凡庸な、あまりに凡庸な初日の出2016/01/02

 (伊良湖岬にて)

 去年も今年も、同じように陽は昇る。いや、一度として同じ陽はない、永劫回帰はたんなる反復ではない、と言った人もいる。そう言うのもいいだろう。ただ、今年の初日の出はことのほか「凡庸」に見えた。この世の中で何が起ころうとおかまいなく、いつもの正月と同じよう初陽は昇るのだと。

 ふと脳裏に浮かんでいたのは、暮れの集中講義の資料としてみた「水俣病の17年」というNHKアーカイヴスの終りのシーン。チッソとの直接交渉を求めて熊本から上京し、大手町のチッソ本社前にテントを張って、公害企業の不当と患者の要求への支持を訴える声をしり目に、みぞれ降る師走の街を人びとは立ち止まることもなく行きすぎてゆく。

 その行きすぎてゆく人びとのように、今年も元日の陽は昇る。

 日本では一昨年の夏、黒を白と読み替えて憲法をないがしろにする閣議決定がなされ、去年はそれに基づく安保一括法制が「無理」をさらして「人間かまくら」で通ったことにされ、これで政府は「日の丸部隊」を米軍の御用達に供しうることになった。

 一方で政府は最悪の公害企業と手を組んで、福島第一の「緊急事態」に蓋をし、「除染」でお茶を濁しながら住民の帰還を促し、原発問題はもうすんだかのようにして再稼働に走るばかりか、原発輸出とさらには軍需産業のテコ入れに精を出す。

 「経済成長」を目指すというこの政府は、無理やり株価だけは釣り上げたが(それももう限界だと言われている)、国内に貧困は広がり、一人当たりのGDPは下落の一途をたどっている(27位だそうだ)。労働条件は劣悪化し、定職についてもうつ病が待っている。大学を卒業したら600万~1000万の借金を負うとはどういう国か?

 そして「テロとの戦争」の泥沼にはまってゆく世界で、軍隊を出せると虚勢をはり、「従軍慰安婦」の旧悪も、隣国の弱みに付け込んで金を出すから身内を黙らせろと脅し、ますます世界で評判を悪くし、国民の肩身が狭くなるのを自慢している。

 そんな政府与党(自民党と公明党、それにおおさか維新が加わる)が、この夏の参院選挙(ひょっとしたら衆参同日選)でも議席を増やしそうだという。そうなったら改憲だが、それ以前に、こんな政府が支持されている(あるいは存続できる)というのはいったいどういうことなのか?日本社会は、どんな道理も無理で潰せる、そして無理を押し通す者たちが政府に君臨しうる「ならず者国家」に成り下がった、ということか。

 それでも陽は昇る。初日の出をこれほど白々と見たことはない。陽は昇ってもよい。いや昇るのがいい。だが、来年はその昇る陽を、もっと心に受けとめられるような正月を迎えたい。

2015年6月14日、何かが起こった日2015/06/14

 山口二郎が国会前のすばらしいアピールで55年前の6月15日を想起させていた。今日は6月14日、まだまったくクライマックスではないが、この日は節目になる予感がする(いや、何かが起こったのは6月4日の衆院憲法審査会での参考人・憲法学者3人が一致して審議中の安保法制は「違憲」と明言したことからだが、その効果がはっきり表れてきた)。

 午後2時から国会を25000人が取り囲み、安倍政権の「違憲立法」を弾劾する集会が開かれ、渋谷の宮下公園では午後5時から若者たちのグループSEALDsの呼びかけで3500人が集まり、日曜夕方の渋谷の繁華街を「アベ辞めろ、戦争反対」を叫んで行進した。

 国会包囲の人の環の厚さもなかなかだったが、そこには安倍政権への抗議の意志をもつ人びとだけが(それと機動隊が)集まっていた。組織の旗もいろいろある。ただ、アピールもそこだけにとどまる。

 ところが渋谷では、いっさい既存の組織に頼らない学生たちが呼びかけたにぎやかなデモを、道行く人びとが何ごとかと振り返っていた。外国人観光客もいる。みんな日本にはデモなどないと思っていただろうし、安倍政権なんてどこ吹く風で遊びに来ていたのだろう。そんな街を行き交う人たちが振り返る。えっ、そんなのあるんだ、アベっておかしいのかな、と思いだしたらめっけものだ。若者たちの行動はそんな「感染」や反応を引き起こしす。国会前からもかなり大人たちが流れていた。その大人たちにはどこかに諦めがないとは言えないが、若者たちは「本気で止める!」と言っている。そしてそのための行動にためらいがない。この行動には期待したい(期待というのは、ただ眺めるのではなく、支え手伝うということだ)。

 その日の7時のNHKニュース、拉致被害者家族集会、安部・橋本の悪巧み会談、そして香港での反政府デモ、それに大集会でもヒラリー・クリントンの出陣集会…。東京や京都(いや、この日、九州・四国・名古屋など、全国各地で集会があった!)での大集会は無視するが、中国の反政府デモは報道し、アメリカの大集会は報道する。あまりに露骨な報道選択で、ここまでくると、NHKの報道部もあからさまに安倍の言うとおりにすることで逆に、「検閲・自主規制」やらされてるんだよ、とアピールしているのかと思えてくる。

 だがその後で、NHKスペシャルの『沖縄戦全記録』を放映したのはよかった。内容は今のNHKでできるギリギリだろう。一方で、沖縄戦を記録した米軍のフィルムがあり(沖縄戦に50万の兵員を動員した米軍は、記録用に大量の撮影班も動員していた)、糸満市の住民の死亡記録があり、さらに復帰時に多くの人が初めて沖縄戦時のことを語った1000本に及ぶ録音テープが見つかった。そのすべてを使っての「全記録」だ。

 米軍攻撃の「無差別性」の強調や、日本軍の住民の関係に関する及び腰の言及など、これまでの「沖縄戦ドキュメンタリー」に較べて食い足りない点もあったが、それでも4月1日の米軍上陸から6月23日の組織的戦闘の終息まで、日毎の住民の死者数を軸にした状況の流れの跡づけは、沖縄戦の悲惨とその問題を浮かび上がらせるに十分だった。

 沖縄戦では、台湾防衛に兵力を割いた第32軍の兵員不足を補うために2万を超える住民が徴用されるが、その即席の兵士たちは銃器ももたず、竹やりと手榴弾だけで「斬り込み」に行かされたという。住民はいわば軍の「消耗品」として「自爆攻撃」を強いられたということだ。14歳以上の中学生も動員された。

 これは現在の国際標準用語でいえば、「カミカゼ」つまり「自爆テロ」だし、悪評高い「少年兵」だ。日本軍は住民にも「軍民一体、一人十殺」を要求して(とくに伊江島での話)「カミカゼ」をやらせていたのだ。何のことはない、当時の日本こそ「テロ国家」だったのではないか。死んだら「天国と70人の美女」とは言わないが「靖国に祀る」と言い、住民に竹やりと手榴弾で突撃させ、「人間の盾」にもする。そして「集団自決」も、お国のために進んで身を犠牲にしたとか、家族への「愛ゆえに」(曽野綾子)とか言い飾り、住民や下っ端兵士には「玉砕」を命じて自分たちは生き延びる。なるほどそれは支配層には「美しい国」(「神の国」)だろう。まったくイスラム国(IS)やアフリカのボコ・ハラムと同じではないか。

 こうして沖縄戦をよく見ると、当時の「大日本帝国」が今で言う「テロ国家」に成り果てていたということがよくわかる。安倍政権があらゆることを押しのけて実現しようとしているのが、そんな「テロ国家」だということにあらためて気づかせてくれただけでも、この番組は秀逸だったと言ってよい。

 一方で報道部は露骨に安倍政権の広報局になりきることでその現状を露呈させ、他方で制作部はできるかぎりのことをやっている。そうなるとやはり、NHKであれ何であれともかく個々のジャーナリストには頑張ってほしいと思う。

なぜ「中東・北アフリカ」にこだわるのか?2015/03/22

 中東・アラブ地域問題に関心を寄せるのは、それがわたしの"専門"のフランス絡みの案件だからというわけではない。いま北アフリカから中東地域で起きていることは、日本の現在の急激な変化に密接に関わっている。
 
 安倍政権は去年の「集団的自衛権」容認の閣議決定以来、日本を「戦争ができる国」にするための法整備を急ピッチで進めようとしている。だが、そうなったとき(憲法改変前にせよ後にせよ)、日本が最初に戦争に乗り出すのは東アジアではなく中東地域になるはずだからだ。
 
 「集団的自衛権」を行使するということは、基本的には「アメリカの戦争を手伝う」ということだが、安倍政権はまず自衛隊派兵の地域的限定(「周辺事態」)を外し、かつ、同盟国絡みでなくとも「我国の存立に関わる」と判断されれば派兵できることにしようとしている。そして、とりわけ石油輸送の要所であるペルシャ湾入り口のホルムズ海峡の機雷掃海(イランが敷設すると想定して、オマーンの領海に出張る)には執心のようだ。

 思い起こせば、日本の自衛隊海外派兵への傾斜は、湾岸戦争(1991年)の時、アメリカの呼びかけた戦争を支援した国々のうち、日本は資金面では大きく「貢献」したにも関わらず、それがアメリカ国務省の「感謝リスト」でまったく評価されなかったことがトラウマになって(誰にとって? 外務官僚だ)始まった。そしてアメリカから「派兵」を求められながら、要請に応えられないのは、いつも中東絡みの戦争だったのだ(イラク戦争も)。
 
 だから「アメリカへの貢献」(日本政府はそれを「国際貢献」と言うが)ということで言うなら、自衛隊を出さなければならないのは中東(とそれに連なる)地域なのだ。そこで日本が「軍事貢献」をするとなれば、アメリカは自分の「肩代わり」をする国ができて負担が減るから歓迎する(実際、アーミテッジなどジャパン・ハンドラーが前から要求しているのはそのことだ)。
 
 日本が中国と事を構えるのをアメリカは望まない。だが安倍政権の日本は事実上すでに事を構えている。つまり、アジア太平洋戦争の評価を変えようとしており、それが「歴史問題」や「靖国問題」、「従軍慰安婦問題」になって表れる。それが「戦後秩序」の基本を揺るがすというので、アメリカは安倍政権の「歴史塗り替え」志向をはっきり警戒している。だが、日本が中東「安定化」のために軍隊を送ってくれるというのならアメリカは嫌がらない。というより、面倒な戦争の肩代わりしてくれるならありがたいというところだ。

 そこで日本政府も、だったらそっちで行こう、ということになる。中東で日本が他の西洋諸国なみの「軍事貢献」を行なえば、世界における日本の存在感も一段と増し、国連の常任理事国入りを要求することもできる。そうなったら、世界の一等国、もはや中国に遠慮することもない云々…、直に中国と鍔迫り合いをするのはそれからでもいい…、というわけで、日本の軍事化の照準はまずは中東に合わされている。
 
 ところが、中東や北アフリカに広がっていまアメリカやEUを悩ませているのはふつうの戦争ではない。「テロとの戦争」である。この「戦争」は2001年9月以降、アメリカが性格づけて実際に始め、いわゆる「イラク戦争」を含めてすでに15年近く続け、しだいに荒廃と液状化の領域を広げて、とうとう「イスラム国」のようなモンスターを生み出して、手が付けられなくなってしまった泥沼の抗争である。ここがどういう地域で、「テロとの戦争」の結果この地域の実情はどうなってしまったのか、そういうことを十分に知らなければならない。
 
 その底なし沼に安倍政権は――例によって歴史や地域事情など何も勉強したこともないから――「戦争するチャンス」とばかり、勇んで手を突っ込もうとしている(人質解放に自衛隊?)。それが「強国」どころか、間違いなく「亡国」の道なのである。

 もっとも、少子化が心配されるこの国で、女性の社会的困難を放置し、活動しにくくし、子供に社会問題の原因を押しつけて、そのうえ原子炉のメルト・スルーで4年経っても実情さえ分からない福島第一核惨事の、被害やとほうもない危険が見えないのをいいことに、原発再稼働なんて言っていること自体が「亡国の政治」以外の何ものでもないのだが。

 ともかく、アラブ・イスラーム世界に行き掛かり上いささかの知見をもつ者として、いまこの地域で起きていることに関心を寄せざるをえないのだ。

チュニジア博物館襲撃事件に関して2015/03/19

 1月初旬のパリでの週刊紙本社襲撃とそれに続いて起こったイスラム国による日本人処刑事件の記憶がまだ新しいいま、今度はチュニジアの国立博物館を訪問する観光客が襲撃され、19人の犠牲者に3人の日本人が含まれていた(その他に3人負傷)。

 キナ臭い気配がする。どこかで無差別銃撃とか殺傷事件が起き、その犠牲者に日本人が含まれていると、「テロは許せない」と拳を振り上げて見せ、それを口実に国を「テロとの戦争」体制に引き込もうとする風潮がいまの日本にはあるからだ。

 もちろん、こんな事件に巻き込まれた人はたいへん気の毒だが、日本人はどこにでも観光旅行に行くことができる。ただ、その旅行が安心してできるようにするために(「国民の安全を守る」ために?)、「テロとの戦争」が必要だというのはまったく手前勝手な話だ。

 こういう事件が深刻なのは、何よりまず現地の人びとにとってである。なぜいったいこのような事件が生じるのか、これはチュニジアやその周辺の人びとにとってどういうことなのか、チュニジアはいまどうなっているのか、それをまず考えなければならない。

 そのための材料をそんなに持ち合わせているわけではないが、信頼する友人のフェティ・ベンスラマがフェイス・ブック上に投稿した短い緊急のコメントを翻訳して紹介しておきたい。急ぎの短いコメントでとても丁寧とは言えないし、とりわけ最後が急ぎ過ぎだが、「アラブの春の優等生」と言われるチュニジアがいま陥っている危機に対する切迫感は伝わると思う。

◆バルド美術館の虐殺に関して緊急のコメント――

 チュニジアは不幸にして受難のとば口に立っているということを、われわれは、少なくともいくらかの人びとは十分に分かっていた。

 去る2月27日にチュニスの国立図書館で講演したとき、私は数日前に若者担当相が明かした数字を援用した。学校を出た100万の若者(4人に1人だ)が、職もなく、何の社会保障も受けずにいる。間違いなくそれが、サラフィー主義やジハード主義、軽犯罪、自殺その他を増殖させる絶望の温床になっている。

 トロイカ体制(イスラム政党ナフダを中心とした3党連立)の政府と、とくにそれを牛耳っている「穏健派」と称されるイスラム政党は、ジハード・テロリズムを利するためにあらゆることをしている。その証拠はいくらでもあって目を覆うばかりだ。

 ここ数か月も治安部隊が動員されていたにもかかわらず、国会に隣接するバルド国立博物館には何の警護もないままだったという事実が、この治安措置のザルぶりをよく示している。

 大半のチュニジア人は、チュニジアが内側からも外側からも極めて深刻な危険にさらされているこということに気づいていない。この危機に対する意識もなく、相当の手段や力を動員することもなく、要するに、「総動員」もせず、チュニジアは(一九九〇年代の)アルジェリアにも似た、いやおそらくはそれ以上の悲劇を経験しようとしている。アルジェリアには当時、リビアのような、国家もない戦争状態で、民兵たちが跋扈するような隣国はなかったのだ。政府は国民にほんとうのことを言わねばならない。ヨーロッパ諸国は、チュニジアをよそごとだと思って、自分たちを守ることばかりを考えてのらりくらりと言い逃れをするのをやめるべきだ。 (フェティ・ベンスラマ、3/19)

*( )内は補足だが、ついでに補足しておけば、しばらく前のデータでは、チュニジアは「イスラム国」に地域最大の3000人の参加者を出しており、隣国リビアはEUの軍事介入でカダフィ政権が倒れた後、内戦状態になり、そこで強力なイスラム主義勢力はチュニジアの組織とつながっている。

2月の悲報と「テロに屈しない」の罠2015/02/01

 2月は悲報で明けた。それでも一抹の希望をもとうとしていた者にとって、後藤健二さんの件は残念な結果になった。イスラーム国の「顔」には慈悲のひとかけらもないということだ。
 
 だが、この事件が何だったのかは明確に整理しておかねばならない。はっきり言えるのは、過激イスラーム主義者たちが日本を公然と敵視するようになったということだ。「イスラーム国」からの最後のメッセージは嘘ではないだろう。つまりこれからは、どこにいても日本人も標的になるということだ。ただしそれは「アベ」のためである。メッセージは名指しでそう言っている。

 今回の人質事件は原因ではなく結果である。何の結果かと言えば、この間の日本政府の姿勢(アメリカの意向に沿う軍事化や、それと連動したイスラエルとの突出した接近)が、長らく培われてきたアラブ・イスラーム世界との良好な関係という資産をついに取り崩したということだ(アラブ諸国やトルコでは親日傾向が強かった)。

 そんなことはない、去年からイスラーム国爆撃に加わっている「有志連合」諸国は、「テロに屈しない」姿勢を共有している、と言うかもしれない。しかしそれは、サウジアラビアやアラブ首長国連邦やヨルダンといった、アメリカと結託することで何とか権力や資産を保持している王族の類に限られた話だ。広範な民衆の親日感情は覚めてしまうだろう。かつてはアメリカとも戦ったのに、そして原爆まで落とされたのに、いまでは進んでその尖兵になって、アラブ世界を支配しようとしていると。イスラーム国はそれを口実に使ったのである。

(後になって「人道援助」を強調しても、財界人を引き連れてイスラエルに行き、去年もガザで市民2000人を殺したためにオバマでさえ会おうとしないネタニヤフと親密さを強調して、この「テロとの戦争」の老舗と軍事協力を計り、日本の軍需産業にはずみをつけるためだということは誰でもわかる。)
 
 安倍政権が批判されるのはこの点において、つまり戦後の資産を潰し、わざわざ「敵」を作って犠牲を出した点においてである。そのため、もはや日本人は安心してアラブ諸国にも行けないし、とり沙汰されているように、政府が自衛隊を中東に送って爆撃に加わったりしようものなら、日本本土でテロが起きても不思議はなくなる。

 「テロには屈しない」というのは、あらゆる事情に蓋をして、交渉もせず、救えるかもしれない人質を切捨て(「自己責任」か)、みずからの無作為と暴力行使を正当化するためのお題目にすぎない。「屈しない」でどうするのか?爆撃するのか? それはこの十数年(いや、ずっとその前から)アメリカがやってきたことだ。その果てには、さらに異常化した「ハイパー・テロリスト」が生れるだけだろう。「テロをなくす」というのは、それとはまったく別のことなのだ。
 
 アメリカはもちろん、この時とばかり日本に同情と連帯の表明し、自分の道に引き込もうとする。それはオバマだろうがブッシュだろうが同じことだ。
 
 問題の根源は「テロリズム」でも、「イスラーム」という宗教でもない。じつはこれも「歴史問題」なのだ。アメリカ(や英仏)が「テロとの戦争」という問答無用の図式で覆い隠すのは、一九世紀後半からの英仏によるアラブ・イスラーム世界の植民地化と、第二次大戦後のイスラエルを据え付けての中東経営という米英仏による恣意的な戦略と、力によるそのゴリ押しなのだ。「テロ」の一語でその認識を排除することが、いま収拾のつかないこの混乱を生んでいる。
 
 「イスラーム国」という恐るべきモンスターは、第一次世界大戦以来の英米仏によるこの地域の軍事支配を背景に、2001年以来、核以外のあらゆる兵器を使った(劣化ウラン弾や白燐光弾、バンカーバスターやサーモバリックも含めて)殲滅作戦で、業火に焼かれながら生きながらえた米英仏にとっての「害虫」が、ついに手の付けられない特異種に変異してしまった結果にほかならない。「病原体」はやっつけたと思うと、変異して今度はワクチンも効かなくなる。
 
 「テロ」とか「テロリスト」という用語は、暴力の暴発に対する「なぜ」という問いを封じるために使われる。「テロリスト」と決めつければ、その先は一切問わなくてよい。あとはあらゆる手段を使って、問答無用、殲滅だ。安倍はそれに乗ってすべてを「テロ退治」に引きつけようとする。(自分は民主主義手続で権力を与えられた首相、それに抵抗するオキナワ県民は叛徒、まずは「粛々と」機動隊と海保で押し潰す…)
 
 そのやり方はアメリカやイスラエルに習っている。邪魔なものを力で押し潰し、自分を「正義」だと言い張る国が「強国」だとすれば、安倍の求めるのはそういう日本なのだろう。だが、間違っているのは、日本にその「資格」が認められていると思っているところだ。ここに「歴史」が絡んでいる。日本はアメリカに「負けた」国である。その敗戦国が戦勝国の尖兵になったら、それは自分が奴隷であることをに目を覆った奴隷である。「自立」とは戦勝国とは違う道をゆき、独自の地位を築くことだ。それを戦後の日本はしてきたはずなのに、安倍はとち狂ってアメリカに追従し、「テロとの戦争」という破綻した戦に日本を巻き込んで、世界の冷笑を買おうとしている。

 後藤さんが殺害されて、いまや「戦場」は国内に移った。山口二郎が東京新聞のコラムで指摘したように、安倍政権は自らに責任のあるこの事件をむしろ奇貨として、「ショック・ドクトリン」よろしく、安保法制整備になだれ込もうとするだろう。日本が「国際社会で名誉ある地位を占める」(日本国憲法)ためにも、今こそ強く安倍批判を打ち出さなければならない。
 
 「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」――日本国憲法前文より。

2015年1月の日本2015/01/25

事件発生直後に「空耳アワー」で聴いた戯れ唄がまったく現実味を帯びてきた。ブッシュ、オランドにならって、日本の安倍も「われわれは戦争のうちにある」と言いたげだ。今日はどこからか、こんな合成写真が送られてきた。

[付属のコメント]
 武器輸出がしたいだけでなく(これは戦後日本が手をつけなかった「未開の成長分野」だ)、安倍はネタニヤフのような「指導者」がきっと好きなのだ。ネタニヤフがガザでやっていることを見習って沖縄も抑えたい。残念ながらまだ日本に「ツァハル」(悪名高いイスラエル国防軍)はない。「海猿」の段階だ。
だから安倍は「テロとの戦争」に早く加わりたく、「親イスラエル」をこんなふうに誇示して「テロリスト国家」を刺戟する。そうしたら案の定「イスラーム国がやってきた!」というわけだ。
仕組んだのか、嵌められたのかはわからないが(日本の外務省がそんなに有能だとは思われない)、この事件を「もっけの幸い」として、人質の命などものかわ、国家安全保障会議のままごとの機会に使うことしか考えない。

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 イスラーム国に捕まっていた後藤・湯川両氏のうち一人が「処刑」されたと伝えられる。以下は日テレWebから――
 
 …安倍首相「湯川遥菜さんが殺害されたとみられる写真がインターネットに配信されました。ご家族のご心痛は察するに余りあり言葉もありません。このようなテロ行為は言語道断であり許しがたい暴挙です。強い憤りを覚えます。断固として非難します。改めて後藤健二さんに危害を加えないよう、そして直ちに解放するよう強く要求します」
 その上で安倍首相は、「日本政府としては引き続きテロに屈することなく、国際社会と共に世界の平和と安定に積極的に貢献する。今後も日本人の解放に向けて政府を挙げて取り組んでいく」と強調した。
 また、これに先だって行われた関係閣僚会議で安倍首相は「正確な情報収集に努めること、人命を第一に迅速な解決に全力で取り組むこと、国内外の日本人の安全に万全を期すこと」を指示した…。


 何という空疎な虚言!「人命第一に取り組む」というのだったら、まずイスラエル(ネタニヤフ)との協調を撤回すべきだろう。ネタニヤフの政府がガザで何をしているかは世界中が知っているし、彼の閣僚やさらに過激な議員たちは、「テロリストを生む」女性たちを殺せ、とまで言っている。こういう国家的殺人集団と仲良くして、武器輸出や開発協力をやろうというのが「日本人を守る」ことなのか?
 
 「イスラーム国」はアメリカやその仲間が支援するこのような「国際社会公認(さすがに嫌々認めているのだが)の殺人国家」に対抗して生まれてきたしまった「怪物」だ。
 
 安倍首相はこの機会に「人質解放のための自衛隊派遣」まで検討させているという。アメリカでさえ人質解放などできず、「テロには屈しない」と言って見捨てることにしている。「日本人の命を助ける」ことなど一切念頭になく、この事件を国家安全保障会議の「有事」練習の機会にすることしか考えない。
 
 フランスでは、先週、中央アフリカで拉致された人道支援の女性を、一週間で解放させるのに成功した。外交交渉でだ。軍隊を送ったらたちどころに殺害されただろう。こういうとき、軍事力は何の役にも立たないのだ。説得しなければならない(それでも無駄な場合もあるが)。
 
 では、「テロリスト」の言うままになれというのか? 
 そういう話ではない。ともかく、本気で救おうと思ったら「相手」と交渉しなければならない。けれども、その「相手」を初めから否定し、抹殺の対象としてミサイルや爆弾だけを送り込む口実が「テロリスト」という呼び名だ。「テロリスト」は抹殺すべきものであって、存在してはならない者だから、「相手」にしてはいけない。それが「テロとの戦争」の論理だ。
 
 去年の9月からのべ2000回の空爆が「イスラーム国」支配地に行なわれ、すでに6000人の戦闘員(将校だという)が「殺害」されているという(中東の米軍総司令部が最近発表した)。だが、その他に何人の民間人や兵士が殺され、生活圏を破壊されているだろう。
 
 この「テロとの戦争」が筋金入りの「テロリスト」を生み出す。アメリカは2001年に「テロとの戦争」を始め、十数年続けて(アメリカ史上最長の戦争だ)ますます世界の状況は悪くなっている。この「戦争」にはアメリカでさえ「勝つ」ことはできない。問題の立て方が根本的に間違っているのだ。
 
 それが明かになっているこの時期に、日本の安倍政権(安倍とその仲間ととくに外務省)は「テロとの戦争」に加わりたがっている(アメリカに協力し日本の国際的プレゼンスを高める?冗談ではない、評判を地に落とし、軽蔑され孤立するだけだ)。「戦後70年」がそのような「節目の年」になってしまってはならないだろう。

「アベノミ承認!」のからくり――選挙という回路2014/12/15

 総選挙が終わった。大方の予想通り、自民・公明は圧勝、これでアベノミクスも集団的自衛権も支持を得たことになった。投票率は約52パーセント、低かった前回よりも8ボイント近く落ち込み、「戦後70年」を前に最低を更新した。

 日本の選挙の構造はこれでまた明らかになった。投票率が下がれば自民・公明が「率」としては得票を伸ばして議席を得、投票率が上がれば逆になる。つまり選挙の争点や状況に関わらず、なんでも自民・公明に投票する安定基盤が「岩盤」のように存在し、投票率が上がれば、上がる分の多くは自公以外に流れるということだ(それが「浮動票」と呼ばれたりする)。政権交代が起きた5年前の投票率は69パーセントだった。
 
 自民党の基盤はいまでは「親方日の丸」時代の会社等の動員ではなく、町内会や老人会といった神社本庁に連なるような民間組織が大きい。もちろん既得権益層を代表する経団連や官財界の諸組織もあるが(5年前、民主党はこの部分の切り崩しに成功した)。公明党はいうまでもなく創価学会だ。

 今回は選挙に行かない人が多かった分、自民や公明が圧倒的に有利になった。行くかもしれなかったあと20パーセントばかりの人たちが投票に行かなかったのは、端的に、一票を入れたい政党(野党)がなかったということだろう。それは明らかだ。

 民主党は3・11の後、消費税や脱原発やTPPをめぐって瓦解したうえ、前回選挙で淘汰され、最近は野党とは言っても自民よりいかがわしい右派やポピュリスト政党もあって、まったく拡散していた(次世代、維新、みんなetc.)。安倍自民党は今回、その状況を突いて奇襲をかけたかたちだ、だから短期かけ込みで、選挙を盛り上げさせない(ニュースを牽制するなど)だけでよかった。

 それが功を奏して、20議席減ぐらいは覚悟していただろう自民もほぼ現状維持。これで安倍政権は、大手を振ってアベノミ政策と実質改憲に向かう基盤を得たことになる。

 ついでに言っておけば、自民党が大勝ちすれば公明党はもはや自民党にとっては不要になる。公明の選挙協力がなければ、自民候補の半数は当選が危ういとすれば、今回、安倍自民に勝たせた公明党は、ズルズルと墓穴を掘る結果を選んだと言える。これも、連立見直しの余裕を与えなかった安倍自民の作戦勝ちではある。

 選挙が民主主義の回路だというなら、この回路がいまどうなっているのか、よく見ておかなければならない。選挙という回路は理想的にはできていない。選挙制度の問題があり(日本はとくに金がかかりすぎ、小選挙区etc.)、また有権者の意識の問題もある。そして結果を規定するのは、政策や理念の選択であるよりも、むしろこの構造の戦略的な活用なのだ。だが、それを知る為政者の方は、この戦略的成功を政策や理念の正当化のために用いる。その結果、アベノミ政策や安保政策が支持されたということになる。たしかに、安倍政権は「アベノミクスの是非を問う」として解散を打ったのだ。
 
 総括はたぶんそれぐらいでよいだろう。安倍は「勝った」と思うかもしれないが、要するに選挙をやる前と状況は基本的に変わらない。去年の秘密保護法強行採決の頃からの状況は同じだということだ。この先、アベノミの破綻も見えてくる。それも変わらない。解散総選挙には「理がない」と言われたが、無理にやったこの選挙には「実」もなかったのかもしれない。それは年明けからのウンドー如何にかかっている。

 ただ、沖縄だけは県知事選に続いて自民が全敗することになった。仲井真の「転び」と石破「琉球処分官」の脅しに屈して変節した沖縄の自民党議員は誰一人選挙区で勝てなかった(にもかかわらず比例復活したが)。沖縄では「復帰」以来持ち込まれた本土の選挙回路の構造が、この間の知事選で完全に崩壊し、選挙が文字どおり「民意を問う」ものになった。長い試練が沖縄の民主主義を鍛え上げたのだ。

 それでもこの先、日本政府はアメリカのジャパン・ハンドラーたちに後押しされて辺野古新基地を進めるつもりだろうが、これは未経験の県(県民)と国との全面対決になる。帰趨の見通せないこの件については、12月20日および1月12日に予定されている連続講演「沖縄の地鳴りを聞く」(於:法政大学)の第二回、第三回講演の折に。

狼はここにいる!――為政者を免責する稀代の悪法2014/12/10

 今日12月10日、秘密保護法が施行されます。法律の意図からみても、法律としてのできから見ても、最悪かつずさんな法です。

 ずさんな法はふつう、ザル法といって、規制効果がないことが批判されます。ところがこの法律の場合、主旨は、政府が自らの行為を国民から隠し、その隠蔽を怠った者を、意図があろうがなかろうが厳罰に処す、ということです。だから、「ザル法」にしておけば、政府は秘密の範囲をかってに決められるし、罰する対象も思うように広げられる(そのうえ、なぜ逮捕されるのかを明らかにする必要もない)、というとんでもない「利点」をもつことになります。

 この法律は、同盟国から委ねられる軍事機密を洩らさない義務を関係者に課す、ということを名分に作られましたが、それを口実にして実際は、政府のすることを国民に知らせず、その行為がどんな結果を招いても、事情は知らされず闇に葬られ、永久に政府(為政者)が責任をとらずにすむ、というものになっています。

 言いかえれば、「政府はその行為によって引き起こされることについて、国民に対して何ら責任を負う必要がない」ということを保証する法律です。

 こういう法律があれば、アジア太平洋戦争に国を引きずり込み、無条件降伏に至るまで(つまりグーの根も出なくなるまで)続けた責任や、福島第一原発の事故の責任を、政府や東電はいっさい問われることはなくなります。知られたくない事情をリークした者たちの方が罰されるのですから。(沖縄密約をすっぱ抜いた西山記者が厳罰を受けて、政府の「密約」の方は不問に付される、というわけです。これが制度化されます。)

 どんな災厄がもたらされても、誰も悪くない、「一億総ざんげ」でチャラ、ということになります。いわゆる「超国家主義の無責任体制」(丸山真男)というものが、こうして鵺のようによみがえります。

 それが、この法律が稀代の悪法であるという所以です。国内はもちろん、海外からも批判されている、こんな法律を求めた政治家たち、地位や出世のために案文を書いた官僚たち、自民党と公明党の国会議員たち、彼らが今日本をそういう国にしようとしているのです。

 今日から日本は、一部の者たちが「国」の名の下に行う行為を知ろうとすると罰される、寡占「独裁」の国になります。もちろん、こんな法律が実際に適用されたら、ただちに憲法違反を問う大々的な裁判になりますが。そのとき、日本のメディアはどんな反応を示すでしょうか?

 われわれはもう「狼少年」ではありません。「狼」はもうここにいるのです。赤ずきんのおばあさんのベッドの中に――。

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☆特定秘密保護法については、「明日の自由を守る若手弁護士の会」が作った『これでわかった!超訳、特定秘密保護法』(岩波書店)というとてもよくできた解説書があります。ぜひ、読んでみてください。本格的には『秘密保護法、何が問題か』(海渡雄一他編、岩波書店)もあります。

「亡国」の未来――「国破れて山河も無し」2014/12/08

【前口上】
 しばらくブログを開店休業のままにしていました。いろいろ理由はありますが、それはさておき、宇沢弘文さんが亡くなり(土井たか子さんも中島啓江さんも)菅原文太さんも亡くなり、世の中から(わたしたちの生きている日本の社会で)大事なものが次々と崩れ去り、ろくでもないものがまかり通るようになるのを目にしながら、やっぱり書かなきゃという気もちにしばらく前からなりました。どれだけの人にお役に立つか立たないかわかりませんが。
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 時節がら、総選挙ということですが、これはもういいでしょう。結果がどう予測されていようとも、14日に投票所に行くだけです。

 選挙の予測というのは、あらゆる「未来」の予測と同じように、あるいは「不幸の予言」と同じように、「そうならないために行動する」ことを促すものです。「破局」が避けられないとしたら、いかにしてそれを軽減するか、あるいはそれもできないのなら、箱舟を造るなりして、そこまで来ている「破局」に備えなければなりません(J-P・デュピュイ『破局の小形而上学』参照)。3・11の激甚災害と、技術・産業システム破綻の後、政治のメルトダウンを通して、今度は社会の解体です。

 この解散・総選挙がどういうものか、どんなふうに「無法」なものであるかは、8日に店頭に並ぶ雑誌『世界』1月号「特集1」の冒頭にある内橋克人さんの「アベノミクスは"国策フィクション"である」と、山口二郎の「"安倍首相"という争点」にいかんなく暴かれています。
 
 ひとことで言って安倍政権は「亡国」政権です。この政権がやっていることは:

1)選挙は「景気」がよくなる期待をうまく釣ればよい、ということで「アベノミクス」。何のことはない、日銀に札束をどんどん刷らせて国債(国の借金)引き受けをさせ、「デフレ脱却」というが、デフレはグローバル経済の構造的現象だから収まるはずもない。次は企業優遇だが、それは雇用のタガを外して企業に人間の酷使と使い捨てを容認する政策。企業は利益を上げて経営者は巨額の報酬を受けても、利益は一向に社会に還元されず、金融バブルとあいまって、雲の上に還流する札束の下で一般の人びとは干からびることになる。そのうえ社会保障はムダだとか、ズルいとかいって切り崩し、まともな生活のできない人がどんどん増える。

2)それでも株価だけは上がり、「景気」がよい気配を作って、そのすきにこの政権がやりたいのは「戦後レジームからの脱却」。つまり「平和と民主主義と人権原理」がだめにした「日本を取り戻す」と称して、「平和と民主主義と人権原理」をお払い箱にしようと精を出している。理想とするのは、民がみな「お上」の投げるまずい餅を拾って食い、「欲しがりません、勝つまでは」といって、竹槍で核武装した「敵」に進んで挑み、「靖国に祀られる」ことで満足する、そんな「美風」に支えられる「美しい国」だ。

3)だがそれは、為政者(政治家や官僚たちや財界人その他のエリート)たちが何をやっても責任を取らなくてもいい、言いかえれば国民が諾々と為政者たちの食い物にされる体制だ。そのために、つまり為政者たちの勝手なヘマが決して追及されることがないように、秘密保護法も通した。こうしてこの国の為政者たちは、アジア太平洋戦争でも国内では原爆投下にまで至った無謀な戦争の責任を問われなかったように、また、福島第一原発事故による数十万人のいまも続く被災の責任をいっさいとらないように、何度でも「敗戦」を繰り返すことができるのだ。
 
 この政権のしかける無体な解散総選挙で、また自民党の大勝が予想されるというのは、政界の現状を見れば半ばうなづけることでもありますが、日本はそれでいいのかと考えるとこれは大いなる疑問です。疑問どころか大問題です。

 けれども、日本はそうなる。それもナチス・ドイツと同じく「選挙を通して」そうなります。冷戦後の「戦後50年」にあたった1995年あたりから、さまざまな論議や事件がありましたが、その結果20年後に日本は安倍晋三のような人物が首相となる国になったのです。

 彼らは20年かけて周到にそれが可能になる基盤を日本の社会に植え込み、たくみな世論誘導と組織化、そして「空気」作りで今日の状況を作ってきました。残念ながら、それに対する備えが貧弱だった(あるいは誤っていた)というのが実情でしょう。

 日本社会を解体し、民をガリー船の漕ぎ手として使い捨て、その上に自分たちが統治者として君臨しようとするこの政権は、まったく「伝統的」などではない、むしろ国を亡ぼす政権と言わざるをえません。
 
 たしかに、「国破れて山河在り」という詩句があります。長い間、そう思って滅びの後にも国の再建を夢見ることはできました。けれどもじつは、国破れた後も山河が残ったのは第二次大戦までのことです。今では「残る山河」はないでしょう。というのは、自然は放置された放射能で汚染され、食糧自給も放棄しようというこの国の民は、TPPで入ってくる安価な遺伝子組み換え食品で、最後の体までも汚染にさらさなければならない。そして資源のすべては外国資本に買われて、山がもたらすはずの水も空気ももはや庶民の手に届くものではなくなってしまいます。
 
 それが安倍政権の垣間見させる「亡国」の未来です。けれども有権者は総体としてこの政権に「大いなる信任」を与えようとしています。そうさせないための手立てはほとんどないのですが、何もしないわけにはいきません。たとえば「さよなら安倍政権、自民党議員100人落選キャンペーン」(http://ouen100.net/)などの情報を有効に活用し、この「亡国首相」に辞めてもらう状況を追及するしかないでしょう。
 
 日本社会はなぜこうなのか、あるいはなぜこうなってしまったのかを、崩壊の粉塵のなかでとくと考えてみなければなりません。

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☆再開最初の文章がこんなものになってしまいましたが、こういうことしか言えない時だからこそ再開するということです。
 
☆上記の『世界』1月号の「特集2、戦後70年」にわたしも「重なる歴史の節目に立って、戦後70年と日本の"亡国"」を寄稿しています。これも併せて参照いただけたら幸いです。

「無法」な国壊し、規範の液状化へ2014/07/05

☆共同通信文化部から以下の所見が7月2日に全国の地方紙に配信されました。もういいと思いますので、ここにも掲載します(7月5日)。


 とうとう安倍晋三内閣は「集団的自衛権行使」容認の閣議決定に踏み切った。特殊用語で分かりにくくなっているが、要するにこれは、同盟国の戦争に参加する権利ということだ。近隣に友好国をもたない日本にとっては、実際にはそれは米国のする戦争を手伝うということだが、土壇場のねじ込みで国連の集団安全保障に基づく武力行使への参加にも道を開くものになった。

 憲法の縛りを解いて自衛隊を海外に出す。その動機には二つある。ひとつは日本の「貢献」を求める米国が、湾岸戦争やイラク戦争への派兵を強く求めたこと、もうひとつは安倍政権がともかく戦争のできる軍隊を求めていることだ。日米双方の意図にはずれがある。米国は日中の対立に巻き込まれたくはないだろうが、自国による世界統治に協力する兵力が欲しい。安倍政権はそこに付け込んで、中国に対抗すると同時に、資源確保や国際安全保障への参加などを理由に「日本軍」の世界展開をも視野に入れている。

 ともかく「集団的自衛権」の一語でそれを可能にしようというわけだ。

 だが、何と言っても由々しいのは、閣議決定だけで憲法の中身を変えてしまうことだ。「戦争はしない」ということを「できる戦争はやれる」と解釈することはできない。だから安倍政権は改憲を掲げてきた。だが正式な憲法改正が困難とみて、変更要件を緩めようと九六条改正を持ち出した。それが総スカンを食うと、今度は閣議決定での「解釈変更」だ。だがこれは違法であるどころか「無法」だと言わざるをえない。

 憲法は国の基本法で、政府・内閣こそがまず第一に順守の義務をもつ。そのことも憲法に定められている。それに、じつは憲法とはこういう内閣の専横から国民を護るためにこそあるのだ。ところが、そのすべてが空文化される。明日からこの国では憲法の文言にかかわらず、内閣の「解釈」しだいで何でもできることになり、国民は無法な権力の恣意に翻弄されるようになる。日本はそんな規範なき「無法」の水域に入ったのだ。

 政府が率先して社会規範の鑑である憲法を捻じ曲げる。すると社会は規範の液状化を引き起こしかねない。だからさすがにこれまでの内閣は「解釈改憲」を禁じ手としてきたのだ。

 安倍内閣は二言目には「国民の生命と財産を守るため」と米合衆国憲法をまねて言う。だが、現在の世界で戦争をすることで平和はつくれない。十二年経ってもますます混迷を深めるイラクの情勢がそれを示している。そんな米国の戦争に率先参加することになったら、日本は「武器なき貢献」で築いてきた国際的な信用を一気に失うだろう。それが「国民の安全」のためになるというのだろうか。

 この内閣はむしろ「国民の安全」を脅かし、それを質にとって国の軍事化を図っている。対外関係だけでなく、福島第一原発事故も無かったかのように、再稼働を画策するばかりか原発輸出に精を出し、企業の競争力とやらを口実に多数の国民の労働条件を劣悪化させ、消費税を上げる一方で企業減税だけは進めようとする。これでは「一将功成って万骨枯る」の無法な国造り、いや国壊しと言うべきだろう。

 このような「無法」に流されないため、まずは閣議決定の無効をあらゆるかたちで追及しなければならないし、何が「安全」を保障するのかをとくと考えねばならない。