桜吹雪とともに降る「怪しい」元号について2019/03/29

 「一世一元制」と言われる制度がある。一世とは、ひとりの王の君臨する世(時代)ということだ。それを区切ってひとつの名で呼ぶ、それを制度としたのが一世一元制だ。だが、これは単なる法制度ではない。

 法律としては一九七九年に成立した「元号法」がある。しかしこれには「元号は政令で定める」ことと「皇位継承があった場合にのみ定める」としか書いてない。この法律は元号があることをあらかじめ前提としている。それは「しきたり」(=繰り返ししてきたこと)とされるものを実定法に書き込んだ。それだけがこの元号法の役割である。すると元号に法的根拠があることになる。それをもとに、議会も通さない「蚊帳の中」で政府(政権)によって元号が定められ、天から降ってきたかのように政府から発表され、あとは官公庁から率先して使用し(公式書類等にはこの元号を記すことが求められる)、お上に従う形で社会的に使用されることになる。しかしこの法律には、元号が何であり、誰がどういう手続きで決め、決まったものに強制力があるのかどうか等に関しては一切の規定がない。にもかかわらず、われわれは「平成」の三十年間、この元号使用をなかば強制されてきた。使うことに「なっている」という事態が作られたのだ。

 だからわれわれはいつも手帳の後ろの換算表をたどりながら、二つの時を数え直さなければならない。いわゆる国際化した現代の社会生活では西暦が欠かせないのに、この国の「しきたり」では元号を使うことになっている。つまり、この国にはよそとは違う「別の時間」、それも天皇の一代で区切られる特別の時間があるのだとされる。それがこの「元号法」の法文外的な効果である。

 この法律は民主制の抜け穴を穿つものであり、元号がこの国・この社会に生きる者たちにとって、「しきたり」として天から降ってくるように作られ使われるということを、法体系のうちに書き込んだ。「元号を定めて公用する」とする法律ではなく、元号はすでに存在するものとして、天皇の代替わりで切り替えることだけを定めている。

 だから元号法は、明治改元のときの太政官令と同様の性質をもつ。日本で一世一元制が採られたのはこの時が初めで、誰がどう決めたのかはまったく問われていない。しかし、国家的な布告として作用し、それが「近代日本」の決まりごとになった。それ以前もこの国では、時を数えるのに中国伝来の元号を用いていたが(「大化」以来)、それは天変地異やいわゆる「世」の趨勢に応じて改元されてきた。世≒時を改めるというわけである。ただしその節目は、人ではなく「世」に応じてきた。それを、天皇の一代に重ねるというのは、「世」を天皇に結びつけることだ。幕末移行期の権力者たちは、天皇を西洋型の主権者にするために、「世」を天皇の生身の存在に結びつけるという、実に中世的な工夫をしたわけである。ちなみに、本家の中国では、明代から一世一元になっていたが、元号そのものが辛亥革命で廃止され、以後は西暦を用いている(その意味では中国の方が「国際規準」に沿っている)。

 ただし、それを決めたのはもちろん天皇(明治天皇)ではない。天皇を掲げて「王政復古」の新政府を作ろうとしたいわゆる廷臣たちである。その廷臣たちの権力行使を覆う「すだれ」(ブラックホックス)が帝(みかど)だということだ。天皇はそのように使われ作られる。それは最初に元号を定めた「大化の改新」以来変わらない。中大兄皇子は中臣(藤原)鎌足と組んで、自らは長く天皇にならずに代わりの天皇を立て、天皇主軸の律令制改革をやった。晩年には即位したが、その後を壬申の乱を経て天武が継ぎ、鎌足の子不比等が「古事記」「日本書紀」を国史として作らせ、天皇統治の正統性の基礎を編み上げると、以後藤原氏が実権を振るうという体制ができた。要するに、統治権力が掲げる御旗あるいは隠れ蓑が天皇なのである。いわゆる天皇制の実質はこの構造であり、そこでは天皇が主体であった時期はほとんどない(だから権力者の意に沿わない天皇は斥けられる)。

 しかし、日本が近代国家になろうとするとき、この構造が活用され、それを天から降ってきた「しきたり」として社会を超法律的かつ超政治的に拘束する枠組みとして、代ごとの天皇の現存に「世」を重ねるという「一世一元」が制度化されたのである。この仕組みは「開国」によって「世界の荒波」のなかに漕ぎ出ることになった日本に、内にしか通用しない時間(歴史)意識の枠を確保することになり(世界時間の中の繭のように――繭は日本の特産物だった)、天皇の身体に重ねられた時間は、日本のナショナリズム形成の強力なベースとなった。それがやがて「神国日本」や「臣民の道」、あるいは「国体思想」といった「超国家主義」的なイデオロギーを育ててゆくことになるが、その破綻を画したのがアジア太平洋戦争での「敗戦」だった。

 「敗戦」で天皇制国家は事実上破綻したのだが、権力のブラックボックスと戦勝国アメリカとの「協働」によって、天皇は退位せず「人間」にコンバートして(そのことに三島由紀夫はのちに激越な呪詛をぶつけた)、「昭和の御代」はそのまま継続することになった。しかし元号は法的根拠を失った(詳細は他所にゆずる)。そのことを危惧し、昭和も50年を数えるに至ったころ、元号法制定に動きその運動を担ったのは、現・日本会議に連なる人脈である。

 しかしこの法制定は功を奏し、多少の議論はあったものの「平成」改元は「滞りなく」果たされたばかりか、元号は法律に定められているということで使用が「推奨」され、事実上強制され、また「お上への忖度」によって常用され、いまでは「日本固有の慣習・美風」だからいいんじゃないの、とばかり、フェイク安倍政権の下にあってさえ「改元」は、「安」の字だけは避けてほしいとか言われながらも、「桜の季節が廻りくる」かのように誰もが蓆をしいて酒盛りの用意をしながら待っている。

  来年の盛大な酒盛り(できるかどうかわからないが)東京オリンピックでも、2020年と言わないと通用しない。次は何かと、昔の家の新築時にたてまえ祝に梁から投げられる餅を拾おうとするかのように、あんぐり口を空けて次の元号は何か、などとエイプリルフールのお告げを待つのではなく、ほんとうなら今、元号廃止こそが検討されるべきだろう。ところがメディアにも、とんとそんな気配はない。桜の花の下で予測に興じるだけで、報道の自由なんて何のこと、といった風情だ。元号はいまや日本の社会に内向き意識を作ることにしか役立っていない。もっと言えば、ともかく日本を愚かな国にして、自分たちが好き勝手に統治したいと思う者たちだけが元号を更新し、「シキタリ」で縛る社会に逆戻りさせようとしている。明治に作られ、戦争で一度破綻して、裏口から戻ってきたような制度である。本家の中国でも、元号を止めてそのためにダメになったという話は聞かない。評判の良し悪しはあるが、21世紀世界の一大企画になっている(世界に与える影響が決定的に大きい)「一帯一路」、国境や国々をぶち抜きで経済社会圏を拡張しようとするこの政策・理念も、元号の確保する内向き構造を棄てたから可能になったわけである。(続く)

[追記]
 新元号が「決まった」4月1日、外務省は原則として和暦ではなく西暦を使う方向で検討している、と幹部が明言したという(朝日新聞デジタル)。そう、とくに外務省では不都合は明らかだからだ(つまり元号はひたすら内向きのため)。この「言明」は撤回されるだろうか?
 元号があってもいい。この国では昔は時間をこうやって刻んだんだよ、古い慣習いいじゃない、と好きな人が趣味で使えばいい。和服を着るのと同じだ。観光資源にもなるかもしれない。元号が問題になるのは、それが法的根拠もないまま、事実上使用を強制されるからだ。そしてその「慣習」に従わないと排除される(役所に出す書類が受け付けられない)。そのうえ最近では、そんな押しつけを批判すると「反日」だと言われる。「あんな人たち」と指さされるのだ。つまり「麗しき伝統」の元号は社会的排除の「踏み絵」にされている。元号の問題はひとえにそこにある。

ベネズエラのための緊急声明20192019/02/22

★ベネズエラ情勢に関する有識者の緊急声明
~国際社会に主権と国際規範の尊重を求める~
2019年2月21日  東京

ベネズエラ情勢が緊迫している。現マドゥーロ政権に反発するグアイドー国会議長が1月23日街頭デモ中に「暫定大統領」に名乗りを上げ、米国とEU諸国がただちにこれを承認するという異常事態が発生した。米国政府は軍事介入も仄めかしてマドゥーロ大統領に退陣を迫っている。世界の主要メディアはこうした事態を、「独裁」に対抗する「野党勢力」、それによる二重権力状況といった構図で伝えている。

見かけはそうなっている。だが、すでに干渉によって進められた国内分裂を口実に、一国の政権の転覆が目論まれているということではないのか。米国が主張する「人道支援」は前世紀末のコソボ紛争以来、軍事介入の露払いとなってきた。イラクやその後のシリアへの軍事介入も、結局は中東の広範な地域を無秩序の混迷に陥れ、地域の人びとの生活基盤を根こそぎ奪うことになり、今日の「難民問題」の主要な原因ともなってきた。

「民主化」や「人道支援」やの名の下での主権侵害が、ベネズエラの社会的亀裂を助長し増幅している。それは明らかに国際法違反であり国連憲章にも背馳している。ベネズエラへの「支援」は同国の自立を支える方向でなされるべきである。

この状況には既視感がある。1973年9月のチリのクーデターである。「裏庭」たる南米に社会主義の浸透を許さないとする米国は、チリの軍部を使嗾してアジェンデ政権を転覆し、その後20年にわたってチリ社会をピノチェト将軍の暗黒支配のもとに置くことになった。米国はその強権下に市場開放論者たちを送り込み、チリ社会を改造して新自由主義経済圏に組み込んだのである。

ベネズエラでは1999年に積年の「親米」体制からの自立を目指すチャベス政権が成立した。チャベス大統領は、欧米の石油メジャーの統制下にあった石油資源を国民に役立てるべきものとして、その収益で貧民層の生活改善に着手、無料医療制度を作り、土地を収用して農地改革を進めるなど、民衆基盤の社会改革を推進した。その政策に富裕層や既得権層は反発し、米国は彼らの「自由」が奪われているとして、チャベスを「独裁」だと批判し、2002年には財界人を押し立てた軍のクーデターを演出した。だがこれは、「チャベスを返せ」と呼号して首都の街頭を埋めた大群衆の前に、わずか2日で失敗に終わった。それでもこのとき、欧米メディアは「反政府デモの弾圧」(後で捏造と分かった)を批判したのが思い起こされる。

ここ数年の石油価格の下落と、米国や英国が主導する経済封鎖措置や既得権層の妨害活動のため、ベネズエラでは経済社会的困難が深刻化している。マドゥーロ政権はその対策に苦慮し、政府批判や反政府暴力の激化を抑えるため、ときに「強権的」手法に訴えざるを得なくなっている。米国は制裁を重ねてこの状況に追い打ちをかけ、過激な野党勢力に肩入れし「支援」を口実に介入しようとしている。だが、国際社会を巻き込むこの「支援介入」の下に透けて見えるのは、南米に「反米」政権の存在を許さないという、モンロー主義以来の合州国の一貫した勢力圏意志である。

対立はベネズエラ国内にあるが、それを根底で規定する対立はベネズエラと米国の間にある。チャベス路線(ボリバル主義)と米国の経済支配との対立である。数々の干渉と軍事介入が焦点化されるのはそのためだ。それを「独裁に抗する市民」といった構図にして国際世論を誘導するのはこの間の米国の常套手段であり、とりわけフェイク・ニュースがまかり通る時代を体現するトランプ米大統領の下、南米でこの手法があからさまに使われている。そのスローガンは「アメリカ・ファースト」ではなかったか。国際社会、とりわけそこで情報提供するメディアは、安易な図式に従うことなく、何が起きているのかを歴史的な事情を踏まえて評価すべきだろう。さもなければ、いま再び世界の一角に不幸と荒廃を招き寄せることになるだろう。

わたしたちは、本声明をもって日本の市民と政府、とりわけメディア関係者に以下を呼びかける。

▼ベネズエラの事態を注視し、独立国の主権の尊重と内政不干渉という国際規範に則った対応を求める。
▼国際社会は、ベネズエラが対話によって国内分断を克服するための支援をすることを求める。
 (メキシコ、ウルグアイ、カリブ海諸国、アフリカ連合等の国々の仲介の姿勢を支持する)
▼ベネズエラの困難と分断を生み出している大国による経済封鎖・制裁の解除を求める。
▼メディア機関が大国の「語り」を検証しつつ事実に基づいた報道をすることを求める。


*呼びかけ人(26名)
伊高浩昭(ラテンアメリカ研究)
市田良彦(社会思想・神戸大学)
印鑰智哉(食・農アドバイザー)
岡部廣治(ラテンアメリカ現代史・元津田塾大学教授)
小倉英敬(ラテンアメリカ現代史・神奈川大学)
勝俣誠*(国際政治経済学・明治学院大学名誉教授)
清宮美稚子(『世界』前編集長)
黒沢惟昭(教育学・元東京学芸大学)
後藤政子(ラテンアメリカ現代史・神奈川大学名誉教授)
桜井均*(元NHKプロデューサー)
新藤通弘*(ラテンアメリカ研究)
高原孝生(国際政治学・明治学院大学教授)
田中靖宏(AALA:日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会代表理事)
中山智香子(経済思想、東京外国語大学)
中野真紀子(デモクラシー・ナウ・ジャパン)
西谷修*(思想史、立教大学)
乗松聡子(ピース・フィロゾフィーセンター)
松村真澄(ピースボート国際部・ラテンアメリカ担当)
武者小路公秀(元国連大学副総長)
臺 宏士(元毎日新聞・ジャーナリスト)
森広泰平(アジア記者クラブ代表委員)
八木啓代(ラテン歌手、作家、ジャーナリスト)
山田厚史(デモクラシー・タイムズ)
吉岡達也(ピースボート共同代表)
吉原功(社会学・明治学院大学名誉教授)
六本木栄二(在南米ジャーナリスト・メディアコーディネーター)

*署名サイトは for-venezuela-2019-jp.strikingly.com です。

沖縄・辺野古基地建設の断念を求める新たな有識者声明について2018/09/10

9月7日記者会見の模様
*9月7日(金)に有識者グループ「普天間・辺野古問題を考える会」が沖縄・辺野古の新基地建設をめぐる新たな声明を発表し、記者会見を行った。声明文は http://unite-for-henoko.strikingly.com/ に挙がっているが、これに関する事情について説明しておきたい。

※記者会見の模様が簡潔なビデオになりました。声明「辺野古の海への土砂投入計画並びに新基地建設計画を白紙撤回せよ!」への賛同署名フォームへのリンクもそこにあります。
http://www.eizoudocument.com/0521henokoseimei.html

○声明の時期
 
 大浦湾への土砂投入を前に、埋立て承認の撤回手続きに入った翁長県知事が急逝し、その意志を継いで県は撤回に踏み切って新基地建設の工事は止まったが、工事が止まったら行政訴訟を起こすとともに、県に(知事個人にも)損害賠償(一日二千万と試算)を請求することもあるとしていた国(安倍政権)は、後任の県知事選を控えて提訴に関しては模様眺めである。
 
 国に協力的な知事が登場すれば、その知事が県の「撤回」を取消すかもしれないし、「撤回」に対して国が行政訴訟を起こしても、県に賠償請求をすることはないだろう。翁長知事が就任してほどなく行った埋立て承認「取り消し」に対する行政裁判以来、この間の最高裁以下の裁判所の対応から予測されるように、国が勝訴することになれば、新しい知事はそれを受け容れるだろう。そうすれば国はもはや何の障害もなく工事を進められるというわけである。辺野古現地の抗議行動は「不法行為」となるし、土砂搬入等に関わる抵抗も簡単に潰すことができるだろう。
 
 そう考えると、県が埋立て承認撤回に踏み切った今こそ、その「撤回」支持を表明して新基地建設を止めるために声をあげる決定的な時だと言ってよい。これまで3度、辺野古基地建設に抗議の声明を発表してきた海外の知識人グループ(チョムスキーやオリバーストーン、ジョン・ダワー、マコーマック氏等)が、時を同じくして新たな声明を発表したのもそのためだろう。
 
 アメリカを中心とした海外の著名な有識者がこの問題に関心をもつのは、この新基地建設がアメリカの軍事政策や海外基地展開に関わるばかりでなく、沖縄の基地問題が日米両政府の管轄下での看過しえない地域差別や人権の問題であり、東アジアの平和全般の問題だと捉えているからである。

○「普天間・辺野古問題を考える会」について 

 いま「普天間・辺野古問題を考える会」と名乗っている有識者グループが最初に結集したのは2009年12月であり、SACO合意による普天間基地撤去がいつのまにか辺野古に代替基地を作るという話になり、その流れを変えようとした鳩山政権下で、日米両政府に対して普天間基地の辺野古への「移設」に反対する声明を出したのが発端である。このときは11年1月30日までに有識者340人の署名を集めて声明を政府に提出した。

 しかしその後、民主党政権が「辺野古回帰」へと揺れるころ、グループは同年6月に「米海兵隊は撤収を」と訴える第二の声明を出した。そしてアピールの趣旨を示し、その後の議論のベースを提供するために、沖縄の現状診断と将来見通しの基本を書籍としてまとめ、『普天間基地問題から何が見えてきたか』(宮本憲一、西谷修、遠藤誠治・編、岩波書店)を出版した。

 そこでいったんこのグループは区切りをつけるはずだったが、以下に述べるような状況の進展(あるいはむしろ後退)のため、2014年の翁長県知事誕生の前後には、沖縄での状況変化に目を開き現地の声を東京に届けるべく、『沖縄の地鳴りを聴く』と題する連続講演会を開いて本土の世論の喚起を図った。そして2015年4月には、再び「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」という緊急声明を出す必要に迫られた。今回またこのグループが新たな声明を発表したのは、安倍政権がひとつになった沖縄の意志を、無視するというより力づくで崩して、辺野古の新基地建設を決定的な段階に進めようとしているからである。

○沖縄アイデンティティの胎動と「オール沖縄」
 
 この問題は、2011年3月に東日本を襲った大震災・津波と福島第一原発の激甚事故のために、いったんは本土の政治社会的関心の後景に退くことになった。そして2年半後の自民党の政権復帰以後、安倍政権は進行していた沖縄の「目覚め」を鳩山政権の「失政」のせいにしつつ、日本の軍事化(「安全保障」という名の)を進める一環として、沖縄にイデオロギー的な圧力をかけ、辺野古新基地建設を「唯一の選択肢」として進めてゆく。
 
 しかしその間に、沖縄の状況は大きく変わり始めていた。そのきっかけになったのは、2007年に教科書から沖縄戦時に各地で起きた集団自決への日本軍の関与の記述を削除するという文科省の決定で、これは沖縄の辛酸を否定する日本政府の振舞いとして、沖縄の人びとの逆鱗にふれ、保革を超える大抗議運動が起こった。95年の少女暴行事件以来のことだった。そしてこのとき、沖縄戦の経験を核にした沖縄のアイデンティティが問われたのである。それ以来、本土(政府および住民)による沖縄の「構造的差別」が意識されるようになり、保守系県知事だった仲井真氏も、次の選挙(2014年)では普天間基地の代替は「少なくとも県外」を主張して再選された。
 
 しかしもともとが歴史否認体質の安倍政権は、このような沖縄の自己意識の胎動を無視し、「普天間基地の危険除去のため(沖縄の負担軽減のため)には辺野古移転しかない」として沖縄防衛局を通して着工準備(夜中の書類搬入など)を進める一方、名護市長選では公然と「わいろ選挙」を行い、自民党選出議員をかしづかせて(当時の幹事長は石破茂氏)「辺野古しかない」を言わせようとした。しかしそのこと自体が明治の「琉球処分」を想起させずにはいない光景だった。そして2013年暮れ、圧力の限界と見切った仲井真知事は「正月のうまい餅」と引き換えに、「大浦湾の埋立て許可」を出したのだが、まさにそれはジャパン・ハンドラーのケビン・メアの悪質な中傷(「オキナワはゆすり・たかりの名人」)を地でゆくような振舞いだった。
 
 その結果が、翌年の翁長知事の登場である。翁長氏は長く自民党県議団の代表を務める那覇市長だった。その翁長氏は、かりゆしグループや金秀グループなど沖縄財界も結集した「オール沖縄」の候補として当選した。本土政府が言うように、基地がなければ経済が成り立たないのではなく、むしろ基地がなくなったほうが地域や位置に依拠した経済が豊かに発展するという、この間の基地返還後の経済振興で示されたことをベースに、沖縄の将来を見越した財界も、沖縄の自立と誇りのために「オール沖縄」を組んだのである。

○安倍政権の対応
 
 これは1995年の転機(復帰後初めての大々的な米軍基地と日本政府への抗議、それが初めて日米両政府の協議を行わせ、普天間基地の撤去を決めさせた)、2007年の沖縄の原点潰しへの抗議に示された、沖縄の自立意識の流れを汲むものだった。保革のイデオロギー的対抗軸は、沖縄の根本の問題をむしろ隠蔽するものでしかなく、沖縄にとっての問題はアイデンティティだということ、対立は本土政府の姿勢と沖縄の自立・自治志向との間にあるのだということ(かつてこれを「鳴動する活断層」と呼んだことがある) をこの選挙は示し、翁長氏は10万票の大差をつけて当選した。それに続いたほとんどの地域選挙で「オール沖縄」の候補が当選したことは、この意識の高まりが広範なものだったことを示している。
 
 しかし安倍政権は、その圧倒的な「民意」の表明をまったく無視し、「基地負担の軽減」とはまったく逆に普天間基地へのオスプレイ配備を進め、いまではこの危険なヘリが市街地の上をわが物顔で飛んでいる。さらに、2016年春には、1995年を思わせる米軍属による女性暴行殺人遺棄事件が起こったが、沖縄の人びとが強い憤りとともに改訂を求める日米地位協定にはふれもせず、その場しのぎのジェスチャーしかしない。というより、米軍を盾に、沖縄に犠牲を強い続けて恥じない。そして2015年安保関連法制を強硬成立させて、2016年夏から高江ヘリパッド建設工事と辺野古の埋立て準備工事を、全国から警察の機動隊を派遣して強行した。その間に、オスプレイやその他の米軍ヘリの墜落事故が相次ぐが、政府はオウムのように「再発防止」を繰り返し、新基地建設を進めようとする。
 
 その一方で、「沖縄のアイデンティティ」意識を切り崩すため、翁長知事が「反日」であるとのデマを流し、失効した保守/革新のイデオロギー図式を、日本バンザイ/反日の反動的な踏み絵に置き換えるべく、インターネット・メディアで武装したプロパガンダ部隊を送り込み、現地で座り込みを続ける人びとを誹謗中傷して、一般市民の離反を画策したりしている。それと歩調を合わせているのが、和田政宗ら官邸に出入りする極右議員であり、DHCの「沖縄ヘイト」番組である。彼らは直接官邸の指示を受けているのではないにせよ、それが官邸に歓迎されていることは明かで、いわゆる沖縄ネトウヨの我那覇真子は、桜井よしこ等とともに今年年始に首相官邸に招待されているし、DHCは安倍首相お気に入りの番組制作会社だ。

○沖縄県知事選挙

 安倍政権になってから、新基地建設に反対する人びとがデマやヘイト・スピーチの標的にされるだけでなく、政権は選挙に勝つために露骨な脅し(交付金などに関して)を使うようになり、埋立て承認の撤回をめぐっては、県や県知事に対して工事遅延の損害賠償(一日二千万円)を請求することをちらつかせた。国が新たな軍事基地建設を望まない県に対して損害賠償を請求する? こんなことは地方自治を認める先進国では聞いたこともない。弱いものいじめを国が恥ずかしげもなく行う、あるいは脅しに使うというのは、官僚に公文書も廃棄させるというこの政権の破廉恥な特徴である。その政権によって、沖縄県はいま窮地に立たされている。
 
 地域に足場をおいた沖縄二紙(琉球新報、沖縄タイムズ)が「反日」メディアだという誹謗中傷は、防衛相だったときの小池百合子から始まっているが、その流れを引き継いで「果敢な」メディア攪乱を行っているのがこれらネトウヨであり、その動きが安倍政権とともに活発化しているのも確かなことだ。そして今年2月の名護市長選は、企業関係者に対する自民党の圧倒的な締付けと、公明党・創価学会による執拗な勧奨によって、稲嶺前市長を下して新基地容認の候補が当選した。このような状況の延長上に、9月下旬の県知事選が行われるのである。
 
 そこでも示されたように、今の選挙結果は公然の運動によって決まるのでもなければ、主張の正当性が選挙民に浸透して決まるのでもない。この混濁したメディア状況(攪乱される情報、作られる噂やデマや空気)のなかで、組織的・人的な囲い込みが実勢を決めてゆく。だから、まともなことをまともに主張し公表することに、現実的には大した意味もないかもしれない。しかし、であればこそ、言うべきことは言っておかなければという愚直な思いが、この声明の呼びかけ人となった有識者たちを動かしているのである。
 
 声明には、県の撤回措置を支持する具体的な根拠等が明確に示されているので、参照いただければ幸いである。
 
★「沖縄・辺野古声明2018」の賛同署名フォームは以下のURLです。
 http://unite-for-henoko.strikingly.com/ クリックすれば開きます。

 
*なお、市民団体の「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」も同趣旨の声明を用意しており、記者会見は合同で行われた。

原爆開発・使用と科学者の役割2018/08/14

 8月12日、BS1スペシャル『「悪魔の兵器」はこうして誕生した~原爆、科学者たちの心の闇』は、原爆開発投下を今までにない視点から検証して興味深かった。というより、現代の科学技術と科学者のあり方を考えるうえできわめて重要な事情を明らかにしていた。
 
 日本でも一昨年来(2016年~)の日本学術会議の「軍事研究」をめぐる議論の高まりがあり、池内了さんを始めとする「軍学共同」の流れに抗議する学者団体の活動もある。
 
 これまで原爆投下の問題は、政治的決定や軍事的必要等の観点からさまざまに論じられてきた。日本の降伏が時間の問題となっている段階で、なぜアメリカは原爆を投下したのか。ルーズベルト→トルーマンが戦後のソ連との対立を見越して米の軍事的優位を誇示するためだったとか、いつまでも降伏しない日本に戦争終結を受け容れさせ、余分な犠牲を避けるためだったとか。

 もちろん、最終決定は大統領(政府)によるものだし、実行するのは軍である。しかし両者が科学技術の最先端に通じているわけではない。そもそも原爆開発は、科学者の提言によるものだったし、開発プロジェクトを担ったのは科学者の組織と集団だった。それが政治家と軍を動かしたのである。しかしこの番組は、原爆投下(ヒロシマ・ナガサキの惨禍)に科学者たち自身が決定的な役割を演じてきたことを、原爆開発チーム・メンバーの証言映像の発見を契機にして描き出した。
 
 ナチス・ドイツからの亡命科学者レオ・シラードがアインシュタインを動かしてルーズベルト大統領に書簡を出し、近年研究された核分裂現象が新次元の兵器を可能にするとして、ドイツがそれを開発する前にアメリカが開発しなければならないと進言したのが(39年)、1942年秋に始まるマンハッタン計画のきっかけとなった。それがなければ、原爆開発はなかったのである。科学技術の最新動向に政治家が通じているわけではなく、また戦争の危機のなかで、科学の最新成果の軍事利用をすぐに考えた(恐れた)のも科学者だったのだ。
 
 それに、20世紀に入って科学技術の研究開発はその規模を拡大し、多額の資金を必要とするようになっていた。第一次世界大戦で現出した「総力戦」状況の中で、自分たちはもっと役に立つのに、と地団太踏んでいたのもまた科学者たちのようだった。そんな中で、科学技術の発展のために、軍事に貢献して国家予算を獲得しなければならないと考える学者も出てくる。
 アメリカではそれが、MIT副学長からカーネギー研究機構の総長となり、政府の非公式な科学顧問となったヴァネーヴァー・ブッシュ(1890~1974)だった。彼は大恐慌(29)以後科学研究費が削られることを憂慮して、ヨーロッパで戦争が始まるとアメリカ国防研究委員会(NDRC)を設立して議長となり(40)、翌年には大統領直属の科学研究開発局の局長となる。秘密裏に決定されたマンハッタン計画を仕切るのはこの部局だ。
 
 議会にも連合国にも秘密にされたこの計画のもと、20ほどの研究施設のネットワークの中核に、後のソ連の秘密都市のようにニューメキシコのロスアラモスに広大な研究施設が作られ、若い有能な科学技術者が各所から集められ(2000人規模)、戦時中では考えられないほどの厚遇を受けて集団的な研究開発を行う。戦争の終結前にともかく原子爆弾を開発するというのが至上命令だったが、多くの科学者は全体目的も知らないまま、この厚遇のなかで担当箇所の研究開発に没頭するのである。
 
 ノーベル賞級の科学者を中核とするその計画の統括を任されたのがロバート・オッペンハイマーだった。計画着手は42年9月だったが、翌年6月には軍の報告から、ドイツが実現性を疑って原爆開発をしていないことが明かになる。そこで一部の科学者は、戦争中の開発の必要性に疑問をもち(いずれにしても未曾有の破壊兵器である)、計画遂行をめぐる討論会を開こうとしたが、オッペンハイマーが介入し、この兵器は戦争することを断念させるだろうから、戦争を起こさせないために開発するのだと、原爆の新たな必要性を強調したという。秘密の国家事業であるこの計画から身を引くことは、科学者の将来を危ぶめることだろうというので、ここで辞退した科学者はいなかったという。
 
 そして45年7月16日、ルーズベルトの死去を受けて大統領となり、ヤルタ会談に出ていたトルーマンのもとに、実験成功の知らせが届く。アラモゴードの実験場では、まばゆい閃光と爆風そして巨大なきのこ雲を遠巻きにして、科学者たちが恐怖混じりの感動と熱狂に包まれていた。その日以来、オッペンハイマーは偉業を達成したある充足感のようなもので別次元の存在のようだったと、弟のフランクが回想している。
 
 5月にヒトラーは自殺して計画当初の敵はいなくなり、戦争を続けているのは日本だけだったから、原爆を使う対象は日本になる。その破滅的な威力を見て、レオ・シラード等は、実際に投下するのではなく、効果を見せて降伏を迫ればよいと、トルーマンに進言するが、オッペンハイマーは予告なしでこの兵器の威力を見なければ意味がないと主張していたという。
 
 トルーマンが世界に向けて高らかに宣言したように、科学技術の成果が戦争に勝利をもたらしたのであり、この成果によって、以後、科学技術は国家にとって最も枢要な位置を占めることになる。それが20世紀後半以降の科学技術の地位を決めたのだ。
 
 しかしそれは国家を導く地位ではなく、国家に従属する地位であり、戦後アメリカは核開発を推進するために新たな機構を設置する。しかし、オッペンハイマーは折から起こったレッド・パージに引っかかり、国家英雄から一転して赤いスパイとみなされて公職を追放される。それがオッペンハイマーの改悛の契機となるが、われわれがよく知っているのは以後の彼の姿だったのである。

 この調査番組が明らかにするのは、原爆投下を引き起こしたマンハッタン計画という秘密国家事業に関して、科学者はたんに使われたのではなく、むしろ科学技術の発展のためとして積極的な役割を果たしていたということ、科学技術の研究開発が国家予算の獲得と結びつき、科学者の集団やそのリーダーが予算獲得のためにみずから軍事貢献を提言し、科学技術開発の成果に何の疑惧もなく、異常なまでに破壊的な兵器開発に邁進したのだということ、そしてそれが未曾有の大量破壊兵器であり、その兵器が実際に使用されたとしたらどんな地獄が現出されるのか、まったく想像もしてみなかったということである。

 そのうえ、科学技術は以後、文明発展の原動力と見なされ、現在もっている社会的影響力を十分に享受するようになった。また、ヒロシマやナガサキの惨禍を見てもなお、その使用の責任を政治家や軍に負わせ、科学者たち自身は、このような重大で危険な兵器を、感情や個人的利害に身を任せて判断を誤る政治家たちに委ねないために、最も合理的な判断を引き出す人工知能を開発するといった、無責任ぶりに無自覚である。
 
 いまや科学技術は、人間の役に立つ道具のレヴェルにとどまってはおらず、その使用効果は技術を制禦しているつもりの人間のコントロールをはるかに超えている。オッペンハイマーたちが、原爆実験を行いながら、それを現実に使用したら、たとえ敵国とはいえ人間の世界にどんな惨劇が現出するのか、ほとんど考え及ばなかったらしいことも、科学技術的知性の盲目性を証している。
 
 科学技術は人間に新たな可能性を開くニュートラルな成果であって、その使用の是非は関与する者たちの倫理性に委ねられている、というのは実は科学者たちの欺瞞であって、科学者たちこそが、自分の研究開発の成果が社会にもたらす結果について責任を持たなければならないだろう。「なす」のは科学者たちだからだ。そうでなければ科学者は、ついに欺瞞的な国家や市場の拡大の一エージェントに過ぎなくなるだろう。

2月4日沖縄・名護市長選の結果を受けて2018/02/05

名護市長選の結果が出た。二期務めた現職で辺野古基地反対の稲嶺進氏が、自民・公明・維新推薦の渡久地武豊氏に敗れた(16900対20400)。同時に行われた市議補選でも、オール沖縄で臨んだ安次冨浩氏がほぼ同差で落選した。

渡久地氏は、稲嶺市長のもとで地域振興が進まなかったことを批判、「変化」を訴えたとされる。ただし、辺野古新基地に関する姿勢は明らかにせず、行政訴訟に委ねるとして公開討論も避け続けた。

だがこの市長選挙が注目されたのは、そして安倍政権が全力を挙げて介入したのは、辺野古基地建設の障害を除くためだった。それは誰の目にも明らかなはず。そして追い落としたい稲嶺市長は基地反対でまとまる「オール沖縄」の候補、翁長県知事の盟友だ。

だから、争点は言わずもがな辺野古基地だが、自民・公明候補はそれを隠して地域振興だけを売りにした。稲嶺市長の下では名護の生活や経済はよくならなかったが、それは稲嶺市長が基地ばかりにこだわるからと。

ただ、選挙民も本当の課題が基地建設反対か推進かであるのは百も承知のはずだ。政府があからさまに、国の方針に協力しない自治体には交付金を出さないとか、受け容れ自治体にだけ報奨金のような資金を投入するということを、すでに実際にやっているし(名護市にではなく、頭越しに辺野古地区に資金交付している)、選挙中も政府与党関係者がそれをあからさまに言う。

その意味では、地域振興を訴えることは、じつは「争点隠し」にはなっていない。地域振興を進めるということが、交付金を引っ張ってくる、政府・政権の方針に協力し、見返りを得るということに他ならないからだ。けれども、この面だけを強調して、あたかもそれが市民生活のための行政だとして表に出す。だがその裏には、永続基地を抱えることになるという問題が隠される。

たしかに、目先のことだけ考えれば、基地を受け入れれば地域振興のための支援金は入る。施設は作れるし土建業周辺のセクターは仕事に潤う。しかし、基地依存では長期の安定的な地域づくりも豊かさも得られない。それは基地依存時代の沖縄全体が思い知ってきたことだだ(その経験が産業界も含めた「オール沖縄」のベースにもなっている)。

この選挙の光景は、原発立地地域でもよく見られたものだ。政府は交付金で原発(基地)を受け入れさせるが、原発(基地)依存では地域経済は自立の道を絶たれ、永久に依存するしかなくなるのだ。有名な高木元敦賀市長の言葉が思い起こされる。「30年後、50年後のことは知りませんよ、しかし今はやっておいた方が得ですよ、どんどんお金が落ちてきますから…」。

それでも、今回、名護は自民・公明系の候補を当選させた。政府の締付けを受ける稲嶺市政よりも、基地のことなど脇において地域振興を約束する新しい市長を選んだということだ (とはいえ、当確を告げられた渡久地氏は、喜びに湧く周囲をよそに、しばし緊張の面持ちを崩さなかったのはなぜだろうか)。とくに10代20代で渡久地支持が多かったという。渡久地氏の娘が高校の自治会役員で、18才に訴えたということもあったかもしれないが、いまは若者が一般に先の見透しを抱けず、目の前の現実だけが課題になるという、沖縄だけでない一般的状況が影を落としてもいるだろう。

政権は、これで辺野古基地工事が支持を得たというだろう。地元は歓迎していると。そしていわゆるネトウヨは、やっぱり基地反対派は本土から日当もらってやってきた反日派だと、さらなるデマを流すだろう。産経新聞も、それ見たことかと、沖縄二紙(琉球新報・沖縄タイムズ)の「偏向」をあげつらう。

有権者数5万の市長選、これだけテコ入れすれば負けはない、と政権は自信をもつだろう。動員含めた期日前投票も40パーセント超。選挙近くに米軍ヘリがばんばん落ちても、名護に落ちたわけじゃない(それに去年は「着水」だ)。反対運動は本土警察で弾圧し、お国は動かんぞという問答無用の姿勢を示して諦めさせたら、政権に身を売る口実を少し与えて、最後に選挙アイドル進次郎の投入、あとは「結局お金でしょ」と言えることになる。

辺野古漁港の座り込みはすでに5000日、キャンプ・シュワッブ前での座り込みももう1200日を超える。しかしこれが何の成果も生まないと、一方で「不撓不屈」と自賛しても、他所からは空しくも見える。翁長県政にしてもそうだ。何が起こっても政府は相手にせず、知事の怒りの表明もどこ吹く風、抗議の上京にも応えない。この理不尽な態度が、沖縄の怒りや抗議を空しくさせる。今度の選挙には、その傾きの一端が現れたと見ることもできる。

その意味では「オール沖縄」の翁長県政も「実績」を示してえていない。この構造を突き破る工夫が求められる。それがなければ、秋の県知事選は厳しい試練になるだろう。

「ポスト真実」が言われる時代、沖縄の「正義」や「大義」は「フェイク」というデマや中傷で中和され、その中で時の政権は、あからさまな力と金(交付金だけではなく、金は人も手段も動かせる)でその意図を押し通すことを恥じない。それは「義」を貫こうとする側にとってなかなかに厄介な状況だと言わざるをえない。沖縄でもっとも露骨に表れているとはいえ、これは現在の日本全体の重い課題でもある。


[追伸]「沖縄タイムズ」05日社説から

・「もう止められない」との諦めムードをつくり、米軍普天間飛行場の辺野古移設問題を争点から外し…

・勝利の最大の理由は、一にも二にも自民、公明、維新3党が協力体制を築き上げ、徹底した組織選挙を展開したことにある。

・菅義偉官房長官が名護を訪れ名護東道路の工事加速化を表明するなど、政府・与党幹部が入れ代わり立ち代わり応援に入り振興策をアピール。この選挙手法は「県政不況」という言葉を掲げ、稲嶺恵一氏が現職の大田昌秀氏を破った1998年の県知事選とよく似ている。

・前回…自主投票だった公明が、渡具知氏推薦に踏み切った。渡具知氏が辺野古移設について「国と県の裁判を注視したい」と賛否を明らかにしなかったのは、公明との関係を意識したからだろう。両者が交わした政策協定書には「日米地位協定の改定及び海兵隊の県外・国外への移転を求める」ことがはっきりと書かれている。安倍政権が強調する「辺野古唯一論」と、選挙公約である「県外・国外移転」は相反するものだ。

日本はいま、どんな異常な政権のもとにあるのか?2017/06/17

 共謀罪の強行採決で幕を閉じた今度の国会で図らずも露呈したのは、「戦後レジームからの脱却」を掲げ、「みっともない憲法」を廃棄して(少なくとも少し変えて)「美しい国」をめざしそうという安倍政権が、じつはどういう政権かということである。
 
 大筋の政策では、まず秘密保護法の強行採決、ついで憲法解釈のありえない変更、そしてそれに基づく違憲の安保法制、それに則って自衛隊の南スーダン派遣、さらに国連関係者からもクレームを付けられた共謀罪の異例手段による採決と、自衛隊の軍隊化を図る一方で、行政権力保護と捜査権力強化の体制を、憲法を空洞化しながら進めてきた。

 あらゆる政府提出法案は、国会の与党(自民・公明+維新)の圧倒的多数で可決することができる。だから、閣議は規範的事項の実質的「決定機関」として振舞い、まず憲法違反を合憲と「解釈」できると決定して以来、不都合な事実に対する「オルタナ・ファクト」を閣議決定として押し通し、国会審議も空洞化して(質問をはぐらかし、ごまかし、嘘を言い、切り抜けられないとなると強弁に居直る)、形だけ整えて一定の時間が来ると強行採決。
 
 しかしその「多数」の中身たるや、次々に不祥事や不正が露見して雲隠れする欠格議員や、口を開ければ「失言」で人前に出せない閣僚たち、果ては答弁もできない大臣や、国際会議でトンデモ発言をする大臣といった不適格閣僚ばかり。それを安倍首相が選んでいる。そしてその前に、小選挙区制で多くの議席を埋めるために党執行部の意向で選ばれる候補者たちの質が劣悪なのだ。その人選や任命の責任は党総裁かつ首相の安倍晋三氏にあるが、その安倍首相がそもそも「責任」などというものは他人が取るものであって自分は守られるとみなしているようだ。
 
 だがその体制は盤石ではない。自衛隊の派遣日誌隠蔽問題で稲田防衛相が不適格をさらした騒ぎの上に、森友学園問題が浮上し、そこで安倍政権の同調支援者への便宜供与や、それを「忖度」した財務省の背任まがいの計らいが露見すると、政権は野党の抵抗が強いだろう共謀罪の上程で騒ぎを押し流そうとした。ところが重ねて、もっと官邸にとっては都合の悪い加計学園問題(首相の親戚筋で、官邸メンバーが深く関係している学園に、経済特区制度を使って巨額の国費・自治体費が投入されてようとしている)が浮上する。そこで安倍首相が搦手から打ち出してきたのが憲法改正の具体的アジェンダだ。そうして、崩れようとする堤防の綻びを、さらに大量の土砂で押し流して別の災害を作り、そこにまた別の災害を押し被せて、次々と目先を変えながら濁流を広げて憲法改正まで加速させて行こうとする。盗人が家に火をつけて逃れると同時に荒稼ぎの一石二鳥も三鳥もとるという技をあからさまに演じたのがこの国会だった。

 (公明党が重視する都議選前に、期間を置いて国会を閉じることは、そのまま加計学園問題の追及の幕を閉めるという算段と重なる。その前に共謀罪成立を強行したのは、これをすぐに適用したいからというより、閣議決定して審議強行した以上、不成立では国会で政権の面子が立たないということからだろう。)
 
 だが、そこで露呈したのは、安倍政権の手法、つまり人事権を掌握して官僚も警察も司法も官邸の意に従わせるが、その権力強化によって実現するのは、国政も国有財産も強権によって意のままにするということ、同調者や仲間内で国を思うままに処断するということだった。そして仲間がすることが明かな犯罪行為であっても、警察権力を通して握りつぶすことさえできる。安倍首相がすでにそのように振舞っていることが露見したのである。当人は白を切っているし、周囲の人間は自分に餌を、権力のおこぼれを与えてくれる親分を守ろうとしている(ますます人相の悪くなる菅官房長官をはじめとして)。

それに、さまざまな証言や状況証拠がごまんと溢れ出ているのに、国会での追及は「数」の力で押し流され、ましてや警察も検察も、この件を立件しようとはしない。警察・検察はすでに首根っこを抑えられ、あるいは権限を強化してもらって官邸の子飼いになっているからだ。メディアもそうである。読売、産経やNHKだけでなく、官邸の記者クラブが、官邸にとって不快な追及をするよそ者(社会部記者)を排除しようとしているという。
 
 国民主権の憲法を廃棄しなくとも、すでに日本の首相官邸はこんな有様になっている。安倍首相が目指す「美しい国」、国民が文句も言わず進んで国のために無私の奉公をする国、そして一部の者たちが国の権限や資産を私物化し、自分たちの妄想にしたがって思うように国民を食い物にできる国、それが安倍首相の目指す理想だとしたら、その妄想に近い理想はもうほとんど実現しているのである。こんな権力の私物化や、それに都合のよい「国作り」の暴挙が、誰にも止められずに罷り通っている。それを妨げる権限をもつ者たちが、すべてすでに抑えられている。それがこの国の現状だということである。
 
 幸い、それでも勇気ある人々が、「安倍一強」と言われるこの状況のなかで異を唱え、この現状を明るみに出すことに貢献している。しかしその人びとが今いちばん脅かされている。この人たちを守り、この日本にまともな政治を取り戻すために、多くの人たちがそれぞれの場所で立ち上がらなければならないだろう。もちろん武器なき、権力なき闘いだ。権力もあらゆる武器も、安倍政権とそれに靡く「自発的隷従」のピラミッドがもっている。その「自発的隷従」の鎖の一つひとつを解き放たなければならない。
 
※付言しておけば、安倍の「戦中体制」理想化妄想――日本が負けたアメリカに国を売って、自分たちが不条理な「戦中体制」の大本営に収まる、という戦後右翼の倒錯――は、こんなふうに実現されるしかない「大日本帝国」の「二度めの茶番」だということである。それをあらゆる保守というより右翼をもって任じる「憂国の士」たちには考えてほしい。

安倍政権-不適格者たちの危険な国政遊戯2017/05/04

 70年目の憲法記念日に、安倍首相はとうとう憲法改正を正面から掲げた。天皇談話でもないのに、ビデオで談話を公表するという異例のやり方だ。稲田自衛隊問題、森友問題を、共謀罪上程で押し潰し、北朝鮮危機の空芝居を国内に広めて、満を持して(?)改憲発議?
 昨今のとりわけ「不良品閣僚」問題を契機に、共同通信の依頼で以下の記事を書いた。「改憲」を掲げるのがこういう政権だということだ。手直ししたものがすでに地方各紙に掲載されている。
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 今村復興相がとうとう辞任に追い込まれた。安倍内閣の度重なる「失態」だ。最近では「共謀罪」担当の金田法相が、答弁ができないからと官僚に代行させて問題になった。稲田防衛相は南スーダン派遣の自衛隊日報を把握していなかったばかりか、森友学園の弁護を務めたことも「忘れ」ていた。「がんは学芸員」とか「長靴業界はもうかった」と「失言」して辞めた閣僚・政務官、ストーカー登録された政務官もいる。もう覚えきれないほどだ。

 「失言」以前に、問われているのはこの人物たちの閣僚あるいは国会議員たる資格である。政治家は国政に携わる。大臣ともなれば責任も大きい。だが、担当の重要法案の説明もできず、管轄の省庁の把握もできていない。あるいは職責も理解せず、恥とも思わず威張ったり人のせいにすることしかできない。

 当然ながら、そんな人物を登用する首相の責任は重大である。だがそれ以前に、政権党がそんな人物ばかりを選んで公認し、当選させて頭数を揃えていることが問題だ。

 任命権限をもつ首相は、森友学園問題で明らかになったように公私の区別がついていない。「私人」だと言い張る夫人に、官僚を五人も付ける首相は、権力を私物化しているとしか言いようがない。国会質疑は答弁にもならない「答弁」で押し切り、無理強いの断定を「閣議決定」する。その決定が「真実」と言わんばかりに。こんなことが平気で行われれば、大人の社会も子どもたちも、日本はこういうところなのだとそれに倣うだろう。事実、官僚たちからしてすでに「忖度」に漬かり切っている。

 安倍内閣の支持率が高いというが、ほんとうか?代わりが見当たらないからだそうだ。だがこんな陣容で、安倍政権は国の命運を決めるような政策を次々に打っている。いや、実情は、外交も内政も、オバマだろうがトランプだろうがとにかくアメリカに預けるだけだ。だから「危機」のとき、直接の相手国とは外交手段をまったくもたない。

 そういう内閣が、実態を隠すために秘密保護法を作り、さらに物言う市民を黙らせるために「テロ」を口実に共謀罪まで通そうとしている。そうなれば、いまの劣悪な政治の実態すら問題にできなくなるだろう。政権に反抗するのは「テロ」だそうだから。

 それでも旧民主党政権よりましなのか? 7年前政権交代を果たした民主党は、不器用でかつ、変化を怖れる官僚たちにそっぽを向かれ、メディアにも叩かれて、大震災のあおりもあって迷走のあげくに瓦解した。それ以来、民主党にはこりごりだから自民党、という風潮が広がっている。日本には他に選択肢がないというのだ。その空気を最大限に利用した自民党は膨れ上がり、偏った政権に奉仕するだけの劣悪な議員を増やしてあとはやりたい放題。それが日本の政治を底なしに腐朽させている。

 おかげで、日銀の札束増刷には歯止めがなく、貧困は拡大し、弱者は自己責任を押しつけられ、若者は将来の見透しが立たず、社会は殺伐として澱んでくる。それを「危機」を煽って浮足立たせ、オリンピックを煙幕にして操ろうとする。しかしメディアの自由度は最低と世界からは見透かされているのだ。

 だが、もうそんな政権に国を預けるわけにはいかない。私欲や個人的妄念のために国を弄ぶ政権、その実態を見なければいけない。なぜメディアはこの政権に甘いのか。コントロールされているという。そう言われるままでよいのか。国を破綻させる片棒を担いでどうするのか。どんな政権でも、今よりはましだとそろそろ気づくべきときだ。

森友学園事件の本質は何なのか2017/03/07

いままで、何度か書かなければと思うときがあったが、なかなかブログを書く態勢をとれなかった。定期的に書かなければ意味はないとも言えるが、それでも書かねばならないときもあると思い…、覚書程度だが。
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 森友学園問題は安倍政権の命取りになるだろう(ならなかったら本当に「日本の政治の死」である)。

 重大な疑獄事件だからというだけではない(規模ではさらに大きな加計学園の件も出てきた)。安倍政権のもと、日本の官僚機構や行政体質がどういう状況になっているのか、その下でどんな類の連中がはびこっているのか、その実態が明るみに出て衆目に晒されているからだ。そのうえ、「安倍晋三記念」の名を冠しその「夫人」を名誉校長に据えた「瑞穂の国小学校」計画は、安倍政権が目標とする憲法改変がどんな社会をめざしたものなのかを、異様な塚本幼稚園とその延長というかたちで如実に示している。

 これをどう報道するかで、メディアも試練にかけられている。この件が明るみに出て、それでも政権の異常さを正面切って報道しないメディアは、その口濁しで政権の延命に手を貸し、日本の社会そのものを見捨てることになる。そしてそれを自覚できないメディアはもはや腐った魚である。事象を断片的に報道していても仕方がない。トップニュースでこれがいかに異様な事態かを連日報道すべきだ(後になって「反省」などしてもらいたくない)。

□国政の私物化(追従する官僚・メディア・その他)

 安倍政権の支持率は急落しているようだが(日経調査)、今まで異常に高かったのはたぶんにメディアのせいである。政権批判は「偏っている」と脅され、官房長官が会見で「まったく問題ない」と言えば、その判断を政府判断=公式判断として報じるだけだったからだ。外交案件では、政権の行動が「日本はこうした」「日本はどうする?」と無批判に報道され、国内では「政府のやることが正しい」かのように伝えられる。だが、問題は政府を担う政権の異常な性格なのだ。

 「事件」としては「国有地の不正払下げ」ということだが(元清和会系とのつながりがとりざたされる特捜部が動いたという話はまだ聞かない)、警察が立件しないとしても(これだけあからさまな事件を立件せずにはいられないだろうが)。この事件には安倍・日本会議系政権のあらゆる問題が凝縮、というより爛れた泥沼のように広がっている(日本会議は引こうとしているが、内閣の陣容を見れば、安倍内閣は日本会議・神道議員連盟内閣であることは否定できない)。

 ひとことで言って「国と政治の私物化」である。「国と政治」を彼らは「公」と言うから「公の私物化」だ。一般の言い方で言えば「公共の私物化」である。

 安倍首相は「私の妻(総理夫人)は私人」と言う。だとすると「総理大臣」であることは「私事」なのか。たぶん当人にとってはそうなのだろう。だから勝手にやっていい。憲法だって勝手に「解釈」で反故にできる。「だって私は総理大臣だから」。最高権力者なのだから「私」の夢を叶える。仲間を優遇してどこが悪い…。

 だからお友達や太鼓持ちや自分を支える連中(権力に付け入る者たち、超ウヨク・ヘイト団体)には便宜を図る。それは「私」の力の行使でもある。「私」は中国を嫌っている。それは今では「変化する国際環境」の中の「脅威」というアメリカの見方と一致する。だから在日(その向こうに中国)に対する「ヘイト」感情は正しい。そうして「ヘイト」と「公的見解」とは癒着する。

 その「公」と「私」の接続をごまかすために「巷=公共?」の空気を作るメディアを手懐ける。トップを変え、仲間を送り込み、プチ・ボスたちに寿司を食わせて、それぞれの組織内にはびこらせる。

 「公の私物化」にうま味を見る連中(「私物化=privatization」を金科玉条に利権をあさるネオリベたち、竹中某、それに日米安保マフィア・原発ムラ等)が安倍と組む。

□「美しい国」(改憲後の日本)の雛形とそのからくり

 しかし、森友学園経営の塚本幼稚園の実態は、安倍・日本会議的な国民統治と教化のまたとない雛形を示している(「理想」とは言うまい。彼らにそんな立派なものはなく、しみったれて邪まな想念しかないから)。国民は幼い子供のときから洗脳され、「悪イチューゴクやチョーセンから大人たちが日本をマモッテクレル」と唱え、「アベソーリ、がんばって!安保法制ありがとう」と言って盲従小国民になる。北朝鮮とそっくりではないか。

 そしてそんな「神道教育」を施す連中はと言えば、彼らの押しつける「献身と盲従」の「国民精神」とはまったく反対の、子どもと親を食い物に賄賂とタカリで大きな顔をしたがるだけの小悪党たちだ。そんな学校・幼稚園が教育勅語をありがたがる。要するに「教育勅語」とは、そんな小悪党どもが自分たちののさばる社会を作るために子供たちに押しつけるのに恰好のものなのだ。「勅語」に照らしたら、真っ先にトンカチで頭を叩かれるような連中だ。安倍政権が目ざす「憲法改正」の生み出す社会とはこういうものなのだということが、この森友学園の腐れ沼に如実に表れている。

 そんな連中の群がる安倍政権の「公の私物化」に官僚たちが手を貸している。非自民の政権はサボタージュで潰そうとした官僚たちが、安倍政権には諾々と従っているのだ。彼らは保身しか考えていない。政権の具と化した内閣法制局長と同じように、この国の官僚たちは国よりも保身が大事なのだ。あるいは、「対米従属」(これを「日米同盟」と言っている)を不動の国是と思い込む官僚たちが、安倍政権を進んで支え、安倍の「強い国」妄想に乗っかろうとする。そう、安倍は以前から"Make Japan Great Again!"だった(ただしそれは国内だけで、その前提は"America first!")。日本では志をもって国のために働く官僚はいないのだ(いたとしても出世できない)。
 
 森友学園事件は、安倍の「美しい国」政治がいかなる社会を作るのかを白日の下にさらした。検察が動こうが動くまいが、これでも政権が倒れなかったら、この国についてもう言うことはない。ただ、それでも覚えておきたいのは、安倍がトランプ当選に慌てて、いち早い訪米を画策していたとき、トランプのアメリカは麻生を同伴させることを要求してきたことだ。この国の試練は続く。

*こういう政権が沖縄に強引に基地を作ろうとし、南スーダンに自衛隊を送っている。沖縄を「ヘイト」の対象にしてはならないし、自衛隊は塚本幼稚園の園児扱いにしてはならない。

沖縄・高江で起きていること2016/10/20

 いま、日本で日々起きていることを黙って見ているしかないというのはなかなかに辛いものだ。

 請求されて国会に提出する資料は真っ黒で、質問に答える気も、能力も、道理もない首相が、答弁にならない駄弁で時間だけ潰し、担当大臣はどこかの集まりで公然と、強行採決を決めるのは自分ではないと楽し気に語り(ということは、裏では日程をこなしたら強行採決と決められているのだろう)、去年9月の安保法制と同様、「売国協定」ともいわれるTPPも今月末には採決されることになっている。たしかに、これがこれが何年か前までメディアが騒ぎ、国民が求めたとされる「決められる政治」のやり方なのだろう。

 沖縄では、行政訴訟にかかって辺野古が動かない間に、安倍政権は高江の米軍ヘリパッドの建設を急いでいる。年内にここを完成させて北部演習場の返還を果たし、基地が減ったと宣伝するためだ。

 そのために、本土からやむにやまれぬ思いで行った支援者をむりやり逮捕・拘留し、新潟県知事選で与党が惨敗した翌日には、ここ数年、反対運動を現場で支えてきた山城博治さん(沖縄平和運動センター議長)を胡乱なやり方で逮捕し、抵抗運動を潰そうと露骨な攻勢に出てきた。

 その逮捕も前から知っていたかのようにすぐに配信する「事情通」の産経新聞の記事によると、「現行犯」(産経)で逮捕した山城議長(実際には、聞きたいことがあると呼び出されて警備車両に乗ったところを、だまし討ちのように逮捕された)を、警察は今度はN1テントでの防衛施設局職員から書類を「強奪」した件で再逮捕するらしいという(その通りになった)。日米地位協定の絡む刑事特別法ではなく、器物損壊、傷害、窃盗といういわゆる破廉恥罪で拘束し、反対運動を貶めて潰そうという意図が露骨だ。

 だが、その翌日、高江工事の防御のために張られたフェンスの前で、抗議する市民に対し警察の機動隊員が「どこつかんどるんじゃ、ぼけ、この土人が…」と罵倒する場面が撮影され(よりにもよって、相手は目取真俊さんだった!)、他でも「黙れ、こら、シナ人」などと暴言を浴びせていることが報じられた。

 公務中の警察官の発言である。大阪府警が派遣した機動隊だった。その機動隊員は召還されようだが、当の大阪府松井知事は、「表現は不適切でも、一生懸命職務を遂行しているのがよくわかる、出張ご苦労さん」とねぎらうツイッターを発信。さすが、この間、「ワサビ寿司」や韓国旅行者少年への暴行などでヘイト・クライム(人種差別行為)の本場になっている大阪である(松井一郎は日本維新の会の党首でもある)。

 同じ日、白紙領収書の私文書偽造も含め、あらゆることへの「問題ない」発言で問題の菅官房長官は、機動隊員の暴言をさすがに「問題ある」としたが、同時に、北部訓練場の12月返還を沖縄県に通知し、高江のブルドーザー薙ぎ倒し作戦が不退転のものであることを明示した。

 産経新聞が「移設反対派の暴力常態、防衛省職員倒され被害届」と一面で報じ(9月26日)、「反対派暴走、地元住民が怒り、不法侵入、勝手に検問」とネガティヴ・キャンペーンを打ったのが合図の狼煙だったかのように、この間、工事阻止の運動に黒子として献身してきた本土からの支援者が、10月4日に那覇空港で逮捕された。また、抵抗運動の象徴的存在として車椅子で辺野古に通っていた87歳の島袋文子さんが、しつこく接近し付きまとうビデオカメラを振り払ったのを「暴行」だとして告訴された。そんな恥知らずな告訴をしたのは、「日本のこころを大切にする党」参議院議員和田政宗のスタッフである。

 こうして、御用メディアや異常政権の岡っ引きたちが「反対派は暴力的な不法集団」との情宣を活発化して、政権の下劣な「無法」ぶりを代行しかつ隠蔽する一方で、主要メディアの反応は鈍いし、はがゆいほど及び腰だ。ロシアや中国や北朝鮮が何かすると、かならず「…という意図(思惑)があるとみられます」と、勘ぐりまがいのコメントを欠かさないのに、現在の政権のやることに関してはどんな批評も働かせず、むしろ「問題ない」のコメントでホウドウを切りにする。

 酷いことは重ねれば重ねるほど、新たなヒドサが前のヒドサを覆い隠して忘れさせる。沖縄防衛局の要員が増えているのは、夏の元米海兵隊員による女性暴行殺害・死体遺棄事件への対応として、防犯警備の強化予算がついたからだ。それで派遣された要員が、じつは辺野古や高江の警備に回っている。そしてこの事件の事後がどうなったのか、もう誰も気にするゆとりがない。

 こうしてだまし討ちのように始まったオスプレイ沖縄配備を既成事実とし(世界のどこにも配備できない厄介モノだ)、沖縄の基地は永続化される。たとえそれが米軍から返還されるとしても、そこは永続的に「日本軍」の基地とされるだろう。だからどこかのトランプと同じで、「日本が一番」が好きな政権は、ともかく基地を作りたがる。アメリカに褒めてもらうためにも。

選挙のためにできること2016/07/03

 しばらく遠ざかっていたブログだが、いままた怠惰に鞭打って書かなければと思う。あふれるネット情報のカオスのなかで、小さなゴミのように流されるだけだとしても。
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 参議院選挙が始まったある日、大学からの帰り、思い立って近くにあるはずの野党候補の事務所に寄ってみた。参議院議員比例区に立候補している有田芳生さんの選挙事務所。この人はいつもヘイトスピーチ・デモの現場に立ち、国会でつい最近実現した「ヘイト対策法」の成立に尽力してきた民進党の議員だ(デモの現場には他に共産党の池内さおりさんがいつもいた)。

 ヘイトスピーチは一見、小さく特殊なテーマのように見える。しかし「在日●●人を殺せ、叩き出せ!」と叫ぶデモには、日本と近隣諸国の関係とその歴史についての無知(隠蔽)にあぐらをかき(蓋をし)、そこに居直って日本社会が生み出した弱者を露骨にいじめ、そうすることに快感をもつという、もっとも下卑た心性の誇示があり、それを公共化することで排外主義の風潮を煽るという毒がある。そしてなにより、権力の姿勢を背に、この国に住む人びとを日常の地平で感覚的に脅かすという害毒がある。

 それを放置すると社会は日々の生活の地平から腐食される。そしてそこは、ただでさえ弱い立場の人びとを、その弱さゆえに傷つけ抹消しようとする、あらゆる差別の力学がもっとも具体的かつ社会的に働く現場である。さらにそれは、日本の一部の歪んだ歴史認識(歴史の否認や美化や居直り)の上に立ち、現在の「右傾化」を体現する安倍政権を下から支えるものになっている。だから一見マイナーに見えるこの問題は看過できないのだ。

 何の規制もないなか、数年前からいわゆるカウンターの運動がこのヘイトスピーチに対峙してきた。しかしこれには法規制が必要だ。こういうことが許されないという社会的規範表示が必要だ。有田さんはいつもカウンターの現場に立ち、国会でヘイト規制を法制化すべく粘り強い取り組みを続けてきた。さまざまな錯綜する事情はあったが、ともかくつい先ごろ反ヘイト法は成立し、ただちにデモが規制されるという変化も表れてきた。

 有田さんは拉致問題にも長くかかわってきた。ただしそれは、安倍政権によって狡猾に利用されてきたこの問題を、ひたすら被害者の立場に寄り添い、国家の恣意を炙り出すという関わりだ。

 その有田さんは、6年前はとくにオウム事件で活躍したジャーナリストとして知られており、高得票で当選したが、どちらかというと地味な人で、まったくプロの政治家らしからぬ、取柄としては地べたの課題に這って取り組むことだけのようだから、とても選挙に強いとは思えない。そのうえ、安倍政権の別動隊のようなヘイトマニア・ネトウヨの目の敵にされ、執拗な攻撃に晒されている。

 路上と国会で地道な活動に没頭して、かつての知名度はすっかり色あせている。他の議員たちのようには選挙のための活動をしてこなかったのではないかと危ぶまれる。

 けれども(だからこそ?)、有田事務所にはいつも人が集まってくる。有田さんの活動を助けてきた人たち、その活動に実際に助けられた人たち、たまたま近くに住んでいて手伝いたいと思い立ったひとたち。みんな「微力な」人たちだが(去年ノーベル文学書を受けたベラルーシのスヴェトラーナ・アレクシェーヴィッチが「小さな人びと」と呼んだような人たち)、少しでもできることをと、集まってくる。新潟から数日、大阪からの出張ついでという人もいる。もちろんみんなボランティアだ。有田さんが落ちると、ヘイト集団を喜ばせ勢いづけることになる(その代表者はこんど東京都知事選にも立候補するという)。だから何としてでも有田さんを国会に送りたい、そう思う人たちが一時間でも二時間でも事務所に立ち寄って、自分にできることをやってゆく。

 3年に1度の参議院議員選挙だが、今度の選挙には、安保法制、軍需産業・軍事研究推進、尖閣危機を煽っての軍事体制強化、年金等資産の投機投入、TPP推進による国売り(支配層だけ稼ぐための)、福島事故を洗い流して原発再稼働、等々重要課題が懸かっており、そのすべてが改憲をめざした参院2/3確保に集約されている。

 憲法を無視し、法律も恣意的に曲げ、メディアも抱き込み(言うこと聞かなければ排除し)、日本という国を自分たちの思うように変えてしまおうとする(その先には「亡国」しかないことを歴史が示している)いまの安倍自民・公明政権に、ブレーキを掛けられる機会はさしあたりいましかない。いま何かしなかったらもう遅いという段階に来ている。

 わたしは有田芳生という人をほとんど知らない。一二度ことばを交わしたことがあるだけで、あとは新聞や雑誌を通してその活動の一端を見聞きしているだけだ。けれども、はっきりわかっているのは、こういう人を落としてはいけないということだ。ちょうど事務所が勤め先の近くにあった。望ましい結果を得るためにできることは、ただ投票することだけではない。選挙運動には細かいルールがあって、ポスターに法定シールを貼ったり、はがきに宛名シールを貼ったりするのには相当の人手がいる。ポスター貼りや街宣の手配もある。資金も組織からの支援もない候補の運動を支えるのは、その人手になるポランティアの人たちだ。ふだんは大学の教室で講釈するのが仕事のわたしも、今回はこのような人たちとともに有意な「人手」になりうることをひそかに誇りに思っている。