「エクスポーズ(展示・露出)」の排除と推奨2021/07/17

東京・名古屋で追い出され、大阪で実現した「表現の不自由展」にまつわる状況について――「表現の自由」あるいは「エクスポーズという営み」

 ウヨクの街宣ががなり立てて近所迷惑、不安を誘う、危険物が送られてきたりする、だから展示会や講演会をやらせない(場所を貸さない)、というのは、そういう示威行動や恐喝を受け入れるということ。いまのアベ菅政権や大阪維新は慰安婦像の展示などけしからん「反日」だとみなしている(アメリカやドイツでの展示には外務省から横槍が入る、つまりこれが日本政府の「公式」の姿勢だということ)。だから、自分たちが不当だと思うような展示には場所を貸さないが当たり前(ウヨクの反発は当然)。高裁判決にも不服。

 名古屋で送られた爆竹も、大阪の場合も、こういう行為は当局の意図を代理していることになる。警察は、こういう行為を徹底捜査すべきだが、しかし警察庁下、とくに公安は官邸下、行政権力の下にある。

 元はと言えば、まったくさえない寡黙な少女像。それを日本人(日本軍)に恥をかかせる展示物だと目くじら立てて「政治化」するのは、そんな小さな肖像に過剰な憎悪を向ける(自分たちが攻撃されていると思う政治家たちであり、それを「恥」と思う「日本人」に同一化してフェイクの「理想」にすがる(それを「大義」にする)ネトウヨたち――たしかに「恥の文化」だね~)。

 「展示」というのはそれをさらけ出す。エクスポーズ(露呈)と言う。たしかに「美しい国」の「恥を晒す」ことだ。現代アートと言われるものは別に審美的な表現というのではない。このように「エクスポーズ」する営みなのだ。だから少女像という展示されるオブジェは、その「エクスポーズ」の力によって「政治・心情的」反応を引き起こす。これは現代アートの基本的意義(菅香子『共同体のかたち――イメージと人々の存在をめぐって』講談社メチエ、2017)。そのアートを社会が受け入れるかどうか、が問われている。

 日本ではそんな近代世界が導いたそんなアートのあり方を排除し、むしろエクスポーズを隠蔽して少女のスカートの下のエクスポーズで自衛官を募集するようなアニメが政府筋の(政治的な)売り物になっている。

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