『私たちはどんな世界を生きているか』への蛇足2020/10/22

恥ずかしい帯
 初めて、新書という形で本を作る(書くというより)機会があった。それが昨日書店に並んだ『私たちはどんな世界を生きているか』(講談社現代新書)である。むっ?と言われる。新書なのに、タイトルだけでは何の本かが見当がつかないようだからだ。中身を示すタイトルをつけようとしても、こうしかつけられなかった。

 わたしは政治学者でも経済学者でも、また歴史家でもない。もともとは二十世紀フランスの文学・思想を研究し、とりわけ「世界戦争」の時代の極限状況のなかで書くこと・考えることの困難に直面した作家たちの研究から始めて、戦争、死、人間の共同性、宗教、世界史と文明などについて考察することを仕事としてきた者だ。それが、私たちの生きる現代世界の解明と理解に資すると考えて。

 だが、世紀が変わってとりわけアメリカの九・一一があり、世界に「テロとの戦争」のレジームが敷かれた頃から、その変化の捉え方・論じられ方が、メディアの領域ではとかく既成の国際政治の枠組みからの論評に留まって、出来事の深い意味を見損なっている(そして政治的議論を、既存の力によって設定された枠組みに流し込んでゆく)と思われ、アクチュアルな政治・社会的議論にも介入することになった。

 もっとも、ヘーゲルにしてもハイデガーにしても、誰もが自分の生きる時代の中で考え進めたことには違いなく、わたし自身も最初に『不死のワンダーランド』(一九九〇年)をまとめたときから、文学・哲学的考察のなかでつねにアクチュアルな状況を参照しないわけではなかったし、『世界史の臨界』はまさに世界がキリスト紀元二千年代に入るその時を意識してまとめたものである。だから、情況的な議論に加わることもとり立てて唐突なことではなかったはずだ。

 ただ、国際政治についての議論をする場合にも、あるいは現代世界の駆動力になっている経済現象を論じる際にも、世界にはさまざまな人びとがそれぞれの地域の政治構造の枠の中で生きているということ、現代世界が「西洋」と呼ばれる地域文明の世界化によって造形されてきたということ、そこには産業化という形をとる組織的知や制度の体系、さらには技術についての考えの普遍化が含まれているということ、そしてその展開のプロセスの内に政治や経済や宗教、社会性の分節化があったということを、考察の内に組み込まざるををえない。それがわたしのような論者の、あまり理解されがたい特徴にもなる。

 というわけで、わたしは自分自身の仕事を広い意味での哲学や思想史の括りに入れることにしているが(入れてくれるかどうかは別の話だ)、そのことも含めて本書の中身をタイトルに示そうとするとき、やはり「私たちはどんな世界を生きているのか」とするのが適切だと思われた。そこで扱われているのは、私たちの「世界」を規定する政治や経済や社会状況の錯綜する動態だからである。

 内容を紹介するよう求められて書いた一文は、講談社のPR誌『本』11月号で、「何が社会の再身分化を引き起こしたか」というタイトルで紹介されている。

 出発点は、現代がきわめて不確定な時代だということだ。とりわけ「未来」が見えなくなってしまっている。それは一方では、「人間」の輪郭がますます消されてゆき、それを支えていた「時間」の観念(意識の在り方)が変質してしまっているとこと、そしてコミュニケーションの軸である「真理」の足場が掘り崩されているということのためである。それを私たちはどういう社会的・日常的かつ歴史的「現実」として生きているのか、そのことの「人類史」的意味を考えながら確かめる、というのがねらいである。
 
 結論としては、世界史的に見て、フランス革命に極まった西洋世界の平等主義的動きが、その動力となった「啓蒙」の展開そのものによって、つまり科学技術の進歩と経済の自由化の果てに、諸社会の再身分化を引き起こし、解放や平等化の成果をチャラにしようとしている、ということだ。「啓蒙」の運動が世界戦争によって変容し二重化し、その一方が反転していると言ってもよい(ニヒリズム、フェイク、カルトと暗黒啓蒙)。

 そのことを二つの経験的な時間軸を立てて示そうとしてみた。ひとつはフランス革命以後の200余年、もうひとつは明治以降の日本の150年。なぜなら、日本は明治以降に世界史に、言いかえれば国際関係に、独自の時間を作りながら入ったからだ。そしてその二つの時間軸は「世界戦争」において劇的に交錯し、冷戦下で吸収され、グローバル経済の濁流の中で世界の分岐に呼応するようになっている。「私たち」は日本で生きており、抽象的な世界市民として生きているわけではない。この境界は無視できないし、横断はできても消去することはできない。

 日本という繭のなかで自閉的に現代世界を考えることもできるだろう。逆にまた、世界(普遍)の立場に立って、境界を超えたつもりになることもできるだろう。前者をナショナリズムと言うとしたら、後者はユニヴァーサリズムあるいはコスモポリタニズムである。だが、「私たち」の実情を知るためには「境界に立って」考えるということだ。日本と世界、世界の中の日本ということを意識するとき、足場は境界にしか置けない。本書の視点の特徴はといえば、この境界の条件に自覚的であることだ。

 それはわたし自身を「哲学」のカテゴリーから締め出すことになるのかもしれない。哲学は(他のあらゆる諸科学も)普遍主義でしかありえないからだ。だから、わたしはマルクスにもマックス・ウェーバーにも頼らない。形而上学にも普遍(社会)科学にも就かず、その「批判」(カント的意味での批判)を「西洋」批判と結びつけている。頼るとしたら、わたしの頼るのはジョルジュ・バタイユの近代知批判であり、カール・ポランニーの人類学的視点であり、ピエール・ルジャンドルの西洋的ドグマ批判、人間を「話す生き物」とみなすところから出発する人類学である。

 そう言うと抽象的に思われるが、実際に書かれていることは、日ごろ求めに応じて各所で話をする現代社会や私たちの生活を規定する諸条件に関する事柄である。そして結局のところ、ここで提示した世界の見通しには「奇抜な」ところはまったくないだろう。むしろ「ふつう」のものと言ってもいい。だが、「まともさ」にたどり着く途はけっして平坦ではない。それは、現代の日本に生きる日々の社会的経験に照らしてみればすぐに思い当たることだろう。
 
 それでは中身の紹介にはならないから、ひとつだけ参照項を挙げておこう。ちょうど、この本の紹介を書いた『本』11月号の巻頭に、同時期に出る『民主主義とは何か』という政治学者・宇野重規氏の寄稿文がある。宇野氏ははからずもいま菅首相による学術会議会員任命拒否問題の渦中にある学者である。そこでは、民主主義について、現代日本の最良の知見をもつ氏の経験と考察から、民主主義とは何なのかが問われ、整理され、現代にそれを擁護し生かす方向について、明晰かつ平易に書かれている。こういうものが、まともに考えれば異論の余地がないように書かれているのに、曖昧な錯綜したことをなぜ書く必要があるのかというと、私にとっては「民主主義」は土台でも出発点でもないからである。私はむしろ「民主制」という用語を使っている。それは政治理論や政治思想とは少しずれて、むしろ広い意味での法的な正統性の観点から事象を見ているからである。

 宇野氏は(というより政治学と言った方がよいだろう)現代の代表制民主主義が民主主義の典型ではないことを、議会制というものがじつは封建的身分社会から生じてきたこと、そして代表制や選挙が民主主義を支えるものではないことを指摘している。だからそれを踏まえたうえで「民主主義を選び直す」ことを提案していて、それはそれで納得できることである。ただ、ポリス(政治という概念の語源である)という人間の集合形態(共同体)が何を根拠の言説として成り立っているかと問うとき、デモス(民衆)だと答える体制がデモクラシー(民衆統治)だと考えるなら、「民主主義の空洞化」は別の形で語られることになる。それは「共同性」を支えるコミュニケーション空間の変容であり、それは政治的な問題というより、技術と不可分の経済による「政治」の侵蝕であり、アリストテレスの規定した人間の共同体としてのボリスの変質だということになる。私の議論はそのような形で、現代政治学の議論と斜めに交錯することになる。

デジタル化の津波に備える2020/09/27

見よ、同胞よ、春はきた
大地は太陽の抱擁を受け、やがて
この愛の実りが見られるだろう。
種たちは芽生え、生き物も活気づく。

この神秘の力に、我らの生存も負っている。
だから我らは隣人たちと、近しい生き物たちとも、
この大地に住むという我らの権利を
等しく分かち与える。

ところがだ、皆の衆、聞いてくれ
我らは今、違う種族と関わり合っている。
我らの父祖が最初に出会ったときには
彼らは小さく弱かったが、今では大きく尊大である。

かなりおかしなことに、彼らは土地を耕すものと思いなし、
所有する愛が、彼らのもとでは病気のようである。

あの連中は、さまざまな規則を作って、
金持ちはそれを平気で破れるが、貧乏人はいけないのだ。

彼らは貧乏人や弱き者らから税を召し上げ、
統治する金持ちたちを養うのにつかう。

彼らは我ら万人の母なる大地を、
自分たちだけに用立てる権利があるとい立て、
隣人を柵で締め出す。彼らは大地を、
自分たちの建造物や自分たちの汚物でだいなしにする。

このナシオン(国人)は、みずからの床から溶け出した
雪の奔流のように、行きすがりのあらゆるものを破壊する。…


シッティング・ブル(タタンカ・ヨタンカ)1875年の訓話から

----------------------------------------------

「アメリカ」と呼ばれる世界の急速な建造によって潰えていった「旧種族」の残した最後の言葉のひとつである。二世紀半にわたるその抹消は一九世紀末に完了する。
いま、このような言葉を想起するのは、失われた「古き人の世」を懐かしんで慰むためではない。このように「私的所有愛」の奔流が一世界を消し去った後の近代の「人の世」を、大津波が(日本だけではない)、そして新たな疫病が襲ったことを口実に、デジタル情報化の津波が世界を塗り替えようとしている。「人新世」の大津波か?そこからの「出口」を望見するとき、長期を考えるなら、われわれはこうした声の痕跡に耳を傾けなければならないということだ。
「文明世界」に「異族=エーリアン」として抹消されていった彼らは、「国人」の風習の異様さを見ていたが、百五十年後の「文明化」した日本でも、その風習は輪をかけて進んでいる。

アベノレガシー:権力私物化・公共性崩壊とヘイト2020/09/09

「ドコモ口座、18銀行と連携停止、不正預金引き出しで、地銀に被害」の記事に接して――

 新型コロナウイルス追跡アプリを配るといっても「紆余曲折があり」(JX通信社の記事の表現)、厚労省は予定の約2カ月遅れでやっと「接触確認アプリ」(COCOA) を配布。しかしこの間の政府の姿勢で(記録もなにも隠蔽・破棄、IT担当大臣は無能、ただし事あるごとに押しつけナンバーの口座紐つけだけはなんとしてでもやろうとする)、行政府に対する市民の信頼はゼロ。だから中途半端なアプリを誰も使おうとしない。

 そして中国のデジタルIT技術が進むと、独裁国家の監視体制が云々と言いけなす。中国では日常の市場の買い物もスマホでやるのが普通になっているし、そのネット売買等は信用ランキングアプリで確実性も市場的に担保される仕組みだ。そのことを多くの国民(中国人)はむしろ積極的に受け入れている。それがどういうことかは「独裁国家」などという「西側(=アメリカ)」のレッテル貼りでは理解できない。私は社会のデジタルIT化を無条件に歓迎する者ではないが(とくに5Gなど)、中国社会ではこれがどれほど経済の「成長」と国民生活のかさ上げに役立ったかということだ。それは少なくとも『幸福な監視社会・中国』ぐらいは読んで考えてみてほしい。

 日本はいま「コロナ禍の出口」としてデジタルIT化の推進を謳っているが、残念なことにその基幹リーディング企業である元NTT・ドコモが、やろうとするとたちまちこんな仕儀になる。ダダ漏れで使えないシステムしか開発できないのだ。これが日本の現状だということを理解しなければならない(イデオロギーではなく行政力・統治能力の問題)。

 「市場の自由化」と「権力の私物化」(いずれもprivatizationだ)を都合よく癒着させてきたこの間の日本の政権は、行政機関や社会組織(企業も含めて)を「忖度・隷従」の私権の蟻塚とシステムと化してしまい、「コロナ対応」でもそうだが、公共行政システムをまったく無能化させてしまった。そのカムフラージュ(というより政権の基本姿勢だが)として外の相手の実相を見ない「内向きニッポンすごい!⇔嫌中・嫌韓ヘイト」である。だからコロナも終息しない今も、そんな事は小事、大事は愛知トリエンナーレで「ヘイトはいけない」と発信し続けた大村知事のリコールだ、とバカげた騒ぎを、メディアは無視、あるいは何かまともな政治活動ででもあるかのように報じる(得意の「両論併記」?)。そして台風でも、韓国に抜けてしまえば知らん顔。

 この日本の「惨状」こそが、安倍史上最長政権の「レガシー」である。ただし、まさにその「レガシー」を重ねてきたために、安倍政権はさまざまな「汚物」を溜め込み、それがポリ袋をやぶって溢れるようになり、公文書隠蔽廃棄、官僚偽証、議員選挙違反、カジノ利権、そしてモリカケ桜で足元が崩れ出し、最後にそれらに蓋をする検察人事のムリ押しに失敗し、ついに国会を閉じて逃げ出したが、もはや再び国会を開くのはイヤだ…。そうは言えないから、「持病」を口実に使った。そしたら「同情」が集まったのか支持率上昇という怪、それは日本の現在の「惨状」をあくまで見たくないという、「アベノレガシー」の腐臭だと言わざるをえない。

 (ワクチン買い漁りも日本では開発できないから、そして英米製薬企業から「副作用があっても責任取らない」という条件まで受けいれて――さすがにそれはできなかったが――という酷さ。)

「黒人を勝手に殺すな」(BLM)から「法と秩序」へ2020/09/05

 8月25日、ケノーシャでJ・ブレイク殺害抗議デモで「自警」少年が発砲して2人殺害がまだもめている9月3日、今度はワシントンでまた尋問を恐れて車から逃げ出した黒人を警察官がを射殺。2日前にはロサンゼルスで、自転車に乗っていた黒人男性を交通違反容疑で呼び止めた警察が射殺…。警官による殺害と抗議はほんとど日常化。

・日本では、不祥事や議員逮捕や思いつきコロナ対策でもう国会も開けなくなり、やる気のなくなったアベに、誰かが入れ知恵して「病気理由」に「最長政権」で一旦ひかせ、同情誘って権力私物化の垢や埃をかけ流し、根っから執事に代役をやらせ、殿を守ってしばらく尻拭い、来年の幻のオリンピックの後の総裁選で、健康回復「待望」の再登板、高支持率(今でも高い)で今度こそ一気に改憲と、いかにもなシナリオが囁かれている。スガがほんとに首相になりそうだから、きっとこれは本当なのだろう。画策したのは日本会議の黒幕あたりか。

・アメリカでは、キヤラの弱いバイデンに水をあけられていたトランプが、警察官による相次ぐ黒人殺害・銃撃で「人種差別」批判が盛り上がるなか、むしろ「法と秩序」の名のもとに、デモを「暴動」とすり替えて「秩序維持」の警察を押し立てて「強い大統領」をアピール。アメリカ人が警戒し脅威に思っている中国にも強硬姿勢、経済制裁に止まらず軍事対立にまで持ち込んでいる(世界に緊張)。大人しいデモは不思議にすぐに「暴動」になる。
怒りが重なるから当然?J・フロイドの弟が必死でデモ参加者の怒りを抑えていた。デモが拡大すれば警察・治安部隊だけでなく、「自警団」や挑発者が出てきて、犠牲が増えかつ弾圧が正当化されることを知っているからだ。トランプは発砲少年を「愛国者」と呼んだ。黒人たち(やその支持者)はそれでもますます殺される(このニュース)。そんな事件が重なるだけ、アメリカ社会は不安になり、逆に「秩序」を求める。つまり黒人が警察に殺されることより、警察に「秩序」を守ってほしいということだ。それでトランプは支持を拡大する。ワクチンは強引に選挙前にも使えるようにする。ということで、多くのアメリカ人はいまや「もう4年」を求めているようだ。

・日本は悪どい画策がまんまと通りそうだというだけだが、アメリカは(とくに黒人たちにとっては)地獄のぬかるみ、「暗黒啓蒙」派や陰謀バノンがほくそ笑んでいる。酷い世界の流れだ。

コロナを吹き飛ばす厳しい野分の季節2020/09/01

(さすがに政権が変わるというので、何か書き留めておきたいと思ったが、何が意味ある形で変わるのかわからず、まとまらない。それでも走り書きでFBに上げた一文をこちらにも。)

 安倍のような人物がこの国の首相でなくなる日を見たい(いくら何でも――太田元理財局長の忘れられない一言――こんなのが首相ではいけない)と思ってきたが、それが「辞める」という日が来ても一向に気持ちが晴れない。何かが好転する兆しもないからだ。

責任感覚がからっきしない(モリカケ桜、居直りか逃げで、すべて手下を使って首相を守らせる)、法や憲法に従う気持ちはさらにない(「わたしが立法府の長」「みっともない憲法」「けちって火炎瓶」)、ただ「世界の真ん中で輝きたい」だけ、その安倍(とても敬称などつけられない)が、疑惑まみれでコロナ対策でも大ドジして、もうさすがに国会も開けない(ようやく閉じて逃げた)からにっちもさっちもいかなくなっただけなのに、病気を理由に辞めると言う。

 それを若い女性議員が鋭く突くと、たちまち「炎上」、この史上類のない(だから最長)不誠実な権力者を擁護するツイートが湧いて出て(みんな安倍が好きなんだ)、女性議員がネットで袋叩きに遭うのだそうだ。木村ハナちゃんみたい。

 そんな風潮を尻目に、自民党ではメディアを引っ張りながら後継者選び。日銀に札束無制限に刷らせて株価を挙げて円安にし、企業だけ儲けさせてフェイク経済で国民だます一方で、「暴君トランプ」に媚びへつらい、アメリカには何でも貢ぎ武器も爆買い、改造空母に乗ってご満悦、ニヤケ顔の裏でずっと抗議を続ける沖縄を踏みつぶし、朝鮮・韓国ヘイトを煽って戦争ごっこ、「民の要求は踏みつぶし、強者に媚びる」その安倍政治を「権力者は裁かれない」の鉄面皮の壁で守り通し、みずからも陰湿に権勢を振るった「悪代官」がつなぎ首相だと!他にいないのだ。7年半で毒が回りきっている。

 つまり安倍の「レガシー」は日本の政治と社会をすでに抜きがたく浸している。気が晴れるわけがない。今日、沖縄に猛威を振るう台風の、すぐそのあとで別の猛烈な台風がすでに本土をうかがっているという。

2020年夏の酷暑、「失われた未来」の蜃気楼2020/08/15

8月15日、朝から猛烈な暑さだ。東京世田谷の一角(ここに住んでいるのは偶然と惰性、どこでもいいのだが)。8月6日の広島も暑かったという。FBで便りがあった、ある友人は家族で長野の涼しいところに数日出かけたようだ。

気温予想図では、東北から下は軒並み赤を超えた紫(35度以上)。気象庁測定で37度だと実測だいたい40度を越す。これで一年遅れの夏の東京五輪をやる、やれるという。だからコロナもものかわ、Gotoキャンペーン。最近は、政府というより大本営が、世界の目ぼしい製薬会社から、まだできてないワクチンの先物買占め。来年初めまでにはワクチン準備できてオリンピックは大丈夫、と思わせるつもりか。だが国内はそれでダマせるとしても、トランプのアメリカといっしょに(アメリカには遠慮して)買い占めたら、他の多くの国(とくに貧しい国)にはワクチン回らず、世界でコロナの流行は収まらない。それじゃ「世界の祭典」オリンピックなんてできないじゃないか(最後は金目、金出せば選手は来てくれる、とでも思っているのか)。一国エゴイズムはパンデミック対策には禁物だし、万国を「おもてなし」するはずのオリンピックもそれではできない。

それも分からない大本営のやっていることはメチャクチャ。終戦記念日を前にして、沖縄では東京の実質5倍の感染拡大。米軍サマは治外法権でコロナ持ち込むし(基地内感染者を市中に出す)、Gotoキャンペーン突撃敢行で沖縄は火の車。だが、辺野古新基地に協力しない沖縄を大本営は冷たく見放す。ああ、あの時のウリズンの雨…。

コロナ対策のまず第一は株価維持(年金資金と日銀券使って泥に砂を入れる)。問題は保健衛生ではなく、経済ダメージを防ぐことだから。株価を維持しておけば景気は悪くないことになる。それに金のある連中は「大本営」に文句を言わず、支持し続ける。その他の対応は、身内に利権の機会を作るため(布マスク、支援金給付中抜き)。とくに、オリンピックで大打撃が分かっている電通には何でもやらせる。それと、あらゆる災害や問題は、竹中パソナの人材派遣業の拡大機会だ。

2020年オリンピックは東京招致のときから問題があった(石原闇都政の清算招致、電通を通した買収疑惑)。招致が決まってからも、エンブレムから国立競技場新設のゴタゴタ、もう日本にはこんな大行事の運営能力がまったくないということも露呈していた。それをボランティアの参加機運醸成でごまかす。だが、年ごとに厳しくなる夏の東京の暑さも逆境、東京湾の海も放置で汚染が露呈、打ち水かき氷で何とかなったのは江戸時代。マラソンは北海道でやることになった、ということは世界から東京の夏はムリと言われたということ。そういうのを全部やり過ごしてきた。

そこにコロナ禍。だが世界中が苦しんでいるパンデミックへの対策は、来年のオリンピックをやることが前提であるかのように、それに向けて上記のような対応でこの夏をやりすごそうとしている。あたかも今年の予定がじつはウソで、来年が本来だったかのように。だがしかし、五輪史上初の延期決定の時点で、もう世界的にはできないことは分かっていた。ワクチンは確実ではないし、順当に考えても世界に行きわたるには2年はかかるとまともな専門家たちは言っている。だが日本政府はやることを主張している。だから「大本営」、インパール作戦だ(政権のあやしい巫女たちは、戦争の試練で民の魂が浄化されるとか言っている)。

実際、できなかったらどうなるのか。日本政府(というよりアベ政権)は、後は野となれ山となれ、責任は問われないことは分かっている(大本営は責任をとらないし、メディアから検察まで骨抜きにしてある)。そして日本は、「失われた未来」の荒野を呆然とさまようことになる。

仕込んであるのは、嫌中・嫌韓、悪いのは国の内外にいる。トランプのアメリカも、もはやそれしか手がなくなって、対抗国中国叩き(辮髪シナ人が、増長して白人世界に盾つこうとしている。生意気にも俺たちにとって代って、軍事・経済・情報技術で世界元締めになろうとする。自由も香港もオレたちのものだ)でヤクザ手法に居直ろうとしている。国民は右から左まで、一億総ざんげでもう一度アメリカに身を預けて、自分ダメさの憂さをはらすことになるのか。

だからモーリシャス沿岸で、商船三井の座礁貨物船から1000トンを超える石油が流出しても、わずか6人の専門家を送っただけで、日本政府はほぼ知らん顔。自然の海と島しかない人びとからそれを奪い、苦難を与え、世界に取り返しのつかない迷惑をかけているのに、そんなことは顧慮の外。

この酷暑でも「失われた未来」の蜃気楼は晴れないのか。オリンピックができないという現実に誰も向き合おうとしないのか。その「ウソ」がこの国を腐らせている。今日、やめると決められたら、もう10日もすれば「正気の秋」に入れるのに。これが日本炎上、2020年の終戦記念日か

「GoToキャンペーン」のトラブル2020/07/16

7月16日、東京で感染者数280を超える(検査数4000)。政府はまだ22日開始予定の「GoToトラブル」を止める気配はない。16日に専門家の意見を聞いて検討としている。

 「GoToキャンペーン」ルはコロナ禍流行で最大の「被害」を受けた観光業を救うためのもの。しかし直接支援ではなく、国民にインセンティヴを与えて旅行に行かせると、支援したものがそのまま消費に回り、観光業が息をつくというもの。つまり、国民(インバウンドも)を移動させて消費を作りだす。

 これが「布マスク2枚」(胡乱な経路で届かぬ不良品)につぐ、政府の鳴り物入りのコロナ対策(最初は感染防止、二度目は経済回復)。しかし折から首都東京(ここから旅行者が出かける)では感染者数が増え続ける。だからこのキャンペーンは小池が皮肉に言うように、「ブレーキかけてアクセル噴かせ」と言うようなもの。あるいは、経済を回すために文字どおり人間を動かす(必然的に感染拡大)というもの。ここに現政権の倒錯的政策きわまる(「消費に回らない支援は無意味」それが「経済を回す」ことの意味)。

 だから地方では東京からの人の移入を嫌って、「人災」だとして観光施設を閉じるところも出てくる。すると「安全安心な旅行を楽しむため」に「三密を避けて食事も家族で、そして部屋から出ないで…」と小学校の先生のようにご教示くださる。では、何のための観光旅行なのか。NHKの視聴者をバカにした子供向けニュース解説番組でも、解説者も分かりやしようと努力すればするほど、ホントのことに近づいて冷や汗かいて解説、の挙句に多少はおかしさを指摘せざるをえなくなる(14日夕の放送)。

 そしてそういう時には「専門家」にもたれる。「専門家の方々のご意見を聞いて…」と、あたかも「専門家」が決めるかのような言い方で、責任をごまかす。だが、政策決定の責任は政府だろう。そんなふうに利用されて愛想が尽きたはずの「専門家」尾身某氏は、しかしこの段で自分も責任を負わされるのがいやだから、「旅行が悪いわけではない」と言う。自分は感染症の専門家であって、旅行の専門家ではないとばかり。それにしては「経済の回復は大切」とかも言う。それがこの国の政府と専門家の関係だ(福島事故以来、この関係は確立された――どちらも原発継続の社会的責任をとらない)。

 それと、「専門知識」で世間を煙に巻いて、何のためか「やたらとPCR検査をしても混乱するだけ」と、検査が必要と訴える専門家や一般の人たちを「PCR原理主義」と批判して叩いてまわる連中もいる。だがそれは統計処理の実効性の話であって、感染防止の話ではない。「間違った数値」がたくさん出ると医療体制が逼迫して病院関係者がパンクする、だから検査はするな、というのも倒錯でしかない。小池知事も「検査数を増やしているから(今6000キャパのうち4000件)感染者数が増えるのは予想の範囲」と言っている。しかし、検査をしなければ感染状況はまともに推測(いずれにしても)できないのだ。

(体調がおかしくて病院に行っても、「検査はむだだ、しない方がいい」と力説する医師もいるようだ。では診断はどうなるのか? コロナ感染かどうか診断するには検査がいる。その検査をするなというのは、医師が診断をムダだと言っていることになる。じゃ、医者も病院もいらないじゃないか?という話だ。「検査をさせるな」という連中は、中身を問題にせずに数字で好きな結果を出して意味づける統計学の最悪の側面を利用しているだけ。)

 医療体制の整備こそ、いま火急にやらねばならないことではないか。病院の経営逼迫→現場へのシワ寄せで、医師が悲観して(あるいはアホらしくなり)離職し、看護師がストライキする(東京女子医大病院)あるいは400人離職、といった事態が起きている。しかしそのニュースの詳報はあまり聞かない。メディアがしっかり問題を見ず、官邸や都庁の言うことばかりに食いついているからだ。だいたいコロナ禍状況の全般について、現場の報道があまりに少なすぎる。医療管理も基本的に政府の仕事だとしたら、まずこの医療現場を見て、それに対する対策を立てることからしか始まらないはずなのに、経済振興で「GoToトラベル」が第一歩。

 じつは国内の経済体制(消費)を観光業に流し込んでしまったのがもともとの問題ではあるが、そのつけがこういう形で表れてきたということだ。

 とても一国の政府とは思えない。都市封鎖という強硬措置をとったが、10日で大病院を建設、5万人の医療関係者を募って投入、そして市民生活の徹底サポート(暴動が起きないように)をやって全土蔓延を回避した中国政府のほうが、はるかにまともな政府である。独裁かどうかの問題ではない(日本でもアベの何でも通る体制はできている)。政府としての統治能力があるかどうかの問題だ。


*菅氏「厳しい状況から脱却」 GoTo意義を強調 共同通信 2020/07/16 https://news.yahoo.co.jp/pickup/6365599
*「目玉」一転、政権の重荷に GoTo見直し論浮上/西日本新聞 2020/07/16 https://this.kiji.is/656333894764381281
*児玉龍彦さんのごく短い渾身の証言。前後の杉尾議員の質疑も。このYoutubeの49分あたりから
https://www.youtube.com/watch?v=tJlLAJ2p9VE&fbclid=IwAR3dOFE6mCxExRDMj16vB2DfFfXiHIHwkQaBzcojb5ltWLY_KHdvRCCVj5k

観光業と感染――コロナ禍の出られない出口2020/07/14

 観光業とは、もう生産するものがなくなった(競争に勝てない)社会で、人の稼いだ(あるいは貯め込んだ)金をもう一度市場に吐き出させ、消費が拡大したことにする、そして経済規模が増えたことにするヴァーチャル産業である。何がヴァーチャルかといえば、何も生産していない、ただ消費だけを生む「産業」だからだ。(*これについては5月29日付けの「観光業と感染」を参照されたい。)

 フォードシステムの昔なら、労働の余分な報酬として(労働力再生産のだめの)与えられた「観光・慰安と歓楽」を、自己責任で享受すべき「私的エンタメ」として「国土再開発」とともに組織した。そして生産業のない「地元」を接客(サービス)業で組織し、観光客という消費者を呼び込む。この消費者たちは自分で足を運ぶから輸送業も拡大発展することになる。あとはそこがどんなに魅力的なところか、あることないことでっち上げてPRで売り込む。

 もちろんこれは日本だけの話ではない。いまではアフリカやアジアの田舎から、パリやロンドンまで、世界中どこでも観光業に頼っている。日本なら国鉄私営化のあとの「ディスカバー・ジャパン」キャンペーンから始まって、街も山も川も寺も何から何まで「観光資源」になってしまった。

 生産プロセスを経て稼ぎ、その報酬として得られるはずだった「享楽」が(それが産業資本主義を動かしてきた)、今度は商品化されて消費の対象となり、現地享受を求めて客がみずから足を運んでくる。移動手段も消費して。

 ものを作る産業は頭打ちだ。産業公害は起こるし労働搾取も咎められる。そちらはIT情報技術で極力グローバル・ヴァーチャル化で見えなくする。いくらか社会が底上げされたら、そこで再配分された所得を、こんどは「享楽」で釣って自主的に市場に放出させる。それで大規模な航空産業も(ガソリン大量消費も咎められずに)大発展。グローバル化の恩恵だね、というわけだ。

 そこに出現した新手のコロナウイルスは、だからまずここを直撃した。というより、何でも観光業化が、じつは経済システムのビョーキだったのだ。コロナウイルスはそのことを炙り出し、可視化した。だから観光業からまず感染、そしてとりわけ航空業界の大危機で、文字どおりECUMO治療(日本では国家政策に深く組み込まれているから目立たないが、ルフトハンザ、エア・フランスはたいへんだ)。

 コロナ禍は人びとの接触を牽制する。しかし医師たちが推奨するソーシャル・ディスタンスもほどほどにしておかないと経済がもたない。だからもう回してゆくと政府は言う。その目玉が「Go To キャンペーン」だ。クーポン撒いて国民を「観光」に誘う。それが落ち込んだ経済を回復させる決めの一手だというのだが、どうみてもドツボにはまっている。

 「スペイン風邪」が世界戦争に乗ってパンデミックになったように、新手のコロナ禍はグローバル観光産業に乗ってパンデミックになったのだ(オリンピックが移動博覧会のような観光産業であることは言うまでもない)。ウイルスに「戦争」の論理は通用せず(山本太郎・福岡伸一等の言うように)、だから生態学的関係をコントロールするしかないとして、この観光消費依存の経済システムを変え、そこから脱却しないことには「出口」はないだろう。

 ここまで「地方」が観光頼みになったのは、経済のグローバル化で各国の地域経済がまったく空洞化してしまったからである。その空洞化のとりあえずの埋め合わせで観光業で人を呼び消費を呼び込む(金を落とさせる)ことになっている。しかしそれはすでに過当競争の段階に入っているし、飽きられたら終り(バブル時代の廃墟を見よ)、地方衰退・東京一極化の圧力は変わらない。観光業はあってもいいが、それは付加的なもので(付加価値と言うように)、地域が相対的に自立できるような(自己完結はありえない)、そこで人びとが生活してゆけるような経済社会構造に組み替えてゆくしかない。地域経済の組立てから国の経済が支えられるような仕組みに向けてだ。

 すでにそのような方向の試みはあちこちで始まっている。東日本大震災の後にもそのことは課題になっていた。だが、何かあるといつも「ショック・ドクトリン」(ナオミ・クライン)が働き始める。グローバル経済への統合を前提にしたいわゆる「経済成長」に向けての圧力が働くからだ(日本政府はこの30年間、アメリカの圧力もあってこの路線しかとっていない)。しかし、コロナ禍が示しているのは、各国だけでなく世界経済の規模縮小は避けられないということだ。「新しい生活様式」(これ自体噴飯ものだが)でも「加速」してゆくのは(ドゥルーズ的リバータリアンの「加速主義」?)、ITヴァーチャル化セクターだけである。このセクターが何にでも「解決」を提供しているが、その「解決」は「人間」とその環境である狭い「地球」からの「脱出」の希望のなかに、集めた巨万の富をつぎ込むという妄想に漂っているだけである。

 何でも「経済」が、あるいは「市場」が決定するというドグマがまかり通る現代の世界で、彼ら「解決主義者」たちの影響力はじつは絶大である。テクノ・サイエンス・エコノミーの三位一体が、パフォーマティヴに妄想を現実化しており、政治家や官僚たちはその圧倒的「真実=現実」供給のもとで、私的利害(権力妄想と実利)を確保しようとしているだけだからだ。まず観光業復興で消費拡大という「Go To キャンペーン」も、そんな状況下で(経産官僚上がりから)「この道しかない」かのごとくに打ち出される。

 しかし、いまほんとうに必要なのは(日本であれどこであれポリス共同体にとって)、一時的には再配分による救済・調整であり、長期的には地域経済からの生活圏の組み直しである。コロナ禍が露わにしたのは、観光産業の脆弱さであり、それを牽引力とするような持続できない世界の経済一元化なのである。それを直視することなしには「出口」はもうひとつの隘路(というより壊れた水路の致命的な誤用)にしかならないだろう。

ポスト・コロナの都知事選、私悪を公的名(価値)にする転換機2020/06/21

6月18日告示、7月5日投票の東京都知事選。22人が立候補したという今回、各所に立てられる候補者看板に「みごと」な図柄が現れた。一画に桜井誠(旧在特会)/宇都宮健児/幸福実現党(個人であることに意味はない)がならび、その下に立花孝志を真ん中に「ホリエモン新党」推薦3候補が並んでいる。上下の並びはグウゼンかもしれないが、みごとにはまっている。

「NHKから国民を守る党」の立花は、今度は都知事選を完全な「政治崩壊」の機会にした。これまでもずっとやってきたが、今回が「華」だ。
選挙はもはや代表を選ぶ機会ではない。公費で名を売り存在を押しつける公共的な機会。その「名」が、出ることだけで「人気」となり、人を引き寄せ、資金を呼ぶ。「人気」はスキャンダルでもいい。メディアで「名」を売る(メディアが買う)ことが目的(立花という名も、NHKなどで名が通っていた立花隆のパクリだろう、売る前に売れてる名の商品価値を利用)。

公職選挙はAKBのセンキョではない。人気(ポピュラリティ)には私的な社会的影響力(それ自体パラドクサルだが)というフェイクな力がついてくる。

この看板の中で本気の都知事候補、つまり政策を掲げて公職に就こうとする候補は宇都宮けんじだけだ。だがそれは選管が用意する掲示板(ネットではなくリアルな)の上で、フェイクな候補にみごとに埋もれている。これはもはや選挙広報ではない。政治的選択機会が、私欲売名機会利用によって呑み込まれている。

選挙法にはポスターの中身に規定がないという。当然と見なされることには規定がない。しかし規定がないから何をしても「自由」と解釈される。それであらゆる制度の中身は入れ替えられる。「非常識」が「常識」の代わりに通用するのだ。立花はそれを戦略手法としてきた。だから法が規定していない部分(当たり前だから)が「無法」に置き換えられる。それによって、政治も法秩序も中身が溶けてなくなる。

桜井誠は在日ヘイトを信条とするかぎりで、旧来の政治に頼っており、立花のメチャクチャさにはあと一歩だが仲間だとはいえる。幸福実現党はフェイク・カルト、その点同じなかま。それでまともな政治の包囲網。
では、他の「有力候補」との関係は?小池は国政権力と通じ、そこを手練手管で渡ってきた。こんなあからさまなことはしなくても実質的に政治を空洞化して権力が転がり込むのを待つだけだ。山本太郎は、こういうメディア状況の中から出てきたから、それを既成政治の打開に逆用しようとしているが、今度は本気で都知事になるために立候補したようには見えない。というわけで、ターゲットは宇都宮になる。だがわざわざターゲットにする必要もない。包囲して呑み込んでしまえばいいのだ。選挙は売名、売名は社会的力、正義も公正もない、私欲・私怨すなわち公的威力、その転換マシンが公職選挙だ、と。

それを推進したのがいわゆる「新自由主義」であり(「公」から「私」へ)、その実質を担ったのがPR業界(「実」より「虚」、数値化によるマネージメント、政治のフェイク化)、名のない多数の欲望をそこに向かわせるのがいわゆる「暗黒啓蒙」(新反動主義)の系列である(日本には神の国系のまがい品しかないが)。

これをメディアが「フラット」に伝えるから、メディアがそのままインフラになる。この傾向にどう歯止めをかけるかがたいへんむずかしい課題。

こういうことが、日本でもっとも大きな首長選である東京都知事選挙で露わになった。「ポスト・コロナ」の政治の変質だ。
このことが民主主義にとってもつ意味云々の議論については政治学者たちに論じてもらおう。

★デジタル化の津波に制動を…2020/05/30

宇佐美圭司の連作『制動・大洪水』(部分)
《デジタル化の津波に制動を…》

コロナ感染拡大の危機感は、一時的とはいえ社会的コンタクトの遮断を必要とさせた。その結果、社会生活は停滞し、経済の流れが滞る。行政府はこの措置の致命性を回避しつつ、感染経路の封じ込めを課すしかなかった。

このとき政治の質は、その行政能力で測られる。パンデミックへの対応は、政治体制の違いによるのではなく、行政の処理能力や、さもなくば政府への民の信頼に依存する。経済社会はじつは人々の生存を前提としており、行政がこの危機にどう対処しうるかの能力だ。

この半世紀にわたる資本主義の新展開で、国家は公共社会部門の民営化を進め、権力は私権の保護と領土経営をもっぱらとするようになってきた。これが「自由」の拡張とされ、これまで権力に課されていた制約・負担は軽減された。ある意味では、権力そのものが民営化=私事化されているのである(これは日本では倒錯的な形で見られる)。そのコインの裏側のように、「社会」の解体によって「解放」された個人が、みずからの存在の脆弱さを恐れて「強い」国家を求めるという現象がある。

国際レベルでは、グローバルな経済秩序を維持する「テロとの戦争」が、新たな世界的レジームとなっている。「見えない敵」の侵入に予防的に対処する「例外状態」である。この「例外」がいまや「安全保障」の名の下に「通例」になっている。このような状況下で、重ねての「非常事態宣言」は、政治権力を倒錯させるだけである。まるでそれが感染症であるかのように、社会をあらかじめ「クラスター」化してゆく。

では、この危機を打開するにはどうすればいいのか?すでに「解決策」は提示されている。日本では、「親心」を隠さない「専門家たち」が「新しい生き方」を提案している。すでに「自粛」を内面化した社会に、さらに「社会的距離」を押し付けようとする。学校はオンラインで授業し、企業はテレワークを進める。この方策が一般化すれば、経済社会システムはもはや感染症で障害を受けることを少なくなるだろう。技術と経済はすでにこの方向に向かっている。無駄な政治論議は脇に置き、人間社会はデジタル・ヴァーチャル化を大きく進めている。

これが「解決」(この用語はエフゲニー・モロゾフから借りた)と見なされるかどうかが、実はこん回のパンデミックによって提起された最大の問題だろう。これは、経済的には進んでいる世界の二極化を、一層の形で推進することになる。コロナウイルス禍は世界を変えるのか?おそらく。ただそれは以前からの変化を少し加速させるだけだろう。これは良いことなのか悪いことなのか。悪いに決まっている。この変化はそんな価値判断の無効化につながるからだ。そういう判断は、もはや脆弱で間違いやすい生き物に任せるべきではないと。善悪を考えるのが人間である。だが、技術科学=経済は、そんな判断をすり抜け、「陳腐化した人間性」(G・アンダース)を後に置いてゆく「解決」へと向かっている。

明日の特徴が、できの悪い身体性の一層の放棄であるならば、世界はますます「便利」だが、味気なく生きにくい、惨めな、あるいは活力のないものになるだろう。「自粛」のメンタリティは、コロナ以上に社会に感染する。それは政治権力にその責任を免除させるが、その無力さ無能さは、禅の伝統における不作為の功徳とは遠くかけ離れている。

このいささか憂鬱な見通しに抗う方法はないのだろうか。存在論的に言うなら「存在しない」。しかし、見えない潜在的な力がつねにある。それが政治を刷新し、経済と科学技術の結託に対抗して生きている人間の次元を担いつつ、寄せては返す計量的理性の大津波に制動をかけることだろう。

----------------------------------------------------------
*フランスのナント高等研究院から「アフター・コロナ」の論集を緊急に作るというので、4000字の小論を書いた。あまり読みやすくないのは、論を凝縮し過ぎたこともあるが、フランス語の原文を翻訳ソフト(DeepL)にかけ、それをベースに日本語に直したからだ。まだまだ翻訳ソフトではきつい(翻訳ソフトは意味を読めないから)。とはいえ、人の文章のようでおもしろくなくもない。ただし、中身は日本語でも披露しておきたかったので、ここに掲載する。
*原題は"La possibilite d'un barrage contre le Tsunami numerique"、文字どおりには、「デジタル化の津波に立てる堤防の可能性」ということになる。M・ウエルベックの代表作『ある島の可能性』と、M・デュラス『太平洋の防波堤』を想起しつつつけた。
日本語なら、2012年に亡くなった宇佐美圭司の最期の連作『制動・大洪水』を念頭においている。