派遣法改悪(論考2015-④)2015/07/19

「派遣法改正案の早期成立、経済界が要望」と報じられています。会期が長引いたことをよいことに。この件について、共同通信「論考2015」の4月配信で書いたことを遅ればせに掲載します。
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◎〝戦後の反省〟繰り返すな/削られる労働者の権利

 桜も散り始めるころ、政府は「残業代ゼロ法案」を閣議決定した。一定以上の収入で働く専門職を従来の労働時間規制の対象外とする新制度を盛り込んだ労働基準法などの改正案で、「定額使い捨て」とも「過労死促進」とも揶揄される。

 時間ではなく成果に応じた適正な報酬、定時に縛られない柔軟な働き方、というのがうたい文句だが、しばらく前に取り沙汰された「労働特区」での「解雇規制の緩和」と同じく、働く者のためというよりも「企業が最も活動しやすい国」にするための方策だ。

▽労働も経営?

 8時間労働とか残業に対価を払うとか、恣意的に解雇できないといった企業への〝縛り〟は、働く者の権利として100年以上かけて獲得されたものだ。それが今では「経済成長の障害」のように宣伝され、切り崩されてゆく。背後には「産業界の要請」がある。

 経営側は、市場社会では労働者も実は自分たちと同じなのだと言う。労働者は身体的・知的能力という「資本」をもち、それを活用する経営者なのだと。だから労働者には、報酬に見合う良質の労働を提供する義務があり、ライバルとの価格競争に勝たなければならない。それができないのは才覚や努力に欠けるからで、市場で淘汰されて当たり前という理屈だ。その延長上に「過労死は自己責任」といった暴論まで飛び出す。

 こうした論理は、個人と企業とを同じ土俵に立たせようとする。だが、生きた人間は疲れ、飢え、死ぬこともある。対して法人は、腹もすかせないし、痛みを感じることもない。株主の利益だけを考え、無情かつ貪欲に人を買いたたき、使い潰すことができる。失敗したら解散するだけだ。

 ところが最近は、この強者と弱者の構図を転倒させた詭弁がまかり通る。「労働」が商品として扱われるようになって久しいが、企業は今や「労働という名の商品」の消費者のごとく振舞い、消費者の利益は保護されねばならないとうそぶく。これほど狡猾で非人間的な「消費者保護」もない。

▽生きる糧

 人間が生きるということは、人びととの関係の中で何らかの「働き」をすることである。その「働き」が人を社会につなぎ、生に内実を与える。ところが、産業化された社会では、生の営みが「労働」という名で切り売りされ、人びとは雇われないと生きてゆけない。現代社会では「雇用」が人間の死活に直結する。

 社会の仕組みがそうなっている以上、働くことは人びとの基本的な権利として認められ、保護されなければならない。でなければ人は孤立し、自分の存在にも社会のあり方にも価値を見いだせなくなる。フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユにならって言うなら、働くことは「糧」なのである。働いて糧を得るのではない。働くこと自体が人を生かし、養うのだ。

 だが今、その余地がギリギリと削られている。グローバル競争のなかで企業は、利潤以外の目的や社会的役割を顧みなくなった。人件費は負担だから極力切り詰める。それを政府が後押しする。

 システム化した産業社会は元来、人の労働を「扱いにくく脆弱」とみて極力排除してきた。利便性や合理化の名のもとに、人の働きは機械で置き換えられ、IT化がその傾向に拍車をかけた。だから、労働者は機械とも競争しなければならず、働ける領域はしだいに狭まってゆく。それを進歩による「労働からの解放」だと言って喜べる人間はいないだろう。

▽平和に必要

 人権の確立や労働条件の改善、社会正義の促進を目的とした国際労働機関(ILO)というものがある。銘記すべきは、この機関が第1次大戦直後に設立され、第2次大戦後の国連創設の際にも最初の専門機関となったことだ。それは社会の大多数を占める労働者の地位改善が、社会の安定や繁栄、ひいては戦争の回避に不可欠だと考えられたからだ。裏を返せば、労働状況の劣化が社会や人心を荒廃させ、各国を戦争へと向かわせたという切実な反省があった。

  問題は、反省がいつも「戦後」になされることだ。その世界的な反省を、日本の現政権は「規制撤廃」の名のもとに無に帰そうとしている。われわれはまた〝戦後の反省〟を繰り返すのか。

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