立憲国家のメルトダウン2017/05/01

 施行70年の憲法記念日を前に、憲法学者でない多様な人士53人の憲法論を集めた『私にとっての憲法』が岩波書店から刊行されました。わたしも森友学園問題渦中にギリギリで寄稿しました。その後半をここに転載させていただきます。思えば2年ぐらい前からこういうことばかり書いていますが。
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(…略)
 この安倍首相は、就任早々日銀総裁の首をすげ替えて、金融政策の慣例的な自立性を無効にし、NHK会長にも息のかかった人物を据え、内閣法制局長官まで慣例を破って外務省出身者を充て、金融、メディア、法制のチェック体制を掌中に収めたが、それだけでなく、最高裁判事の選任にまで手をつっこんでいることが最近知られるようになった。

 当人は安保法制審議の国会審議にいらだって「(憲法解釈の)最高責任者は私だ」と筋の通らぬことを言い、後には国会で「私は立法府の長」とさえ言った。それは彼が自国の政治制度について無理解であることを示してもいるが、三度の衆院選と参院選で絶対多数の議席を確保し、どんな法律も通せる状態にある以上、行政府の長である自分が立法府も意のままにできるという暗黙の「事実」を公言したにすぎない。そして沖縄関連訴訟や原発訴訟に顕著なように、今では事実上、司法もほぼ「コントロール下」に置いている。

 おそらく安倍政権は、集団的自衛権の行使容認を閣議決定したときから、憲法は無視すればよい、それがあっても事実上反故にできると気づいた(あるいは確信した)のである。行政権力にはそれが可能だと。それ以来、憲法はあってなきがごとく、労働に関する立法も、家族に関する立法も、共謀罪も、どうみても憲法との整合性を疑われる法律を次々に作ろうとしている(それをチェックするはずの内閣法制局は、ある元最高裁判事に言わせれば「いまは亡い」)。

 さすがに憲法もこのような政権の登場を予想していない。憲法は、天皇や国務大臣に尊重義務を課しているが、当の国務大臣が(総理を始めとして)憲法を守る気がないだけでなく、それを「みっともない憲法」としてまるまる廃棄しようとしているのだから、何をかいわんやである。

 ちょうど戦後五〇年日の頃から、「主権在民」「基本的人権の尊重」「非戦国家」を柱とする日本国憲法を廃棄して、これを全面的に逆に書き換えようとする勢力が伸張し、とうとう第二次安倍内閣を成立させた。この政権の目的は、時代に合わなくなった条項に変更を加えようという「手直し」ではない。言われるところの「改憲」とは、今の憲法そのものをお払い箱にしようということである。しかしそれを正面から言うと実現できない。そこで、背広の下に軍服を隠しながら逐条的な「手直し」だと言いくるめる。

 「自民党改憲草案」とは、日本国憲法を根本から否定し、それにとって代わろうとする別の憲法案である。それを掲げる政権が国会で絶対多数を握った。そのこと自体がすでに「尊重義務」違反なのだから、この政権は、憲法はあっても守らなくてもいいということに気づいてしまったのである。あるいは、黒を白だと「解釈する」ことを閣議だけで決定できるとしたのである。

 それが二〇一四年七月、それ以来、安倍政権はアメのように溶けてしまった憲法を尻目に日本を引っかきまわしている。これこそが立憲国家のメルトダウンとも言うべき事態だろう。そのメルトダウンを隠し、首相官邸という名の「免震重要棟」のなかで、この政権はあらゆることを閣議決定で決めている。誰がこの「憲法停止」の「緊急事態」を収拾できるのか、それがいま問われている。言うまでもなく、それは「主権者」である。

安倍政権-不適格者たちの危険な国政遊戯2017/05/04

 70年目の憲法記念日に、安倍首相はとうとう憲法改正を正面から掲げた。天皇談話でもないのに、ビデオで談話を公表するという異例のやり方だ。稲田自衛隊問題、森友問題を、共謀罪上程で押し潰し、北朝鮮危機の空芝居を国内に広めて、満を持して(?)改憲発議?
 昨今のとりわけ「不良品閣僚」問題を契機に、共同通信の依頼で以下の記事を書いた。「改憲」を掲げるのがこういう政権だということだ。手直ししたものがすでに地方各紙に掲載されている。
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 今村復興相がとうとう辞任に追い込まれた。安倍内閣の度重なる「失態」だ。最近では「共謀罪」担当の金田法相が、答弁ができないからと官僚に代行させて問題になった。稲田防衛相は南スーダン派遣の自衛隊日報を把握していなかったばかりか、森友学園の弁護を務めたことも「忘れ」ていた。「がんは学芸員」とか「長靴業界はもうかった」と「失言」して辞めた閣僚・政務官、ストーカー登録された政務官もいる。もう覚えきれないほどだ。

 「失言」以前に、問われているのはこの人物たちの閣僚あるいは国会議員たる資格である。政治家は国政に携わる。大臣ともなれば責任も大きい。だが、担当の重要法案の説明もできず、管轄の省庁の把握もできていない。あるいは職責も理解せず、恥とも思わず威張ったり人のせいにすることしかできない。

 当然ながら、そんな人物を登用する首相の責任は重大である。だがそれ以前に、政権党がそんな人物ばかりを選んで公認し、当選させて頭数を揃えていることが問題だ。

 任命権限をもつ首相は、森友学園問題で明らかになったように公私の区別がついていない。「私人」だと言い張る夫人に、官僚を五人も付ける首相は、権力を私物化しているとしか言いようがない。国会質疑は答弁にもならない「答弁」で押し切り、無理強いの断定を「閣議決定」する。その決定が「真実」と言わんばかりに。こんなことが平気で行われれば、大人の社会も子どもたちも、日本はこういうところなのだとそれに倣うだろう。事実、官僚たちからしてすでに「忖度」に漬かり切っている。

 安倍内閣の支持率が高いというが、ほんとうか?代わりが見当たらないからだそうだ。だがこんな陣容で、安倍政権は国の命運を決めるような政策を次々に打っている。いや、実情は、外交も内政も、オバマだろうがトランプだろうがとにかくアメリカに預けるだけだ。だから「危機」のとき、直接の相手国とは外交手段をまったくもたない。

 そういう内閣が、実態を隠すために秘密保護法を作り、さらに物言う市民を黙らせるために「テロ」を口実に共謀罪まで通そうとしている。そうなれば、いまの劣悪な政治の実態すら問題にできなくなるだろう。政権に反抗するのは「テロ」だそうだから。

 それでも旧民主党政権よりましなのか? 7年前政権交代を果たした民主党は、不器用でかつ、変化を怖れる官僚たちにそっぽを向かれ、メディアにも叩かれて、大震災のあおりもあって迷走のあげくに瓦解した。それ以来、民主党にはこりごりだから自民党、という風潮が広がっている。日本には他に選択肢がないというのだ。その空気を最大限に利用した自民党は膨れ上がり、偏った政権に奉仕するだけの劣悪な議員を増やしてあとはやりたい放題。それが日本の政治を底なしに腐朽させている。

 おかげで、日銀の札束増刷には歯止めがなく、貧困は拡大し、弱者は自己責任を押しつけられ、若者は将来の見透しが立たず、社会は殺伐として澱んでくる。それを「危機」を煽って浮足立たせ、オリンピックを煙幕にして操ろうとする。しかしメディアの自由度は最低と世界からは見透かされているのだ。

 だが、もうそんな政権に国を預けるわけにはいかない。私欲や個人的妄念のために国を弄ぶ政権、その実態を見なければいけない。なぜメディアはこの政権に甘いのか。コントロールされているという。そう言われるままでよいのか。国を破綻させる片棒を担いでどうするのか。どんな政権でも、今よりはましだとそろそろ気づくべきときだ。