定し、フォビアの対象を「赤い恐怖」ではなく「専制主義」と呼び変えている。その点では化粧直しの「マルクス」とハイエナ「ハイエク」とが結託するという喜劇が演じられ、手を携えて「専制主義」と「ポヒュリズム」を批判する。だが、中国の「幸福な全体主義」と日本政府の陰険な「デジタル監視化(技術なし)」とどちらが民主的なのか?
2020年、「楽園」キューバをめぐるリアルなファンタズム ― 2021/01/31
15年ほど前、『ダーウインの悪夢』というアフリカに取材したドキュメンタリーで「グローバル化の奈落の夢」(同題で記録集あり、せりか書房)を映し出したオーストリア出身の映像作家フーベルト・ザウパーが、去年5年後しの新作を完成させたという。現代キューバに取材した『EPICENTRO』(エピセンター、2020年)。縁あって見せてもらい、思うところあって書いてみたくなった。
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ソ連崩壊・グローバル化から30年、指導者フィデル・カストロも時の流れに霞と消え、合州国の封鎖を受けるこの孤塁にもグローバル化の波は押し寄せて、年を経た堤防も年々侵蝕されてゆくようだ。そしてオバマ政権の末期、半世紀にわたってこの島国を守ってきた呪縛の結界は解かれるかに見えた。
二十世紀の世界史的な「革命」の最後の残滓として、グローバル化の波頭に抗って孤塁を守ってきたキューバ、アメリカの喉元にあるためつねに脅かされる(フロリダからの「奪回」運動、60回にも及ぶカストロ暗殺計画、歴代アメリカ政権の外交圧力)だけでなく、徹底的な経済封鎖(市民・民衆人質の兵糧攻め)を受け、北朝鮮とともにグローバル世界の「異物」として締め出されてきた小国、そこで現地の人びとは「現代世界」をどう生きているのか? そこを「終末」の「エピセンター(震央)」と見て、『ダーウインの悪夢』のシネアスト・フーベルト・ザウパーはハバナの下町に入り込んだ。そして「楽園」に生活する人びとを撮影する。
ここには、前作のように、「グローバル化の奈落」の構造を浮かび上がらせるような素材(ビクトリア湖の生態系に生活を左右される人びと、ナイルパーチを資源とするグローバル食品企業、冷戦後の見えない戦場と輸送機乗りたち、その世界の澱んだ湖底で明日を夢見る若いセックス・ワーカー…)はない。アメリカはあまりに巨大で規範(標準)的に世界を覆い、その影の下で生きる人びとが「構造」や「力学」を浮かび上がらせるには、キューバの人びとはあまりに小さく果敢なく希薄にみえる。その自己主張が世界にまで届くことはない。
しかし、ザウパーは気づいた。この島がスペインの植民地支配から「解放」されて「独立」の条件を得たのは、シネマトグラフィーの発明と同時代だった、と。映画はイマジネーションを物質化し、というより生きられるもうひとつの「現実」とし、人が生きる「リアル」を二重化も三重化もする。それは製作されるフェイクの「現実」でもある。
この島はアメリカ合州国の最初の海外進出、米西戦争によって「解放」された。しかしその戦争は、キューバ民衆のためになされたのではなく、合州国が「アメリカ」からスペイン老帝国を追い出し、その領地を自らの手(富を吸収する自由市場)に「解放」するための行動だった。その「でっち上げ(フェイク)」を象徴するのが、開戦の口実となった「メイン号事件」である。「リメンバー・メイン!」、その合言葉で内向きの世論は一転、セオドア・ルーズベルトの戦争を支持し、フロンティアの消滅で仕事のなくなった騎兵隊を再編した海兵隊は、勇躍「新しい前線」の任務に就くようになった。
つまり、「フェイク」を引き金になされた「解放」だが、それをキューバの人びとは映画(アニメ)によって繰り返し表現し、フェイクをイメージ化し、それが民衆の間に広まって共有されてきた。そして半世紀を経て、今度はアメリカという「自由」の帝国主義からの「解放」がカストロやゲバラによって指導されたキューバ人自身によってなされた。「キューバ人」とは古い帝国が混成で作り出した多様な由来をもってこの島に住むようになった人びとのことだ。しかしその「自立と解放」は、資本主義対社会主義(共産主義)という非妥協的な対立図式に押し込められ、冷戦構造の下でまさに「エピセンター(震央)」として核危機の震源にさえなりながら、「自由世界の盟主」アメリカの巨大な尻に出口を塞がれて、長く窒息を余儀なくされる。それから半世紀以上、冷戦が終わり、やがて世紀が変わっても、キューバはカストロ指導の下、「地上の楽園」として「世界」から隔離され、「進歩」や「発展」とは無縁に、時間が止まったような「永遠」の日常を生き続けることになる。
とりわけ「都会」ハバナは、とり残された50年代アメリカの、生きた廃墟のようなたたずまいを見せている。「革命」以来、アメリカと切り離され、世界の「発展」から取り残されて、モノとしては「進化」をやめてしまったのだ。そんな「永遠のパラダイス」に、それでも人びとは世代を重ねて生きてきたし、生きている(堕罪前の「楽園」のアダムとイヴが、永遠の神の国でどんな暮らしをしていたかについては、その昔、聖アウグスティヌスがあつく蘊蓄を傾けているが…)。
そのキューバが、グローバル市場に開かれると、もはやツーリズム以外に売るものが、商品化できるものがない。富裕国からやってくる観光客は(カメラマンやシネアストも含めて)、「文明の化石」のなかに生きる人びとを好奇心で見るという形で、この「楽園」の無時間的生を「消費」して去ってゆく(「インバウンド」だ)。「最後の秘境」を見に来るそんな人びとの来訪は、ここで「永遠」を生きてきた・いる人びとの生とどう交錯するのか。ここでは「無時間」(進歩・発展のなさ)が人びとの「歴史」だったのだが、「歴史の終り」を世界で生きる人びとには、ここに他でもない「ユートピア」(どこにもない場所、ただし「失われた楽園」)を求めて、享楽のためにやってきた。
シネアスト(とりわけドキュメンタリスト)は「現実の証言」のためにここを訪れるのか。いや、その仕事も意図も、ときに志も、基本的にはツーリストの立場と変わらない。富裕な世界から来て、「楽園」を生きる人びとのイマジネーションのリアリティや倒錯、あるいはすっかり根をなくしたかもしれない欲望や希望の飾らない生の相に出合おうとするだけである。しかし、映画とは何だったのか。それはもうひとつの「リアリティー」を多少とも産業的に作り出す。その「リアリティー」は想像的なものだ。イマジネーションの産物は、綿菓子よりも淡い、降ってすぐに消える雪のようなものだが、それでも生きられる「現実」であり、生の時間とともに消えてゆくイマジネーションを外部化して「永続化」さえするのが映画である(中国語では「電影」という)。
その映画は機械装置とフィルムという支持体(いまはハードディスクか)をもつことで、繰り返し人びとの前で上演され、同じイマジネーションを生きさせ、主観形成とその共有を可能にする。そこで想像界は制度的機能をもつことになる(一般にはそれを他の媒体と併せてメディアと呼ぶ)。そうなると映画は、共有されるもうひとつの「現実」を、ファンタズムとして作り出すことになる。
キューバの「独立」とは、そんな集団的ファンタズムとして生れたのだとしたら、この「どん底」が「パラダイス」であり、「歴史」がここでは「無時間的」であったとしてもおかしくはない。映画そのものがそんな二重化・三重化、多重露出を作り出す。
シネアストとは、そんなファンタズムが病みつきの中毒になった者のことである。中毒は享楽を体験させるとともに、醒めるときの生を鉛化するような苦痛も約束している。そしてシネアストは、カメラを回してその中毒にすっかり浸りながら、しかしそれを他人たちに見せるために、醒めて作品化しなければならない。
フーベルト・ザウパーはドキュメンター作品を作るためにキューバという世界の「エピセンター」に身を浸し、そこで人びとの生活の中に入りこんだ。そして、自分が映画という一時期のファンタズム中毒であることを知り、そのためにも人びと(ただし具体的に出会った人)のなまの生を共有し、それに浸ることをファンタズムの罠の中で身を持して、映画を作品化する逆説的な支えとした。そのことが、この映画をドキュメンタリー作品としては綻びたものにしている。が、それは、このファンタズム中毒者が、作品化の不可能を引き受けたことの証しでもあるだろう。
月に星条旗を立てて「上陸」の刻印にする未来のアメリカを先取りしたメリエスの映画『月世界旅行』を冒頭に引用し、50年代までのアメリカ映画を引用しながら「この世のパラダイス(またはユートピア)」を写し撮り継ぎ合わせたこの作品は、ツーリストに身を売る島の夜のネオンの明かりを吸う、夕方の堤防沿いで、昔ながらの葉巻をくゆらす廃人のような、しかし頑健そうでもある老いかけの男が、子どもたちの戯れと交差しながら、堤防を打ち砕かんばかりに押し寄せ砕け昇る波頭が、こちらの建物の中にまで容赦なく流れ込む情景のなかで、洪水の予兆を漂わせて幕をおろす(まだ工夫はあるが)。
ともにザウパーを知る(初めて『ダーウィンの悪夢』を観たとき一緒だった)フランスの女性の友達は、今度の新作は初めの5分、10分で見る気がなくなったと言っていたが、わたしとしては、シネアストであることの業をエクスポーズしつつ作ったザウパーならではの力作だと思った。
*2004年に公開され、世界的に話題になった『ダーウィンの悪夢』を観て、山形映画祭と協力して東京外大で上映会&シンポジウムを企画したのはたしかその翌年だった。この映画の後、ザウパーはタンザニア政府から入国禁止措置を受け、欧米のグローバル食品企業から訴えられたが、二年後に完全勝訴、しかしその後の映画作りが困難になる中で、2014年に中国のアフリカ進出をテーマにした作品『"We come as friends』を発表している。
フーベルト・ザウパー:https://www.imdb.com/name/nm0767012/
EPICENTRO:https://www.youtube.com/watch?v=F2ycVtJ8leM
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ソ連崩壊・グローバル化から30年、指導者フィデル・カストロも時の流れに霞と消え、合州国の封鎖を受けるこの孤塁にもグローバル化の波は押し寄せて、年を経た堤防も年々侵蝕されてゆくようだ。そしてオバマ政権の末期、半世紀にわたってこの島国を守ってきた呪縛の結界は解かれるかに見えた。
二十世紀の世界史的な「革命」の最後の残滓として、グローバル化の波頭に抗って孤塁を守ってきたキューバ、アメリカの喉元にあるためつねに脅かされる(フロリダからの「奪回」運動、60回にも及ぶカストロ暗殺計画、歴代アメリカ政権の外交圧力)だけでなく、徹底的な経済封鎖(市民・民衆人質の兵糧攻め)を受け、北朝鮮とともにグローバル世界の「異物」として締め出されてきた小国、そこで現地の人びとは「現代世界」をどう生きているのか? そこを「終末」の「エピセンター(震央)」と見て、『ダーウインの悪夢』のシネアスト・フーベルト・ザウパーはハバナの下町に入り込んだ。そして「楽園」に生活する人びとを撮影する。
ここには、前作のように、「グローバル化の奈落」の構造を浮かび上がらせるような素材(ビクトリア湖の生態系に生活を左右される人びと、ナイルパーチを資源とするグローバル食品企業、冷戦後の見えない戦場と輸送機乗りたち、その世界の澱んだ湖底で明日を夢見る若いセックス・ワーカー…)はない。アメリカはあまりに巨大で規範(標準)的に世界を覆い、その影の下で生きる人びとが「構造」や「力学」を浮かび上がらせるには、キューバの人びとはあまりに小さく果敢なく希薄にみえる。その自己主張が世界にまで届くことはない。
しかし、ザウパーは気づいた。この島がスペインの植民地支配から「解放」されて「独立」の条件を得たのは、シネマトグラフィーの発明と同時代だった、と。映画はイマジネーションを物質化し、というより生きられるもうひとつの「現実」とし、人が生きる「リアル」を二重化も三重化もする。それは製作されるフェイクの「現実」でもある。
この島はアメリカ合州国の最初の海外進出、米西戦争によって「解放」された。しかしその戦争は、キューバ民衆のためになされたのではなく、合州国が「アメリカ」からスペイン老帝国を追い出し、その領地を自らの手(富を吸収する自由市場)に「解放」するための行動だった。その「でっち上げ(フェイク)」を象徴するのが、開戦の口実となった「メイン号事件」である。「リメンバー・メイン!」、その合言葉で内向きの世論は一転、セオドア・ルーズベルトの戦争を支持し、フロンティアの消滅で仕事のなくなった騎兵隊を再編した海兵隊は、勇躍「新しい前線」の任務に就くようになった。
つまり、「フェイク」を引き金になされた「解放」だが、それをキューバの人びとは映画(アニメ)によって繰り返し表現し、フェイクをイメージ化し、それが民衆の間に広まって共有されてきた。そして半世紀を経て、今度はアメリカという「自由」の帝国主義からの「解放」がカストロやゲバラによって指導されたキューバ人自身によってなされた。「キューバ人」とは古い帝国が混成で作り出した多様な由来をもってこの島に住むようになった人びとのことだ。しかしその「自立と解放」は、資本主義対社会主義(共産主義)という非妥協的な対立図式に押し込められ、冷戦構造の下でまさに「エピセンター(震央)」として核危機の震源にさえなりながら、「自由世界の盟主」アメリカの巨大な尻に出口を塞がれて、長く窒息を余儀なくされる。それから半世紀以上、冷戦が終わり、やがて世紀が変わっても、キューバはカストロ指導の下、「地上の楽園」として「世界」から隔離され、「進歩」や「発展」とは無縁に、時間が止まったような「永遠」の日常を生き続けることになる。
とりわけ「都会」ハバナは、とり残された50年代アメリカの、生きた廃墟のようなたたずまいを見せている。「革命」以来、アメリカと切り離され、世界の「発展」から取り残されて、モノとしては「進化」をやめてしまったのだ。そんな「永遠のパラダイス」に、それでも人びとは世代を重ねて生きてきたし、生きている(堕罪前の「楽園」のアダムとイヴが、永遠の神の国でどんな暮らしをしていたかについては、その昔、聖アウグスティヌスがあつく蘊蓄を傾けているが…)。
そのキューバが、グローバル市場に開かれると、もはやツーリズム以外に売るものが、商品化できるものがない。富裕国からやってくる観光客は(カメラマンやシネアストも含めて)、「文明の化石」のなかに生きる人びとを好奇心で見るという形で、この「楽園」の無時間的生を「消費」して去ってゆく(「インバウンド」だ)。「最後の秘境」を見に来るそんな人びとの来訪は、ここで「永遠」を生きてきた・いる人びとの生とどう交錯するのか。ここでは「無時間」(進歩・発展のなさ)が人びとの「歴史」だったのだが、「歴史の終り」を世界で生きる人びとには、ここに他でもない「ユートピア」(どこにもない場所、ただし「失われた楽園」)を求めて、享楽のためにやってきた。
シネアスト(とりわけドキュメンタリスト)は「現実の証言」のためにここを訪れるのか。いや、その仕事も意図も、ときに志も、基本的にはツーリストの立場と変わらない。富裕な世界から来て、「楽園」を生きる人びとのイマジネーションのリアリティや倒錯、あるいはすっかり根をなくしたかもしれない欲望や希望の飾らない生の相に出合おうとするだけである。しかし、映画とは何だったのか。それはもうひとつの「リアリティー」を多少とも産業的に作り出す。その「リアリティー」は想像的なものだ。イマジネーションの産物は、綿菓子よりも淡い、降ってすぐに消える雪のようなものだが、それでも生きられる「現実」であり、生の時間とともに消えてゆくイマジネーションを外部化して「永続化」さえするのが映画である(中国語では「電影」という)。
その映画は機械装置とフィルムという支持体(いまはハードディスクか)をもつことで、繰り返し人びとの前で上演され、同じイマジネーションを生きさせ、主観形成とその共有を可能にする。そこで想像界は制度的機能をもつことになる(一般にはそれを他の媒体と併せてメディアと呼ぶ)。そうなると映画は、共有されるもうひとつの「現実」を、ファンタズムとして作り出すことになる。
キューバの「独立」とは、そんな集団的ファンタズムとして生れたのだとしたら、この「どん底」が「パラダイス」であり、「歴史」がここでは「無時間的」であったとしてもおかしくはない。映画そのものがそんな二重化・三重化、多重露出を作り出す。
シネアストとは、そんなファンタズムが病みつきの中毒になった者のことである。中毒は享楽を体験させるとともに、醒めるときの生を鉛化するような苦痛も約束している。そしてシネアストは、カメラを回してその中毒にすっかり浸りながら、しかしそれを他人たちに見せるために、醒めて作品化しなければならない。
フーベルト・ザウパーはドキュメンター作品を作るためにキューバという世界の「エピセンター」に身を浸し、そこで人びとの生活の中に入りこんだ。そして、自分が映画という一時期のファンタズム中毒であることを知り、そのためにも人びと(ただし具体的に出会った人)のなまの生を共有し、それに浸ることをファンタズムの罠の中で身を持して、映画を作品化する逆説的な支えとした。そのことが、この映画をドキュメンタリー作品としては綻びたものにしている。が、それは、このファンタズム中毒者が、作品化の不可能を引き受けたことの証しでもあるだろう。
月に星条旗を立てて「上陸」の刻印にする未来のアメリカを先取りしたメリエスの映画『月世界旅行』を冒頭に引用し、50年代までのアメリカ映画を引用しながら「この世のパラダイス(またはユートピア)」を写し撮り継ぎ合わせたこの作品は、ツーリストに身を売る島の夜のネオンの明かりを吸う、夕方の堤防沿いで、昔ながらの葉巻をくゆらす廃人のような、しかし頑健そうでもある老いかけの男が、子どもたちの戯れと交差しながら、堤防を打ち砕かんばかりに押し寄せ砕け昇る波頭が、こちらの建物の中にまで容赦なく流れ込む情景のなかで、洪水の予兆を漂わせて幕をおろす(まだ工夫はあるが)。
ともにザウパーを知る(初めて『ダーウィンの悪夢』を観たとき一緒だった)フランスの女性の友達は、今度の新作は初めの5分、10分で見る気がなくなったと言っていたが、わたしとしては、シネアストであることの業をエクスポーズしつつ作ったザウパーならではの力作だと思った。
*2004年に公開され、世界的に話題になった『ダーウィンの悪夢』を観て、山形映画祭と協力して東京外大で上映会&シンポジウムを企画したのはたしかその翌年だった。この映画の後、ザウパーはタンザニア政府から入国禁止措置を受け、欧米のグローバル食品企業から訴えられたが、二年後に完全勝訴、しかしその後の映画作りが困難になる中で、2014年に中国のアフリカ進出をテーマにした作品『"We come as friends』を発表している。
フーベルト・ザウパー:https://www.imdb.com/name/nm0767012/
EPICENTRO:https://www.youtube.com/watch?v=F2ycVtJ8leM
ちょっと走り書き「トランプ最後の日」 ― 2021/01/20
今日はトランプ最後の日。
気になるのは、トランプが残りの任期中に駆け込みでムチャクチャな権限行使してきたことだが、ポンペオが国務長官の地位に乗ってやってるのが、もっとひどい。中国にコロナ禍の責任押しつけ、イラン非難(要人二人も爆殺してるのに)やキューバ「テロ指定」、そして昨日はウイグル族「ジェノサイド」認定…。
何をしているのか?
明らかに「戦争」のレールを敷いている。バイデン列車が就業する前に、レールの方向を固めているのだ。パリ協定復帰?そんなのいいよ。イラン核協議復帰?あかんよそれは、甘い顔しちゃ。要は対中戦争なんだから――これが、トランプ「自己愛カルト」(政治じゃない)を利用した「グレート・アメリカ派」の根本路線。ペルシア・中国、アジアの古いしょうもない異物じゃないか。
今では現実的に考えて戦争を本格的に起こすことはできないが、「宇宙ウォー」でも何でも妄想上でなら起こせるし、その計画を国家政策にすることもできる(政権が妄想的なら)。ただ、今は、レールを敷いてその方向に走るだけでも、実際に戦争を起こしたのと同じような惨劇を引き起こすことができる。いわゆる「ヴァーチャル戦争」だが、ITデジタル化の今ではその「ヴァーチャル」が「リアル」なのだ(そして戦争はすべて「対テロ」、「コロナ・テロ」、「サイバー・テロ」、それに対する「対テロ戦争」!あるいは「経済制裁」も同じ。そして「中国の野望」に備えて世界ワクチンだ!だから中国産のワクチンはいけない、あれは毒だから、外交攻勢だからと――相手が自分たちと同様だと考える米英)。
それが「グレート・アメリカ派」の思惑だ。トランプを当選させ、首席戦略官にもなったステーヴ・バノンら(トランプは傀儡がいやだったからバノンを首にしたが、バノンは利用し続ける)、「陰謀論」仕掛け人たちの狙いはひとつ、「チャイナ世界支配」を許すな!中国を潰せ!そして西洋白人支配を確保し永続化せよ――西洋がその「救済史観」にもとづいて世界を「解放」し救ったのだから。古いヨーロッパは失敗したが(そして協調主義に走った)、新しいヨーロッパたるアメリカはそれに成功した。
その「グレート・アメリカ」が「グローバリズム」(国際協調→中国台頭)で弱体化している。アメリカは持てる力を使ってさらにその「偉大さ」を発揮しなければならない。中国を潰して真の世界帝国へ…そして発展して宇宙へ…。「草の根アメリカ」がその情熱と信仰で「偉大なアメリカ」を支える。それが「救済アメリカ派」(「暗黒啓蒙」と言ってもいい)の基軸戦略だ。
トランプはそのみごとなアイコン(偶像)だったのだ。そのアイコンが、Qアノンや白人至上主義者たちの果敢な議事堂襲撃にもかかわらず、堕ちる(ホワイト・ハウスを「リベラル」に奪取され、今日フロリダに落ちのびる)。その前に、大統領列車のレールのポイントがどんどん切り替えられる。新たな列車はいずれ中国へと突き進む。それが「解放のニュー・ステイト」アメリカの運命だ。
日本はともかくしがみついてでもアメリカ列車に乗る。乗るか乗らないか、米日に振り回されているのが韓国だ。「日韓問題」は、そんなコンテクストに深く巻き込まれてもいる(日本の韓国・朝鮮ヘイト、嫌中…)。
気になるのは、トランプが残りの任期中に駆け込みでムチャクチャな権限行使してきたことだが、ポンペオが国務長官の地位に乗ってやってるのが、もっとひどい。中国にコロナ禍の責任押しつけ、イラン非難(要人二人も爆殺してるのに)やキューバ「テロ指定」、そして昨日はウイグル族「ジェノサイド」認定…。
何をしているのか?
明らかに「戦争」のレールを敷いている。バイデン列車が就業する前に、レールの方向を固めているのだ。パリ協定復帰?そんなのいいよ。イラン核協議復帰?あかんよそれは、甘い顔しちゃ。要は対中戦争なんだから――これが、トランプ「自己愛カルト」(政治じゃない)を利用した「グレート・アメリカ派」の根本路線。ペルシア・中国、アジアの古いしょうもない異物じゃないか。
今では現実的に考えて戦争を本格的に起こすことはできないが、「宇宙ウォー」でも何でも妄想上でなら起こせるし、その計画を国家政策にすることもできる(政権が妄想的なら)。ただ、今は、レールを敷いてその方向に走るだけでも、実際に戦争を起こしたのと同じような惨劇を引き起こすことができる。いわゆる「ヴァーチャル戦争」だが、ITデジタル化の今ではその「ヴァーチャル」が「リアル」なのだ(そして戦争はすべて「対テロ」、「コロナ・テロ」、「サイバー・テロ」、それに対する「対テロ戦争」!あるいは「経済制裁」も同じ。そして「中国の野望」に備えて世界ワクチンだ!だから中国産のワクチンはいけない、あれは毒だから、外交攻勢だからと――相手が自分たちと同様だと考える米英)。
それが「グレート・アメリカ派」の思惑だ。トランプを当選させ、首席戦略官にもなったステーヴ・バノンら(トランプは傀儡がいやだったからバノンを首にしたが、バノンは利用し続ける)、「陰謀論」仕掛け人たちの狙いはひとつ、「チャイナ世界支配」を許すな!中国を潰せ!そして西洋白人支配を確保し永続化せよ――西洋がその「救済史観」にもとづいて世界を「解放」し救ったのだから。古いヨーロッパは失敗したが(そして協調主義に走った)、新しいヨーロッパたるアメリカはそれに成功した。
その「グレート・アメリカ」が「グローバリズム」(国際協調→中国台頭)で弱体化している。アメリカは持てる力を使ってさらにその「偉大さ」を発揮しなければならない。中国を潰して真の世界帝国へ…そして発展して宇宙へ…。「草の根アメリカ」がその情熱と信仰で「偉大なアメリカ」を支える。それが「救済アメリカ派」(「暗黒啓蒙」と言ってもいい)の基軸戦略だ。
トランプはそのみごとなアイコン(偶像)だったのだ。そのアイコンが、Qアノンや白人至上主義者たちの果敢な議事堂襲撃にもかかわらず、堕ちる(ホワイト・ハウスを「リベラル」に奪取され、今日フロリダに落ちのびる)。その前に、大統領列車のレールのポイントがどんどん切り替えられる。新たな列車はいずれ中国へと突き進む。それが「解放のニュー・ステイト」アメリカの運命だ。
日本はともかくしがみついてでもアメリカ列車に乗る。乗るか乗らないか、米日に振り回されているのが韓国だ。「日韓問題」は、そんなコンテクストに深く巻き込まれてもいる(日本の韓国・朝鮮ヘイト、嫌中…)。
『私たちはどんな世界を生きているか』追記 ― 2021/01/07
私は元々はフランス文学・思想の研究者でした。とくに「世界戦争」という極限状況を生きた作家・思想家たちの遺したものから「世界戦争」の意味(西洋文明の成就)と、その大破局によって人間の生存条件がどのように変わったのかを考えてきました。それは『不死のワンダーランド』や『夜の鼓動にふれる』といった著書にまとめましたが、日本人がそんな一般的(人類的)な考察をすることの意味もいつも考えてきたつもりです。私たちは技術・経済・政治の世界的な趨勢のなかに生きていますが、抽象的な人類として生きているわけではなく、日本という言語・社会環境のなかに生きているからです(そういう観点からの「歴史」批判を『世界史の臨界』で試みました)。
それは「冷戦期」の終った頃でしたが、その後、二十一世紀に入ってアメリカの「9・11」が起こり、冷戦に変わる世界戦争のレジームとして「テロとの戦争」が打ち出されました。そして日本には「3・11」の大災厄が起こりました。それはもちろんヒロシマと同じように世界的かつ文明史的な意味をもつ出来事でした。
けれども先端技術・経済を動力として現在の世界は、そうしたカタストロフを流し去るようにして、人びとの日々の生活を「未来」の蜃気楼で包んで「前に」進んでいるようです。人類の時間は長いけれど、一人ひとりの生きる時間は限られています。その限られた時間の視野から、私たちは今ある世界との関係を考えています。その尺度から見ると、私のたちの生きているこの世界(そして日本)は、いまいったいどんな状況に置かれているのか、そのことを技術・経済・政治のファクターをもとに示してみたいと思ったのが、この本を作ることになった動機です。
この思考法には、少なくとも二つの哲学的前提があります。
ひとつは、現在私たちの生きている世界が西洋で作られた規範体系によって組織されているということ(知も制度も意識も、普遍を主張してみずから世界化したその規範体系が標準になっている)。そして、そこに憑依し、あるいは進んで同化するのでないかぎり、私たちは違う来歴をもちながら同化された地域(場)で生きており、その境界は“人間”(言葉を話す生き物)であるかぎり無視できない、ということです。
簡単にいえば、翻訳は今は便利な機械でできても、日本語で生きることと英語で生きることとは違うということです。ただしそれは、分断のために言うのではなく、分有が可能になるために言うわけです。言いかえれば、普遍は共同ではなく一元化と統合であり、それは超越的ないしはヴァーチャルなものであって、個物の立場に立つことで初めて共同性が可能だということです。
このことをわざわざ書く気になったのは、『AERA』年末新年合併号で、生物学者の福岡伸一氏が望外の書評を書いてくれたからです。じつは私の「生命の有限性」に関する考察は、ジョルジュ・バタイユが『エロティシズム』で展開した思考を、福岡伸一氏の「動的平衡」という考えで裏打ちしています。直接の話題としては取り上げていませんが、私の「世界論」(「世界はなぜ存在しないか」などというバカな問いを私は立てない)のそこかしこに福岡氏は私の考えの「方法」を過たず読み取ってくれたと感じています。
それは書評冒頭の、ものごとの理解にとっての「歴史的観点の不可避性あるいは必要性」の指摘にまず表れており、後半の以下の記述はその核心に触れたものです。引用させていただきます。
「(…)それは人間の有限性に対する正常な感覚が失われつつあるからだ。著者は、これを『人間の生存空間、生存領域は成層圏の中』にある、という象徴的な言葉で表明している。この有限性を無化するために作り出されたものは何か。それこそがバーチャル次元である。そしてそれがゆえに『人間の生存の条件そのものを脅かしている』。ここには我が意を得たりという思いがした。」
これこそは「我が意を得たり」ですが、以下、ロゴスとピュシスに関する福岡氏のコメントは、私が最近折あるごとに引用する箇所でもあります。
「私は、朝日新聞のコラムで『ウィルスを、つまりもっとも端的なピュシスを、AIやデータサイエンスで、つまりもっとも端的なロゴスによって、アンダー・コントロールに置こうとするすべての試みに反対する』と書いた。ここで言うピュシスとは、人間の生命を含めた“自然”という意味である。自然とは絶えず流転し、生と死があり、有限なものである。ピュシスとしての生命に対する、ヴァーチャルという名のロゴスによる無制限な侵攻にいかに抵抗すべきなのか。そのための正常な感覚こそが『哲学』であるということを宣明した画期的な論考である。」
*なお、『現代思想2020年9月臨時増刊号 総特集=コロナ時代を生きるための60冊』に、福岡氏の『新版 動的平衡』を挙げ、「生物学の工学化に抗する」という一文を寄稿しました。
それは「冷戦期」の終った頃でしたが、その後、二十一世紀に入ってアメリカの「9・11」が起こり、冷戦に変わる世界戦争のレジームとして「テロとの戦争」が打ち出されました。そして日本には「3・11」の大災厄が起こりました。それはもちろんヒロシマと同じように世界的かつ文明史的な意味をもつ出来事でした。
けれども先端技術・経済を動力として現在の世界は、そうしたカタストロフを流し去るようにして、人びとの日々の生活を「未来」の蜃気楼で包んで「前に」進んでいるようです。人類の時間は長いけれど、一人ひとりの生きる時間は限られています。その限られた時間の視野から、私たちは今ある世界との関係を考えています。その尺度から見ると、私のたちの生きているこの世界(そして日本)は、いまいったいどんな状況に置かれているのか、そのことを技術・経済・政治のファクターをもとに示してみたいと思ったのが、この本を作ることになった動機です。
この思考法には、少なくとも二つの哲学的前提があります。
ひとつは、現在私たちの生きている世界が西洋で作られた規範体系によって組織されているということ(知も制度も意識も、普遍を主張してみずから世界化したその規範体系が標準になっている)。そして、そこに憑依し、あるいは進んで同化するのでないかぎり、私たちは違う来歴をもちながら同化された地域(場)で生きており、その境界は“人間”(言葉を話す生き物)であるかぎり無視できない、ということです。
簡単にいえば、翻訳は今は便利な機械でできても、日本語で生きることと英語で生きることとは違うということです。ただしそれは、分断のために言うのではなく、分有が可能になるために言うわけです。言いかえれば、普遍は共同ではなく一元化と統合であり、それは超越的ないしはヴァーチャルなものであって、個物の立場に立つことで初めて共同性が可能だということです。
このことをわざわざ書く気になったのは、『AERA』年末新年合併号で、生物学者の福岡伸一氏が望外の書評を書いてくれたからです。じつは私の「生命の有限性」に関する考察は、ジョルジュ・バタイユが『エロティシズム』で展開した思考を、福岡伸一氏の「動的平衡」という考えで裏打ちしています。直接の話題としては取り上げていませんが、私の「世界論」(「世界はなぜ存在しないか」などというバカな問いを私は立てない)のそこかしこに福岡氏は私の考えの「方法」を過たず読み取ってくれたと感じています。
それは書評冒頭の、ものごとの理解にとっての「歴史的観点の不可避性あるいは必要性」の指摘にまず表れており、後半の以下の記述はその核心に触れたものです。引用させていただきます。
「(…)それは人間の有限性に対する正常な感覚が失われつつあるからだ。著者は、これを『人間の生存空間、生存領域は成層圏の中』にある、という象徴的な言葉で表明している。この有限性を無化するために作り出されたものは何か。それこそがバーチャル次元である。そしてそれがゆえに『人間の生存の条件そのものを脅かしている』。ここには我が意を得たりという思いがした。」
これこそは「我が意を得たり」ですが、以下、ロゴスとピュシスに関する福岡氏のコメントは、私が最近折あるごとに引用する箇所でもあります。
「私は、朝日新聞のコラムで『ウィルスを、つまりもっとも端的なピュシスを、AIやデータサイエンスで、つまりもっとも端的なロゴスによって、アンダー・コントロールに置こうとするすべての試みに反対する』と書いた。ここで言うピュシスとは、人間の生命を含めた“自然”という意味である。自然とは絶えず流転し、生と死があり、有限なものである。ピュシスとしての生命に対する、ヴァーチャルという名のロゴスによる無制限な侵攻にいかに抵抗すべきなのか。そのための正常な感覚こそが『哲学』であるということを宣明した画期的な論考である。」
*なお、『現代思想2020年9月臨時増刊号 総特集=コロナ時代を生きるための60冊』に、福岡氏の『新版 動的平衡』を挙げ、「生物学の工学化に抗する」という一文を寄稿しました。
「アメリカ黙示録」時代の「思想地図」 ― 2020/12/27
――イギリスの民間調査機関が、コロナ・ショック後の予測として、2028年には中国がGDPでアメリカを凌駕するという調査結果を発表した。5年前の調査では、その時期は2033年だった。(NHKウェブ・ニュース)
たぶんこれ、実はショッキングなニュース(「アメリカ」は発狂するかも)。トランプの中国強硬策が選挙運動に使われたのも、バイデン政権がその方針を踏襲するらしいのも、中国が経済的に米国を凌駕することに「アメリカ」は耐えられないから。
戦争はやってみないと分からない(と思われている)が、経済は自分たちの作った指標で数値が出てしまう。世界に冠たる「アメリカ」が、アジアの蒙昧なチャイナの腐れ年寄りが若返りを狙って歪な共産主義で復活して、とうとう「文明(=西洋)の頂点」アメリカを凌駕する!これを「アメリカ」は許せない。
だから最近の中国叩き・中国敵視(しかし、90年代のアメリカIT企業転換にも、その後のリーマンショックから立ち直るためにも、中国の「成長」があったからこそアメリカ経済は進展してきたのに、それが許せないというのはいかにも理不尽な独善だと言わざるをえない)。いわゆる「西側世界」はそれに乗り、いっしょになって制裁姿勢。
中国が軍事大国化するのは、この百年ずっと西洋諸国に食い物にされ、復興するにもつねに封じ込められて、その上、台湾を使って喉元にミサイル突きつけられ、東シナ(!)海も米第七艦隊で我が物顔の圧力をかけられてきたから当然のこと。習近平の独裁志向に国内向けの偏りが強いとしても、それが可能になる(いわゆる民主化が進まない)のは、米枢軸の西側圧力が攻撃的なため(中国人なら、中国が外圧で圧迫・解体されるのを望まないのは、この百年を歴史を知っていればこそあたりまえ)。
日本のいわゆる識者・解説者等は、骨の髄まで「アメリカ」に染まっているので、西洋による世界化のプロセスも、アジアのこの百年の歴史も一顧だにしない。現在の世界構成(歴史なき地政学)を天与のものと思い込んでいる。
西側世界が追従する「アメリカ」の独善は、西洋白人文明の卓越という「近代」普遍主義から来ている。だが「アメリカ」は異民族抹消の空白の上に築かれた「自由」の人工世界。その成立には、異物のラジカルな蔑視と略奪と他者抹消を当然の「権利」とする、根本的倒錯がある。その倒錯を「啓蒙」のネオンの光で粉飾し、世界を魅了したのが二十世紀に世界の鑑(自由と民主主義!)となった「アメリカ」である。
その「アメリカ」が虚飾を維持できなくなる。その時が近いという「発表」だ。「終りの日が近い」、アメリカにとって今は「黙示録」的時代なのである。だからこそ「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」のトランプが大統領になり、そのフェイクがあからさまになった今、「アメリカの精神」は完全にカルト化して「トランプ・アゲイン」のネット・メディア地下水脈に広がっている。
その上澄みできらめくのが「暗黒啓蒙」の思想(ニック・ランド)、筋金入りの西洋文明至上主義であり(ポピュラーなレヴェルではあらゆる類の「ヘイト」現象として発現)、その上にヴァーチャル・テクノロジーの天蓋をかけて世界を引っ張っりつつ、みずからは「世界」からの「エグジット(脱出)」を試みる、シリコンバレーの「自由主義者」たちの使い走りたる「加速主義」であり(マルクス・ドゥルージアン)、さらに涼しい顔で世界のデジタルIT化を加速して「公私」を混淆させ、虚構の富を掌中に収めて世界の「生きたアイコン(偶像)」となっているのが、IT企業長者たちである。彼らは「思想」(人間が考えること)を解消したため、名前がない。だがそれにみごとに名付けた者もいる、「シリコンバレーの解決主義」と。
これが現在の「アメリカ終末論」の「思想地図」である。
*「アメリカ」に括弧を付けたのは、「アメリカ」は国の名前ではないからだ。それは「新しい西洋」として作られた「制度的空間」の名前である。『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ)参照。
たぶんこれ、実はショッキングなニュース(「アメリカ」は発狂するかも)。トランプの中国強硬策が選挙運動に使われたのも、バイデン政権がその方針を踏襲するらしいのも、中国が経済的に米国を凌駕することに「アメリカ」は耐えられないから。
戦争はやってみないと分からない(と思われている)が、経済は自分たちの作った指標で数値が出てしまう。世界に冠たる「アメリカ」が、アジアの蒙昧なチャイナの腐れ年寄りが若返りを狙って歪な共産主義で復活して、とうとう「文明(=西洋)の頂点」アメリカを凌駕する!これを「アメリカ」は許せない。
だから最近の中国叩き・中国敵視(しかし、90年代のアメリカIT企業転換にも、その後のリーマンショックから立ち直るためにも、中国の「成長」があったからこそアメリカ経済は進展してきたのに、それが許せないというのはいかにも理不尽な独善だと言わざるをえない)。いわゆる「西側世界」はそれに乗り、いっしょになって制裁姿勢。
中国が軍事大国化するのは、この百年ずっと西洋諸国に食い物にされ、復興するにもつねに封じ込められて、その上、台湾を使って喉元にミサイル突きつけられ、東シナ(!)海も米第七艦隊で我が物顔の圧力をかけられてきたから当然のこと。習近平の独裁志向に国内向けの偏りが強いとしても、それが可能になる(いわゆる民主化が進まない)のは、米枢軸の西側圧力が攻撃的なため(中国人なら、中国が外圧で圧迫・解体されるのを望まないのは、この百年を歴史を知っていればこそあたりまえ)。
日本のいわゆる識者・解説者等は、骨の髄まで「アメリカ」に染まっているので、西洋による世界化のプロセスも、アジアのこの百年の歴史も一顧だにしない。現在の世界構成(歴史なき地政学)を天与のものと思い込んでいる。
西側世界が追従する「アメリカ」の独善は、西洋白人文明の卓越という「近代」普遍主義から来ている。だが「アメリカ」は異民族抹消の空白の上に築かれた「自由」の人工世界。その成立には、異物のラジカルな蔑視と略奪と他者抹消を当然の「権利」とする、根本的倒錯がある。その倒錯を「啓蒙」のネオンの光で粉飾し、世界を魅了したのが二十世紀に世界の鑑(自由と民主主義!)となった「アメリカ」である。
その「アメリカ」が虚飾を維持できなくなる。その時が近いという「発表」だ。「終りの日が近い」、アメリカにとって今は「黙示録」的時代なのである。だからこそ「メイク・アメリカ・グレート・アゲイン」のトランプが大統領になり、そのフェイクがあからさまになった今、「アメリカの精神」は完全にカルト化して「トランプ・アゲイン」のネット・メディア地下水脈に広がっている。
その上澄みできらめくのが「暗黒啓蒙」の思想(ニック・ランド)、筋金入りの西洋文明至上主義であり(ポピュラーなレヴェルではあらゆる類の「ヘイト」現象として発現)、その上にヴァーチャル・テクノロジーの天蓋をかけて世界を引っ張っりつつ、みずからは「世界」からの「エグジット(脱出)」を試みる、シリコンバレーの「自由主義者」たちの使い走りたる「加速主義」であり(マルクス・ドゥルージアン)、さらに涼しい顔で世界のデジタルIT化を加速して「公私」を混淆させ、虚構の富を掌中に収めて世界の「生きたアイコン(偶像)」となっているのが、IT企業長者たちである。彼らは「思想」(人間が考えること)を解消したため、名前がない。だがそれにみごとに名付けた者もいる、「シリコンバレーの解決主義」と。
これが現在の「アメリカ終末論」の「思想地図」である。
*「アメリカ」に括弧を付けたのは、「アメリカ」は国の名前ではないからだ。それは「新しい西洋」として作られた「制度的空間」の名前である。『アメリカ、異形の制度空間』(講談社メチエ)参照。
人工知能に鮫の皮――「おぢいさんのランプ」に寄せて ― 2020/12/27
私たちが小学校の頃は、年に二、三度、学校で映画の上映会があった。もちろん、文部省推薦映画とお墨付きのあるものだ(その頃の文部省は多少ともまともに「教育」に向き合っていた)。筑豊炭田で父を失い極貧を生きる在日少女の手記を映画化した『にあんちゃん』(今村昌平)などもその機会に観た。ほとんどは忘れてしまったが、その後何度も思い出し、いまでも印象を刻んでいるのは『ランプ屋おじいさん』という映画だ。いや、後で知った新実南吉の原作通り『おぢいさんのランプ』だったかもしれない。
孤児の巳之助が初めて都会に行ったとき、ランプの街並みに魅せられ、ひとつ安く譲ってもらって以来、町の行燈屋に恨まれながらランプを売り、店を構えるまでになる。それで繁盛して生活も安定するが、あるとき町に電気が引かれるようになり、ランプはまったく顧みられなくなる。巳之助は悔しさのあまり、区長の家に火をつけようとするが、マッチ代わりにもってきた火打石では火がつかない。古い道具は役に立たないと思った己之吉ははっとして憤りから醒めた。その夜、仕入れていたランプをみんな池の端の木に吊るし、石を投げて割るが、それも途中でやめて、街に出て新しい商売を始める。
倉の中からランプを見つけて遊ぶ孫をつかまえて、そんな昔話を聞かせるおぢいさんがその己之吉だったという話だ。
文明開化の時代に、目ざとく灯油ランプを売って財をなした者が、それを駆逐する新しい電気を憎むが、自分が成功したのもじつは新規の技術が普及すると見込んだためだったと気づくのだ。映画のメッセージは、子供の記憶の中で、高度成長期の花形企業(文字どおりナショナルの)松下電器の創業者松下幸之助とも重なった。文明開化と技術革新によって進歩し変わる世の中にどう向き合うかという教訓がそこに生まれる。
ただ、若い新実南吉(二十九歳で没している)の老いた主人公は、時代に従うべく電器屋になるのではなく、灯りの革新とは縁のない(明かりのもとで読まれるわけだが)本屋になる(そのことは今回確認するまで忘れていた)。
この話が近年とみに脳裏に去来するのは、「おぢいさん」と呼ばれるにふさわしくなった私自身が、技術革新と時代の波にいま思想上で逆らおうとしているからである。ひとことで言えば、デジタルIT化の趨勢に「生きたからだ」を押し立ててさからおうとしているのだ。その趨勢は、「この道しかない」と言われた(そして事実世界がそれを受け入れている)「新自由主義」のレールと不可分である。
別の言い方をすれば、ドゥルーズ以来のマシニックな欲望の解放の理論と、認知科学を思考に置き換える科学主義への、時代遅れと言われもする「無駄な」抵抗である。このことを、「人工知能に鮫の皮」と表現したら(春秋社ウェブ連載『疫病論』)、昔から信頼しているある知人に「それでは誰にも分からない、理解されない」と言われた。その表現の発想自体が「おぢいさん」のものということでもあるだろう。言いたかったのは、コロナ禍を奇貨として加速し(ドゥルーズ的加速主義!)世界を舐め尽すデジタルIT化の津波に、鮫の皮をあててワサビのように擦り下ろすということだ。
そんなことをすれば、かつては「ラッダイト運動」(資本主義化する世界の最初のテロリスト)とバカにされたことだろう。だが、核エネルギー技術と遺伝子工学によっていわゆるテクノロジーと人間との関係が根本的に代わり、人間がヴァーチャル次元に呑み込まれつつある現在では、「技術への抵抗」しか人間の生き延びる道はないのである。
けれども、その危惧も、脱皮について行けない古い人間の古い思考としかみなされない。進化論に従えば「ポスト・ヒューマン」は不可避だというわけだ。あるいは、ヘーゲル以来の保守的・内在的な「人間主義」に止まることなると。しかし、その言い方こそが、西洋啓蒙思想の懲りない「進化」、それが目標とする「リアル(もの自体?)」からの「エグジット」(脱出主義)を正当化している。
すでに70年も生きてきたのだから、四の五の言わずに何もできなかったことを認めながら世の中から「引退」するのが「大人の道」とも思うのだが、思考の世界でも、ヴァーチャル化の流れに掉さす連中ばかりが「新しさ」を売り物に跋扈する「今」を見て、だからこそ死ぬわけにはいかない(誰のため?)と、ひたすら鮫の皮を磨く毎日である。
新実南吉は早くから腎臓病を患い、わずか二十九歳で亡くなっているが、死の前年に『おぢいさんのランプ』を出版した。彼は若くして晩年を知り、電器が世界を変えてゆく一時代を生きた「おぢいさん」に、技術革新とはとりあえず縁のない本屋を開かせた。読み書く世界だ。いま、その「読み書き」がデジタル・ヴァーチャル化によって淘汰されようとしている。そのとき「おぢいさん」は晩年を永遠の「若さ」として淘汰される世界にあくまで留まろうとするのである。
孤児の巳之助が初めて都会に行ったとき、ランプの街並みに魅せられ、ひとつ安く譲ってもらって以来、町の行燈屋に恨まれながらランプを売り、店を構えるまでになる。それで繁盛して生活も安定するが、あるとき町に電気が引かれるようになり、ランプはまったく顧みられなくなる。巳之助は悔しさのあまり、区長の家に火をつけようとするが、マッチ代わりにもってきた火打石では火がつかない。古い道具は役に立たないと思った己之吉ははっとして憤りから醒めた。その夜、仕入れていたランプをみんな池の端の木に吊るし、石を投げて割るが、それも途中でやめて、街に出て新しい商売を始める。
倉の中からランプを見つけて遊ぶ孫をつかまえて、そんな昔話を聞かせるおぢいさんがその己之吉だったという話だ。
文明開化の時代に、目ざとく灯油ランプを売って財をなした者が、それを駆逐する新しい電気を憎むが、自分が成功したのもじつは新規の技術が普及すると見込んだためだったと気づくのだ。映画のメッセージは、子供の記憶の中で、高度成長期の花形企業(文字どおりナショナルの)松下電器の創業者松下幸之助とも重なった。文明開化と技術革新によって進歩し変わる世の中にどう向き合うかという教訓がそこに生まれる。
ただ、若い新実南吉(二十九歳で没している)の老いた主人公は、時代に従うべく電器屋になるのではなく、灯りの革新とは縁のない(明かりのもとで読まれるわけだが)本屋になる(そのことは今回確認するまで忘れていた)。
この話が近年とみに脳裏に去来するのは、「おぢいさん」と呼ばれるにふさわしくなった私自身が、技術革新と時代の波にいま思想上で逆らおうとしているからである。ひとことで言えば、デジタルIT化の趨勢に「生きたからだ」を押し立ててさからおうとしているのだ。その趨勢は、「この道しかない」と言われた(そして事実世界がそれを受け入れている)「新自由主義」のレールと不可分である。
別の言い方をすれば、ドゥルーズ以来のマシニックな欲望の解放の理論と、認知科学を思考に置き換える科学主義への、時代遅れと言われもする「無駄な」抵抗である。このことを、「人工知能に鮫の皮」と表現したら(春秋社ウェブ連載『疫病論』)、昔から信頼しているある知人に「それでは誰にも分からない、理解されない」と言われた。その表現の発想自体が「おぢいさん」のものということでもあるだろう。言いたかったのは、コロナ禍を奇貨として加速し(ドゥルーズ的加速主義!)世界を舐め尽すデジタルIT化の津波に、鮫の皮をあててワサビのように擦り下ろすということだ。
そんなことをすれば、かつては「ラッダイト運動」(資本主義化する世界の最初のテロリスト)とバカにされたことだろう。だが、核エネルギー技術と遺伝子工学によっていわゆるテクノロジーと人間との関係が根本的に代わり、人間がヴァーチャル次元に呑み込まれつつある現在では、「技術への抵抗」しか人間の生き延びる道はないのである。
けれども、その危惧も、脱皮について行けない古い人間の古い思考としかみなされない。進化論に従えば「ポスト・ヒューマン」は不可避だというわけだ。あるいは、ヘーゲル以来の保守的・内在的な「人間主義」に止まることなると。しかし、その言い方こそが、西洋啓蒙思想の懲りない「進化」、それが目標とする「リアル(もの自体?)」からの「エグジット」(脱出主義)を正当化している。
すでに70年も生きてきたのだから、四の五の言わずに何もできなかったことを認めながら世の中から「引退」するのが「大人の道」とも思うのだが、思考の世界でも、ヴァーチャル化の流れに掉さす連中ばかりが「新しさ」を売り物に跋扈する「今」を見て、だからこそ死ぬわけにはいかない(誰のため?)と、ひたすら鮫の皮を磨く毎日である。
新実南吉は早くから腎臓病を患い、わずか二十九歳で亡くなっているが、死の前年に『おぢいさんのランプ』を出版した。彼は若くして晩年を知り、電器が世界を変えてゆく一時代を生きた「おぢいさん」に、技術革新とはとりあえず縁のない本屋を開かせた。読み書く世界だ。いま、その「読み書き」がデジタル・ヴァーチャル化によって淘汰されようとしている。そのとき「おぢいさん」は晩年を永遠の「若さ」として淘汰される世界にあくまで留まろうとするのである。
★舵の効かない「Go to」五輪 ― 2020/12/03
もう12月、明ければオリンピックだそうだ。コロナ下でのオリンピック強行開催(準備をコロナ下で進めなければならない)。大勢の選手団や関係者に来てもらわねばならない。「オモテナシ」のために、政府はワクチン接種を入国条件とせず(一部の国しか間に合わない!)、交通機関の利用にも制限をかけないという。ただ、感染監視アプリを義務付けると。それで、大量の五輪観光客を受け入れ「移動の自由と感染対策の両立を目ざす」のだそうだ。
日本の政治環境はそれで通っても(そんなことを政府が平気で発表できる!)、世界のまともな人びとも政府も、デタラメさと無理やり五輪開催国の無責任ににあきれるばかりだろう。世界に混乱を招くばかりだからだ(「Go to」観光客はいざ知らず、国も選手たちも困惑する)。
オリンピックはアベ・スガ政権の性格というより、今の成長戦略会議に引き継がれたこの間の日本政府(野田内閣以来!)のグランド・デザインに従って、アベ内閣が目玉として据えたプランで、この間の日本政府の全般政策の牽引車、やるしかないものになっている。もはや路線変更ができない、その能力がないのだ(だから「インパール作戦」にもなぞらえられる)。
コロナ禍は降って湧いたその障害。だからこのパンデミックに際して、日本では対策は初めからオリンピックに支障をきたさないことだった(クルーズ船の頃)。2020年にできないから中止というのでなく、無理やり延期に持ち込んだ(4年毎に一度というのはオリンピックのアイデンティティ)からなおのこと、世界に何と言われても実施を目ざすだけ。
だからコロナ対策は、基本すべてオリンピック実施対策。それがすべてに優先する。コロナなど迷惑でしかない。四の五の言うな、下々はみんな自分で「自粛」し合ってコロナを抑えろ、お国はオリンピックにまっしぐら、「Go to 五輪」の一点張り。その無理も半分わかっていても、もう誰も舵を切れない。
その政治の盲点は、アベ・スガ日本がトランプに期待したように、政権自体がもう内向きになっていて(支持率高いから)、世界からどう見られるかがまったくわかっていないことだ(外務省は臆面もなくドイツ都市の慰安婦像設置に抗議したりするし)。トランプにすり寄れば、その時点で世界からは顰蹙を買うのに、その草履もちになることを「影響力がある」と勘違いする外交感覚だから。
いま世界で、オリンピックに関心を向けている国などひとつもない。みんなコロナ対策が最優先課題だから。スポーツの記録競争より、ワクチン開発・獲得競争。それはそれで、倒錯的ないわゆる「科学の政治利用」だが、とにかく国民の健康・生命維持が第一課題ということで、日本にオリンピックをやってくれなどと誰も期待していないのだ(競馬馬のように目によそ見禁止の覆いをつけている選手たちは別として、というと競馬馬に失礼か、馬は好きだが、人間のアスリートは馬ではないだろう)。
日本の政治環境はそれで通っても(そんなことを政府が平気で発表できる!)、世界のまともな人びとも政府も、デタラメさと無理やり五輪開催国の無責任ににあきれるばかりだろう。世界に混乱を招くばかりだからだ(「Go to」観光客はいざ知らず、国も選手たちも困惑する)。
オリンピックはアベ・スガ政権の性格というより、今の成長戦略会議に引き継がれたこの間の日本政府(野田内閣以来!)のグランド・デザインに従って、アベ内閣が目玉として据えたプランで、この間の日本政府の全般政策の牽引車、やるしかないものになっている。もはや路線変更ができない、その能力がないのだ(だから「インパール作戦」にもなぞらえられる)。
コロナ禍は降って湧いたその障害。だからこのパンデミックに際して、日本では対策は初めからオリンピックに支障をきたさないことだった(クルーズ船の頃)。2020年にできないから中止というのでなく、無理やり延期に持ち込んだ(4年毎に一度というのはオリンピックのアイデンティティ)からなおのこと、世界に何と言われても実施を目ざすだけ。
だからコロナ対策は、基本すべてオリンピック実施対策。それがすべてに優先する。コロナなど迷惑でしかない。四の五の言うな、下々はみんな自分で「自粛」し合ってコロナを抑えろ、お国はオリンピックにまっしぐら、「Go to 五輪」の一点張り。その無理も半分わかっていても、もう誰も舵を切れない。
その政治の盲点は、アベ・スガ日本がトランプに期待したように、政権自体がもう内向きになっていて(支持率高いから)、世界からどう見られるかがまったくわかっていないことだ(外務省は臆面もなくドイツ都市の慰安婦像設置に抗議したりするし)。トランプにすり寄れば、その時点で世界からは顰蹙を買うのに、その草履もちになることを「影響力がある」と勘違いする外交感覚だから。
いま世界で、オリンピックに関心を向けている国などひとつもない。みんなコロナ対策が最優先課題だから。スポーツの記録競争より、ワクチン開発・獲得競争。それはそれで、倒錯的ないわゆる「科学の政治利用」だが、とにかく国民の健康・生命維持が第一課題ということで、日本にオリンピックをやってくれなどと誰も期待していないのだ(競馬馬のように目によそ見禁止の覆いをつけている選手たちは別として、というと競馬馬に失礼か、馬は好きだが、人間のアスリートは馬ではないだろう)。
★なぜ「Goto」はダメなのか? ― 2020/12/02
コロナで誰もが出控えると、各地の観光業とその周辺で生活する人たちの経営が破綻し困窮する。その人たちの数は半端ではないから、地方にとっては(都市圏にとっても)重要だと言われる。だから、人びとがコロナを恐れず積極的に旅行して消費するよう促すのがこのキャンペーンである。そのために旅行や旅先での消費に半額近くの支援をする。その支援が旅行者の消費として交通・宿泊・飲食業者たちの売り上げになるということだ。
だが、一方でコロナ感染が広がりを見せ、病院が逼迫し始めているのに、人びとの移動(それも団体が多い)や行楽を推奨する(誘い出す)というのは、政策としてまず倒錯している。文字どおりアクセルとブレーキを一緒に踏む政策だ(一方で「我慢の三連休」とか言い、同時に「Goto」は「適切に推進する」と言う)。
それに、なぜ困窮者・困窮業界に直接支援しないのか。たとえば、ここ三年間の営業実績のたとえば七五%までを補填支援するとかは、税務署の申告に照らせばすぐにできることだろう(還付の届け出口座を使えば振込みも適切かつ容易にできる)。
それを観光クーポンのような形をとろうとするのは、"経済"があくまで個人の欲望にもとづく"消費"によって回る、という新自由主義的な考え方のためである。そこでは購買行動は、あくまで個人の自由にもとづくもの、そして自己責任である。自己責任で「自由」に動いてもらう。それによって"経済"を回すというのだ。
だがそれは、暑いから扇風機を回したいというときに、電流を通してモーターを回すのではなく、風を待っている人たちに団扇を配って扇風機を扇がせるようなものである。扇風機はトロトロと回るかもしれないが、それでは少しも涼しくないし、すぐにまた止まってしまう。
なぜそんなバカげた政策に固執するのか? ひとつには、直接給付は利権を生みにくいという今の政治家たちの都合がある。それと、観光業インフラの維持は新自由主義化した国の経済にとっては至上命題だからである。
だいたい、なぜ地方はここまで観光業に依存するようになってしまったのか?地場産業は非効率で競争力がないというので淘汰させ、地域商業も衰退させて、地方にはもはや自力で経済を成り立たせる構造はなく、あるもの(地域遺産)をPRで粉飾し、呼び込みで"観光客"の足を運ばせてヴァーチャル商品を"消費"してもらうしかないのである。
(元々、これは世界的には七十年代のユネスコの世界遺産指定から始まった。観光業とは、原料の要らない、"消費"だけで成り立つ最後のインダストリーなのである。)
国内でいえば首都圏・都市部と地方だが、日本はいま国としてもそのような段階に入っている。もう作って売るものがない。だから国を挙げて「インバウンド」頼み、「オリンピック」はその実情を糊塗して花火をあげる「観光業化」のあられもない姿だ。
このコロナ禍のさなかでも、日本の地域農業に決定的な打撃を与える「種苗法改悪案」が国会を通過した。グローバル化に適合するとしてこの間採られてきた日本の経済政策が、コロナ禍下でも相変わらずの路線として進められている。
「デフレ脱却」を掲げて、日銀がどんなに円札を刷りまくっても、"消費"は伸びず、物価は上がらない。そして7年経ってもインフレ目標2%は永遠に達成できないのだ。それもそのはず、"消費"しようにも大多数の人びとにはその余力がなく(賃金抑制、非正規雇用増)、大企業は内部留保を増やし、国策株高の恩恵を受ける資産家や小金持ちだけが奢多品を消費するだけだからだ。
ついでに言っておけば、政府はこの春から医療充実にほとんど手を打っていない。むしろ決まっていた医療の合理化・スリム化をそのまま進めている。それも、"受益者負担"の考えに立つ新自由主義的「改革」だ。
だから「コロナ危機」は、「命か経済か」つまり、保健衛生か経済対策かという二者択一のジレンマを引き起こす。その時点で国の行政は破綻しているといってもいいのだが、だから一方で「自粛」つまり「自己責任」論理で脅しながら、コロナに委縮せずどんどん旅行に行きなさい、といった倒錯的な政策が出てくることになる(そして政府「専門家」たちは、それに異を唱えられずにオロオロし、子供でも分かるマスクの使い方を「専門家」として訴えている)。首相が誰であろうが、今の自民党政府はこの出来上がったレールの上で走ることしかできないのだ。
地方で観光業で生活している人びとも、「Goto」に期待などせず(それでは長期的にも暮らしていけない)最も妥当な直接給付を求めるべきだろう。そして長期的には、観光業一辺倒から脱却する道を探らなければならない。予算が…という言い訳は、日銀に無制約に札を刷らせ、年金資金も株に投入している政府の言えることではない。
(経済の細かいことはわからないが、大筋は間違っていないと思う。ぜひ、経済学に詳しい人に詳述してもらいたい。)
だが、一方でコロナ感染が広がりを見せ、病院が逼迫し始めているのに、人びとの移動(それも団体が多い)や行楽を推奨する(誘い出す)というのは、政策としてまず倒錯している。文字どおりアクセルとブレーキを一緒に踏む政策だ(一方で「我慢の三連休」とか言い、同時に「Goto」は「適切に推進する」と言う)。
それに、なぜ困窮者・困窮業界に直接支援しないのか。たとえば、ここ三年間の営業実績のたとえば七五%までを補填支援するとかは、税務署の申告に照らせばすぐにできることだろう(還付の届け出口座を使えば振込みも適切かつ容易にできる)。
それを観光クーポンのような形をとろうとするのは、"経済"があくまで個人の欲望にもとづく"消費"によって回る、という新自由主義的な考え方のためである。そこでは購買行動は、あくまで個人の自由にもとづくもの、そして自己責任である。自己責任で「自由」に動いてもらう。それによって"経済"を回すというのだ。
だがそれは、暑いから扇風機を回したいというときに、電流を通してモーターを回すのではなく、風を待っている人たちに団扇を配って扇風機を扇がせるようなものである。扇風機はトロトロと回るかもしれないが、それでは少しも涼しくないし、すぐにまた止まってしまう。
なぜそんなバカげた政策に固執するのか? ひとつには、直接給付は利権を生みにくいという今の政治家たちの都合がある。それと、観光業インフラの維持は新自由主義化した国の経済にとっては至上命題だからである。
だいたい、なぜ地方はここまで観光業に依存するようになってしまったのか?地場産業は非効率で競争力がないというので淘汰させ、地域商業も衰退させて、地方にはもはや自力で経済を成り立たせる構造はなく、あるもの(地域遺産)をPRで粉飾し、呼び込みで"観光客"の足を運ばせてヴァーチャル商品を"消費"してもらうしかないのである。
(元々、これは世界的には七十年代のユネスコの世界遺産指定から始まった。観光業とは、原料の要らない、"消費"だけで成り立つ最後のインダストリーなのである。)
国内でいえば首都圏・都市部と地方だが、日本はいま国としてもそのような段階に入っている。もう作って売るものがない。だから国を挙げて「インバウンド」頼み、「オリンピック」はその実情を糊塗して花火をあげる「観光業化」のあられもない姿だ。
このコロナ禍のさなかでも、日本の地域農業に決定的な打撃を与える「種苗法改悪案」が国会を通過した。グローバル化に適合するとしてこの間採られてきた日本の経済政策が、コロナ禍下でも相変わらずの路線として進められている。
「デフレ脱却」を掲げて、日銀がどんなに円札を刷りまくっても、"消費"は伸びず、物価は上がらない。そして7年経ってもインフレ目標2%は永遠に達成できないのだ。それもそのはず、"消費"しようにも大多数の人びとにはその余力がなく(賃金抑制、非正規雇用増)、大企業は内部留保を増やし、国策株高の恩恵を受ける資産家や小金持ちだけが奢多品を消費するだけだからだ。
ついでに言っておけば、政府はこの春から医療充実にほとんど手を打っていない。むしろ決まっていた医療の合理化・スリム化をそのまま進めている。それも、"受益者負担"の考えに立つ新自由主義的「改革」だ。
だから「コロナ危機」は、「命か経済か」つまり、保健衛生か経済対策かという二者択一のジレンマを引き起こす。その時点で国の行政は破綻しているといってもいいのだが、だから一方で「自粛」つまり「自己責任」論理で脅しながら、コロナに委縮せずどんどん旅行に行きなさい、といった倒錯的な政策が出てくることになる(そして政府「専門家」たちは、それに異を唱えられずにオロオロし、子供でも分かるマスクの使い方を「専門家」として訴えている)。首相が誰であろうが、今の自民党政府はこの出来上がったレールの上で走ることしかできないのだ。
地方で観光業で生活している人びとも、「Goto」に期待などせず(それでは長期的にも暮らしていけない)最も妥当な直接給付を求めるべきだろう。そして長期的には、観光業一辺倒から脱却する道を探らなければならない。予算が…という言い訳は、日銀に無制約に札を刷らせ、年金資金も株に投入している政府の言えることではない。
(経済の細かいことはわからないが、大筋は間違っていないと思う。ぜひ、経済学に詳しい人に詳述してもらいたい。)
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