或る日のフェイスブックから――差別と非政治化2019/09/27

 毎日、友人からのFBの投稿をみて、これはと思うものをシェアし、コメントしたいときにはコメントする。FBは基本的には「友達」の間だから、エコチェンバーという話もある。それは承知で。

 たとえば今日は、萩生田文科相の下の文化庁が、すでに交付が決定していた「あいちトリエンナーレ」への補助金を交付しないと決定。
 これに対して「あいちトリエンナーレ」開催者の大村愛知県知事は、「承服できない」として提訴の構え、と伝える東海テレビの報道。それをシェアするかたちで「京大有志の会」が迅速な抗議投稿。学者の会でもやりたいところだった。

 政党関連では、共産党の小池晃が憲法違反かつ脅迫者(テロリスト?)を喜ばせる「暴挙中の暴挙」とツイッターで批判している。
 そしてすでに昨夜、アーチストを中心に呼びかけが回って、文科省前で数百人が抗議のデモをしたというニュース。

 以上はひとまとまりだが、「沖縄タイムズ+」の阿部岳記者による「「差別する自由」など存在しない」という記事。これは、一貫して差別批判・ヘイトスピーチ報道を続ける神奈川新聞の石橋学記者が、佐久間吾一川崎市議に名誉棄損で告訴された裁判をとり上げ、差別にさらされる沖縄のメディアの立場から援護射撃したもの。

 それと、日本オリ・パラ組織委が、北朝鮮にだけIDを発行していないことが判明、というニュース。日本が北朝鮮に独自制裁を課していることが背景にあるというが、日本の組織委はオリンピック精神もものかわ、「お上」の意向のままにシラッと差別・イジメをしているのである。

 そんな話題を飽きず毎日拾う。スゥエーデンの少女の国連演説もあった。日米貿易交渉も、オスプレイ墜落の事故処理の問題も、もちろん千葉の災害のことも…。だが、今日拾ったニュースは、近年の政治と権力の問題をあぶりだす軸が集約されているようでもあった。それが「差別」の問題だ。そしてそれを日本の場合に即してコンテクスト化するこんなニュースもあった。

 明治維新に伴って生じた「廃仏毀釈」の深刻だった宮崎県で、寺や仏像の状況を知ってもらおうという取り組みがあるという朝日新聞デジタルの記事。実はこれは、戦前の国家神道体制の発端に会った出来事。それ以来日本は仏教国から神道国家になった。その転換のために寺院仏像の全国的破壊があったのである。それ以後わずか半世紀余の「わが世の春」が忘れられず、戦後私的宗教法人に身をやつして生き延びた神社本庁が、雌伏半世紀「日本を取り戻す」として動き出し、歴史修正の運動を下から支え上から煽って、ついに国会を「取り戻す」のに成功した、それを体現するのが日本会議であり神道議員連盟なのである。そしてこの動きの伸張が、いまの日本社会に差別や排他意識を浸透させている元凶でもある。

 ついでに言うなら、「日本を取り戻す」この動きは、「自民党をぶっ壊す」小泉改革でフリーハンドを得た。永久与党自民党内部の「抵抗勢力」が駆逐されたからだ。そして同時に小泉改革は、日本社会の「共生」的基盤を壊し(そこに「大災害」が重なり)、社会関係を「人買い=人飼い」業が手綱を握る、分断と自己責任の社会にした。そのシステム化のいわば「棄民」に、差別や排他意識を与えて「自活」させている、というのが安倍政権下の日本だ。

 多くの人びとは景気への期待に流され(もう「景気」などよくならないのに)、経済社会の自己責任論に浸されて、喜びも悲しみも私的に何とかするしかないと思いなして「脱政治化」し、「政治化」し声を上げること自体を「わがまま」だと、あるいは「迷惑」だとみなす。そのために権力を得たものは「自由」にその権力を私物のように行使できる。そしてそれが問題化しないよう、機関としてのメディアも裁判所も抑えている。改正する前にすでに「憲法もものかわ」、指摘されてもわからない者たちばかりが権力を手にしているという状況だ。

 だとすると、問題は政策の方向(理念)や中身ではない。「政治」(民主主義と言ってもいい)というもの自体が壊れているということだ。だから根本の課題は他でもなく、「政治を取り戻す」ということ、人びとと統治権力との関係を作り直すということである。その課題を担って登場したのがSEALsという新しい「非政治的政治」集団だったが、そのときから基本的課題は変わっていない。