学者もときに役に立つ2015/06/07

 昨日(6月6日)の「立憲デモクラシーの会」の講演会+シンポジウムは、開場前から多くの人々が集まり、500人規模の法文一号館25番教室はすぐに満杯、今回ホスト役だった石川健治(法学部教授)さんが事務方に掛け合うなど奔走して急遽二つの部屋を開放、ネット中継に来ていたIWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル)青木さんの即席の協力で、映像と音声を流せるようにした。毎日新聞の報道によれば参加者は1400人ほどだという。

 主催者の予想をはるかに超えるこの盛況は、数日前、朝日新聞に講演者の佐藤幸治京大名誉教授のインタヴューが載り、そこでこの催しが告知された効果もあったが、何といっても6月4日の衆議院憲法調査会の参考人質疑で各党から推薦された3人の憲法学者が、与党推薦の長谷部恭男早大教授を含めて全員が、今審議されている安保法制を「違憲」と明言したことの効果だろう。

 長谷部氏はたしかに、独自の立場から秘密保護法に賛成していた。だが彼は立憲デモクラシーの会の呼びかけ人の一人でもあり、憲法に基づく立憲主義の立場は崩さない。また民主党推薦の小林節慶大名誉教授は、改憲派の論客として知られていたが、最近の安倍政権の暴走に危機感をもち、立憲デモクラシーの会だけでなく、国民安保法制懇談会にも参加して活発に発言している。5日金曜から始まったSEALDs(たしか「自由と民主主義を守る学生有志の会」)の「戦争法案に反対する国会前抗議行動」の初回にも、雨の中駆けつけてスピーチしている。

 国会で安保法制が論議されている最中である。安倍政権は野党の追及に合って辻褄さえ合わせられずに次々とボロを引きずるが、それもものかわ、自民・公明与党の圧倒的多数で何でも通せるものと高を括り、19日強行採決といった日程も漏れ伝わっている。

 そこに参考人招致された憲法学者すべてからのレッド・カードである。国会審議はやり過ごせても、憲法の専門家たちがみなダメだと言っている。これを無視して突き進めば、さすがにこの政権も「無法ぶり」を隠せない。基本的な信用問題が満天下にさらされる。 

 これは政府をだいぶ追いつめることになった。めずらしく学者が役に立ったのである。「立憲デモクラシーの会」はあくまで「学者の集まり」としてやってきた。だから、今回の講演企画も、できることをやるという方針で、この間、自民党政権のもとで法制改革などを主導してきた佐藤幸治氏に立憲主義の何たるかを説いていただくようお願いしたのである。そして憲法学会なら瞠目するような樋口陽一、石川建治両氏とのそろい踏みを実現した。

 これはあくまで憲法学という学問上で意味のあることである。ただ、憲法を専門にする学者たちは、立場は違えみな共通にこう考えているということを、公共的に広めることが世論やメディアの現状理解に資することになるのではないかと、あえて学問的な議論の場を設定したということだ。

 そこに1400人もの人々が参加した。通常は年齢層が高いが、昨日は若い人たちも多かった。そして何より、佐藤幸治さんのような学会・法務行政の重鎮が、現状に対して強い危機感をもって、自らの務めとして熱を込めて「立憲主義無視」の無謀を説いた。

 佐藤さんの語ったことの肝は、憲法に基づく政治は「人類多年の叡智」、憲法は権力の恣意に制約を課す一国の基礎、日本国憲法もその所産、ポツダム宣言受諾は戦前の「立憲・民主」を目指した人々の精神の「復活と強化」という世界の意思、日本国憲法はすでに歴史になっている(歴史を作ってきた)、その大原則をみだりに変えてはいけない、等々。

 場所は、かって戦前の大学への政治・軍事介入を象徴する「天皇機関説事件」で教壇を追われた美濃部達吉が講義していた法文一号館の教室で、今年はその80周年にもあたっていた。そこで「学問」がもの言う催しが開かれたのである。この日は、ふだん「役立たず」をかこつ学者たちも、大ぜいの聴衆の熱気に支えられて紅潮気味だった。

 若い学生たちも、自分たちの未来を見すえて立ち上がっている。SEALDs の若者たちはこの日、毎週金曜日の国会前での抗議行動その他に向けて、別の場所で集まりをもっていたはずだ。

 民主主義=デモクラシーは選挙だけで終わりではない。選挙では「景気対策」だけを表に出す。だがひとたび議席を取ると、ひたすら戦争体制づくりに血道を上げる。福島がまったく不安定なまま放置されている(経営再建をめざす東電任せ、被曝基準を上げて住民帰還の強制 etc.)。「アンダーコントロール」と言ってもってきたオリンピックも、でたらめなメイン会場作りの混迷、そして一度破綻して立て直したはずの年金機構のずさんな管理、等々、そのすべてを放置して「戦争法案」だけに熱をあげている(陰で進めるのは、労働環境を劣悪化する「派遣法改正」と、国民管理のための「背番号制(マイ・ナンバーと言い換えている)」ぐらいだ)。ほんとうに日本が潰れてしまう。軍事妄想亡国内閣だ。そんな政権には何としても退場してもらわなければならない。

2015年6月14日、何かが起こった日2015/06/14

 山口二郎が国会前のすばらしいアピールで55年前の6月15日を想起させていた。今日は6月14日、まだまったくクライマックスではないが、この日は節目になる予感がする(いや、何かが起こったのは6月4日の衆院憲法審査会での参考人・憲法学者3人が一致して審議中の安保法制は「違憲」と明言したことからだが、その効果がはっきり表れてきた)。

 午後2時から国会を25000人が取り囲み、安倍政権の「違憲立法」を弾劾する集会が開かれ、渋谷の宮下公園では午後5時から若者たちのグループSEALDsの呼びかけで3500人が集まり、日曜夕方の渋谷の繁華街を「アベ辞めろ、戦争反対」を叫んで行進した。

 国会包囲の人の環の厚さもなかなかだったが、そこには安倍政権への抗議の意志をもつ人びとだけが(それと機動隊が)集まっていた。組織の旗もいろいろある。ただ、アピールもそこだけにとどまる。

 ところが渋谷では、いっさい既存の組織に頼らない学生たちが呼びかけたにぎやかなデモを、道行く人びとが何ごとかと振り返っていた。外国人観光客もいる。みんな日本にはデモなどないと思っていただろうし、安倍政権なんてどこ吹く風で遊びに来ていたのだろう。そんな街を行き交う人たちが振り返る。えっ、そんなのあるんだ、アベっておかしいのかな、と思いだしたらめっけものだ。若者たちの行動はそんな「感染」や反応を引き起こしす。国会前からもかなり大人たちが流れていた。その大人たちにはどこかに諦めがないとは言えないが、若者たちは「本気で止める!」と言っている。そしてそのための行動にためらいがない。この行動には期待したい(期待というのは、ただ眺めるのではなく、支え手伝うということだ)。

 その日の7時のNHKニュース、拉致被害者家族集会、安部・橋本の悪巧み会談、そして香港での反政府デモ、それに大集会でもヒラリー・クリントンの出陣集会…。東京や京都(いや、この日、九州・四国・名古屋など、全国各地で集会があった!)での大集会は無視するが、中国の反政府デモは報道し、アメリカの大集会は報道する。あまりに露骨な報道選択で、ここまでくると、NHKの報道部もあからさまに安倍の言うとおりにすることで逆に、「検閲・自主規制」やらされてるんだよ、とアピールしているのかと思えてくる。

 だがその後で、NHKスペシャルの『沖縄戦全記録』を放映したのはよかった。内容は今のNHKでできるギリギリだろう。一方で、沖縄戦を記録した米軍のフィルムがあり(沖縄戦に50万の兵員を動員した米軍は、記録用に大量の撮影班も動員していた)、糸満市の住民の死亡記録があり、さらに復帰時に多くの人が初めて沖縄戦時のことを語った1000本に及ぶ録音テープが見つかった。そのすべてを使っての「全記録」だ。

 米軍攻撃の「無差別性」の強調や、日本軍の住民の関係に関する及び腰の言及など、これまでの「沖縄戦ドキュメンタリー」に較べて食い足りない点もあったが、それでも4月1日の米軍上陸から6月23日の組織的戦闘の終息まで、日毎の住民の死者数を軸にした状況の流れの跡づけは、沖縄戦の悲惨とその問題を浮かび上がらせるに十分だった。

 沖縄戦では、台湾防衛に兵力を割いた第32軍の兵員不足を補うために2万を超える住民が徴用されるが、その即席の兵士たちは銃器ももたず、竹やりと手榴弾だけで「斬り込み」に行かされたという。住民はいわば軍の「消耗品」として「自爆攻撃」を強いられたということだ。14歳以上の中学生も動員された。

 これは現在の国際標準用語でいえば、「カミカゼ」つまり「自爆テロ」だし、悪評高い「少年兵」だ。日本軍は住民にも「軍民一体、一人十殺」を要求して(とくに伊江島での話)「カミカゼ」をやらせていたのだ。何のことはない、当時の日本こそ「テロ国家」だったのではないか。死んだら「天国と70人の美女」とは言わないが「靖国に祀る」と言い、住民に竹やりと手榴弾で突撃させ、「人間の盾」にもする。そして「集団自決」も、お国のために進んで身を犠牲にしたとか、家族への「愛ゆえに」(曽野綾子)とか言い飾り、住民や下っ端兵士には「玉砕」を命じて自分たちは生き延びる。なるほどそれは支配層には「美しい国」(「神の国」)だろう。まったくイスラム国(IS)やアフリカのボコ・ハラムと同じではないか。

 こうして沖縄戦をよく見ると、当時の「大日本帝国」が今で言う「テロ国家」に成り果てていたということがよくわかる。安倍政権があらゆることを押しのけて実現しようとしているのが、そんな「テロ国家」だということにあらためて気づかせてくれただけでも、この番組は秀逸だったと言ってよい。

 一方で報道部は露骨に安倍政権の広報局になりきることでその現状を露呈させ、他方で制作部はできるかぎりのことをやっている。そうなるとやはり、NHKであれ何であれともかく個々のジャーナリストには頑張ってほしいと思う。

「講演はついに訪れず」―沖縄①2015/06/25

6月23日の沖縄・慰霊の日をはさんで、21日(日)から24日(水)まで沖縄に行ってきた。沖縄戦が表向き終わったこの「慰霊の日」に沖縄にいたことがなかったので、70年目の今年はぜひと思っていた。21日から行ったのは、この日70周年を記念して琉球新報社が岩波書店との共催で大江健三郎さんの講演会を企画していたからだ。

大江さんは復帰前の1970年に『沖縄ノート』を発表しているが、2005年、渡嘉敷島の「集団自決」をめぐるわずかな記述をめぐって、当時の島の守備隊長の遺族などから名誉棄損で版元の岩波書店とともに訴えられ、2011年に最高裁で大江さん側の勝訴が確定した。この裁判には「新しい歴史教科書を作る会」「自由主義史観研究会」など、「歴史修正主義」を担ってきた諸団体メンバーが原告側顧問をつとめており、この裁判も今日の安倍政権を作り出す一連の運動の一環で、大江さんはその標的にもなってきた。

だがじつはこの件の記述はごくわずかで、半世紀近く前に書かれた『沖縄ノート』は、「復帰」後「合法性」によって粉飾され、今日まで続く沖縄と日本との「統合・支配」の問題に、「ひとりの日本人」として全身で向き合い、これに真摯に応えようとした稀有の記録である。今読んでも、いや今読んでこそきわめてアクチュアルだと思われる。

日本全体が大きな曲がり角にさしかかっている今年、70年目の記念にその大江さんを迎えて講演を待っていた多くの聴衆、沖縄の人びとだけでなく本土からやってきた多くの聴衆は、この半世紀の大江さんの総括をどう受け止めるのかを自分自身の指標にもしたいと思っていたことだろう。

だが残念なことに、大江さんはついに演壇に立つことができなかった。前日、辺野古を視察してその光景を脳裏に焼き付けて講演に向かいたいというご本人の希望で、小船に乗り海上から埋立準備工事の現場を視察し、キャンプシュワッブ前にも立ち寄って、記者たちの質問に答える大江さんの様子が、開始を待つ講演会場のスクリーンに流されていた。

けれども、ただでさえ不調を伝えられる健康状態を押して、並々ならぬ思いで講演に臨んでいただろう――ひとりの日本人として沖縄の人びとの前で何が言えるのか、大江さんはつねに考えてきた――大江さんの体力は、真夏のような海の光の重さと余人の想像の及ばない内的な緊張に耐えられなかったのか、とうとう会場にその身を運ぶことができなかった。

琉球新報社の代表から中止が告げられたとき、会場には深い失望感が漂った。けれども多くの人びとが事情をそれぞれに推察したのだろう、満員の会場からは混乱もなく人びとが散開した。誰よりも失意を味わったのは他ならぬ大江さんご本人だろうということを、来場した人びとは理解していたのだと思われる。そして聴けなかった講演を、それぞれの持ち帰る空洞に問いながら、むしろ答えを出すのは自分たちなのだと思ったかもしれない。そう、大江さんはすでに問い詰めるだけのことを『沖縄ノート』で問い詰めている。

 「本土の柔な知識人の自滅」と揶揄する向きもあるかもしれないが、そんな批判も大江さんは先刻承知だろう。それでも「持続する志」である。そして「本土の柔な知識人」の末端に身を置く者としては、それでも、沖縄戦後70年のいま、大江さんが沖縄で何を語ろうとしたのか、せめて原稿のかたちででも読みたい気がする。

抑止と非戦(論考2015―⑥)2015/06/27

〇共同通信配信で「論考2015」という記事を月1回書いていますが、地方紙でしか読めないので、6月配信分をここに掲載します。「抑止力理論」と「テロとの戦争」の関係を取り上げたものです。
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 国会審議中の安全保障関連法案の根本には、抑止論がある。敵に攻撃を思いとどまらせるには「力」が必要で、「安全確保」「平和」のためには戦争に備える必要があるという理屈だが、相手も同じように構えるわけで、古今東西、戦争はそうした考えの果てに起こってきた。

 ▽恐怖の均衡

 この考えは核兵器の登場で極まる。1960年代に「相互確証破壊(頭文字から略称はMAD)」という、文字通り狂った理論が生まれた。相当量の核兵器とミサイルは敵国を完全に破壊しうる。核保有国同士がにらみ合うとき、敵の先制攻撃をしのいで反撃する能力を確保しておけば、たとえ自国が核攻撃を受けても、同時に敵国をも確実に破壊しうる。これなら敵も手を出せまい、というのがこの抑止論だ。
 敵も味方も全面破壊に至る脅威をもって、核攻撃を阻止する仕組みで「恐怖の均衡」と呼ばれた。狂気じみた考えだという思いは関係者の間にもあり、皮肉をこめて「マッド」と呼ばれていた。
 だがこの抑止論を無効にするもうひとつの「マッド」が出現した。9・11の「自爆攻撃」だ。
 抑止論は、敵対する双方がみずからの存続に固執することで成り立つ。つまり、生存への執着(哲学では「コナトゥス」と呼ぶ)がこの論の「合理性」の拠(よ)り所なのだが、その「合理性」を踏み抜いてしまう敵が登場した。彼らは生き残ろうとしない。捨て身だ。だから、近年の自爆攻撃も「カミカゼ」と呼ばれる。

 ▽監視と予防

 9・11が真の意味で衝撃だったのは、抑止論の合理性が崩れたからだ。だからこそ米国のみならず西洋世界は、この敵を「テロリスト」と呼び、自分たちと同じ人間とみることを拒み、「テロとの戦争」を始めた。「人間ではない敵」の殲滅(せんめつ)に向け、先端技術のすべてを投入した。IT化された爆撃、無人機(ドローン)、ロボット兵器…。
 「テロとの戦争」とは、抑止の効かない相手に対する終わりの見えない殲滅戦であり、当事国は外部の敵だけでなく、自国の社会の隅々にまで広がる不断の監視と予防を迫られる。それが抑止論とその破綻の末に行き着いた現在の「安全保障」である。

 ▽平和と非戦

 日本は第2次世界大戦で米国や中国と戦い、安倍晋三首相はよく読んでいないというポツダム宣言を受諾し「無条件降伏」するに至った。日本が戦争をする「権利」を放棄したのはそのためだ。「押しつけ」と言われるが、その責任は無謀な戦争を際限なく続けた日本の指導者たちにある。
 結果として日本は、「戦争をしない」という独自の構えをもつ国になった。もちろんそれは単独で可能だったわけではなく、中でも日米安保体制に守られていた。だが、50年代からの米国の強い要求にもかかわらず、日本が「戦争をしない」立場を守り続けたのは、歴代の政府がともかくもそれを得策と考え、国民が「平和」を強く望んできたからだ。その支えが日本国憲法だった。
 ただ、「平和憲法」はそれだけでは平和を保証はしない。それを実質化するのは「戦争をしない」つまり「非戦」という姿勢である。この姿勢は戦後70年にわたり、平和を望みながら戦争の絶えない世界で独特の存在意義をもってきた。核兵器の惨禍を知っているからこそ核武装しないというのも、他の国に核武装を思いとどまらせる唯一といってよい説得材料になっている。

 ▽文民が暴走

 抑止論は他国との敵対関係を前提とし、軍備で優位に立とうとする。だが「非戦」は戦争を排除する構えである。
 「非戦」は相手国との友好関係の入り口になる。信頼の場を開く。交渉や仲介はそこから始まる。日本が第三者である紛争においても意味をもつ。とりわけ軍事介入が引き起こした混乱の後では、そのような場を開くことが欠かせない。そこに「非戦」日本の「国際貢献」の機会がある。
 かつて自衛隊を作るとき、旧軍部の暴走のような事態を避けるため「文民統制」の原則が採用された。だがいまはむしろ「文民・文官」が暴走し、「軍」を自在に動かそうとしている。これはやはり異常な事態だと言わざるをえない。