★3/24の転換、「フクシマ復興五輪」から「人類コロナ勝利五輪」へ2020/03/25

 何の「転換」か?この日公表されたのは東京オリンピックの「一年程度延期」。
 
 この間(数年間)日本の政治・経済・社会は2020年7月24日から8月9日に予定されていた東京オリンピックを牽引車のようにして動いてきた。ところが、去年の12月ごろ中国で不明なウイルス感染症が目立ちだし、1月には武漢と北京が封鎖という新感染症の劇的な展開が始まった。1月末には日本に感染者を載せたクルーズ船が寄港。日本はいっせいに身をすくめて警戒し、感染を食い止めようとしたがままならず。2月~3月にはイタリア、スペイン、フランス、ドイツとEU諸国とアメリカに感染拡大、イタリアでは医療が追い付かずパンクして、死者も中国の倍近く(7000人)に及んでる。中世の黒死病さえ思わせる深刻な状況のようだ。
 
 このグローバルなコミュニケーション網で覆われた世界で新たな感染症である。世界各国が警戒を深め、中国と接する台湾、韓国がドラスティックな対応をとって格闘を演じる中、どうも日本だけが対応が違うようで、感染の広がりがきわめて緩い。何か特殊事情があるのか…。そう、日本だけの事情とは、7月にオリンピックを控えているということだった。日本の対応には、これでオリンピックに暗雲がかかるというのは困るという顧慮が透けて見える。だから政府の対応は鈍く、国の第一の関心事はパンデミックにはない。

 しかし国内がの不安は募るばかりである。そこで安倍首相は「リーダーシップを発揮する」ところを見せるべく、何の打合せもなく唐突に会見を開き「学校閉鎖」を言い出した。(安倍の会見の特徴、および連日の会食でのネトウヨ助言等を参照)そこで日常生活レベルで大きな社会的混乱が起き、人びとや関係組織はもてるリソースで対応せざるをえず、賢い都道府県は独自の対応を取るようになった。もともと安倍首相の「要請」にはいかなる法的根拠も強制力もなく、これを罰することはできないし、結局、現場からにわか仕立てで出された方策を、政府は追認するしかない。

 政府が国会を通してやったのは、これはチャンスとばかり改憲のテコとされている緊急事態条項をここでやればという邪念から、実はすでに存在していた「インフルエンザ特措法」を改正する形で、緊急事態宣言権を急遽法制化すること、それと、「桜を見る会」の追及をかわし、くすぶる疑獄収賄案件その他の立件を、安倍後も見越してあらかじめ封じる検察人事を、法相に法制度の基盤を踏みにじらせながら(決裁書のない決済があるとか、世迷い事を持ちだして答弁を逸脱)無理やり押し通すことばかりである。

 そんな「日出る国」のお国事情には疎くても、どうも日本はおかしいと眺めてみると、イタリアでは医療が追い付かず、すでに中国以上の死者が出る惨状を呈しているのに、この世界の「緊急時」に日本はオリンピックのことしか気にしていない。というので当のスポーツ選手や団体からも「無神経・無責任ではないか」との声があがる。もちろん国内からではない。国内では、数日前も女性のJOC理事から「延期も考えた方が…」といった意見が公表されると、フランスで訴追されそうな武田某にかわって担ぎ上げられた山下理事長が「そんな意見が内部から出て残念だ」と火消しに回る始末。日本が一丸となって当たるべきはコロナ対策ではなく、オリンピック防衛だと言わんばかりである。

 しかしスポーツ界の雄山下泰裕理事長(残念なオヤジになってしまった)の「突貫精神」も空しく、すでにIOCは国際世論の圧力に押されて「延期」に舵を切っていた。IOCは基本的には実施を望んでいた。というのは、やらないと身銭が入らないし存在意義に関わるからだ。そこでWHOに従うとサジを投げていたが、WHOにしてみれば管轄外、迷惑な話である。日本では、開催権はIOCにあるから(マラソンの札幌移転騒動で示されたように、会場の移転さえ、JOCも主催都市東京都も決められない)そちらからの「天の声」を待つほかないのだが、IOCにとっては後の面倒のない「中止」とか言われると(放映権料は一回分入らないが、そのための保険はかけている)、困るのは誰よりまず安倍首相であり、森組織委員長であり、東京都の小池知事である。彼らが引き合いに出すアスリートは、彼らにとってもともと見世物サーカスの興行のネタでしかない。あるいは、桜を見る会の招待者候補か。

 そこでこちらから働きかける。すでに先週、世界の胴元トランプがシンゾーに延期もあるねと告知しており、ブリーフィングは済んでいる。そこで「私が総理大臣…」の安倍首相が、IOCのバッハ会長と、森、小池を同席させて電話会談、そこで「一年程度延期」で「百パーセント一致」しましたと公表する。もちろんそれをあらゆるメディアが報じ、この決定には自分が関わっているんだと国内に示したわけだ。

 オリンピックの招致のときも問題だったが、オリンピックは都市開催だ。だから行政主役は都知事のはずだが、そんなことはおかまいなし。安倍首相にとってはこれは自分が仕切り「世界の真ん中で輝く」ための国家的イヴェントなのだ。彼は開催都市を決めるIOCの大会にみずから乗り込んで、「放射能はアンダーコントロール」と誰もが分かるフェイクで大見えを切ったこともある。そして安倍政権は、これをアベノミクスというフェイク経済戦略をすすめる陣太鼓にしてきたのである。だからこそ、オリンピックは実現したい、そこで「輝きたい」、というのはほとんど個人的願望だと言っていい。この人物の場合は、首相夫人を「私人」であると、行政機関の中核たる閣議で決定するほどの、私と公との区別がつかないのである(保守のご意見番だった後藤田正晴翁に「岸の血が、冷徹の血が流れている」と言わしめたおじいちゃんの信念が人格の軸を作っているからか、あるいは祖母に「運命の子」として育てられたから?)

 そのため、オリンピックを実施することは、この首相の粉飾政治のアルファでありオメガにもなっている。だから「中止」などと言われては困るというので、譲ってとりあえず「延期」で手を打ったということだろう。しかし一年以内…、展望はあるのか。新型コロナ禍はトランプでさえ一年以上続くという報告を受けいれているようだ。ここで思い切って「中止」を打ち出せば、一年延期でさらにかかるあらゆる負担(財政的、組織的、選手も含めて心理的な負担等々)を解消し、世界的なコロナウイルス禍に対処することができるだろう。だが一年後の準備のし直しで、その対処への注力にブレーキをかければ、一年後に開催できる見通しもますます遠ざかるのだ。
 
 延期を準備し、そのあげく一年後に、あるいはあと数か月後に「中止」を言い出さざるを得なくなくよりも、いまここで「中止」を打ち出した方が、日本の社会のためでもあるし、世界には評価されるだろう。「フクシマ復興五輪」というのが形ばかりのフェイクだったように、コロナ禍をここでも自分のために逆転利用――これがほんとに得意技だ――、一年後に「人類が新型コロナウイルス感染症に打ち勝った証として、完全な形で東京五輪を…」と言挙げしたが、どれほど世界に欺瞞的に響くかということを(国内ではどうやら通用するようだから)、この人物は想像することもできないのだろう。

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