「亡国」の未来――「国破れて山河も無し」2014/12/08

【前口上】
 しばらくブログを開店休業のままにしていました。いろいろ理由はありますが、それはさておき、宇沢弘文さんが亡くなり(土井たか子さんも中島啓江さんも)菅原文太さんも亡くなり、世の中から(わたしたちの生きている日本の社会で)大事なものが次々と崩れ去り、ろくでもないものがまかり通るようになるのを目にしながら、やっぱり書かなきゃという気もちにしばらく前からなりました。どれだけの人にお役に立つか立たないかわかりませんが。
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 時節がら、総選挙ということですが、これはもういいでしょう。結果がどう予測されていようとも、14日に投票所に行くだけです。

 選挙の予測というのは、あらゆる「未来」の予測と同じように、あるいは「不幸の予言」と同じように、「そうならないために行動する」ことを促すものです。「破局」が避けられないとしたら、いかにしてそれを軽減するか、あるいはそれもできないのなら、箱舟を造るなりして、そこまで来ている「破局」に備えなければなりません(J-P・デュピュイ『破局の小形而上学』参照)。3・11の激甚災害と、技術・産業システム破綻の後、政治のメルトダウンを通して、今度は社会の解体です。

 この解散・総選挙がどういうものか、どんなふうに「無法」なものであるかは、8日に店頭に並ぶ雑誌『世界』1月号「特集1」の冒頭にある内橋克人さんの「アベノミクスは"国策フィクション"である」と、山口二郎の「"安倍首相"という争点」にいかんなく暴かれています。
 
 ひとことで言って安倍政権は「亡国」政権です。この政権がやっていることは:

1)選挙は「景気」がよくなる期待をうまく釣ればよい、ということで「アベノミクス」。何のことはない、日銀に札束をどんどん刷らせて国債(国の借金)引き受けをさせ、「デフレ脱却」というが、デフレはグローバル経済の構造的現象だから収まるはずもない。次は企業優遇だが、それは雇用のタガを外して企業に人間の酷使と使い捨てを容認する政策。企業は利益を上げて経営者は巨額の報酬を受けても、利益は一向に社会に還元されず、金融バブルとあいまって、雲の上に還流する札束の下で一般の人びとは干からびることになる。そのうえ社会保障はムダだとか、ズルいとかいって切り崩し、まともな生活のできない人がどんどん増える。

2)それでも株価だけは上がり、「景気」がよい気配を作って、そのすきにこの政権がやりたいのは「戦後レジームからの脱却」。つまり「平和と民主主義と人権原理」がだめにした「日本を取り戻す」と称して、「平和と民主主義と人権原理」をお払い箱にしようと精を出している。理想とするのは、民がみな「お上」の投げるまずい餅を拾って食い、「欲しがりません、勝つまでは」といって、竹槍で核武装した「敵」に進んで挑み、「靖国に祀られる」ことで満足する、そんな「美風」に支えられる「美しい国」だ。

3)だがそれは、為政者(政治家や官僚たちや財界人その他のエリート)たちが何をやっても責任を取らなくてもいい、言いかえれば国民が諾々と為政者たちの食い物にされる体制だ。そのために、つまり為政者たちの勝手なヘマが決して追及されることがないように、秘密保護法も通した。こうしてこの国の為政者たちは、アジア太平洋戦争でも国内では原爆投下にまで至った無謀な戦争の責任を問われなかったように、また、福島第一原発事故による数十万人のいまも続く被災の責任をいっさいとらないように、何度でも「敗戦」を繰り返すことができるのだ。
 
 この政権のしかける無体な解散総選挙で、また自民党の大勝が予想されるというのは、政界の現状を見れば半ばうなづけることでもありますが、日本はそれでいいのかと考えるとこれは大いなる疑問です。疑問どころか大問題です。

 けれども、日本はそうなる。それもナチス・ドイツと同じく「選挙を通して」そうなります。冷戦後の「戦後50年」にあたった1995年あたりから、さまざまな論議や事件がありましたが、その結果20年後に日本は安倍晋三のような人物が首相となる国になったのです。

 彼らは20年かけて周到にそれが可能になる基盤を日本の社会に植え込み、たくみな世論誘導と組織化、そして「空気」作りで今日の状況を作ってきました。残念ながら、それに対する備えが貧弱だった(あるいは誤っていた)というのが実情でしょう。

 日本社会を解体し、民をガリー船の漕ぎ手として使い捨て、その上に自分たちが統治者として君臨しようとするこの政権は、まったく「伝統的」などではない、むしろ国を亡ぼす政権と言わざるをえません。
 
 たしかに、「国破れて山河在り」という詩句があります。長い間、そう思って滅びの後にも国の再建を夢見ることはできました。けれどもじつは、国破れた後も山河が残ったのは第二次大戦までのことです。今では「残る山河」はないでしょう。というのは、自然は放置された放射能で汚染され、食糧自給も放棄しようというこの国の民は、TPPで入ってくる安価な遺伝子組み換え食品で、最後の体までも汚染にさらさなければならない。そして資源のすべては外国資本に買われて、山がもたらすはずの水も空気ももはや庶民の手に届くものではなくなってしまいます。
 
 それが安倍政権の垣間見させる「亡国」の未来です。けれども有権者は総体としてこの政権に「大いなる信任」を与えようとしています。そうさせないための手立てはほとんどないのですが、何もしないわけにはいきません。たとえば「さよなら安倍政権、自民党議員100人落選キャンペーン」(http://ouen100.net/)などの情報を有効に活用し、この「亡国首相」に辞めてもらう状況を追及するしかないでしょう。
 
 日本社会はなぜこうなのか、あるいはなぜこうなってしまったのかを、崩壊の粉塵のなかでとくと考えてみなければなりません。

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☆再開最初の文章がこんなものになってしまいましたが、こういうことしか言えない時だからこそ再開するということです。
 
☆上記の『世界』1月号の「特集2、戦後70年」にわたしも「重なる歴史の節目に立って、戦後70年と日本の"亡国"」を寄稿しています。これも併せて参照いただけたら幸いです。

「無法」な国壊し、規範の液状化へ2014/07/05

☆共同通信文化部から以下の所見が7月2日に全国の地方紙に配信されました。もういいと思いますので、ここにも掲載します(7月5日)。


 とうとう安倍晋三内閣は「集団的自衛権行使」容認の閣議決定に踏み切った。特殊用語で分かりにくくなっているが、要するにこれは、同盟国の戦争に参加する権利ということだ。近隣に友好国をもたない日本にとっては、実際にはそれは米国のする戦争を手伝うということだが、土壇場のねじ込みで国連の集団安全保障に基づく武力行使への参加にも道を開くものになった。

 憲法の縛りを解いて自衛隊を海外に出す。その動機には二つある。ひとつは日本の「貢献」を求める米国が、湾岸戦争やイラク戦争への派兵を強く求めたこと、もうひとつは安倍政権がともかく戦争のできる軍隊を求めていることだ。日米双方の意図にはずれがある。米国は日中の対立に巻き込まれたくはないだろうが、自国による世界統治に協力する兵力が欲しい。安倍政権はそこに付け込んで、中国に対抗すると同時に、資源確保や国際安全保障への参加などを理由に「日本軍」の世界展開をも視野に入れている。

 ともかく「集団的自衛権」の一語でそれを可能にしようというわけだ。

 だが、何と言っても由々しいのは、閣議決定だけで憲法の中身を変えてしまうことだ。「戦争はしない」ということを「できる戦争はやれる」と解釈することはできない。だから安倍政権は改憲を掲げてきた。だが正式な憲法改正が困難とみて、変更要件を緩めようと九六条改正を持ち出した。それが総スカンを食うと、今度は閣議決定での「解釈変更」だ。だがこれは違法であるどころか「無法」だと言わざるをえない。

 憲法は国の基本法で、政府・内閣こそがまず第一に順守の義務をもつ。そのことも憲法に定められている。それに、じつは憲法とはこういう内閣の専横から国民を護るためにこそあるのだ。ところが、そのすべてが空文化される。明日からこの国では憲法の文言にかかわらず、内閣の「解釈」しだいで何でもできることになり、国民は無法な権力の恣意に翻弄されるようになる。日本はそんな規範なき「無法」の水域に入ったのだ。

 政府が率先して社会規範の鑑である憲法を捻じ曲げる。すると社会は規範の液状化を引き起こしかねない。だからさすがにこれまでの内閣は「解釈改憲」を禁じ手としてきたのだ。

 安倍内閣は二言目には「国民の生命と財産を守るため」と米合衆国憲法をまねて言う。だが、現在の世界で戦争をすることで平和はつくれない。十二年経ってもますます混迷を深めるイラクの情勢がそれを示している。そんな米国の戦争に率先参加することになったら、日本は「武器なき貢献」で築いてきた国際的な信用を一気に失うだろう。それが「国民の安全」のためになるというのだろうか。

 この内閣はむしろ「国民の安全」を脅かし、それを質にとって国の軍事化を図っている。対外関係だけでなく、福島第一原発事故も無かったかのように、再稼働を画策するばかりか原発輸出に精を出し、企業の競争力とやらを口実に多数の国民の労働条件を劣悪化させ、消費税を上げる一方で企業減税だけは進めようとする。これでは「一将功成って万骨枯る」の無法な国造り、いや国壊しと言うべきだろう。

 このような「無法」に流されないため、まずは閣議決定の無効をあらゆるかたちで追及しなければならないし、何が「安全」を保障するのかをとくと考えねばならない。

新宿駅南口での抗議焼身自殺について2014/06/30

 昨日(6月29日)新宿駅南口のサザンテラスに向かう歩道橋の上で、50代ぐらいの男性がハンドマイクで演説をしたあとぺットボトルに入ったガソリンをかぶって焼身自殺を図った。「警視庁によると、男性は集団的自衛権の行使容認や安倍政権に抗議する主張を繰り返していたという。(中略)午後1時ごろから、横断橋の上で拡声機を使って1人で演説をしていた。」(朝日ドットコム:http://www.asahi.com/articles/ASG6Y55DBG6YUTIL01T.html、画像:https://twitter.com/search?q=%E6%96%B0%E5%AE%BF%E9%A7%85%20%E7%84%BC%E8%BA%AB%E8%87%AA%E6%AE%BA&src=typd&mode=photos

 この「小さな」事件をあまりセンセーショナルに扱うつもりはない。もちろん、外国メディアを賑わわせたからでも、NHKのように、模倣が出るといけないから報道しない、という「火隠し、火消根性」のためでもない。しかし、全身に火傷を負ってどうなるかわからないこの人物の行為の、今後確実に抹消されてゆくだろう意味について、しばし立ち止まって考えてみたい。
 
 彼がライターで自分の体に火を付けたとき、周囲からは大きな悲鳴が上がったという。そうだろう。そしてそれは「人騒がせな」行為として、あるいは「火気乱用」として軽犯罪法違反に問われるという。軽犯罪どころか、間違いなく「殺人未遂」に匹敵する「暴力的」行為である。ただし、この「暴力」は当人自身の存在の破壊にしか向けられていない。
 
 思い起こすのは、ベトナム戦争期の僧侶たち(米国傀儡の南ベトナム首相夫人が「人間バーベキュー」と嘲笑った僧侶たち)ではなく、三年半ばかり前のチュニジアの民衆蜂起に文字どおり火を付けた、野菜売りの青年ブアジジの焼身自殺だ。
 
 宗教的支えをもつ僧侶ではなく、ただの一市民のこのような自壊行為は、公権力の不当によって受けた屈辱の深さや、その怒りの持ってゆき場所のなさを示している。彼らは、その感情を表明するすべもなく、持ってゆき場所もなく、自分の存在そのものを公然の場で犠牲にして、その「内破」を公然化する(見世物にする)しかなかったのだ。
 
 いま日本の政府と公権力は、憲法を勝手な解釈で反故にするという暴挙に出ようとしており、その政権の専横を止める手立てがない。憲法を守る第一の義務を負うはずの政府が、閣議決定だけでそれを反故にしようとしているのだ。それ自体がすでに憲法違反であるだけでなく、国の基本法をも蔑視する「無法」行為である。
 
 「戦争は断じてしない(少なくとも自分からは)」を「できる戦争はする」と読み変えるのはもはや「解釈」ではない。それでは、「イヌはサルだ、サルはカニだ」と言うのと同じになってしまう! この国の憲法はそんなデタラメになり、この社会の基本ルールは時の権力で勝手に変えられるものになってしまう。日本は政府からして「無法状態」に突入することになる。
 
 それを「暴挙」と言わずして何と言おう。それを、あらゆる不法や無法を取り締まり律するはずの公権力が行う。この権力の「暴力」への転化に対して、ひとりの個人が何ができるだろうか。自らの存在に火を付けるという行為は、もちろん「狂気の沙汰」である。だがこの「狂気」は、全能を気取る権力の「暴挙」に拮抗しようとした、行き場のない「理」の暴発だと言うべきかもしれない。

 つまり、この男性の「暴挙」ないしは「愚行」(あるいはある種の「テロ行為」と言われるかもしれない)は、現在の政権の「暴挙」の合わせ鏡なのである。
 
 今日の新聞はこの事件をいっせいに無視していた。こうして主要メディアは、事件を抹消するだけでなく、政権の「暴挙」からも目を逸らす。


☆この種の事件をどう受けとめるかにはいろいろな考えがあるだろうが、それを取り上げないことで、なかったことにしようとする今日の日本の報道メディアの姿勢は問いただしてみる必要があるだろう。
 
☆チュニジアの出来事に関するフェティ・ベンスラマ(チュニジア出身フランス在住の精神分析家)の見解の要約を再掲しておこう。以下、http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/gsl/2011/02/post_63.html より転載。
 
 (……)最初に一個人モハメド・ブアジジの行為があったが、それは単なる自殺ではなく自己犠牲だった。それが公衆の面前で自殺するということの意味だ。このことが反響を引き起こした。(…)社会的経済的な理由が云々されるが、それならもっとひどいところもあるが、そこでは蜂起は起きていない。だから理由は「政治的欲望の復権」というところに求めるべきだろう。

 ただ単に変化が起こればよいというのではない。近年のチュニジアでは、人びとが自分自身や共同生活に満足しておらず、互いの関係は最悪になっていた。そのことは、この国でに蔓延していた尋常でない攻撃性に表れていた。それは社会的絆が崩壊していることの徴候だ。

 この「自己侮蔑」が肝心な点だ。みんな自分の目に自分が「相応しくない=尊厳に欠ける」とみなしていた。そういう状況に耐えていた。それがどうして耐えがたくなるのか?我慢できないのはとくに次の三つだ。民主主義、法治国家、卓越等々に関する嘘の大伽藍、指導層サークルの目に余る俗悪さ、それに、これが重要なのだが、富裕層がその富の印を貧しい者たちの顔に投げつけてこれみよがしに楽しんでいる。要するに、「侮蔑の鏡」が民衆に突きつけられていたのだ。

 人びとは自分がけちで卑屈な者だと思わされ、生きるために身を落とす行為をせざるをえなくなる。密売とか、腐敗とか、コネ頼りとか…。こうして自己イメージが傷つけられる。過度の理想化は人をファナティックにさせるが、理想が欠けると「不名誉」の感情を生む。このなかば無意識に行われていた自己の引き降ろしの前に、ブアジジの行為が突きつけられた。「尊厳のために身を犠牲にする」という最も高い理想を思い出させるものだった。だから誰もが、自分の目に自分を高めるために、かれに同一化することができた。かれは「不名誉(自分のあり方が自分に相応しくない)」の感情が克服できることを示したのだ。かれがしたのはハスドルバル(カルタゴの将軍、ローマのスピキオに敗退)の妻の有名なことばを実行することだった。「恥辱よりはむしろ火を!」…こうしてチュニジアの人びとは文字通り燃え上がったのだ。

 かれは「政治的欲望」つまりはみずからの尊厳を見出したいという共同体の欲望を目覚めさせたのだ。というのも、自己の尊重は、他者との関係のうちでしか得られないからだ。人の尊厳は他者の尊厳から生じる。

「名誉ある戦後」か「屈辱の戦後」か2014/06/09

 じつは今日6月9日(月)、衆議院第一議員会館会議室で「立憲デモクラシーの会」の記者会見があった。安倍首相が安保法政懇(私的諮問機関)の答申を受けて、集団自衛権容認の閣議決定をするために協議を加速させる、という状況のなかで、法政懇答申とその後の政府の議論に対する「会」の見解を公表するためだ。この見解は「会」のホームページにも公開されている(http://constitutionaldemocracyjapan.tumblr.com/)。
 
 けれども、今まともな議論が展開されるわけではない。閣議決定にもってゆくために、与党内での協議、つまり公明党に集団的自衛権を呑ませるための工作が表で展開されているに過ぎない。それも、一度出したケースをすぐにひっこめたり、「必要最小限」を強調したり、従来とそんなに変わらないと言いくるめることで、各論から攻めて、一箇所でも食いついてきたらそのまま「容認」にもってゆこうとしている。いわば、一本一本の木の具合を見させて、山火事が広がることを忘れさせる手だ。それもあくまで「与党内」協議である。
 
 そのうえ、安倍首相は今国会会期末(22日)までに閣議決定することを決めたという。今日の会見に参加した憲法学者の小林節氏の話によれば、先日、公明党の山口代表はある会合で、もともと政党はそれぞれ政策が違うわけだから、全部が同じということはありえず、ひとつの違いで連立離脱ということにはならない、というような発言をしたそうである。そこまで話ができているなら、時間をかける必要もないだろう。
 
 そうなると議論は、たんに公明党内部のガス抜きで、だから筋が通っても通らなくても、非現実的なありえないケースの羅列でもいいわけだ。安倍は、一方に対中危機を意識させながら、単純な情緒的に受けやすい例をあげて、中東やアフリカなど遠いところの話をしている。
 
 すでに世界に展開する日本軍を夢想しているのか、安倍は盛んに外遊する。先週もEUでいろいろ言ったことになっている(アメリカとEUの意向に沿ってロシア非難をしなかったのはいい)。ただ、いつも遠くに行って「自由と民主主義」の「価値を共有する」と抱きついて見せるが、その言の裏で中国の排除をいっしょにしていることにし、日中の関係はますます冷え込む。

 だが、これだけあちこち「外遊」しても、隣の中国や韓国には一度も行ったことがない。行けない。緊張を高めるばかりで、関係改善の努力などひとつもしたことがないからだ(近づいてくるのは北朝鮮だけ!)。これでは、安全保障を考えているとはとても言えないが、逆にその緊張を利用して日本の軍事化を図ろうとしている。

 だが、安倍のやろうとしていることは、秘密保護法でもアメリカから批判されたように、欧米よりもむしろ中国や北朝鮮に近いのだ。実際、自民党改憲案にはっきり表れているが、安倍の国家像は国民のための国家ではなく、強権国家のそれだからだ。
 
 「集団的自衛権」と言うと特殊用語になり、なにやら「自衛だからいいじゃないか」という印象に引き込まれるが、要は日本が直接攻めらるという場面でなくても、同盟国(つまりアメリカ、それしかいないから)の戦争は手伝うということ、同盟国が求めれば自衛隊を戦場に送る(戦闘行為をさせる)ということである。だがそれは憲法に反することで、それを認めることは憲法を変えるに等しく、だから「解釈改憲」だと言われる。
 
 たしかにアメリカの一部は日本に「集団的自衛権」の行使を求めているが、アメリカの求めているのは米軍の下働きであって、日本独自の安全保障のためではない。安倍はそれでも、日米同盟のためと言って自衛隊を縛る条件を取り払おうとしている。それはアメリカのためというより、「日本軍」の復活のためだろう。いったん自衛隊(どういう名であれ)が戦闘部隊(戦争のできる軍隊)となってしまえば、日本はともかく軍事力というカードをもつことになるからだ。

 去年は96条を変えて憲法を変えやすくしようとし、それが面倒だと見ると、NSC法と秘密保護法を先に通し、「集団的自衛権」行使の土塁固めをして、今度は閣議決定だけで「解釈改憲」をしようとしている。そして連立与党公明党の抵抗を受けると、もう文言はどうでもいい(「集団的自衛権」を明示的に認めなくてもよい)、この場合はいいよね、といった主旨合意だけでもいい、と言い出しているようだ。 
 
 要するに、安倍の目指すのはただひとつ、日米安保を逆手にとって(「集団的自衛権」を口実に)事実上自衛隊を軍隊化し、戦後憲法によって失ったとされる軍事力を取り戻すということだ。軍事力をもたない(奪われた)国家としての日本の戦後が「屈辱のレジーム」だと彼は言う。それを是が非でも変えたいというのが安倍の執念のよって来るところだ。
 
 だからこの問題は、詰まるところ「戦後」をどう評価するかということにかかっている。あるいはアジア太平洋戦争をどう評価するかということに。この戦争を押し進めた連中(とその後継者たち)は、敗戦の責任をすり抜けて戦後を「屈辱」のうちに生き延びてきたのだ。一方、戦争から解放された国民は、戦争をしないことで努力を他に振り向け、戦後の復興と繁栄を支えてきた。そして戦争しない国、他国に軍隊を出して国土を蹂躙したり殺したりしない国として、国際社会に無二の信用と地位を確保してきた(こんな国は他にはない)。それを二十世紀以後の世界戦争と大量破壊兵器の時代に、貴重な「実績」と見るか、あるいは「屈辱」と見るか、その二つの考え方がいま決着を求めて鬩ぎ合っていると言ってもよい。ただし一方は政権にあり、他方はもじどおり「弾」をもたない。

「集団的自衛権」を言い換える2014/05/15

 一昨日、東京新聞特報部の電話取材を受けた。「集団的自衛権」をどう言い換えれば誰にでもわかるようになるか、という質問だった。たしかに「集団的自衛権」というと、何やら抽象的な話になる。これでは井戸端で議論というわけにもいかないだろう。いったい何のことなのか、分かりやすくする必要はある。

 そこで、取材を受けた皆さんが何と答えたかは14日付けの東京新聞の「こちら特報部」で紙面になっている。そのときのわたしの話を少し敷衍しておこう。
 
 「集団的自衛権」ということの中身は要するに、日本が直接攻撃されなくても、いわゆる同盟国が攻撃を受けたときには、助けに行って一緒に戦いたいという話だ。日本が攻撃されるときには助けてもらうから、同盟国が攻撃されたときはこっちも助けるべきだ。ひいてはそれが日本を守ることになるから、と。それがこんな訳のわからない術語で言われるのは、「戦争放棄」を謳った日本国憲法でも「自衛権」は否定されていないはずだから、その「自衛権」の延長でこれに何とか理屈をつけて「権利」として認めさせたいという意図かあるからだ。

 それを一般理論風な言い方にする。だが、具体的に考えたとき、日本はアメリカしか同盟国(トモダチ)がいない。戦争の後遺症で、近隣諸国をみな「敵」に回しているからだ。だから、同盟国といったらアメリカのことだ。ということは、「集団的自衛権」というのは、ぶっちゃけて言えば「アメリカの戦争を手伝う権利」、ということになる。アメリカ以外の戦争なら、同盟もないから「自衛」にならない。「日本の国益」(対立構図を作るのに便利な言葉だ)がかかっているなら、「集団的」にやる必要もない。

 たしかにアメリカは、世界中に軍を展開してもう手が回らないしお金もない。だからアフガンでもイラクでもその他でも、日本に手伝わせたかった。今でも半分はそう思っているだろう。アメリカは世界に対する軍事的な影響力を維持したい。けれども、その「平和」を享受する国は応分の負担をせよというわけだ。ただしそのとき、アメリカは日本が独自の軍事力を展開することを望んでいるわけではない。あくまでアメリカ軍の手足となって働く軍隊が欲しいというだけだ(小泉時代の日米安保のガイドライン等はその方向――自衛隊の米軍との「一体化」で作られている)。

 ところが「私」が決めたがる安倍首相は「私が指揮する兵力」を欲しがっている。そしてその兵力は戦争をすることのできる軍隊でなければならない。おまけに安倍はその「私」が日本国家を体現しているかのように振舞っている。そしてアメリカにダメだと言われても靖国に参拝する。だが、そういう安倍の求めるような日本軍(靖国に体現される「殉国」の精神をもつ日本軍!)を、アメリカは求めているのではない。

 むしろそれは迷惑なのだ。安倍政権のやり方は中国や韓国と対立して東アジアを分裂させるが、中国はいまなアメリカの世界統治の重要な「パートナー」であって、国債もいちばん買ってもらっているし、アメリカは中国とこじれたくない。だが、安倍の日本は対中関係をどんどん悪化させながら、日米安保をかざして「同盟国アメリカ」に抱きついてくる。アメリカにとっては迷惑千万といったところだろう。

 要するに、アメリカが日本の軍事力に期待するのは、その世界統治に奉仕(肩代わり)する手駒なのだが、安倍とその仲間が「交戦権」に道を開くことで、第一に考えているのは尖閣問題に集約される日中対立なのだ。アメリカが「集団的自衛権」を支持していると言っても、まずそういうたすきの掛け違いがある。

 戦後の日本は日米安保だけで、つまりアメリカ一辺倒でやってきた。悪いことに、それを頼りに近隣諸国との関係をないがしろにしてきた。だから、よけいに追いつめられていっそうアメリカに頼ることになる。だが、そのアメリカにも嫌がられているが、その実情を隠しての「集団的自衛権」の主張。だから、これは「手を出すなと言われても、手を出すその権利」(その代り、アメリカさんしっかり助けてね!)というといいかもしれない。

 では実際に、中国と戦争ができるのか? わずかな想像力さえあれば、このグローバル化した世界で大国同士が戦争することは事実上できないと思わざるをえない。核兵器ばかりではない。原発攻撃、サイバー攻撃(金融ネットとか電力供給システムとか、社会を混乱させる標的には事欠かない)、生物化学兵器(鳥インフルエンザとかサーズとか、みんな兵器に使える)…。何千万と人が死んでいいのか?(人口問題の解消?でも、少子化や人口減にひどく輪がかかるじゃないか!)

 それでも戦争したがるふりをする。なぜか?「戦争」というのは、全体の前に個が圧倒的に黙らされる状況だ。戦争となれば、支配層は国民を好きなように強制できる。一人ひとりの国民は逆らえない。結局、今の政府が求めているのは日本をそういう国にすることだ。それならSF的「日中戦争」よりはるかに現実味がある。

*『美味しんぼ』が「炎上」している。これに関する発言は多いが、雁屋哲にはちょっと恩義がある。というよりこれはおっとり刀で駆けつけたい。いや、自分の喧嘩だから、と固辞されたら、あとは俵星玄蕃の気分だ。近々、何とかしたい。

二つのシンポジウム報告2014/05/01

4月25日(金)の夕方から法政大学で「立憲デモクラシーの会」の旗揚げシンポジウムがあり、26日(土)には同じ法政大学のさったホールで「沖縄の問いにどう応えるか ―北東アジアの平和と普天間・辺野古問題」と題するシンポジウムが行なわれた。(IWJインターネット・ウェブ・ジャーナル 2014/04/26)
 
 両方のシンポジウムが法政大学で開かれたことは偶然ではあるか、理由のないことではない。前者は、奥平康弘さんとともに共同代表になった山口二郎さんが、今年度から中心メンバー法政大学に移り、そこにはもうひとりの中心メンバー杉田敦さんがいて、法政のボワソナード記念現代法研究所が共催で場所を提供してくれた。また、沖縄シンポの方は、法政大学には沖縄文化研究所があり(屋嘉宗彦所長)、普天間・辺野古問題を訴えるアピールを出したグループがシンポ企画を立てていたとき、共催を引き受けてくれたということである。
 
 ふたつはまったく別に準備されたものだが、奇しくも法政大学にはこうした企画を受け入れる人文社会学系の研究所がいくつもあり(大原社会問題研究所も法政にある)、今回二つの企画の受け皿になりえたということだ。それに、この4月からは、江戸文化研究者で率直な発言でも知られる田中優子さんが総長に就任した。田中さんがスゴイのか、法政がススンデいるのか、こういう人が「総長」(つい『総長賭博』などというかつての東映映画を思い出してしまうが)を張れる大学でもあるということだ。
 
 大江健三郎さんが最初の基調講演をしたということもあるが、沖縄シンポではその田中総長が、例の着物姿で冒頭のあいさつをしてくれた。
 
 わたしは両方のシンポに関わったが、この二つは別のものではない。
 「立憲デモクラシーの会」は、現在の安倍政権が、金融緩和からメディア規制から法解釈憲法解釈まで、あらゆる禁じ手を繰り出して日本社会を軍事化の方向に引っ張ってゆこうとする状況に危機感をもち、近代国家の基本ルールにしたがい、憲法に基づいて熟議で事を進めることを要求する学者たちの集まりで、とりわけ、時の政権の恣意で解釈によって憲法を空文化する「解釈改憲」に反対する、法学(とくに憲法学)、政治学、行政学等の学者が中心になっている。

 それに対して「普天間・辺野古問題を考える会」は、以前から沖縄のさまざまな問題に関わってきた学者たちが中心で、代表の宮本憲一滋賀大元学長は、日本の公害問題に取り組んで環境経済学を主導し、沖縄の基地問題にもその観点から取り組んできた大ベテランで、国際政治、開発経済、憲法学、行政学、歴史学、思想史などの専門家が加わっている。

 この二つがじつは直結しているのは、安倍政権が進める「解釈改憲」による「集団的自衛権」行使の第一の想定現場が尖閣諸島、ということは沖縄県であり、「立憲デモクラシーの会」が取り組む課題の具体的照準が沖縄に当たっているからである。日中対立を背景に「解釈改憲」を進めて自衛隊の軍事行動の歯止めを外すことは、「集団的自衛権」をもちだすまでもなく、「個別的自衛権」の発動だけでも、沖縄を再び前線にすることになる。辺野古新基地建設は、それが米軍のためであれ、じつは自衛隊が使うためであれ、沖縄諸島の前線化を想定している。

 言い添えれば、そこにも現在の日米間の意図の齟齬があり、アメリカが日本の自衛隊を活用したいのは「対テロ戦争」つまりはアフガンやイラクのような戦争を想定しての話だが、安倍政権は日米安保を対中戦略を軸に考えている。だが、今後の世界統治戦略のために中国との協調をかかせないと考えるアメリカは、じつは日中間の対立に引き込まれたくはないのだ。そこを日米安保で抱き付いて、TPPで譲歩してでも、アメリカに日中対立の後ろ盾になってもらおうというのが安倍政権である(だが、TPPで国をアメリカの多国籍企業に売り渡するようなことをすれば、この政権にとって守るべき「国」とは何か?ということになる)。

 とりわけインパクトが強かったのは我部さんの、東アジアの危機について、日本はアメリカに頼り沖縄に負担をおっかぶせて済ませるのではなく、「当事者意識をもて」という指摘と、島袋さんの、沖縄に凭れるのが日本の「病理」で、沖縄が日本に甘えるなどとは片腹痛く、日本こそ沖縄に頼らず自立することに目覚めよ、という呼びかけだった(これは、本シンポジウムの「衝撃」の要所を語った稲垣正弘さんのブログからのパクリだが、たしかにその通り「衝撃」だった。ただ、稲垣ブログではわたしが過大にもちあげられているので、面はゆい)。

 沖縄は2013年1月に全市町村長の署名をもってオスプレイ強行配備に抗議する「建白書」を政府に提出した。そのオール沖縄の抗議表明と名護市長選で再度示された民意を押し潰すようにして、その2日後に安倍政権は工事のための資材搬入を開始した。そしてそれをアメリカへの「ご進物」にしようとしたのである。しばらく前から沖縄はもう日本にも日本政府にも何も期待しない(見放す)ような空気が濃くなっており、様々なレヴェルで「自立」の道を探り、国際的な働きかけを広げようとしている。この会で発言した島袋純琉球大教授は、専門は行政学だが、今年住民投票を控えたイギリス・スコットランド独立事情を研究しているという。

 このシンポジウムも、そんな気配のなかで、日本の抱える「沖縄問題」の現状を確認し、世界からの見方の報告も受け(海外知識人声明の取りまとめをしたガバン・マコーマック氏)、さらに沖縄の観点からの現状認識と問題についての報告を受け(我部政明琉球大教授、佐藤学沖国大教授、島袋純・上記)、われわれが考えるべきいくつかのポイントについて5人の論者からの指摘があった。

 前日の立憲デモクラシーの会シンポジウムは約600人の人びとが参会し、300人収容の教室から別室にビデオ中継で伝えるという盛況だったが、この日も600人の人びとがさったホールを埋め、熱心な聴衆が会の緊張を支えてくれた。この模様はIWJ(インディペンデント・ウェブ・ジャーナル、岩上安身責任編集)のサイトで見られる。合計3本あり、最初のものは大江健三郎さん、我部正明さん、ガバン・マコーマックさんの講演、次が島袋さん、遠藤誠治さん(国際政治、成蹊大学)、川瀬光義さん(地方財政、京都府立大)、古関彰一さん(憲法史、獨協大学)、西川潤さん(開発経済、早稲田大名誉教授)、和田春樹さん(歴史学、東京大名誉教授)、3本目は最後の宮本憲一さんのあいさつになっている。ごらんいただければ幸いです。