「書かれたもの」の位置――歴史家・加藤陽子さんの知的振舞いについて2021/07/15

 菅首相によって学術会議会員に任命拒否された加藤陽子さんが、拒否理由や経緯の分かる文書開示を求めてきたが、その「不開示決定」が示されたのを機会に朝日新聞のインタヴューに応じた。

 加藤さんは「学術機関の自立(自由)に権力が介入する」というこの「事件」の渦中に不意に置かれたが、あくまで歴史家として――「言論の自由」を主張するモノ言う知識人(かつ女性)etc.としてではなく――身を処してきた。普段は文書を検証する側だが、この事件の日からは出来事を正確に記録すべく日記をつけ始めたという。

 ここで肝心なところは、国家統治(政治・ポリティクス)の正統性の基盤は「書かれてある」に存するということだ(司馬遷の『史記』から、近代官僚制国家まで)。その書き物が統治行為のファウンデーション(定礎)かつリフェランス(準拠)となる。

 民主制には存在論的根拠づけもできるが、それが制度化されたとき、その制度性を支えるのは「書かれたもの」である。

 近年の日本の政府・政権のもっとも危険なところは(どんなイデオロギーであるよりも)、国家統治(政治)の正統性の基盤をなし崩しにして、恣意的な権力行使で統治を溶解させてきたことだと言うべきだろう。その堰を切ったのが2015年の「解釈改憲」であり、その後は「安保法制」以降「法を変えずに実行する」(加藤)ことを常態化させてきた――公文書隠蔽・改竄、手続きなき解釈変更、その挙句が森友加計事件の省庁職員抗議の自殺)。それが「歴史修正」の「強い国」イデオロギーと、嫌韓嫌中ヘイト機運で味付けされている。「何のために」の名目はつねにごまかされ、その代わりの国家目標として掲げられたのが「平和の祭典オリンピック」だ(目的はすべてウソ、責任所在も曖昧化したまま、やることだけが自己目的化されている)。

 加藤さんは歴史家だ。歴史家は「書かれたもの」を精査することで「事実」を掘り起こし描き出す。あたかも、まだ石化しきらない化石を洗い出すように。そのようにして洗い出された「事実」はあらゆる「知」(思考)の基盤になる。

 その「書かれたもの」を抹消・廃棄することを権力の作用とする政治のあり方は加藤さんの仕事と根底から対立する。加藤さん(たち)の問いかけに政府は「無解答」で答えた。「書かれたもの」があるかないかさえ答えなかったのだ。「学問の自由」(軍事研究も含む)を掲げる学術会議は妥協の道を選んだ。政府には逆らえないとする一方で、任命拒否された会員に代替役職を提供したが、加藤さんは「『実』をとるより『名』を取りたいと思った」とその提供を受けなかった。「名」とは言いかえれば「書かれてある」ものだ。「実」は「解釈」で変更される。その「実」を宿すのは、規範の形そのものである「名」の方なのである。その「名」を捨てると「実」は居場所をなくす。

 このことは、いまコロナ禍で大手を振るって進められている社会のデジタル化と無縁ではない。ITデジタル化は歴史修正とフェイクの時代に技術的基盤を提供する。だからネトウヨ大臣による「デジタル庁」推進だ。もちろんデータ処理にパソコンは使えるが、歴史家が行うのは「データ処理」ではなく「解読」、翻訳ソフトがすっ飛ばす「意味」の扱いの方なのだ。デジタル・バーチャル化はその「意味」を回避し、思考を「計算能力」で抹消しようとしている。

 そのうち歴史学会も学術会議も、政府に認めてもらうために「世界一のスパコン」富岳――飛沫感染シミュレーションのエキスパート――のデータ提供機関になり果てるかもしれない。

 「書かれたもの」とは何か?書かれたもの(言葉)がアナログで、それはデジタル化によって超ミクロのシュレッダーにかけて演算可能なものにすればよいのか。そうでないとすれば、デジタル化とは何なのか、歴史家・加藤陽子さんの貫く姿勢は、そんな問いにも結びついている。

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