安倍政権という「存立危機事態」:「敗戦」への道2015/07/12

 7月8日(水)の毎日新聞がいまの日本の問題を端的に伝えているようで印象的だった。

▽森オヤジの「戦艦大和」
 
 この日の1面は「新国立 2520億円案了承、有識者会議 895億円増、10月着工」という記事に「現実直視し変更決断を」という「解説」がついている。そしてページを繰った3面には「クローズアップ2015」では「展望なき原発回帰、川内核燃料装着」「避難計画"甘い"、火山対策も急務」「核のごみ 行き場なく」等の記事で埋まっている。(この日の他の大きなニュースは「ギリシャ今日新提案」、なでしこジャパンの「笑顔の帰国」等) 

 来週15日あたり、衆院特別委での「安保一括法案」の強行採決がすでに規定事項のように伝えられ、火急の関心はそちらに向けられるが、実は上記の二つの案件は、この安保法制を強行採決しようとしている安倍政権の統治のやり方が露呈した体表的な二つのケースになっている。
 
 新国立競技場は、三年前にコンペでデザインが選ばれてから(ザハ案)、さまざまな問題が出てきた。まずは当初1300億程度とされていた新競技場が、実際には3000億近くかかるとわかり、当初のデザインが縮小されたて、いろいろにつじつま合わせをした結果がこの2500億という案になった。だが、オリンピックのメーン会場としてだけでなく、その前年に予定されているラグビーのW杯の会場に使うし、その後の維持経費をねん出するためにコンサート会場にも使えるよう開閉式の屋根を付けねばならなず、そうするとまた経費が嵩むとか、先送りにされている問題はごまんとある。

 この間、予算や規模や景観の問題が大きく取り上げられて、反対の市民運動が展開され、旧競技場を生かして改装する案も建築家の槇文彦グループによって提案されてきた。ところがそれをいっさい無視して旧競技場は解体されてしまい、今では新競技場を作るしかなくなっている。そして先日、JSC(日本スポーツ振興センター)の専門家委員会で、現行案で行くことが決定され、工事が発注されるという。

 巨大すぎて構造も特殊、保存されてきた神宮外苑の緑地を大きく壊し、他の例と比べても破格の費用がかかる(この間、五輪のために各国で作られた競技場の5個分以上)。東日本大震災からの復興にかこつけた「コンパクト五輪」の理念からも外れるし、財政状況を理由にさまざまな予算(とくに福祉・社会対策の予算)が削られているときに、これは浪費ではないか、それにこの建物は無駄な公共事業と同じで、後で財政負担を生み出す「負の遺産」になりかねないとも言われている。

 JSCは文科省の管轄だが、文科省はこの間、国立大学の運営交付金を大きく削っているだけでなく、学生たちはいま卒業するときにサラ金まがいの育英会に400~600万の借金を負っている状況だ。それも劣悪な学生支援体制のせいだ。その文科省は、予算の目処がないため、足りない分は「スポーツ籤」でまかなうという。教育の元締めが、みずからの事業は「賭博」で賄うというのだ。

 コンペの審査員を務めた建築家の安藤忠雄は雲隠れ、それでも五輪組織委員会会長の森喜朗も安倍首相も、間に合わないからこれで行くしかないという。
 
 誰が考えてもおかしく不合理でバカげた計画、それが「斬新だ」とか「巨大事業になる」とかいった気分(利権?)だけで決められ、少数の「有力者」の恣意と都合と利権に遠慮して、誰も「再考」すら提起できないまま、「国家的事業」として実施されようとしている。どこに責任があるのかも分からない体制で、「国策」の神輿をみんなが担いで破たんに向かって突き進んでゆく。そしてJSCの河野会長も、安藤忠雄はじめとする専門家たちも、五輪組織会長の森喜朗も、文科相も、誰ひとり責任をとろうとしない。

▽懲りない「敗戦」への道

 それどころか、この二年半の迷走と頬かむりをよそに、安倍首相はプランが決まったのは民主党政権時だと、またまた民主党のせいにしようとする。この性悪が日本の政府のトップに立っているのだ。
 
 これこそが、太平洋戦争突入の構図だったのではないか。破綻の明らかな計画で、「世界一」の巨大戦艦大和や武蔵を建造するが、結局それは大量の資材と人員を道連れに撃沈されるために作られただけだった。
 
 原発再稼働も同じような状況だ。政府官房長官の菅は「規制委が安全性をチェックし、再稼働の可否を判断」と言い、規制委(安全委)の田中委員長は「新基準に適合しているかどうかを判断するだけで、再稼働の可否には関与しない」と言い、立地県の鹿児島県知事は「政府が責任をもって判断する」と言っており、その影で経産省と電力会社は「粛々と」準備を進め、「ようやくここまでもってきた」と言っている。
 
 これが、「戦争法案」を遮二無二通そうとする安倍政権下の統治態勢なのだ。あれだけの原発事故があり、事故処理にまったく目処も経っていないのに(汚染水、デリブの行方、おさまらない放射能拡散)、放射能基準値まで上げて非難住民に帰還圧力をかけ、外見だけを繕おうとし、その目くらましで「アンダーコントロール」と世界に嘘をつきながら東京五輪を招致したが、そのメイン会場すらまともに作れない。そして各地で、住民の不安や抗議をよそに、「企業が活動しやすい社会」作りに精を出して(ただし誰も責任をとらないかたちで)再稼働を押し通そうとする。
 
 これこそが「敗戦への道」であり、アジア太平洋戦争でも、福島第一原発事故でも繰り返された日本の恥ずべき統治態勢である。いまこれが「復興」しているのは、福島原発事故に関して、ずさんな管理体制を推進放置してきた政治家、官僚、企業(東電)、学者の誰一人として責任を問われなかったからである。統治者が責任を問われないという態勢のうまみが、この間改めて認識された。そしてその態勢を制度的に保証するものとして「特定秘密保護法」が活用されるのである。この法律は、為政者のすることを外部に漏らしてはいけない、それは永久に闇に葬れる、証拠は挙がらない、ということに大いに役に立つ。
 
 「安保=戦争法案」が憲法違反だと批判されることに対して、金科玉条のように持ち出されるのは「現実の中国の脅威」ということだ。学者の言うことを聞いていたのでは対処できない緊急の要請がある、というのが脅しの決まり文句だ。
 
 とはいえ中国の台頭というより大国化はいまに始まったことではないし、それは抑えることができない(あの領土、人口)し、中国の「成長」は世界経済の牽引車として世界から求められてもいる。だからアメリカでさえ、その中国と世界統治のパートナーとしての関係を作ろうとしている。日本もその状況の根本変化に総合的に対応しなければならないのだ。それを一部の勢力は、この百年間の「中国蔑視」あるいは「敵視」の構えに凝り固まって、アメリカにすがって軍事的にのみ対応しようとしている。そして「中国の脅威」を煽っている。
 
 だが、実際には「日本の危機」は国内に、つまりこのずさんで無責任な統治態勢そのものにある。新国立競技場の計画推進も、原発再稼働の推進も、誰が考えても(まともに考えれば)「破綻」や「自滅」の明かなずさんな「国策」で、それでもそれが推進されてしまうのは、今の権力者たちにとってとりあえずそれが「得策」だし、誰も責任をとらなくてすむ仕組みになっているからだ。ほんとうにまともな「国策」なら、誰かが自分の手柄を先取することだろう。だが、誰も責任を取らない。だから進められるのだ。

 こういう態勢で戦争することになったらどうなるか?それはもうやったことがあるから明らかだ。「国策」だからと何かが動かされ、結果の破綻はすべて「国民」が負うことになる。財政的な負担も物理的・身体的な負担もだ。
 「国破れて山河在り」とかつては言えた。だが、今度は「山河」も残らないだろう。この「亡国政権」を君臨させていること自体が、いまの日本の最大の危機であることは間違いない。

SEALDsの「民主主義ってなんだ?これだ!」2015/07/16

 いまSEALDs(Students Emergency Action for Liberal Democracy -s:自由と民主主義のための学生緊急行動)という若者たちのグループが注目されている。

 今年の5月からSEALDsを名乗るようになったが、不意に出てきたわけではない。一昨年の秘密保護法の強行採決や去年の集団的自衛権容認の閣議決定などに、これはひどいことになると危機感をもち、学生有志でSASPL名で活動してきた(「秘密保護法に反対するがくせい有志の会」)。それがこの春、ヴァージョンアプして本格活動を始めたのだ。

 今までの政治運動とはまったく違って、どんな組織や思想潮流とも関係がない。自由な発想に立っている。だが、今の日本、とりわけ安倍政権が代表する日本の政治が、若い世代の「ふつうの生活」の土台そのものを巻き込んで、彼らの「未来」を奪い去ろうとしていることに、肌身で危機感を抱き、それを不当だと感じる者たちが集って、自分たちで新しい運動を始めようと立ち上がったのだ。

 その思いを集約したのが「民主主義って何だ?」という疑問だ。この国は民主主義のはずなのに、自分たちが主役のはずなのに、こんなことになっていいのか?いい加減の、カラクリだらけの選挙で議席さえ取れば、勝手に「国民」を巻き込んで何でも決めていいのか?馬鹿にするな!だったらここで「民主主義をやってやろうじゃないか! これが民主主義だ!」と。

 それがこの運動の核だ。"This is what democracy looks like".

 「平和」という語をちりばめた「戦争法案」は、日本を「戦争ができる国」にするというが、そのとき「戦争」に駆り出されるのは若者たちだ。だが「戦争をしたがる」政治家や官僚は「大本営」で座って命令するつもりでおり、戦争することを自分たちの「手柄」にしようとする(失敗したらそれは「国民」のせいにされる)。そのうえ、若者がいやでも兵隊にならなければならないように、失業や派遣労働でブラック企業を蔓延させ、おまけに奨学金までサラ金化して追い込んでいる。

 ふざけんな!ということだ。「国際情勢の変化」とか言って中国との対立を煽るが、近隣諸国と仲良くするという最良の「安全保障」の努力はは全くする気がない。そんな政治家の陰で、外務省は誰のために働いているのか、ということだ。国外に危機があるというが、最大の危機はこんな「亡国」政権を作ってしまった日本の内にこそある。

 そしてかれらは「絶対止める!民主主義ってこれだ!と見せてやる」と本気で構えている。ここも従来の組織的運動と違うところだ。強行採決なんかやっても、社会の空気を変えて、安倍政権を屋台骨から崩してやる、と考えている。「民主主義ってこれだ!」と。

 彼らの姿をみていると、こんな若者たちを最前線に立たせて申し訳ない、と年寄りは思うが、そんな年寄りの冷や水も排除しないどころか、分裂しがちな年寄りやその組織のすべても「尊重」し、自分たちが繋ぎになってすべての力を「生かして」ゆこうとする。謙虚さと自負とがひとつに溶け合った、そんな「柔らかさ」が彼らにはある。そして「あたりまえ」に、誰より日本の社会の問題を感じとってもいる。それを克服するために、雨の日も風の日も、不退転で場を作り、「大人」たちも迎え、声をからして叫び続ける。オレたち、ワタシたちは本気だ!と。
 (*昨日15日の夜の集会でも、「大人」たちが国会前を埋め尽くす人びとの前でスピーチ"させしもらって"いた。だがその中に、エラそうな人もいた。自分たちはタタカッたつもりかもしれないが、若者たちに説教垂れようとする。でも、ここに集まっている連中を前に言うなよ!というたぐいの話だ。来ていない者に言えというたぐいの。そんなオマエに発言の場を作ってくれているのはこの若者たちじゃないか、カエレッと怒鳴りたくなったが、イケナイ、仲間割れはやめようと控えた。)

 「言うこと聞かせる番だ、オレたちが!」
 この力を、この若芽を、何が生み出したのか?寝ているようにも見えた日本国憲法という畑であり、それが曲がりなりにも作ってきた社会だ。もちろんそれは満身創痍でもある。だが、それでもこの畑はいまの若者たち、「民主主義って何だ」と声をあげる若者たちを生え出させた。だからこそまたかれらは、憲法の根幹が破られるのを本気で止めようとしているのだ。それはかれら自身の生きる土壌だから。
 あるいは、萎れかかったように見えた憲法は、いつの間にかこんな若者たちを育てていた。
 
 今の状況を切り開いているのは明かにSEALDsの若者たちだ。もちろん他の年季の入った大人たちの団体もあるし、3・11以降のさまざまな市民運動の働きもある(反原発運動とか、1000人委員会とか立憲フォーラムとか、もう少し若いところではピース・ボートとか東京デモクラシー・クルーとか)。その尽力もたいへんなものだ。とはいえ、SEALDsの若者たち(そしてこれをきっかけに、札幌などで始まった運動を担う人たち)は、掛け値なしにこの国の「未来」だ。

 できることは多くないが、傍らから全力で支援したい。
*SEALDsホームページ:http://www.sealds.com/
*SEALDs作「6分でわかる安保法制」https://www.youtube.com/watch?v=rBf8v26L47c (Youtubeで削除されるようですが、探せば見つかります)

*一昨日、「安保法制に反対する学者の会」の末席にいる者として、世話人の浅倉むつ子さんと岩上安身のIWJが始めたライブ放送に出演して、「学者の会」の各党申入れの模様や、札幌での「戦争したくなくしふるえる!」の運動などについて話した。当分の間ウェヴで視聴できると思います。よろしかったら…こちらから。
  http://iwj.co.jp/wj/open/archives/253137

派遣法改悪(論考2015-④)2015/07/19

「派遣法改正案の早期成立、経済界が要望」と報じられています。会期が長引いたことをよいことに。この件について、共同通信「論考2015」の4月配信で書いたことを遅ればせに掲載します。
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◎〝戦後の反省〟繰り返すな/削られる労働者の権利

 桜も散り始めるころ、政府は「残業代ゼロ法案」を閣議決定した。一定以上の収入で働く専門職を従来の労働時間規制の対象外とする新制度を盛り込んだ労働基準法などの改正案で、「定額使い捨て」とも「過労死促進」とも揶揄される。

 時間ではなく成果に応じた適正な報酬、定時に縛られない柔軟な働き方、というのがうたい文句だが、しばらく前に取り沙汰された「労働特区」での「解雇規制の緩和」と同じく、働く者のためというよりも「企業が最も活動しやすい国」にするための方策だ。

▽労働も経営?

 8時間労働とか残業に対価を払うとか、恣意的に解雇できないといった企業への〝縛り〟は、働く者の権利として100年以上かけて獲得されたものだ。それが今では「経済成長の障害」のように宣伝され、切り崩されてゆく。背後には「産業界の要請」がある。

 経営側は、市場社会では労働者も実は自分たちと同じなのだと言う。労働者は身体的・知的能力という「資本」をもち、それを活用する経営者なのだと。だから労働者には、報酬に見合う良質の労働を提供する義務があり、ライバルとの価格競争に勝たなければならない。それができないのは才覚や努力に欠けるからで、市場で淘汰されて当たり前という理屈だ。その延長上に「過労死は自己責任」といった暴論まで飛び出す。

 こうした論理は、個人と企業とを同じ土俵に立たせようとする。だが、生きた人間は疲れ、飢え、死ぬこともある。対して法人は、腹もすかせないし、痛みを感じることもない。株主の利益だけを考え、無情かつ貪欲に人を買いたたき、使い潰すことができる。失敗したら解散するだけだ。

 ところが最近は、この強者と弱者の構図を転倒させた詭弁がまかり通る。「労働」が商品として扱われるようになって久しいが、企業は今や「労働という名の商品」の消費者のごとく振舞い、消費者の利益は保護されねばならないとうそぶく。これほど狡猾で非人間的な「消費者保護」もない。

▽生きる糧

 人間が生きるということは、人びととの関係の中で何らかの「働き」をすることである。その「働き」が人を社会につなぎ、生に内実を与える。ところが、産業化された社会では、生の営みが「労働」という名で切り売りされ、人びとは雇われないと生きてゆけない。現代社会では「雇用」が人間の死活に直結する。

 社会の仕組みがそうなっている以上、働くことは人びとの基本的な権利として認められ、保護されなければならない。でなければ人は孤立し、自分の存在にも社会のあり方にも価値を見いだせなくなる。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユにならって言うなら、働くことは「糧」なのである。働いて糧を得るのではない。働くこと自体が人を生かし、養うのだ。

 だが今、その余地がギリギリと削られている。グローバル競争のなかで企業は、利潤以外の目的や社会的役割を顧みなくなった。人件費は負担だから極力切り詰める。それを政府が後押しする。

 システム化した産業社会は元来、人の労働を「扱いにくく脆弱」とみて極力排除してきた。利便性や合理化の名のもとに、人の働きは機械で置き換えられ、IT化がその傾向に拍車をかけた。だから、労働者は機械とも競争しなければならず、働ける領域はしだいに狭まってゆく。それを進歩による「労働からの解放」だと言って喜べる人間はいないだろう。

▽平和に必要

 人権の確立や労働条件の改善、社会正義の促進を目的とした国際労働機関(ILO)というものがある。銘記すべきは、この機関が第1次大戦直後に設立され、第2次大戦後の国連創設の際にも最初の専門機関となったことだ。それは社会の大多数を占める労働者の地位改善が、社会の安定や繁栄、ひいては戦争の回避に不可欠だと考えられたからだ。裏を返せば、労働状況の劣化が社会や人心を荒廃させ、各国を戦争へと向かわせたという切実な反省があった。

  問題は、反省がいつも「戦後」になされることだ。その世界的な反省を、日本の現政権は「規制撤廃」の名のもとに無に帰そうとしている。われわれはまた〝戦後の反省〟を繰り返すのか。

「戦争ができる国」を牛耳るのは誰か2015/07/25

昨日発売の「図書新聞」(8/01付)、「特集:戦争法案に反対する」に寄せた一文です。編集長の須藤さんが、夜の国会前の集会で配っていたとか(五野井郁夫さんによる、写真も)。急遽頼まれ、「談」のかたちで書きました。京都の藤原辰史さん、岡野八代さん、沖縄の新城郁夫、阿部小涼、笠井潔に細見和之、みんなコンパクトなパンチのきいたものを書いています。おすすめ!
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 今回の「戦争法案」ほど邪悪な意図で作られ、騙しの手口で無理押しされようとしている法案はないでしょう(←政府がこういうことしちゃアカン)。だいたいこれには「平和安全法案」とか「国際平和支援法」とかの名前が付けられていますが、まず虚偽表示で、普通なら「ガサ入れ・逮捕」ものです。もう誰もが知っているように、これはアメリカの戦争に自衛隊を世界中どこでも派遣できるようにする一括法改正なのだから。

 「隣国」アメリカの火事を消すためとか言うけれど、アメリカは自分のところにボヤが出ると、火元を断つと言って地球の反対側にまで火を付けてまわる放火魔です。自衛隊は消防車を出すどころか、もう息切れしているその放火魔の助っ人になって、砂漠にまで火を付けに行くというわけです。

 安倍首相のような連中が、そこまでアメリカの手伝いをしたいのは、そうすれば戦争に完敗した日本が堂々と軍隊をもてると思っているからですね。軍隊さえあれば一人前、というつもりのようだけれど、アメリカが認めなければ軍隊はもてないわけ。それを「日米同盟」で「対等の関係」というのも倒錯で、実質的には米軍に組み込まれてその下請けになるだけですね。

 けれども日本の今の支配層(政権を作り支えている連中)がそれを「隷属」と思わないのは、彼らの父祖(戦前の統治層は、敗戦後のアメリカへの身売りで責任を免れて多くは生き延びている)が二十世紀前半に中国を足蹴にして食い物にしてきた過去のトラウマで、この最大の隣国を敵視しかできないという抜きがたい観念に固まっているからです。だから彼らの頭の中では、日本列島はアジア大陸周辺にあるのではなく、背中を丸めたエビのようにカリフォルニア沿岸にぶっ飛んでしまっている。

 よく「戦争ができる国」と言われますが、それは法制度上のことで、その「国」を誰が牛耳るのかを見ておかないといけません。今グローバル経済の効果で世界中どこでも国の階層化が進んでいて、各国の統治層同士はグローバル市場で利益を共有し、国内には貧富の差がひどくなって階層が拡大再生産されている。そのコントロールが課題なわけですが、国家は事実上グローバル化で利益を吸い上げる連中の乗り物になっています。そこで振り落とされる階層を糾合するために、「悪の元凶」を外部に見立てて戦争態勢(これがいま「安全保障」と呼ばれています)が作られる。

 日本の場合はそれが「美しい国」と見立てられますが、そのモデルは明治でも大正でもなく、「殉国美談」で粉飾された昭和戦争期の日本です。皆が進んで「御国」のために身を捧げ、その上に統治者たちが君臨する「ヤマト」の国ですね(自民党の改憲草案にはっきり表れています)。でも、世界から見ると「カミカゼ」が特攻する狂気の国です。

 つまり「戦争ができる国」というのは、統治者たちが「わが軍」といって使える軍隊をもち、うちも軍隊を出せますよと言って、国民がアメリカの戦争に送り込まれる、そういう国です。「戦争ができる」のは統治者だけで、国民はその「弾」になるだけです。

 だからいまの政権や、それに乗りそれを支える財界人や官僚などの統治層は、いかにも国家優先のようなことを言いながら、高齢化社会にもまともに対応せず、TPP推進で明かな「売国」協定を目指し、それでも自分たちが「国益」を守るようなことを言いますが、実際は彼らは日本という国を自分たちの都合だけで横領しているのだと言った方がよい。

 安倍政権はそのためのあらゆる施策(ほとんど「亡国政策」としか言いようのない)を進めています。その要になっているのが「安保法制」です。「国の形」に直に触れる法案ですから。だから、大震災と原発事故の結果をすべて民主党に押しつけてアベノミクスの幻想で、まんまと衆議院で三分の二をせしめた今しかないとばかり、強引な「解釈改憲」でこの法案を押し通そうとしています。

 ところが、その統治体制が、「アンダーコントロール」の大嘘で引っ張ってきたオリンピックのメイン会場ひつと作れない、無責任迷走状態。原発再稼働も、辺野古新基地無理押しも同じです。もう屋台骨が崩れかけているのに、それでもこれらすべてを押し通そうとしている。

 戦後七十年目にしてこのような極悪の政権ができることによって、かえって、第二次大戦での敗戦の意味とか、「非戦」を規定した戦後憲法の意義とか、日本のいわゆる「戦後レジーム」というもののカラクリも、剥き出しでよく見えるようになった。そして今まで、護憲か改憲かで論じられていた憲法も、憲法があることそのものの意味にまで立ち戻って考えられるようになりました。その意味で現在の「危機」は、日本にとってきわめて啓発的な「危機」だということができるでしょう。(談)