「元号」(紀年法)について(続)2019/03/29

 では、グローバルな世界で時間の指標となっている「西暦」とは何なのか?これは日本では「西暦」と呼ばれているが、元来はキリスト教(ローマ教会)が定めた暦法で、太陽暦によって一年を定め(古くはユリウス暦、現在は改訂してグレゴリウス暦)、その年数をイエスの「降誕」を起点に数えている。キリストが生れたのが元年、それ以前は「キリストの生れる前(BC)」として負の数で数える。ただ、この紀年法が小ディオニシウスによって考案されたとき(6世紀前半)、その時までの積算に誤差があり(だいいちイエスの生年がはっきりしない)、後にイエスの誕生はこの紀元より数年遡るとされたが、この紀年法の主旨は福音の訪れ(救世主の降誕)によって世が変わったということにある。つまり、それ以来「終りの日(神の再臨)」を待ち望む日々(時間)が始まったということだ。だから誤差はそのままに、教会で採用され、やがてキリスト教世界に広まることになる。

 そこから「千年王国説」などが生れ広まる。だからある意味では、これもイエスの「一世一元」と言えなくもない(ただし、この場合、「世」はひとつしか想定されないから個別の名前をつけなくてもよい)。この紀年法はキリスト教世界に広まるが、この世界はやがて地上に世俗権力が乱立し領土統治するところとなり、近世には国民諸国家の政治秩序によって教会の権威は「中性化」(カール・シュミットの表現、「骨抜き」ということ)されることになる(宗教戦争以降)。だからこのキリスト紀年法はその宗教性・国民性をともに脱色されてこの地域の「共通暦」となり、それが西洋の世界化とともに現代世界全体に適用・採用されるようになった。 考えようによってはキリスト教的観念枠の世界化だが、いま言ったように「神が与えた」という性格は実質的には消えている。

 というわけで、西暦も絶対的なものではありえないが、世界の歴史の進展が作り出してグローバル世界で共通のものとなった時の数え方だとは言えよう。もし、全世界の人間たち(人類)が、イエスの「降誕」(ただの誕生ではない)から年を数えるなどという、恣意性と抹香臭さの残る紀年法を廃して、世界的的な出来事を区切りに新しい暦を創設するとしたら、もっとも妥当な案は、近代世界を導いてきた西洋文明が「世界戦争」の内に崩れ落ち、その廃墟から新たな世界が出直したとして、西洋キリスト暦1945年をもって改元、1946年を新紀元1年とするというのが考えられる。その戦争の絶頂に瞬時燃え上がった「人工の太陽」を前に、それを実現した科学者の脳裏に浮かんだのは『バガバットギータ』の語る破滅の幻影だったのであり、その跡地は「グラウンド・ゼロ」と呼ばれた。まさに「世は改まった」、改めるべき、ということだ。それを紀元とする暦こそ以後の世界の「共通暦」とするにふさわしいだろうが、分かりやすい名をつけるとすれば、「国連暦」とか「再生暦(ルネサンス)」、あるいは「共生暦」としてもいいだろう。

 しかし、そんなことがまともに議論されたという話は聞かない。それは文明の破綻がそうとは受け止められず、戦争の勝者が破綻から世界を救ったと自分たちの歩みを正当化し、「戦争」そのものが破綻だったということが掠められたからである(だから戦後は「パックス・アメリカーナ」となり、「アトミック・エイジ」となった)。そして、日本で「昭和の御代」が永らえたように、世界ではキリスト紀元が「世の終り」を掠めて続いて行くことになった。その継続によって隠蔽されたのは、「最終戦争」があり、日本が、そして世界が「無限地獄を見た」という事実なのである。

*「元号」については、旧著だが『世界史の臨界』(岩波書店、2000年)のとりわけ「プロローグ」と、第4章「〈世界史〉の発明」を参照されたい。

桜吹雪とともに降る「怪しい」元号について2019/03/29

 「一世一元制」と言われる制度がある。一世とは、ひとりの王の君臨する世(時代)ということだ。それを区切ってひとつの名で呼ぶ、それを制度としたのが一世一元制だ。だが、これは単なる法制度ではない。

 法律としては一九七九年に成立した「元号法」がある。しかしこれには「元号は政令で定める」ことと「皇位継承があった場合にのみ定める」としか書いてない。この法律は元号があることをあらかじめ前提としている。それは「しきたり」(=繰り返ししてきたこと)とされるものを実定法に書き込んだ。それだけがこの元号法の役割である。すると元号に法的根拠があることになる。それをもとに、議会も通さない「蚊帳の中」で政府(政権)によって元号が定められ、天から降ってきたかのように政府から発表され、あとは官公庁から率先して使用し(公式書類等にはこの元号を記すことが求められる)、お上に従う形で社会的に使用されることになる。しかしこの法律には、元号が何であり、誰がどういう手続きで決め、決まったものに強制力があるのかどうか等に関しては一切の規定がない。にもかかわらず、われわれは「平成」の三十年間、この元号使用をなかば強制されてきた。使うことに「なっている」という事態が作られたのだ。

 だからわれわれはいつも手帳の後ろの換算表をたどりながら、二つの時を数え直さなければならない。いわゆる国際化した現代の社会生活では西暦が欠かせないのに、この国の「しきたり」では元号を使うことになっている。つまり、この国にはよそとは違う「別の時間」、それも天皇の一代で区切られる特別の時間があるのだとされる。それがこの「元号法」の法文外的な効果である。

 この法律は民主制の抜け穴を穿つものであり、元号がこの国・この社会に生きる者たちにとって、「しきたり」として天から降ってくるように作られ使われるということを、法体系のうちに書き込んだ。「元号を定めて公用する」とする法律ではなく、元号はすでに存在するものとして、天皇の代替わりで切り替えることだけを定めている。

 だから元号法は、明治改元のときの太政官令と同様の性質をもつ。日本で一世一元制が採られたのはこの時が初めで、誰がどう決めたのかはまったく問われていない。しかし、国家的な布告として作用し、それが「近代日本」の決まりごとになった。それ以前もこの国では、時を数えるのに中国伝来の元号を用いていたが(「大化」以来)、それは天変地異やいわゆる「世」の趨勢に応じて改元されてきた。世≒時を改めるというわけである。ただしその節目は、人ではなく「世」に応じてきた。それを、天皇の一代に重ねるというのは、「世」を天皇に結びつけることだ。幕末移行期の権力者たちは、天皇を西洋型の主権者にするために、「世」を天皇の生身の存在に結びつけるという、実に中世的な工夫をしたわけである。ちなみに、本家の中国では、明代から一世一元になっていたが、元号そのものが辛亥革命で廃止され、以後は西暦を用いている(その意味では中国の方が「国際規準」に沿っている)。

 ただし、それを決めたのはもちろん天皇(明治天皇)ではない。天皇を掲げて「王政復古」の新政府を作ろうとしたいわゆる廷臣たちである。その廷臣たちの権力行使を覆う「すだれ」(ブラックホックス)が帝(みかど)だということだ。天皇はそのように使われ作られる。それは最初に元号を定めた「大化の改新」以来変わらない。中大兄皇子は中臣(藤原)鎌足と組んで、自らは長く天皇にならずに代わりの天皇を立て、天皇主軸の律令制改革をやった。晩年には即位したが、その後を壬申の乱を経て天武が継ぎ、鎌足の子不比等が「古事記」「日本書紀」を国史として作らせ、天皇統治の正統性の基礎を編み上げると、以後藤原氏が実権を振るうという体制ができた。要するに、統治権力が掲げる御旗あるいは隠れ蓑が天皇なのである。いわゆる天皇制の実質はこの構造であり、そこでは天皇が主体であった時期はほとんどない(だから権力者の意に沿わない天皇は斥けられる)。

 しかし、日本が近代国家になろうとするとき、この構造が活用され、それを天から降ってきた「しきたり」として社会を超法律的かつ超政治的に拘束する枠組みとして、代ごとの天皇の現存に「世」を重ねるという「一世一元」が制度化されたのである。この仕組みは「開国」によって「世界の荒波」のなかに漕ぎ出ることになった日本に、内にしか通用しない時間(歴史)意識の枠を確保することになり(世界時間の中の繭のように――繭は日本の特産物だった)、天皇の身体に重ねられた時間は、日本のナショナリズム形成の強力なベースとなった。それがやがて「神国日本」や「臣民の道」、あるいは「国体思想」といった「超国家主義」的なイデオロギーを育ててゆくことになるが、その破綻を画したのがアジア太平洋戦争での「敗戦」だった。

 「敗戦」で天皇制国家は事実上破綻したのだが、権力のブラックボックスと戦勝国アメリカとの「協働」によって、天皇は退位せず「人間」にコンバートして(そのことに三島由紀夫はのちに激越な呪詛をぶつけた)、「昭和の御代」はそのまま継続することになった。しかし元号は法的根拠を失った(詳細は他所にゆずる)。そのことを危惧し、昭和も50年を数えるに至ったころ、元号法制定に動きその運動を担ったのは、現・日本会議に連なる人脈である。

 しかしこの法制定は功を奏し、多少の議論はあったものの「平成」改元は「滞りなく」果たされたばかりか、元号は法律に定められているということで使用が「推奨」され、事実上強制され、また「お上への忖度」によって常用され、いまでは「日本固有の慣習・美風」だからいいんじゃないの、とばかり、フェイク安倍政権の下にあってさえ「改元」は、「安」の字だけは避けてほしいとか言われながらも、「桜の季節が廻りくる」かのように誰もが蓆をしいて酒盛りの用意をしながら待っている。

  来年の盛大な酒盛り(できるかどうかわからないが)東京オリンピックでも、2020年と言わないと通用しない。次は何かと、昔の家の新築時にたてまえ祝に梁から投げられる餅を拾おうとするかのように、あんぐり口を空けて次の元号は何か、などとエイプリルフールのお告げを待つのではなく、ほんとうなら今、元号廃止こそが検討されるべきだろう。ところがメディアにも、とんとそんな気配はない。桜の花の下で予測に興じるだけで、報道の自由なんて何のこと、といった風情だ。元号はいまや日本の社会に内向き意識を作ることにしか役立っていない。もっと言えば、ともかく日本を愚かな国にして、自分たちが好き勝手に統治したいと思う者たちだけが元号を更新し、「シキタリ」で縛る社会に逆戻りさせようとしている。明治に作られ、戦争で一度破綻して、裏口から戻ってきたような制度である。本家の中国でも、元号を止めてそのためにダメになったという話は聞かない。評判の良し悪しはあるが、21世紀世界の一大企画になっている(世界に与える影響が決定的に大きい)「一帯一路」、国境や国々をぶち抜きで経済社会圏を拡張しようとするこの政策・理念も、元号の確保する内向き構造を棄てたから可能になったわけである。(続く)

[追記]
 新元号が「決まった」4月1日、外務省は原則として和暦ではなく西暦を使う方向で検討している、と幹部が明言したという(朝日新聞デジタル)。そう、とくに外務省では不都合は明らかだからだ(つまり元号はひたすら内向きのため)。この「言明」は撤回されるだろうか?
 元号があってもいい。この国では昔は時間をこうやって刻んだんだよ、古い慣習いいじゃない、と好きな人が趣味で使えばいい。和服を着るのと同じだ。観光資源にもなるかもしれない。元号が問題になるのは、それが法的根拠もないまま、事実上使用を強制されるからだ。そしてその「慣習」に従わないと排除される(役所に出す書類が受け付けられない)。そのうえ最近では、そんな押しつけを批判すると「反日」だと言われる。「あんな人たち」と指さされるのだ。つまり「麗しき伝統」の元号は社会的排除の「踏み絵」にされている。元号の問題はひとえにそこにある。

★立教大学(大学院)退職のご挨拶2019/03/18

退職のご挨拶
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★ご挨拶
 この国では「平成」と区切られた時代の末、この春、わたしも立教大学での特任の年季が明けて、大学勤めを終えることになりました。他に能もなく食うための職業ではありましたが、若い頃は学生たちと鍛え合い、やがて年齢差も広がって「教え・教えられる」場となった大学の教室とその周辺は、それでもわたしの人生の主舞台であり、そこを去るのに一抹の感慨がないわけではありません。しかし幸い、そんな区切りをやり過ごして往生際を掠めるかのように、今年も神戸市外大や立命館先端研などで集中講義をする機会をもちます。よく、死後の生とか天国の控えの間とか言われますが、わたしとしてはむしろこれは「不死のワンダーランド」なのだと内心密かに考えています。最後の学生のひとりが論文で示唆していた「倚りかからず」と「ともに生きる」の重なりを旨とし、「死」がもはや機能停止でしかなく、未来もヴァーチャルな計算に置き換えられるだけのこの無彩色の世界(人の世)に、何ごとでもないかのように紛れてゆこうと思っています。
今後ともよろしくお願いいたします。  二〇一九年三月吉日

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 このネット・コミュニケーションの時代に、それでも公私の区別をつけて、このブログには私的なことは載せないようにしてきました。もちろん、ネット環境については、人にはそれぞれの使い方関わり方があります。それを承認したうえで、わたしはネット環境を公開の場と考えてきたということです。
 それでも公私の境にあるのが職業上のことで、これは公的活動とも関係があるので(ほとんどの方々には関係ないこととはいえ)、この場を借りて報告させていただきます。
 
 私儀、というわけですが、この3月末をもって、5年間特任教授として教えた立教大学を去り、1986年に明治学院大学に着任して以来、東京外国語大学大学院を経て30余年続けた大学勤めを終えます。思えばそれは、ちょうど「平成」の時代にも重なる時期、世界でいえば冷戦期の終りから今日まで、新自由主義とIT技術が世界の再編を深く進めた時代ということで、それ自体振り返って検討すべき意味がないわけではありません。

 しかしそれはまた、大学というものが大きく変質し、西洋中世に発したこの教育機関がその存在意義をほとんど失い、あるメディア学者に言わせれば「大学は死んだ」(吉見俊哉)とさえ断定される時節でもあります。わたしにとって大学とは、身も蓋もなく言えば、他に能もない人間にとって知識で身過ぎ世過ぎのできる「食らうべき」職業の場でした。われわれが学生の頃にはすでに「大学の解体」がとりざたされていたのですから。しかし、この職業に就いていたおかげで、つねに若い人たちと接しながら、儲けや稼ぎや権力争いに囚われることなく、その意味で「自由」にものを考えるということを続けることができました。ものを考えるというのは、詰まるところ人間やその世界について考えるということです(最近は「世界は存在しない」ことをデフォルトにするふりをする思考などというものが、哲学として世界的に客を獲得しているようですが)。その考えを「商品化」することにはまったく成功しませんでしたが(そんなことには意を用いなかったので)、そのような境遇で末期産業社会の「職業生活」(雇用年限)を過ごせたことを、得難い僥倖だったと感じております。

 これからは、産業的近代の遺物ともいうべきサービス産業の一角になり果てた大学という特権的かつ幻影的な「雇用形態」に守られることのない、一介の高齢生活者として命脈が尽きるまで生きてゆくことになります。生きているうちは「死」が見えず(文字どおり「死は存在しない」)、死んだときにはもうそれに慌てる自分はいません(わたしが死んだことを確認できるのは他人だけです)。そういう「不死のワンダーランド」にわたしも裸で歩み入っているのだと、いまさらながら考えています(30年間、思考が停止しているということかもしれませんが)。

 「ワンダー」を「不気味(ウンハイムリッヒ)」と訳すべきだとしたのはハイデガーですが、同じ語をフランス語では「メルヴェーユ(摩訶不思議)」と訳したりもします。どちらでもいいでしょう、人間の言葉とはそうしたものです。しかうそういう「ワンダー」な境地を、少しでも見透しのよいものにしてゆくべく今後も努力してゆきたいと考えています。

*付言しておけば、挨拶状のなかの「最後の学生のひとり」とは、この春、立教大学大学院文学研究科・比較文明学専攻で博士学位を取得した金英智さんで、学位申請論文は『茨木のり子における韓国』です。金さんはこの論文で、茨木のり子における「韓国」が、この国民的詩人の後半生のエピソードに留まるものではなく、その詩想全体を貫くモチーフの具現であったことを、全詩業(訳詩も含めて)の再検討を通して示しました。そこでは、茨木のり子の主張した「自由」が、最後の詩集のタイトル「倚りかからず」の自立の姿勢であるのはもちろん、それが「ともに生きる」の深い感覚に支えられたものであることをも示しました。つまり「自由」と「共同性」との合い補う別の様相を洗い出したのです。
 わたしが指導した最後の学位取得者ということになりますが、東京外大でのN君(現・早稲田大学准教授)に始まり、数は多くはありませんが何人かの有為の若者たちの成長を手助けできたのは、「そこにいるだけ」とはいえ教師冥利に尽きるといってよいでしょう。

ベネズエラのための緊急声明20192019/02/22

★ベネズエラ情勢に関する有識者の緊急声明
~国際社会に主権と国際規範の尊重を求める~
2019年2月21日  東京

ベネズエラ情勢が緊迫している。現マドゥーロ政権に反発するグアイドー国会議長が1月23日街頭デモ中に「暫定大統領」に名乗りを上げ、米国とEU諸国がただちにこれを承認するという異常事態が発生した。米国政府は軍事介入も仄めかしてマドゥーロ大統領に退陣を迫っている。世界の主要メディアはこうした事態を、「独裁」に対抗する「野党勢力」、それによる二重権力状況といった構図で伝えている。

見かけはそうなっている。だが、すでに干渉によって進められた国内分裂を口実に、一国の政権の転覆が目論まれているということではないのか。米国が主張する「人道支援」は前世紀末のコソボ紛争以来、軍事介入の露払いとなってきた。イラクやその後のシリアへの軍事介入も、結局は中東の広範な地域を無秩序の混迷に陥れ、地域の人びとの生活基盤を根こそぎ奪うことになり、今日の「難民問題」の主要な原因ともなってきた。

「民主化」や「人道支援」やの名の下での主権侵害が、ベネズエラの社会的亀裂を助長し増幅している。それは明らかに国際法違反であり国連憲章にも背馳している。ベネズエラへの「支援」は同国の自立を支える方向でなされるべきである。

この状況には既視感がある。1973年9月のチリのクーデターである。「裏庭」たる南米に社会主義の浸透を許さないとする米国は、チリの軍部を使嗾してアジェンデ政権を転覆し、その後20年にわたってチリ社会をピノチェト将軍の暗黒支配のもとに置くことになった。米国はその強権下に市場開放論者たちを送り込み、チリ社会を改造して新自由主義経済圏に組み込んだのである。

ベネズエラでは1999年に積年の「親米」体制からの自立を目指すチャベス政権が成立した。チャベス大統領は、欧米の石油メジャーの統制下にあった石油資源を国民に役立てるべきものとして、その収益で貧民層の生活改善に着手、無料医療制度を作り、土地を収用して農地改革を進めるなど、民衆基盤の社会改革を推進した。その政策に富裕層や既得権層は反発し、米国は彼らの「自由」が奪われているとして、チャベスを「独裁」だと批判し、2002年には財界人を押し立てた軍のクーデターを演出した。だがこれは、「チャベスを返せ」と呼号して首都の街頭を埋めた大群衆の前に、わずか2日で失敗に終わった。それでもこのとき、欧米メディアは「反政府デモの弾圧」(後で捏造と分かった)を批判したのが思い起こされる。

ここ数年の石油価格の下落と、米国や英国が主導する経済封鎖措置や既得権層の妨害活動のため、ベネズエラでは経済社会的困難が深刻化している。マドゥーロ政権はその対策に苦慮し、政府批判や反政府暴力の激化を抑えるため、ときに「強権的」手法に訴えざるを得なくなっている。米国は制裁を重ねてこの状況に追い打ちをかけ、過激な野党勢力に肩入れし「支援」を口実に介入しようとしている。だが、国際社会を巻き込むこの「支援介入」の下に透けて見えるのは、南米に「反米」政権の存在を許さないという、モンロー主義以来の合州国の一貫した勢力圏意志である。

対立はベネズエラ国内にあるが、それを根底で規定する対立はベネズエラと米国の間にある。チャベス路線(ボリバル主義)と米国の経済支配との対立である。数々の干渉と軍事介入が焦点化されるのはそのためだ。それを「独裁に抗する市民」といった構図にして国際世論を誘導するのはこの間の米国の常套手段であり、とりわけフェイク・ニュースがまかり通る時代を体現するトランプ米大統領の下、南米でこの手法があからさまに使われている。そのスローガンは「アメリカ・ファースト」ではなかったか。国際社会、とりわけそこで情報提供するメディアは、安易な図式に従うことなく、何が起きているのかを歴史的な事情を踏まえて評価すべきだろう。さもなければ、いま再び世界の一角に不幸と荒廃を招き寄せることになるだろう。

わたしたちは、本声明をもって日本の市民と政府、とりわけメディア関係者に以下を呼びかける。

▼ベネズエラの事態を注視し、独立国の主権の尊重と内政不干渉という国際規範に則った対応を求める。
▼国際社会は、ベネズエラが対話によって国内分断を克服するための支援をすることを求める。
 (メキシコ、ウルグアイ、カリブ海諸国、アフリカ連合等の国々の仲介の姿勢を支持する)
▼ベネズエラの困難と分断を生み出している大国による経済封鎖・制裁の解除を求める。
▼メディア機関が大国の「語り」を検証しつつ事実に基づいた報道をすることを求める。


*呼びかけ人(26名)
伊高浩昭(ラテンアメリカ研究)
市田良彦(社会思想・神戸大学)
印鑰智哉(食・農アドバイザー)
岡部廣治(ラテンアメリカ現代史・元津田塾大学教授)
小倉英敬(ラテンアメリカ現代史・神奈川大学)
勝俣誠*(国際政治経済学・明治学院大学名誉教授)
清宮美稚子(『世界』前編集長)
黒沢惟昭(教育学・元東京学芸大学)
後藤政子(ラテンアメリカ現代史・神奈川大学名誉教授)
桜井均*(元NHKプロデューサー)
新藤通弘*(ラテンアメリカ研究)
高原孝生(国際政治学・明治学院大学教授)
田中靖宏(AALA:日本アジア・アフリカ・ラテンアメリカ連帯委員会代表理事)
中山智香子(経済思想、東京外国語大学)
中野真紀子(デモクラシー・ナウ・ジャパン)
西谷修*(思想史、立教大学)
乗松聡子(ピース・フィロゾフィーセンター)
松村真澄(ピースボート国際部・ラテンアメリカ担当)
武者小路公秀(元国連大学副総長)
臺 宏士(元毎日新聞・ジャーナリスト)
森広泰平(アジア記者クラブ代表委員)
八木啓代(ラテン歌手、作家、ジャーナリスト)
山田厚史(デモクラシー・タイムズ)
吉岡達也(ピースボート共同代表)
吉原功(社会学・明治学院大学名誉教授)
六本木栄二(在南米ジャーナリスト・メディアコーディネーター)

*署名サイトは for-venezuela-2019-jp.strikingly.com です。

沖縄・辺野古基地建設の断念を求める新たな有識者声明について2018/09/10

9月7日記者会見の模様
*9月7日(金)に有識者グループ「普天間・辺野古問題を考える会」が沖縄・辺野古の新基地建設をめぐる新たな声明を発表し、記者会見を行った。声明文は http://unite-for-henoko.strikingly.com/ に挙がっているが、これに関する事情について説明しておきたい。

※記者会見の模様が簡潔なビデオになりました。声明「辺野古の海への土砂投入計画並びに新基地建設計画を白紙撤回せよ!」への賛同署名フォームへのリンクもそこにあります。
http://www.eizoudocument.com/0521henokoseimei.html

○声明の時期
 
 大浦湾への土砂投入を前に、埋立て承認の撤回手続きに入った翁長県知事が急逝し、その意志を継いで県は撤回に踏み切って新基地建設の工事は止まったが、工事が止まったら行政訴訟を起こすとともに、県に(知事個人にも)損害賠償(一日二千万と試算)を請求することもあるとしていた国(安倍政権)は、後任の県知事選を控えて提訴に関しては模様眺めである。
 
 国に協力的な知事が登場すれば、その知事が県の「撤回」を取消すかもしれないし、「撤回」に対して国が行政訴訟を起こしても、県に賠償請求をすることはないだろう。翁長知事が就任してほどなく行った埋立て承認「取り消し」に対する行政裁判以来、この間の最高裁以下の裁判所の対応から予測されるように、国が勝訴することになれば、新しい知事はそれを受け容れるだろう。そうすれば国はもはや何の障害もなく工事を進められるというわけである。辺野古現地の抗議行動は「不法行為」となるし、土砂搬入等に関わる抵抗も簡単に潰すことができるだろう。
 
 そう考えると、県が埋立て承認撤回に踏み切った今こそ、その「撤回」支持を表明して新基地建設を止めるために声をあげる決定的な時だと言ってよい。これまで3度、辺野古基地建設に抗議の声明を発表してきた海外の知識人グループ(チョムスキーやオリバーストーン、ジョン・ダワー、マコーマック氏等)が、時を同じくして新たな声明を発表したのもそのためだろう。
 
 アメリカを中心とした海外の著名な有識者がこの問題に関心をもつのは、この新基地建設がアメリカの軍事政策や海外基地展開に関わるばかりでなく、沖縄の基地問題が日米両政府の管轄下での看過しえない地域差別や人権の問題であり、東アジアの平和全般の問題だと捉えているからである。

○「普天間・辺野古問題を考える会」について 

 いま「普天間・辺野古問題を考える会」と名乗っている有識者グループが最初に結集したのは2009年12月であり、SACO合意による普天間基地撤去がいつのまにか辺野古に代替基地を作るという話になり、その流れを変えようとした鳩山政権下で、日米両政府に対して普天間基地の辺野古への「移設」に反対する声明を出したのが発端である。このときは11年1月30日までに有識者340人の署名を集めて声明を政府に提出した。

 しかしその後、民主党政権が「辺野古回帰」へと揺れるころ、グループは同年6月に「米海兵隊は撤収を」と訴える第二の声明を出した。そしてアピールの趣旨を示し、その後の議論のベースを提供するために、沖縄の現状診断と将来見通しの基本を書籍としてまとめ、『普天間基地問題から何が見えてきたか』(宮本憲一、西谷修、遠藤誠治・編、岩波書店)を出版した。

 そこでいったんこのグループは区切りをつけるはずだったが、以下に述べるような状況の進展(あるいはむしろ後退)のため、2014年の翁長県知事誕生の前後には、沖縄での状況変化に目を開き現地の声を東京に届けるべく、『沖縄の地鳴りを聴く』と題する連続講演会を開いて本土の世論の喚起を図った。そして2015年4月には、再び「辺野古米軍基地建設に向けた埋立工事の即時中止を要請する!」という緊急声明を出す必要に迫られた。今回またこのグループが新たな声明を発表したのは、安倍政権がひとつになった沖縄の意志を、無視するというより力づくで崩して、辺野古の新基地建設を決定的な段階に進めようとしているからである。

○沖縄アイデンティティの胎動と「オール沖縄」
 
 この問題は、2011年3月に東日本を襲った大震災・津波と福島第一原発の激甚事故のために、いったんは本土の政治社会的関心の後景に退くことになった。そして2年半後の自民党の政権復帰以後、安倍政権は進行していた沖縄の「目覚め」を鳩山政権の「失政」のせいにしつつ、日本の軍事化(「安全保障」という名の)を進める一環として、沖縄にイデオロギー的な圧力をかけ、辺野古新基地建設を「唯一の選択肢」として進めてゆく。
 
 しかしその間に、沖縄の状況は大きく変わり始めていた。そのきっかけになったのは、2007年に教科書から沖縄戦時に各地で起きた集団自決への日本軍の関与の記述を削除するという文科省の決定で、これは沖縄の辛酸を否定する日本政府の振舞いとして、沖縄の人びとの逆鱗にふれ、保革を超える大抗議運動が起こった。95年の少女暴行事件以来のことだった。そしてこのとき、沖縄戦の経験を核にした沖縄のアイデンティティが問われたのである。それ以来、本土(政府および住民)による沖縄の「構造的差別」が意識されるようになり、保守系県知事だった仲井真氏も、次の選挙(2014年)では普天間基地の代替は「少なくとも県外」を主張して再選された。
 
 しかしもともとが歴史否認体質の安倍政権は、このような沖縄の自己意識の胎動を無視し、「普天間基地の危険除去のため(沖縄の負担軽減のため)には辺野古移転しかない」として沖縄防衛局を通して着工準備(夜中の書類搬入など)を進める一方、名護市長選では公然と「わいろ選挙」を行い、自民党選出議員をかしづかせて(当時の幹事長は石破茂氏)「辺野古しかない」を言わせようとした。しかしそのこと自体が明治の「琉球処分」を想起させずにはいない光景だった。そして2013年暮れ、圧力の限界と見切った仲井真知事は「正月のうまい餅」と引き換えに、「大浦湾の埋立て許可」を出したのだが、まさにそれはジャパン・ハンドラーのケビン・メアの悪質な中傷(「オキナワはゆすり・たかりの名人」)を地でゆくような振舞いだった。
 
 その結果が、翌年の翁長知事の登場である。翁長氏は長く自民党県議団の代表を務める那覇市長だった。その翁長氏は、かりゆしグループや金秀グループなど沖縄財界も結集した「オール沖縄」の候補として当選した。本土政府が言うように、基地がなければ経済が成り立たないのではなく、むしろ基地がなくなったほうが地域や位置に依拠した経済が豊かに発展するという、この間の基地返還後の経済振興で示されたことをベースに、沖縄の将来を見越した財界も、沖縄の自立と誇りのために「オール沖縄」を組んだのである。

○安倍政権の対応
 
 これは1995年の転機(復帰後初めての大々的な米軍基地と日本政府への抗議、それが初めて日米両政府の協議を行わせ、普天間基地の撤去を決めさせた)、2007年の沖縄の原点潰しへの抗議に示された、沖縄の自立意識の流れを汲むものだった。保革のイデオロギー的対抗軸は、沖縄の根本の問題をむしろ隠蔽するものでしかなく、沖縄にとっての問題はアイデンティティだということ、対立は本土政府の姿勢と沖縄の自立・自治志向との間にあるのだということ(かつてこれを「鳴動する活断層」と呼んだことがある) をこの選挙は示し、翁長氏は10万票の大差をつけて当選した。それに続いたほとんどの地域選挙で「オール沖縄」の候補が当選したことは、この意識の高まりが広範なものだったことを示している。
 
 しかし安倍政権は、その圧倒的な「民意」の表明をまったく無視し、「基地負担の軽減」とはまったく逆に普天間基地へのオスプレイ配備を進め、いまではこの危険なヘリが市街地の上をわが物顔で飛んでいる。さらに、2016年春には、1995年を思わせる米軍属による女性暴行殺人遺棄事件が起こったが、沖縄の人びとが強い憤りとともに改訂を求める日米地位協定にはふれもせず、その場しのぎのジェスチャーしかしない。というより、米軍を盾に、沖縄に犠牲を強い続けて恥じない。そして2015年安保関連法制を強硬成立させて、2016年夏から高江ヘリパッド建設工事と辺野古の埋立て準備工事を、全国から警察の機動隊を派遣して強行した。その間に、オスプレイやその他の米軍ヘリの墜落事故が相次ぐが、政府はオウムのように「再発防止」を繰り返し、新基地建設を進めようとする。
 
 その一方で、「沖縄のアイデンティティ」意識を切り崩すため、翁長知事が「反日」であるとのデマを流し、失効した保守/革新のイデオロギー図式を、日本バンザイ/反日の反動的な踏み絵に置き換えるべく、インターネット・メディアで武装したプロパガンダ部隊を送り込み、現地で座り込みを続ける人びとを誹謗中傷して、一般市民の離反を画策したりしている。それと歩調を合わせているのが、和田政宗ら官邸に出入りする極右議員であり、DHCの「沖縄ヘイト」番組である。彼らは直接官邸の指示を受けているのではないにせよ、それが官邸に歓迎されていることは明かで、いわゆる沖縄ネトウヨの我那覇真子は、桜井よしこ等とともに今年年始に首相官邸に招待されているし、DHCは安倍首相お気に入りの番組制作会社だ。

○沖縄県知事選挙

 安倍政権になってから、新基地建設に反対する人びとがデマやヘイト・スピーチの標的にされるだけでなく、政権は選挙に勝つために露骨な脅し(交付金などに関して)を使うようになり、埋立て承認の撤回をめぐっては、県や県知事に対して工事遅延の損害賠償(一日二千万円)を請求することをちらつかせた。国が新たな軍事基地建設を望まない県に対して損害賠償を請求する? こんなことは地方自治を認める先進国では聞いたこともない。弱いものいじめを国が恥ずかしげもなく行う、あるいは脅しに使うというのは、官僚に公文書も廃棄させるというこの政権の破廉恥な特徴である。その政権によって、沖縄県はいま窮地に立たされている。
 
 地域に足場をおいた沖縄二紙(琉球新報、沖縄タイムズ)が「反日」メディアだという誹謗中傷は、防衛相だったときの小池百合子から始まっているが、その流れを引き継いで「果敢な」メディア攪乱を行っているのがこれらネトウヨであり、その動きが安倍政権とともに活発化しているのも確かなことだ。そして今年2月の名護市長選は、企業関係者に対する自民党の圧倒的な締付けと、公明党・創価学会による執拗な勧奨によって、稲嶺前市長を下して新基地容認の候補が当選した。このような状況の延長上に、9月下旬の県知事選が行われるのである。
 
 そこでも示されたように、今の選挙結果は公然の運動によって決まるのでもなければ、主張の正当性が選挙民に浸透して決まるのでもない。この混濁したメディア状況(攪乱される情報、作られる噂やデマや空気)のなかで、組織的・人的な囲い込みが実勢を決めてゆく。だから、まともなことをまともに主張し公表することに、現実的には大した意味もないかもしれない。しかし、であればこそ、言うべきことは言っておかなければという愚直な思いが、この声明の呼びかけ人となった有識者たちを動かしているのである。
 
 声明には、県の撤回措置を支持する具体的な根拠等が明確に示されているので、参照いただければ幸いである。
 
★「沖縄・辺野古声明2018」の賛同署名フォームは以下のURLです。
 http://unite-for-henoko.strikingly.com/ クリックすれば開きます。

 
*なお、市民団体の「戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会」も同趣旨の声明を用意しており、記者会見は合同で行われた。

原爆開発・使用と科学者の役割2018/08/14

 8月12日、BS1スペシャル『「悪魔の兵器」はこうして誕生した~原爆、科学者たちの心の闇』は、原爆開発投下を今までにない視点から検証して興味深かった。というより、現代の科学技術と科学者のあり方を考えるうえできわめて重要な事情を明らかにしていた。
 
 日本でも一昨年来(2016年~)の日本学術会議の「軍事研究」をめぐる議論の高まりがあり、池内了さんを始めとする「軍学共同」の流れに抗議する学者団体の活動もある。
 
 これまで原爆投下の問題は、政治的決定や軍事的必要等の観点からさまざまに論じられてきた。日本の降伏が時間の問題となっている段階で、なぜアメリカは原爆を投下したのか。ルーズベルト→トルーマンが戦後のソ連との対立を見越して米の軍事的優位を誇示するためだったとか、いつまでも降伏しない日本に戦争終結を受け容れさせ、余分な犠牲を避けるためだったとか。

 もちろん、最終決定は大統領(政府)によるものだし、実行するのは軍である。しかし両者が科学技術の最先端に通じているわけではない。そもそも原爆開発は、科学者の提言によるものだったし、開発プロジェクトを担ったのは科学者の組織と集団だった。それが政治家と軍を動かしたのである。しかしこの番組は、原爆投下(ヒロシマ・ナガサキの惨禍)に科学者たち自身が決定的な役割を演じてきたことを、原爆開発チーム・メンバーの証言映像の発見を契機にして描き出した。
 
 ナチス・ドイツからの亡命科学者レオ・シラードがアインシュタインを動かしてルーズベルト大統領に書簡を出し、近年研究された核分裂現象が新次元の兵器を可能にするとして、ドイツがそれを開発する前にアメリカが開発しなければならないと進言したのが(39年)、1942年秋に始まるマンハッタン計画のきっかけとなった。それがなければ、原爆開発はなかったのである。科学技術の最新動向に政治家が通じているわけではなく、また戦争の危機のなかで、科学の最新成果の軍事利用をすぐに考えた(恐れた)のも科学者だったのだ。
 
 それに、20世紀に入って科学技術の研究開発はその規模を拡大し、多額の資金を必要とするようになっていた。第一次世界大戦で現出した「総力戦」状況の中で、自分たちはもっと役に立つのに、と地団太踏んでいたのもまた科学者たちのようだった。そんな中で、科学技術の発展のために、軍事に貢献して国家予算を獲得しなければならないと考える学者も出てくる。
 アメリカではそれが、MIT副学長からカーネギー研究機構の総長となり、政府の非公式な科学顧問となったヴァネーヴァー・ブッシュ(1890~1974)だった。彼は大恐慌(29)以後科学研究費が削られることを憂慮して、ヨーロッパで戦争が始まるとアメリカ国防研究委員会(NDRC)を設立して議長となり(40)、翌年には大統領直属の科学研究開発局の局長となる。秘密裏に決定されたマンハッタン計画を仕切るのはこの部局だ。
 
 議会にも連合国にも秘密にされたこの計画のもと、20ほどの研究施設のネットワークの中核に、後のソ連の秘密都市のようにニューメキシコのロスアラモスに広大な研究施設が作られ、若い有能な科学技術者が各所から集められ(2000人規模)、戦時中では考えられないほどの厚遇を受けて集団的な研究開発を行う。戦争の終結前にともかく原子爆弾を開発するというのが至上命令だったが、多くの科学者は全体目的も知らないまま、この厚遇のなかで担当箇所の研究開発に没頭するのである。
 
 ノーベル賞級の科学者を中核とするその計画の統括を任されたのがロバート・オッペンハイマーだった。計画着手は42年9月だったが、翌年6月には軍の報告から、ドイツが実現性を疑って原爆開発をしていないことが明かになる。そこで一部の科学者は、戦争中の開発の必要性に疑問をもち(いずれにしても未曾有の破壊兵器である)、計画遂行をめぐる討論会を開こうとしたが、オッペンハイマーが介入し、この兵器は戦争することを断念させるだろうから、戦争を起こさせないために開発するのだと、原爆の新たな必要性を強調したという。秘密の国家事業であるこの計画から身を引くことは、科学者の将来を危ぶめることだろうというので、ここで辞退した科学者はいなかったという。
 
 そして45年7月16日、ルーズベルトの死去を受けて大統領となり、ヤルタ会談に出ていたトルーマンのもとに、実験成功の知らせが届く。アラモゴードの実験場では、まばゆい閃光と爆風そして巨大なきのこ雲を遠巻きにして、科学者たちが恐怖混じりの感動と熱狂に包まれていた。その日以来、オッペンハイマーは偉業を達成したある充足感のようなもので別次元の存在のようだったと、弟のフランクが回想している。
 
 5月にヒトラーは自殺して計画当初の敵はいなくなり、戦争を続けているのは日本だけだったから、原爆を使う対象は日本になる。その破滅的な威力を見て、レオ・シラード等は、実際に投下するのではなく、効果を見せて降伏を迫ればよいと、トルーマンに進言するが、オッペンハイマーは予告なしでこの兵器の威力を見なければ意味がないと主張していたという。
 
 トルーマンが世界に向けて高らかに宣言したように、科学技術の成果が戦争に勝利をもたらしたのであり、この成果によって、以後、科学技術は国家にとって最も枢要な位置を占めることになる。それが20世紀後半以降の科学技術の地位を決めたのだ。
 
 しかしそれは国家を導く地位ではなく、国家に従属する地位であり、戦後アメリカは核開発を推進するために新たな機構を設置する。しかし、オッペンハイマーは折から起こったレッド・パージに引っかかり、国家英雄から一転して赤いスパイとみなされて公職を追放される。それがオッペンハイマーの改悛の契機となるが、われわれがよく知っているのは以後の彼の姿だったのである。

 この調査番組が明らかにするのは、原爆投下を引き起こしたマンハッタン計画という秘密国家事業に関して、科学者はたんに使われたのではなく、むしろ科学技術の発展のためとして積極的な役割を果たしていたということ、科学技術の研究開発が国家予算の獲得と結びつき、科学者の集団やそのリーダーが予算獲得のためにみずから軍事貢献を提言し、科学技術開発の成果に何の疑惧もなく、異常なまでに破壊的な兵器開発に邁進したのだということ、そしてそれが未曾有の大量破壊兵器であり、その兵器が実際に使用されたとしたらどんな地獄が現出されるのか、まったく想像もしてみなかったということである。

 そのうえ、科学技術は以後、文明発展の原動力と見なされ、現在もっている社会的影響力を十分に享受するようになった。また、ヒロシマやナガサキの惨禍を見てもなお、その使用の責任を政治家や軍に負わせ、科学者たち自身は、このような重大で危険な兵器を、感情や個人的利害に身を任せて判断を誤る政治家たちに委ねないために、最も合理的な判断を引き出す人工知能を開発するといった、無責任ぶりに無自覚である。
 
 いまや科学技術は、人間の役に立つ道具のレヴェルにとどまってはおらず、その使用効果は技術を制禦しているつもりの人間のコントロールをはるかに超えている。オッペンハイマーたちが、原爆実験を行いながら、それを現実に使用したら、たとえ敵国とはいえ人間の世界にどんな惨劇が現出するのか、ほとんど考え及ばなかったらしいことも、科学技術的知性の盲目性を証している。
 
 科学技術は人間に新たな可能性を開くニュートラルな成果であって、その使用の是非は関与する者たちの倫理性に委ねられている、というのは実は科学者たちの欺瞞であって、科学者たちこそが、自分の研究開発の成果が社会にもたらす結果について責任を持たなければならないだろう。「なす」のは科学者たちだからだ。そうでなければ科学者は、ついに欺瞞的な国家や市場の拡大の一エージェントに過ぎなくなるだろう。

『「改憲」の論点』(集英社新書)2018/07/27

『「改憲」の論点』(集英社新書)
 ブログの更新を長らく休んでいましたが、新しいお知らせを。

 7月にこういう本が出ました。第196国会という戦後最悪の国会を、オウム死刑囚大量一括処刑で目晦ましし、折からの西日本豪雨大災害の対策もそっちのけで、トランプ土産のカジノ賭博法を強行して乗り切った安倍首相は、自民党総裁三選に向けて「改憲」が争点だと表明したそうです。

 ほんとうに「改憲」する気があるかどうかは分かりません。たぶん、2020年のオリンピックまで首相でいて、在位最長をスーパーマリオで飾れば後は野となれ山となれ、本人はそれでいいのだろうけれど、右バネの求心力を使うためには「改憲」を持ちだす必要があったのでしょう。

 それに、実際、やりたいことは何でも通る(安保法制、共謀罪、TPP11、虚偽資料の働かせ改革、カジノと)翼賛というより数の隷従(自公のこと)国会だから、やろうと思えば形だけの発議はできるだろうし、どんなにいい加減な「改憲」でも、中身は関係なくともかくやってしまえば「やった」を功績にできるのが、いまの日本政治の実情です。

 それに、安倍のコアな支持者はとにかく「改憲」を求めているから、やれば彼ら(日本会議・神社本庁・ネトウヨ・ヘイトマニア)は喜ぶ。だからオリンピック・ボランティア(酷暑を試練に祖国への挺身強制)空気を圧力に使いながら、「日本スゴイ!」のデタラメ「改憲」発議をする可能性は十分にあります。ここまで来たら「改憲」することに意義がある!オリンピックが終わっても、それが「美しい国」への「レガシー」になる。

 安倍政権は、言うことをきかない者は徹底的に排除し、なびく連中にはソンタクの限りを尽くさせ、官僚機構は「お役立ち」役人が餌を追うだけの牛舎にしてしまい、メディアや司法もすっかりなびかせて、国会は議論など成り立たない強弁と虚言と言い逃れと居直りの、まったく空しく品格のヒの字もない採決手続きにしてしまうのに成功しました。、そのうえ、日本の大勢を、それを放置しそれでも通る底抜け社会にしてしまったのだから(何の大災害が起きたのでしょう?)、6年かけて「改憲」の機は十分に熟したと言うこともできるでしょう。

 要は、もう議論の問題ではないということですが、何を血迷ったのか、そんな政治状況を不問に付して、まるで今の日本にまともな論議をする土台があるかのように、「護憲的改憲論」とか「リベラルの側から改憲を」という主張も出てきています。そのうえ「リベラルよ目覚めよ」とか言う。大きなお世話でしょう(わたしは「リベラル」ではありませんが)。

 そんな折に行き合わせるかのようにタイミングよく、「立憲デモクラシーの会」の主要メンバーによる8人による新書『「改憲」の論点』が出ました。いま必要な議論のテーマがほぼフォローされています。論点を間違えないよう、参考にしていただけたら幸いです。

 わたしは、憲法その他の法論議ではなく、日米安保のアメリカとの関係で、「改憲」や「戦争権」の主張の問題点を、解説しました。十分ではありませんが、いわゆる「ポスト真実」の歴史的意味にも関係しています。

 また、これに関連して、「テロとの戦争」以降の「戦争」の変容と国家間関係の変質について、つまり現代の「戦争」を考えるうえでの前提条件について、夏に刊行される『神奈川大学評論』に寄稿しました。じつはこれは上記の新書に書いた文章の「前半」にあたる部分です。なかなか手にしづらい媒体ですが、図書館などでは見られると思います。

 とりあえず、お知らせします。

インタヴュー「翻訳・戦争・人類学」2018/04/29

『境界を超えて』No.18_2018.03
 立教大学文学部の大学院(文学研究科)比較文明学専攻の特任となって4年がすぎ、今年が最後の年になりました。大学院の比較文明学専攻に対応する学部の専修コースは「文芸・思想」です。
 立教大学文学部は、キリスト教学科、英米文学専修、フランス文学専修、ドイツ文学専修、日本文学専修、文芸・思想専修、史学科、教育学科からなっています。
 ここ20年来にわたる日本の大学教育における人文系(とくに文学部)の縮小・廃統合の流れの中で、もともと人文系を軸としてきた立教大学も、工夫を重ねてさまざまな新学部を展開してきたようですが、文学部本体はそれなりに骨格を残しています。
 ただし、わたしが籍を置く「文芸・思想―比較文明学」というところは、2002年に発足したところで、一見すると何をめざすところかよくわからない感もあります。わたしも当初は、20世紀フランス思想をベースにして思想史全般、あるいは文明論のようなことをやってきたのだからいいのだろう、といったつもりでいました。
 ところで、ここの文学部には哲学科がありません。その代わりにあるのが「文芸・思想専修」なのです。哲学とはもともと、西洋で思考の仕方や作法を鍛え上げる営みでした。それが長い時間と蓄積を経て、今ではその蓄積の中身を研究する専門職になっています。それはそれで重要なのですが、そんな特殊専門研究が多くの人に必要なわけではありません。それに、いま大学で勉強しようとする若い人たちに求められ、かつ期待に応えられるのは、むしろ哲学の本旨である思考の仕方や作法を鍛え上げることの方でしょう。
 考えることの足腰を鍛えるためには、まず言葉を磨かなければなりません。最近ではそんなことも要求されなくなっていますが、自分でやってみればわかるように、ものを考え、それを表現するには、まず言葉が足場です。と同時にまた、語るべきことがなかったら言葉は空虚です(ペラペラの英会話?)。だから、対象や領域は広くとって、言葉で考える・表現することのモチーフに形を与え、そのための足腰を鍛える、それがこの「文芸・思想専修」で目ざされていることのようです(私が決めたのではなく、どうもそのようだ、ということです)。
 だから、いろいろなテーマをもつ学生がいます。真正面から哲学に入ってゆく学生もいれば、物書きを目指す学生もおり、映画などの批評をやりたい学生、あるいは都市について、健康について、労働や社会について考えたい学生、さまざまです。そこに小説家や批評家として活躍する教師がおり(専任教員の他に特任も)、哲学研究や文学研究に長けた教師がおり、学生のテーマに合わせて、またそのテーマやモチーフが形をとるのをサポートし、ものを考え・それを表現するためのいわば「体幹訓練」を行っているのがこのコースです。
 こんなことを書くのは、人文学の危機が言われる時代に、実は大学教育を根幹で支えているのはこういう学部なのではないかと思いながら、それを言う機会がなかなかないからです。実用科学はべつに大学でなくてもいいわけですが、日本ではこの四半世紀、経済界の意を受けた文科省の指導の下、大学は実用科学技術専門学校へと変質させられています。大学の質の低下とか、学生の思考能力の低下とかいう問題は、文科省のこうした方針が引き起こしているわけです。じつは若い人たちにはおのずから、考えたい・表現したいという欲求があります。それを補助して考えることの足腰を鍛える、これこそが現代の人文教育の根本でしょう。文芸・思想専修ではそれをやっています。
  わたしが自分の教歴をこういうところで終えるという得がたいチャンスを与えてくれたのは、この専修にいた旧知の若い(私に較べて)文学研究の同僚たちでした。そして最終年度を前に、今度は新しい専任教員の福嶋亮大(文芸批評家)さんと、こちらは旧知の小野正嗣(小説家)さんが、専修の紀要『境界を越えて』の特集としてインタヴューを企画し、編集の労をとってくれました。それが4月に刊行された18号の巻頭インタヴュー「西谷修『翻訳・戦争・人類学』」として掲載されました。
 全50ページの堂々たる?インタヴューになっています。じつはこれは圧縮したもので、今回「完全版」が福嶋さんや編集の深澤さんのご尽力で「文芸・思想専修」のウェブサイトに3部に分けて掲載されました。電子書籍版としてダウンロードもできるようです。
 最近人前では、立憲デモクラシーの会とか、学者の会とかの関連で話をすることが多いのですが(このブログに書くことも)、そういう場所ではほとんど触れる機会のない、わたしの本来の仕事のエッセンスの紹介にもなっています。もちろん、この他にもとりわけ、現代の死のこと、共同性のこと、宗教のこと、技術のこと、世界史のこと、それを踏まえた世界性と現在の世界のことなど、語るべきことは多くあります。わたしがもう30年以上職業的にやってきたのはこの種のことです。
 今回はお二人のご関心に応じた質問に答えて、このような内容になりました。まだまだ語りたいことは多くありますが、まずはこれを読みいただけたら幸いです。
 http://bungei-shiso.com/
 〈前編〉http://bungei-shiso.com/archives/801
 〈中編〉http://bungei-shiso.com/archives/813
 〈後編〉http://bungei-shiso.com/archives/819

*『境界を越えて』は立教比較文明学会が編集発行する紀要です。