コロナ禍に生きる⑥「自粛」でなく「自衛」を(山陰中央新報)2020/04/27

松江の山陰中央新報社会部が立てた独自企画「コロナ禍に生きる」に寄稿したものが26日(日)に掲載された。担当は多賀芳文記者。一部省略されていたが大意は変わらない。ここに再掲しておきたい。『世界』5月号に掲載の「緊急事態とエコロジー闘争」の主旨とも重なっている。ここで「自衛」と言ったのは「自治」と言い換えてもいい。
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 近年の世界を駆動してきた「グローバル経済システム」は、政治さえも市場原理に投げ込んできた。システムとして総数で世界が繁栄する仕組みを構想し、数値化されない生きた人間の部分を統治の仕事から切り捨ててきた。今回、新型コロナウイルスは、そのシステムの足下をさらってきた。「こう来たか」というのが率直な感想だ。

 「疫病」という語は今では使わないが、「疫」は古くから万民が免れない災いの意で使われ、近代の医学用語の「免疫」とも対応しているので実は適確な言葉だ。

 だからわれわれの遭遇しているのは疫病禍であって「戦争」ではない。緩慢な津波のようにわれわれの生活圏を浸してくる。免疫ができるまで、対策は隔離と分断しかないが、それはグローバル化した経済社会システムの首を絞めことになる。感染しなくとも、社会の血流が止まり、多数の人びとが生きられなくなる。運行を支える人びとが倒れて、流れが滞り、足元から経済システムが崩れていくのだ。システムは持続できない。

 「ウイルスとの闘い」は政治的な争いではない。この言葉を政府や政治家が「戦争」の比喩を用いるときは注意しなければならない。敵を作り民意を引き寄せることで、都合の悪い事実を隠すのが政治の常だからだ。問われるのは危機を乗り切る行政能力だ(悲惨なことに今の日本にはそれが徹底的に欠けている)。

 日本特有の「自粛」という表現も政治的だ。「自粛」と言うとき、すでに政府は責任をごまかしている。国民主権が基盤の近代国家で、行政府が市民の活動を制限する場合、生活を補償するのは義務である。活動停止、営業停止を求めるのであれば、相応の補償をするのが国家だが、日本政府にこうした認識があるのだろうか。

 たしかに医療現場は「戦場」だ。十分な手段もなく疫病と闘わなければならない。けれども、人間社会は生き物でさえないウイルスと「闘う」ことはできない。課題は「自然環境の異変に、いかに適応するか」ということだ。

コロナ禍が社会の転換機になるとの見方があるが、私は基本的に懐疑的だ。少なくとも日本は約10年前、地震と津波、原子力災害が重複する東日本大震災を経験した。ところが、その後どうなったか。その時、災害によって露呈した課題はみな隠され、ごまかされ、今の政府はすべて東京五輪に流し込もうとしてきた。何一つ改善されず逆行した。

 こうした条件下で、できることは「自粛」ではなく「自衛」だ。わたしたち自身で自分たちの生きる社会を守らなければならない。
 希望があるとすれば、地方や地域にこそある。実際、生活と行政の距離が近く、現場で発生する課題を地方行政が真っ先に吸い上げることができる。仮に政府方針と異なっても住民を守り、事後に政府に予算を付けさせることができる。

 グローバル経済システムの問題が噴出したいま、地元の力、足下の力を発揮すべき時だ。身近な生活圏をつくる動きが今後の地域形成の基本になるとするならば、災いは福に転ずるかもしれない。地方から中央を動かす圧力を、いま持つことに期待を寄せたい。(談)